その6「涙で亀裂は埋まらない」
まだ日が沈む気配のない放課後。屋上には、寂しげな風が吹いていた。
凛とした表情で、片穂はゆっくりと歩き出し、倒れる誉を悲しそうに見下ろす。
「私の勝ちだよ。イーちゃん」
「……」
顔を上げず、誉は床を見つめたまま歯を噛み締めていた。
ほんの少し腰を落として、片穂は手を差し出す。
「ごめんね、イーちゃん。立てる?」
「……いらない。一人で、立てるわ」
誉は片穂の手を取らずに立ち上がり、すぐに背を向けた。
大きな怪我などは一つもないが、体には無数の擦り傷があった。きっと、打撲した箇所もあるだろう。
そんな体で歩き出そうとする誉の背中を、片穂は心配そうに見つめる。
「でも、イーちゃん……」
足を止めた誉は、振り返ることなく言う。
「今回は、私の負けね。また、会いましょう」
「あっ……」
一言だけ言い残し、誉は足早に屋上から去って行った。その背中に向かって片穂は手を伸ばしたが、どうにも足が動かなかった。
そんな時に扉の隙間から二人の様子を覗き見していた司は慌てて端に避けて身を隠そうとしゃがみ込んだ。
そして扉が開き、目の前を誉が通っていく。幸いにも、気づかれなかったようだった。いや、気付く余裕などなかったのだろう。
大粒の涙を流し、歩く誉にはすぐ横にいる司を見つける余裕すらなかっただろうから。
誉が下へと降りていくのを見てから、司は静かに屋上へと足を踏み入れる。
そこには、一人でポツンと立つ片穂がいた。
「片穂、大丈夫か?」
声をかけてようやく司の存在に気づいた片穂は、魂の抜けたような顔で司を見つめる。
「司さん……」
司を視界に捉えた瞬間に、片穂は走り出し、司に抱きついた。
司の背中に腕を回し、肩と脇辺りを掴む。その指は、震えていた。どんどんと掴む力が強くなり、司は自分の胸あたりが温かい涙で濡れていくのを感じた。
司の胸に顔を擦り付け、片穂は吐き出すように声を出す。
「司さん……私、わだしぃ……イーちゃんにとっても酷いことを……」
呼吸も乱れ、ひたすらに涙を流す片穂。司は、片穂の頭にそっと手を置き、優しく撫でる。
「片穂なりに、考えたんだろ? 正解なんてないし、間違いもない。誉ちゃんだって、これでいいって思ってるさ」
「でも、でもぉ……」
片穂は首を何度も横に振った。
司は笑みを浮かべ、片穂を労う。
「頑張ったな。お疲れ様」
それでも、片穂の涙は止まらない。司の服を掴む力は、さらに強くなっていた。
「私、イーちゃんに嫌われたくなんてないです……。ずっとずっと、大切なお友達で……。イーちゃんは、イーちゃんは……」
「大丈夫。大丈夫だよ」
穏やかな顔で、司は片穂の頭を撫で続ける。一分ほど経って、ようやく片穂の呼吸が落ち着き始める。
鼻水を大きな音を立ててすすりながら、片穂は袖で涙を拭き取り、充血した目で司を見る。
「私は…………どうすればいいんでしょう……?」
「誉ちゃんは強いから、きっとまた勝負を挑んでくるはずさ。待っていれば、大丈夫さ」
「……はい」
コクリと、片穂は大きく頷いた。
再び屋上が静まってから、司は自分が次にすべきことを思い出した。
「そうだ。一応、英雄にも言っておかないとな」
司はスマートフォンを取り出し、英雄に電話をかけた。
自分のポケットから発せられた振動音で、英雄は足を止めた。別にどこに向かおうともしていなかったので、すぐに足を止めて英雄は電話に出る。
聞こえてきたのは、先程まで一緒にいた親友の声。
『英雄、暇か?』
「暇って言えば暇だけど、急になんだよ」
『誉ちゃんが片穂に負けて、屋上から出ていったんだ。今なら間に合うと思うから、声かけてやってくれないか?」
誉の敗北。それを聞いて、英雄は一瞬返事に戸惑ったが、数秒考えてから、すぐに答える。
「……なるほどな。わかった。探してみるよ」
『あぁ。任せた。かなりショック受けてるだろうから、優しくしてやってくれ』
当たり前だと、英雄は思った。テスト期間中、ずっと誉と共に勉強をして、ほんの少しではあるが、進撞誉がどんな人物なのかは理解したつもりだ。
