2.5.2 魔法のうさぎを追いかけて
寮の棟に入ると、食堂で放った雪うさぎがちょこんと待っていました。けれどもルナリアの姿を見た瞬間、また逃げるように走りだします。ここは食堂より暗いので、うさぎの姿がはっきり見えます。角を曲がっても、どっちにいったか丸わかりです。
「どうして逃げるの。私の後ろには誰もいないよ」
うさぎはまだ走り続けます。
ルナリアは心の中で、光のうさぎが闇に溶ける姿を描きます。でも光は消えてくれません。
「うさぎの格好でいたらみんな集まってきちゃうよ。もっともっと逃げないといけなくなるよ。それでもいいの?」
ルナリアが声をかけても、うさぎは止まる気がありません。三階、四階、五階と階段をあがっていきます。上へいけばいくほど、ろうかはどんどん暗くなります。
もうここはてっぺんの七階です。光のうさぎは一番奥にある扉に飛び込み、すり抜けてしまいました。
ルナリアはその後を追って扉を開けます。
そのまま白いもやの沸き立つ部屋へ、飛び込んでいきました。
ドッボーンと大きな音とともに、水しぶきがあがりました。
「なにこれ? あったか~い」
ルナリアは服を着たまま、お風呂に飛び込んでしまったのです。
お風呂の水はしっかり炉でわかした、人肌よりちょっぴり温かいお湯です。融けた雪が流れ込む冷たい川の水ではありません。香水でも混ぜているのか花の香りがします。もちろん、服はびちゃびちゃです。
光のうさぎがピョンピョン跳ねます。全身濡れたルナリアをあざ笑っているかのようです。十回ジャンプしたあとくるりと回って、光のうさぎはすーっと消えていきました。
「おやおや、こんなに早く人が来るとは」
うさぎが消えてすぐ、しわがれた渋い男の声がしました。
ルナリアは辺りをキョロキョロしましたが、誰もいません。いまは湯船にひとりぼっちのはずです。
でもたしかに声はしました。まさか幽霊でしょうか。
「ここだ。わしはここにおる」
ルナリアの口から「ひっ」と息が漏れました。
ゆっくりと声のするほうを見ます。湯気の中で揺れる、小さな灰色の影が一つ。
よく見ると、それはただのねずみでした。自分の存在をアピールするかのように、前足をあげて立っています。
ルナリアは湯船のお湯をはたいて、ねずみにぶちまけました。
かなりの量のお湯がかかったはずです。でも逃げません。身体をブルブル震わして、毛についたお湯を飛ばしています。ひととおり水を払うと、むせているのかせき込みだしました。
「ゴホッ、ゲホン、はぁっ、はぁ、はぁ~。老いぼれに湯をかけるなどひどい娘だ! 気管が詰まったらどうする?」
「変な声を出すからよ。化け物!」
「わしのどこが化け物だ? 見ろ、ただのねずみだ。ねずみなんてどこにでもおるだろうに」
ねずみがルナリアの前でくるくる回ります。たしかに見た目はただのクマネズミです。
「あなた、ほんとうにねずみ? 変身とかしてない?」
「変身なんてどうしてできよう。わしは魔法使いではない」
ねずみは立ち上がり、腹を見せます。
「じゃあ、どうして話せるの?」
「それはそなたが魔女だからだ。なんでも言葉のわかる魔女だからだ」
「そのしゃべり方、あなたはオス?」
「もちろんさ」
「もしかして、ここは男の子の?」
「いや、女湯だ」
ねずみがさらりと言い切ります。
ルナリアはもう一度お湯をぶちまけました。
ねずみの叫びとせきが聞こえます。
「わ、わしはメスのねずみには興味はあるが、人の裸はどうでもいい。そもそもお前さんは服を着たままだ」
ねずみは身体を震わせ水を飛ばします。すっかり乾くと大きなため息をつきました。
「なんとひどい娘だ……せっかくいいことを教えてやろうと思ったのに」
「いいことってなに?」
ルナリアはとげとげした口調で聞きます。
「お前さんにとってだいじなことだ」
ねずみはそれだけ言って、トボトボと、壁に開いた穴へ歩いていきます。
ルナリアは慌てて湯船から飛び出し、その穴をふさぎました。
「お前さんはほんとひどい娘だ。さぁ、早くどきなさい」
「じゃあ教えてよ。だいじなことってなぁに? ほんとは言おうとしていたのでしょ」
「そうだが、いじわる娘には教えない」
「あら? 教えないと穴からどかないよ」
「ならば他の穴から出よう」
「じゃあ、魔法でぷっくり膨らせて出られないようにしてあげる」
ルナリアは魔女なのです。杖を出して一振りすれば、ぶたにすることだってできます。ねずみだってそれくらいわかっています。そう脅されたらもう逃げられません。
「お前さんはやっぱり変わっているよ」
「急になによ。どういう意味?」
