その3「英雄は遅れてやってくる」
佐種司は、走っていた。
向かう先は使われていない建物や廃墟だ。そこのどこかに司が探し求める大切な天使がいるはずだ。
そして必死な顔をして走る司の横で涼しげな顔をして同じスピードで走る黒髪の少女は雨谷朱理。ついさっきまで司の四肢を斬り落そうとしていたはずなのだが、今はそんなことを考えている暇はない。とにかく片穂の安否を確認したい。
使われていない建物を探そうと思うのだが、
「はぁ、はぁ……ッ! やっぱり、東京に廃墟とか多くはないよな」
「そうですわね。あっても空きテナントぐらいですけど、中が見やすい上にそんな大きさだと片穂さんを監禁するには難しいですわ」
「しかもスマホの地図とかに丁寧に廃墟なんて載ってるわけないし、廃墟を見つけるだけでもこんなに時間を使うなんて──」
文句を垂れる司の言葉を遮ったのは、司自身のスマートフォンだった。
「なんだなんだ! 文句言った瞬間に鳴るとか、さては俺のスマホにもついに反抗期が……」
言おうとして司の表情が固まったのは、スマートフォンに表示された相手の名前が「天羽片穂」だったからだ。
走る足を慌てて止めて、司は応答する。
「……なんだ」
『あら、あなた達ってそんなに冷めた間がらだったのかしら?』
声は、もちろん片穂の物ではない。そして、この声に聞き覚えもある。
だから司は、敵意に満ちた声を絞り出す。
「残念だが、片穂は電話に出た瞬間に元気よく一方的に話し始める子なんだ。ワンテンポ置いて何も声がしないなんてあり得ないんだよ」
『随分と仲がいいのね。羨ましいわ』
「片穂はどこだ」
『全く。つまらないわね』
電話越しにため息が届いたと思うと、途端に魔女の声は冷たくなった。
だが、司としてもそんなことを気にしている場合ではない。今は片穂の安否確認が第一だ。
「片穂は無事なのか。それだけ教えてくれ」
『折角手間をかけて誘拐したのだから簡単に殺すわけがないじゃない。何度も言っているけれど、私の狙いは佐種司、あなただけよ』
「人質、か」
『ええ。だから、これから言う住所に一人で来なさい。そうすればあなたの大切な天使は無傷で帰してあげるわ』
「わかった」
司が短く返事をすると、魔女はスラスラと住所を言った。聞いた限りだとここからかなり近い位置にある場所のようだ。
「絶対に片穂に手を出すなよ」
『ええ。ああ、それと一つだけ忠告よ』
魔女は浮ついた雰囲気が纏っていた言葉から重みのある声へと変え、言う。
『くれぐれも、隣にいる彼女を連れてこないようにね』
「どうしてそれを──」
言葉を言いきる前に、通話は途切れてしまった。
司は隣に立つ朱理の顔を見る。
通話自体が聞こえていたかは分からないが、表情を見る限り事情は察してくれているようだった。
「一人で、行かれるのですか?」
「うん。そう指定されてる以上、一人で行くしかない」
「場所だけ教えていただけませんか。外から様子を窺う程度ならば問題ないはずですから」
それは司も思っていたことだ。自分が天使の力に適性があるとしても、片穂がいなければただの無力な高校生だ。
きっと、魔女と戦うことになれば自分の力だけで勝つことは難しいだろう。でも、片穂を人質に取られている現状では、一人で戦う以外の選択肢はない。
ただ、指定された場所の外にいる分には、魔女も文句は言えないだろう。
「そうだね。そうしてもらえると助かるよ」
「かしこまりました。他にも連絡を取りますか?」
「あぁ。導華さんには連絡するよ」
「では、嘉部さんは」
「英雄には……連絡はしない」
自分から頼んでおいて連絡をしないのは問題だと思うが、英雄は本来ならこの事態に関わってはいけない側の人間だ。命を失う危険だって充分にある。そんな場所に大切な友人を連れ込む事は避けたいのだ。
魔女の場所が分からず、人手が必要な状況だったから手助けを頼んだが、場所が分かった以上、これから先は英雄に頼ってはいけない。
英雄が探している間に片穂を助けだし、見つかってよかったと笑えばそれでいい。
「左様ですか。了解しました」
司と朱理は、魔女の待つ場所へと静かに歩きだす。
歩いて数分の場所に、そこはあった。
