2.6.1 ティランナ先生の軍事訓練
次の朝。食事が終わると、ルナリアは先生の指示を受けて教室へ向かいます。白と金のきらびやかなろうかは一転、暗くて薄汚い、細い通路へ変わります。行くべき教室はその一番奥です。
扉には黒いシミがたくさんついています。それを開けるとルナリアは思わず「うっ」と鼻をつまんでしまいました。だって獣と血の臭いがするのです。中にはたくさん台が並べられていて、その上に動物たちが横たわっています。小鳥やねずみ、うさぎにきつねもいます。みんな狩られた後のよう。全身傷だらけです。
どうしてでしょう? まさかこれから焼いて食べるのでしょうか。それにしてもむごすぎます。
「ルナリア。来なさい」
教卓に立つ先生が呼んでいます。真っ赤な髪をした女の先生は、獲物を狙う狼のように鋭い目をしています。倒れた動物をそのままガブガブ食べてしまいそう。それほど恐ろしい顔つきです。
「なにまごついている? さっさと前へ!」
「はい!」
ルナリアは早足で先生のもとへ行き、指示された椅子に座りました。先生の足元には、ひどく傷ついた子どもの猪がいます。身体は傷だらけで、床に敷いた白い布には血が染みついています。これからこの猪をどうしようというのでしょう。
「私はティランナ。軍事訓練を担当している」
「軍事訓練、ですか?」
「そうだ。この学校では卒業後、国に仕える者を育てている。たとえ軍に就職しなくとも、魔法使いには国を守る義務が課せられている。国を守るには力が必要だ。守るだけでなく、攻撃する術も知らなければならない。私は両者を教授している」
ルナリアには先生の言うことがのみ込めません。だってルナリアは、この学校が王立の魔法学校であることしか知らないのです。軍事訓練を受けるなんて聞いていません。
「なにをビクビクしている? 恐れる必要はない。いますぐ前線に送り込むわけではないのだ」
先生の声はとても大きく、耳をつくほどとがっています。聞いているだけで恐れを抱いてしまいます。
二人が話している間に、他の生徒たちが教室にやってきました。生徒は十六人。縦一列に並び、それぞれ動物が乗っている台の前に立ちます。たくさんあるだけに見えた台は、縦十六行、横十列に並んでいます。生徒が教室に入って、ようやくわかりました。
ティランナ先生が大きな声で指示します。
「あんたたちは訓練を始めなさい。一人当たり十匹だ。傷をきれいさっぱり治し、かごに収めて提出すること。提出できたら今日の訓練は終わり、できなければ日没まで居残りだ。さぁ、始め!」
お説教のような声とともに、先生の杖から大きな音が弾けます。ムチを打つ音そっくりです。
生徒たちは、傷だらけの動物たちに杖を振り始めます。先っぽから柔らかい光が飛び出して、傷ついた動物たちをほんわり包みます。傷はあっという間にふさがって、動物たちは次々と起き上がります。
身体を起こした動物たちはすぐ走りだします。ここから逃げだそうとしているのです。
生徒はすかさず魔法で捕まえ、動物をかごに収めました。もちろんこれは優秀な生徒の例です。一匹も傷を治せず、手こずっている人もいます。
これは傷治しの授業です。この学校では薬草なんて使いません。みんな魔法で治すのです。
「ルナリアはまず私の手本を見なさい」
先生の足元に猪がいます。足に力が入らず、おなかはほとんど動いていません。いまにも力つきそうです。
さっそく傷ついた猪に向かって杖を振ります。杖の宝石が青くまたたき、銀色の光が猪を包みました。すると身体中についていた傷はあっという間にふさがり、ボサボサだった毛もさらりと整います。もう血の痕すらありません。
傷は深く、普通なら治らないものです。でも先生は杖を一度振っただけで、まばたき一つの時間で治したのです。
猪は身体をプルプル震わせ、跳ねあがりました。
走りだそうとする猪に巨大な手が迫ります。それはティランナ先生の杖から伸びた魔法の手です。
巨大な手が猪をわしづかみにすると、猪が大きな悲鳴をあげました。