優しくて、努力家で、意地っ張りなくせに自分のことを好きになれない、なんて事はない普通の女の子だ。
平凡だけれど才能を持つ者に諦めず勝負を挑める誉を、英雄は尊敬していた。
ただ、普通な彼女は敗北すれば当たり前に傷付く。
英雄は、すぐにでも誉を慰めてあげたかった。だから、言いたいこと全てを胸の奥に閉じ込めて簡潔に答える。
「おう。任された」
落ち着いた声で通話を切った英雄は、廊下を走り出した。
それから廊下を歩く誉を見つけるまでは、あまり時間はかからなかった。
視界に誉を捕らえた英雄は、急いで呼吸を整え、笑顔で歩きながら誉に声をかける。
「誉、お疲れさん」
「あら、英雄。どうしたのかしら、こんなところで」
驚くほどに、いつもの誉だった。片穂に負けたと聞いていたからかなり傷心しているかと思っていた分、英雄は少し戸惑いを見せた。
「いや、さっきまで片穂ちゃんと勝負してたんだろ? どうだったのかなってさ」
「完敗よ。手も足も出なかった」
悔しそうな表情を一切見せない誉に、さらに英雄は動揺した。いつも通りの誉に、英雄は誉らしさを全く感じられなかった。
まるで、誉の姿をした別の誰かと話をしているような、そんな気分だった。
「そっか。そいつは残念だったな。でもまぁ、次勝てばいいさ! 頑張ろうな!」
「そうね。次は負けないわ」
そう言うと、誉はすぐに踵を返して歩き出す。
「ちょっ、おい。どこ行くんだ?」
「帰って勉強するのよ。次のテストでは負けたくないから」
「今日はいろいろあったから、休んだ方がいいって。そんなに張り詰めても……」
気持ちは分かる。片穂に勝てない自分に納得できないのも、よく分かる。でも、身を擦り切らしてしまっては元も子もない。
今は休んだ方がいいんだと、英雄は説得を試みるが、
「弱い私に、価値なんてないの。今のままでいる方が、私は潰れてしまうわ」
「誉……?」
違和感が、あった。しかし、それが何であるのか英雄は言葉に出来ず、ただ首を傾げるだけだった。
「それじゃあ、また今度」
「ほ、誉! 待ってくれ!」
「何かしら。私にはこんなところで油を売る時間はないの」
今、自分に誉を慰めることは出来ない。時間が彼女を癒してくれるのを待つことしか、英雄には出来ない。
でも、それでも、苦しむ誉の力になりたくて。
「辛いときは、辛いって言ってくれよ。俺だったら、いくらでも話聞くから」
「……気が向いたら、話すわ」
小さくそう呟き、誉は軽く手を振って歩き始めようとするが、
「ねぇ、英雄」
「……どうした?」
「あなたは、負けて悔しくないの?」
今まで聞いてきた誉の言葉の中でも、とびきりの優しい声だった。それでいて、優しいはずなその声は、ほんの少しだけ震えていた。
「そ、そりゃあ悔しいさ。俺だって頑張ったし」
誉の口元が、ピクリとも動いた。
そして、誉は「そう」と呟いてから、今度はいつものようなはっきりとした強い口調で続ける。
「あなたの思う『英雄』というものは、そういうものだったのかしら?」
「えっ……?」
英雄よりも背の小さいはずの誉の目は、まるで英雄を見下しているかのような、そんな目だった。
誉自身も、この感情を胸に抱き、それが表情として表に出た瞬間、少し笑ってしまった。
ついさっき屋上で導華が自分に向けていた目に籠っていたものが何だったのか、わかってしまったから。
なるほど、滑稽なものだ。こんな風に、自分は見えていたのか。
「私は多分、あなたを過大評価していたみたい。きっとあなたなら、本当に『英雄』にでもなってしまうのではないかと思ったけど、違うみたいね」
「何を言って──」
「平凡よ、あなたは。これ以上ないほどに。身も心も、『英雄』なんかには程遠い。……ただの凡夫よ」
そう吐き捨てるように言い残すと、誉は再び歩き始める。
「……バッカみたい」
小さく呟いた誉は歩く速度をさらに上げ、学校を後にする。
英雄は、その背中を追えなかった。
誉は一人で歩き、帰っていく。
そして次の日から、誉は学校に来なくなった。