最初に予想した通り、そこはボロボロの廃墟だった。ただ、外観は崩れてはいるものの、壁自体はまともで中の様子は見えない。窓が少ないのを見ると、何かの倉庫として使われていたのだろうか。
大きさは小規模の体育館ほどで、高さは近くの建物と比べると屋根がおよそ三階程度までで、横幅もそれなりの広さだった。
「ここ、か」
「間違いないでしょう。魔女の気配は確かに感じますわ」
朱理は無機質な倉庫を睨みつけた。
司は時間を確認する。もうすぐ午後三時になるくらいだ。
導華に連絡を取った所、『できる限り急ぐが三〇分ほどかかってしまう』と言われたため、待っている暇はないと考えた司は先に朱理と二人でこの場所に来ていた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
迷う時間など一切なく、司は前へと進む。その背中に、朱理はそっと声をかける。
「どうかご無事で」
「ああ。意地でも生きて帰ってくるさ」
さらに進み、司は倉庫の扉の前に立った。朱理も様子を窺うために物陰に隠れる。いざとなれば助けてもらうつもりだ。
まぁ、そうならないのが一番なのだが、と少々楽観的に司は考える。
倉庫の扉は目の前だった。近づいてみると、今は使われていないというのが一目で分かるような錆び方だった。鉄の匂いが鼻の奥に響くように染み込んでくる。
司は倉庫の扉にゆっくりと手をかける。
迷っている暇なんてない。
「今助けるぞ、片穂」
扉を開き、中へと進む。
昼間であるのに、中はかなり暗かった。倉庫のために窓がほとんどないということもあり、倉庫内の光は、ボロボロの天井から滲むように溢れる太陽光と、司が入って来た入口からの光だけだった。
三歩ほど踏み出して、司は顔をしかめる。
「水……?」
靴の高さの半分ほど、くるぶしから大体数センチ下ほどの位置まで、倉庫の床は水で浸っていた。軽く見渡すと、どうやらこの水は倉庫全体にまんべんなく張られていた。さらに、進めば進むほど、錆びた鉄のような匂いが一層強くなる。
最近ここまでの水たまりができるような雨が降った記憶のない司は怪訝な顔をしながら様子を窺う。
すると、倉庫の上方から声が聞こえた。
「ちゃんと一人で来たみたいね。とても嬉しいわ」
司は視線を上げた。声が聞こえた先は倉庫の二階からだ。この倉庫の二階は奥行きの半分ほどで、司の視界には下を見下ろせるような倉庫の二階とその手すり、そして、その奥に立つTシャツとジーパンというラフな格好であるのに禍々しさのまとうあの女は、
「……魔女」
「そんなに睨みつけなくてもいいんじゃないかしら。隣にいる大切な彼女には傷一つつけていないのだから」
笑う魔女がそっと視線を移すと、そこにいるのは、気を失っているのかピクリとも動かずに倒れている天羽片穂だった。
「片穂‼」
「あら、慌ててはいけないわ」
片穂の元へ走ろうとした司を、魔女は言葉で牽制する。
片穂を人質にされている以上、下手に動くことが出来ない。
ギリッ、と歯を噛み締めて魔女を睨みつけるその視線を見て、彼女は嬉しそうに微笑む。
「私のこんな言葉で足を止めるだなんて、この天使がいないと、哀れなほど無力なのね。あなたって」
「そんなこと、知ってる」
言うまでもない、と司は思った。片穂がいなければ何も出来ないなんて、最初から分かっている。だからこそ、共に歩くことを誓ったのだ。
「それでも、俺は片穂を取りかえす。守るって、約束したんだ」
「随分と格好いいこと。でも、ここであなたが死ねば、この子は今すぐ解放してあげるわよ?」
「──ッ!」
そう、この魔女の狙いは最初から佐種司であり、天羽片穂は彼の命を奪うための交渉道具にすぎない。司の命さえ奪えれば、片穂の命に興味などないのだ。
だが、
「だめ……です。つか、さ、さん……」
小さい声だったが、司の耳にははっきりと届いた。
「片穂‼」
司は声を上げるが、魔女に捕まった時に何かをされたのだろう。残念ながらそれに答えるほどの気力はないようで、弱弱しい声のまま片穂は続ける。
「生きて、ください。私のことは、どうでもいい……ですから」
「何言ってんだ! 意地でも俺は助けるぞ!」
「だったら、助けてみなさい」
司の声に答えたのは、片穂ではなく魔女だった。
見下ろすと言うよりも、見下すと言うような目で、魔女は言う。