先生はその声に耳を貸すことなく、杖を振って猪を銀色のかごへたたき込みます。かごのふたは開いているのに、猪は出られません。かごの入口で透明な膜が虹色の波紋をつくるだけ。どうやら魔法の結界が張られているのです。
耳の痛くなる叫びが、なんどもなんども教室に響きました。
ルナリアは首を小さく横に振りながら、一歩、また一歩、引き下がりました。
そこに先生の声が響きます。
「さぁ、ルナリア! やってみなさい」
ルナリアの前に台が運ばれました。その天板に乗ったふんわりした布に、手のひらほどの青い小鳥が横たわっていました。添えられた白いガーゼが赤く染まっています。よく見るとおなかが切れていました。
ほんとにひどい見本です。どうやったらこんな傷がつくのでしょう。さっぱりわかりません。このまま放っておけば、体力がどんどん奪われます。早く治さなければなりません。いまのルナリアにできるのはそれだけです。
傷を治すにはなにをすべきか、ルナリアにはわかっています。
イメージできればいいのです。傷がふさがっていく様子を頭に思い浮かべて、杖を振ればいいのです。魔法を使う感覚は、飛行の授業で身についています。呪文なんていりません。
ルナリアは台の前に立ち、小鳥に杖を向けます。杖の宝石にポッと青い光が灯りました。
そのとき、小鳥が苦し紛れに身体を動かしました。
「ん? 君は新入生だな」
小鳥が突然話しだしたので、ルナリアはびっくりして「えっ?」と声を漏らしてしまいました。
「おーっと。大きな声を出すなよ。こいつに知られたらまずいからな」
小鳥の声はまだ力があります。ティランナ先生を『こいつ』と呼ぶほどの気力もあります。おなかの傷はとても痛そうですが、いますぐ命にかかわるものではないようです。
ルナリアはきっちり口を閉じます。最初こそは驚きましたが、昨日ねずみと話したばかり。動物の声が聞こえることに少しずつ慣れてきました。
だけど動物と話すなんておかしなことです。他の人はそんな力はありません。
小鳥はお構いなく話を続けます。
「俺の話がわかるようだな。ねずみのじーさんから聞いたとおりだ。君とは交渉の余地がある」
ねずみのじーさんは昨日会ったあのねずみです。自分のうわさが流されているなんて、ルナリアはびっくりしました。だけどいま、そのわけを聞く暇はありません。
「鳥さん、交渉ってなあに」とルナリアと尋ねます。
声はほとんど出していません。口の動きだけで話します。それでも小鳥にはちゃんと通じているようでした。
「俺たちを助けて欲しい。君はこの教室を不思議に思わないか?」
ルナリアは先生の目を盗んでちらりと教室を見ました。台にはまだたくさん傷ついた動物たちがいます。
「この動物たちはどこから来たの?」
小鳥も「知りたいか? 覚悟はあるか?」とささやきます。
ルナリアはうなずきます。
「ほんとだな」
「ええ、もちろん」
するとゆっくりとした口調で小鳥は言いました。
「ここにいる動物は、みんな魔法で傷つけられたんだ。この授業のためだけにね」
「う、うそでしょっ!!!」
ルナリアは思わず声を漏らしてしまいました。慌てて口をふさぎましたが、もう手遅れです。先生がじっと見ています。顔が急にこわばった様子も見られてしまいました。
「どうしたのだ。なぜそんな言葉を口にする。その顔はなんだ」
先生の口調はもはや脅しです。
「いえ、なんだか、上手くいかなくて」
ルナリアはくちびるを震わせながら答えます。
「まぁ、初めての授業だ。日没まで粘ってもかまわん。まずは集中だ。よけいなことを考えるな。間違ったイメージで魔法を使えば、小鳥は死ぬ!」
上目でにらむティランナ先生は悪魔のよう。動物たちを傷つける姿が簡単に想像できます。
「危ないぞルナリア。もう声を出すな!」
小鳥が頭を突き刺すような声で注意します。
「俺たちを助けてほしいんだ。作戦を台無しにしたくない。もし手伝ってくれるのなら、黙って耳を貸してくれ」
ルナリアはわずかな動きでうなずきました。