ルナリアはちょっぴり怒っています。変わっていると自分では思っていても、初めて会ったねずみに言われる筋合いはないのです。
「そう怒りなさんな、悪いことではない。お前さんは魔法をかけると脅しておきながら、わしに杖を向けなかった」
ねずみが柔らかな声で言いました。
たしかにルナリアの手に杖はありません。ずっと服の中にしまったままです。宝石の放つ魔法の光だって一つも見えません。ねずみはそれをよく見ていたのです。
「お前さん、新入生か」
「昨日入ったばかりです」
「どうだね、学校には慣れたか」
「ちっとも……」
ルナリアはそれ以上、口にしませんでした。今日のできごとまでねずみに言うのは、気が引けたのです。
ねずみがペタペタとルナリアに寄ってきて、足にちょこんと乗りました。
「どうやらなじめてないようだな」
ルナリアは小さくうなずきます。
「そうか、ならばよい」
ねずみの声が太陽みたいに明るくなりました。なぜでしょう、まるで学校になじめないルナリアを喜んでいるかのようです。ルナリアは思わず「どういうこと?」と聞きました。
「そのうちわかるさ」
ルナリアにとっては、なんだか納得のいかない答えです。
「ひどいねずみね」
ねずみはぴょんとルナリアの足から下り、壁に向かって歩いていきます。
「さっきのうさぎはお前さんの魔法だろう」
ねずみの丸い背中が話します。
「そうだけど、どうしてわかったの?」
「お前さんのうさぎがわしを呼び止めたのだ。『どうか一人助けてやってほしい』とな。それで来たのがお前さんだった」
「助けてって、どういうこと?」
ねずみがちらりと振り向きます。
「お前さんがわからなければ意味がない。だからわしは言ったのだ『そのうちわかるさ』と」
ねずみはまた背中を向けました。
意味がわかりません。だけどもう一度聞いてもねずみは答えませんでした。
「さぁさぁ、お前さんはサッと湯に浸かってサッと出るとよい。あんまり遅いと化け物が出るからな」
ねずみはそう言い残して、壁のすき間から出ていってしまいました。
お風呂にいるのはルナリアひとりです。
「うそ、でしょ……」
ルナリアは辺りを見回します。
身体がだんだん震えます。
お湯につかっているのに全身が冷めていきます。
――化け物。
「いやぁぁぁぁっ!」
ルナリアは叫びながらお風呂を飛び出しました、ろうかには誰もいません。小さなランプが三つついているだけです。この階には個室が八つあります。けれども、使われているのは一部屋もありません。だから助けを呼んだって誰も駆けつけてはこないのです。
ルナリアはダダダダッと階段を駆け下ります。踊り場で二人の生徒とすれ違いました。
「あら? ルナリア、先に入ってたの」
「どうしたの、そんなに慌てて」
女の子がすっとんきょうな声をあげています。
――この二人、どうして化け物が出るお風呂に行くんだろう?
ルナリアはそう思いながら、なにも言わず階段を駆け下ります。
六階もみんな空き室です。五階も使われているのは一室だけ、それがルナリアの部屋でした。
部屋に飛び込むと、金色の光が出迎えてくれました。あまりに豪華で嫌だった光も、今日はルナリアの味方です。扉をさっと閉めて、大きなベッドに飛び込みました。
そのとき初めて気づきました。クリーム色の服は知らない間にカラカラに乾いていたのです。湯船に落ちたとは思えません。濡れているのは顔と髪の毛だけでした。
試しに服の袖で顔と髪を拭いてみます。クリーム色の袖はちゃんと水気を吸い取っています。けれどもあっという間に水気はなくなり、元のサラサラの服に戻りました。雨を浴びたような冷たさもありません。上も下も、マントも同じ。クリーム一色の不格好な服は、決して汚れることのない魔法の服なのです。
おかげでベッドは濡れずに済みました。ルナリアはすっかり安心してベッドに身を預けます。
大きな部屋にひとりだけ。ゴロンと寝ると自分の息しか聞こえません。
部屋の明かりが勝手に暗くなります。ルナリアは化け物につかれていないか、だんだん怖くなってしまいました。枕元に置いていた画家パースの絵を抱きしめ、そっと絵の中に棲むペガサスを思い浮かべます。
部屋中にぱっとオレンジの星粒が現れました。それらはどんどん一つに集まって、温かい炎の光を放つペガサスになりました。人さらいを追い払ってくれたのと同じ顔。サイズはもちろん控えめです。そんなペガサスが舌でルナリアをペロペロなめます。
ルナリアはその首元をそっとなでてあげました。人肌のように温かく、月明かりのように柔らかい光を浴びると、化け物のことなどすっかり頭から消えました。
そんなペガサスに見守られ、画家パースの絵を抱きながら、ルナリアは眠りにつきました。