「ここで私に負けるようなら、サタンになんてどんな奇跡が起こっても勝てない。だからかかってきなさい。あなたが勝っても負けても、私はこの子を解放する。安心して、死にに来なさい」
勝てば片穂と自分は生きて帰り、負ければ片穂だけが生き残る。
避けるべきは、ここから逃げて片穂だけが殺されること。
そんなことは許されない。約束があるのだ。大切な大切な、二人が繋がるきっかけになった約束が。
なら、答えは一つ。
「上等だ。かかってこい、魔女」
鋭く魔女を睨みつけて、司は言った。
魔女もそれに答えるように笑顔で一歩前へでる。
不気味で、妖しくて、それでいて美しく口を横に大きく裂いて、魔女は腕をゆっくりと上に上げる。
「それでは、遠慮なく」
魔女が顔の前まで腕を上げた瞬間、司の足元に広がる水が震え始めた。波のように動くのではなく、小刻みに振動しているような感覚だ。
そしてその振動は次第に大きくなり、徐々に間隔を空けて何箇所にもポツポツと雨が降った水溜まりのような波紋が生まれる。
振動か波紋となり、その波紋からグツグツと煮えるように水が湧き上がり、人に見えなくもない二足歩行の何かが出現した。
「なんだよ、これ……」
「原理自体は違うけど、現代魔女版のゴーレムと言った感じかしら。ただ、土ではなく水製だけれど」
司から十メートル以上離れた魔女は余裕に満ちた顔で、
「精々抗いなさい。器にも成りきれなかった欠陥品くん」
魔女が腕を振った瞬間、何体もの水のゴーレムが一斉に司に襲いかかる。
ゴーレムの大きさは全て等しく二メートル近い大きさで、体も球体に四肢がついてるような見た目だ。
危険だと判断した司は回避を第一に動き始める。幸いだったのは、ゴーレムの動き自体がそこまで速くないことだ。ついさっきまで雨谷朱理の素早い動きと戦っていたのだ。これぐらいならば充分に避けれる。
しかし、
(数が多すぎるっての……ッ‼︎)
どれだけ身のこなしが上手くても、数で圧倒されては避けるものも避けられない。さらに、足元は水浸しで動きにくさも追加される。
そしてついに避け切れなくなったゴーレムの打撃が、司の肩に直撃する。
ゴッ‼︎ という鈍い音が頭に響いた。そして途端に感じたのは浮遊感。
司の肩に当たったゴーレムの攻撃は、そのまま司の体を吹き飛ばした。
地面に叩きつけられて、司の体を衝撃が巡る。
「ちくしょう。水のくせになんでそんなに硬いんだよ……ッ!」
「ふふふ。秘密、よ」
楽しそうに言う魔女に舌打ちをしつつ、司は再びゴーレムからの攻撃を避けるために体を動かす。
どうにか反撃の方法を考えなければただ攻撃を受けるだけだ。あの攻撃を何度も受けて平気でいられる自信はない。
(クソ……ッ! 【灮焔之剣】さえ使えれば!)
悔やまれるのは、朱理との戦闘で片穂の力を使い切ってしまったことだ。完全に力が無くなってしまったため、再度力を片穂から貰わなければ使うことは出来ない。
力無く倒れる片穂も、どうして力を使わないのかと怪訝な顔をしていた。
周囲を見回して、落ちていた鉄パイプを掴んで司はゴーレムへと振り下ろした。
しかし、
バチャン‼︎ と水の弾ける音と共に崩れたゴーレムの体が、瞬く間に元の形に修繕された。
「なん……ッ!」
驚く暇も与えられず、ゴーレムの反撃にあった司は体を壁に叩きつけられた。
「滑稽ね。この程度の力に手も足も出ないなんて。それで世界を救うだなんてよくも言えたものだわ」
嘲笑する魔女の声を聞いて、司は歯を噛みしめる。
実際、手も足も出ないのは本当のことだ。ただでさえ今は天使の力を一切使えない。単なる人間の司が、勝てるわけがないのだ。
と、そこで司の思考にブレーキがかかった。
(待てよ……?)
軋む体の痛みを堪えながら、司は立ち上がる。
「どうして人間の延長線上にいるお前が、こんなにも力を使えるんだ……?」
「何度何度も、ヒントは与えてるわよ? 今更訊くなんて野暮にも程があるのではないかしら?」
欠陥品とはいえ、これでも司はサタンの器の可能性を秘めた危険因子だ。だからこそ、このような闘いをするに至っているわけで。
そして佐種司は世界中の人間の中でも特に天使や悪魔へ近い存在だ。だったらなぜ、
なぜ、同じような場所にいる魔女との間に、こんなにも差が空いてしまうのか?