「まず、俺の身体を治す。腹の傷はふさがって、俺は教室中を飛び回る。そしたら君は教室の大扉を開ける。俺は大扉から外へ出る。君は教室を飛び出して俺を追いかける。俺はホールの向こう側、銀の像の頭に止まる。君は像の足元めがけて杖を振る。『銀の像、くるくる回れ、鳥とともにくるくる回れ』という感じで。すると像は俺を追って足をあげる。像の足元は地下牢だ。魔法使いどもが使ったかごはみなそこに行く。俺たちの仲間がそこで囚われているんだ」
小鳥は早口で言い切ると、最後にカメの歩みのようにゆっくりと、訴えました。
「どうか救い出して欲しい。君の魔法で」
きっと彼の中では完璧な作戦なのでしょう。でも、そんなに簡単なのでしょうか。だって怖いティランナ先生のそばを、すり抜けなければならないのです。小鳥が魔法をかけられて、檻に閉じ込められたら大失敗。
もし協力するなら、先生をたぶらかす方法を考えなければなりません。相手は『軍事訓練』を教える先生。話しぶりや仕草から見ても、軍人そのものです。国軍から呼び寄せてきたのかもしれません。きっと動きにも敏感なはずです。ルナリアは不安でしかたありませんでした。
「大丈夫さ。君はすごく魔法が上手いとねずみのじーさんから聞いた。ちっと危なっかしい策だが、君ならきっとできるはず。これは俺たちからの特別課題。これほど気高く立派な設問はないだろう。成し遂げられれば、ここのすべての生徒を超えられる。
さぁ、残りは君しだい。どうか俺といっしょに始めてくれ。期待している」
ルナリアは目を閉じて、美しく飛び回る宝石のような小鳥を、心の中に描きました。
杖の光とともに、小鳥の傷は布を縫い合わせたようにふさがり、皮がぷっくりとふくれます。ふくれた後は泡が割れるようにしぼんで元通りになりました。血で汚れ、もがいてボサボサになった羽毛も美しい青に戻り、やがて宝石のような淡い青の光を放ちました。
小鳥は宝石の粉をパラパラ散らしながら飛び立ちます。
「よくやった、ルナリア!」
ティランナ先生がかごを開けて杖を振りました。
杖から出た巨大な手は、訓練中の生徒を捕らえて、かごの中に入れてしまいました。生徒の叫び声があがります。その声で先生はハッと気づきました。
杖の向きがでたらめだったのです。
「ルナリアめ、貴様いったいなにをした?」
飢えた狼のように鋭い先生の目は、青い宝石の光を放っています。その輝く目に、白いなにかがピチャリと落ちました。ほんものの小鳥のフンです。
先生はもうカンカンです。杖を何度も何度も振ります。けれども、かごに入るのは教室に置かれた本や、動物が乗っていた台、あとは不運な生徒たちです。
ルナリアはとっくに大扉を開け放ち、小鳥といっしょに教室を飛び出していました。青い小鳥を追ってろうかを走ります。目指すのは、昨日宝石を配っていたあのホール、一番奥に立っている銀の像です。
「あんたたち、あのいたずら魔女を捕らえよ! 私より先に捕らえれば宝石を三つやる」
後ろからティランナ先生の声がします。生徒が教室から飛び出します。ルナリアは魔法の杖に捕まらないよう、ろうかを左に折れました。もうすぐホールです。小鳥は強く羽ばたいてルナリアより先に、銀の像めがけて飛んでいきます。そして像の頭の上をくるくるりと回りました。像についた目が小鳥を追って、きょろきょろりと回ります。ホールに着いたルナリアは像の足めがけ、杖を振りました。
像の足は地面から離れ、小鳥にならってぐるぐる回ります。まるで踊っているようです。
小鳥が「こっちへ来い。こっちへ来い」と呼びかけながら、少しずつ像から離れていきます。
像は小鳥を追いかけます。回るたびに足の位置がずれ、地下へつながる階段がゆっくりと顔を出します。
ふらふら動く像は、危なっかしくてしかたありません。でも静まるまで待っている時間はないのです。生徒たちが迫っています。ルナリアは、先生にしかけたのと同じ魔法を、彼らにぶつけました。
生徒たちは宙を手でかきまわしています。まるで空を泳ぐお金をつかむかのよう。ルナリアはそんな生徒に目もくれず、銀の像を避けて階段をおりていきます。
杖の宝石は静かに眠っています。
先生たちにかけたのは、ルナリアにしか使えない光の魔法だったのです。