司の思考が思考が駆け巡る。
魔女は言っていた。自分は人間であると。
魔女は言っていた。力には制限があると。
魔女は言っていた。自分は臆病であると。
つまり、
(自分が有利で、俺が不利な条件を完璧に整えたってことか……‼︎)
片穂を人質に取られた上に、魔女に指定された場所に一人で来るように指定された。
つまりは今この状態が魔女にとって完璧な戦場だ。自分が絶対に勝てるという自信を持った舞台を、念入りに作り上げたのだ。
ならば、魔女に勝つための打開策も、魔女の全てが詰まったこの倉庫の中に存在するはずだ。
そうなると、まず最初に頭に浮かぶのはこの水だ。雨も降っていないのに自然に水は溜まらない。さらに水製のゴーレムが現れた以上、この水は魔女の用意したもののはずだ。
しかし、ただ水が必要なだけならば指定する場所は水量が制限される倉庫ではなく川でも海でも湖でも、いくらでも人気のない他の場所はあるはずだ。
だが、その理由が思いつかない。
「クソッ‼︎」
考えている間にも、ゴーレムは攻撃を繰り出してくる。当たれば体が飛ぶ打撃などもう何度も受けるわけにはいかない。
避けて避けて、司は打開策を考えるが、いい案が浮かんでこない。
水を抜く? いや、倉庫の床に浸っている水を簡単に抜く方法など存在しない。
避けて上へ登って魔女を直接叩く? いや、用意周到な魔女のことだ。そんな簡単な発想の対策はしているに決まっている。
「考え事をすると視界が狭まるというけれど、どうやら本当のようね」
「──ッ⁉︎」
目の前のゴーレムたちに意識が向いていた司は後ろから忍び寄る一体のゴーレムに気づけなかった。
もう一度、司は壁に背中を打ち付ける。
「カハッ……‼︎」
体から息が一気に吐き出され、同時に吐き気に襲われた。
司が倒れて苦しんでいる間にも、ゴーレムは少しずつその距離を詰めてくる。
(このままじゃ……)
司は片穂に視線を移す。
彼女は先ほどと同様に力無く倒れている。
助けなければ、片穂を。
自分が死んだ後に片穂が解放される保証はどこにもないのだ。
自分の血か、倉庫の匂いか、鉄の匂いが鼻の奥を刺激してくる。
(どうすればいい……! どうすれば……!)
ふと顔を上げると、ゴーレムが目の前で腕を振り上げているところだった。
「ぁ──」
何かが起こったのは、その時だった。
ドガンッ‼︎ という凄まじい音が倉庫の中に響いた。それと同時に、壊れた倉庫の扉の破片が飛び散り、外からの光が中へと入ってくる。
その場にいた全員が、扉を見た。
そこにいたのは、
「ちょっと! どうして扉を開けるためだけに蹴破る必要があるのよ! 本当に馬鹿じゃないの⁉︎」
「違うって! 錆びてるから蹴った方が早いかなって思って蹴ったら想像以上に扉が脆くなってて壊れちまったんだって! ここまで吹っ飛ばすつもりはなかったんだよ!」
「あーあー。聞こえないわ。そんな言い訳聞きたくないわ。折角ピンチの時に格好良く助けにきたっていう状況なのに!」
ガミガミと言い争うのは、制服をきた高校生二人組だ。片方の女子は整いながらもキツイ目で、もう片方はキツイ言葉でも優しそうな顔で、散々言い争うと、互いに少しだけ笑って、
「まぁ、格好つかない方が私たちらしいわね」
「ははっ。違いねぇ」
歩みを進めると、彼は、英雄は、いや、『英雄』は笑ってこう言うのだ。
毎日毎日言い続けてきたあの言葉を。
ほんの少し友人から離れただけで口にするあの言葉を。
『英雄』になりたいと語っていた、等身大の彼の笑顔で。
「よぉ。久しぶりだな、司」
もう一歩進み。上から憎たらしい顔で見下ろす魔女に堂々とした笑みを浮かべて、彼は言う。
「片穂ちゃんへの道を開けろ。『英雄』様の凱旋だ」
魔女の顔は、今までにないほどに不機嫌だった。




