その5「不適合者」
下の階から文化祭を楽しむワイワイとした雰囲気とは対照的に、屋上はとても静かだった。
「司たちは、そんな大変な状況だったのか……?」
「まぁ、な」
数分かけて、天使や悪魔のことを司は話した。片穂たちが天使であること、自分たちが天使の契約者となり、悪魔と戦うことになったこと。
実際に戦う姿を見ていたからか、英雄は司の言葉を真剣な表情で聞いていた。全てを伝え終わり、司は恐る恐る英雄の顔を伺う。
今までずっと隠してきた。うやむやにして、誤魔化して、一番の親友から逃げてきた。何かあったら相談してくれという友人の笑顔に、作った笑顔で何もないと、嘘をついた。
怒られる覚悟はしていた。司は体に力を入れて身構える。しかし——
「だったら、俺も手伝わせてくれ! 少しでも力になりたいんだ!」
これまでの嘘など一切気にかけず、英雄は協力を志願した。
返事は、導華がする。
「力になる、とは?」
「なんだっていい! 少しでも司や華歩の力になりたいんだ!」
「自らこっち側に来る必要はない。今のままで十分幸せじゃろう。大人しく身を引いた方がいい」
「戦えっていうなら、俺だって天使の力を借りて戦うんだって構わないさ! だから——」
いつにも増して目つきの鋭い導華は、どうにか自分たちの力になろうとしてくれる英雄に対して突き放すように、言う。
「わからんならばはっきりと言おう。——無理じゃ。お前には、資格がない」
「なっ、なんで……?」
「お前にはこちら側にくる適性がない。それだけじゃ。ワシらと共にいても、何の役にも立たん」
「適性が……?」
天使と共に戦う前提条件として、天使の力の適性は必要不可欠である。司の異常な適性は言わずもがな、華歩も常人以上の適性を持っている。
しかし、導華はその資格がないと英雄に告げた。
少し戸惑いと焦りを見せながら、誉が導華に声をかける。
「カ、カトエル様。そこまで言う必要は……」
きっと、英雄が可哀想だと思ったのだろう。力になりたいと言ってくれる友人に冷徹に現実を突きつける気にはなれなかったのだろう。
しかし、小さな天使は英雄に向けた失望したような鋭い目を、誉にも向ける。
「お前がそれを優しさと呼ぶのなら、まだ下界に来るべきではない。中途半端にこちら側へ夢を持たせて、命を失う可能性のある世界に、この男を巻き込むつもりか。それは優しさではない。ただの、同情。哀れみじゃ」
「ッ……」
導華の言葉は、全て正しい。天使の役目は人間を導き、守ること。必要以上に人間を巻き込むのは愚行だ。わかっている。わかっているのだ。
でも、誉の中の甘い心が、英雄の寂しそうな顔を見ていられなかった。
「英雄、と言ったか。先程も言ったように、お前には適性がない。これは努力では決して変動しない、生まれもった器の大きさじゃ。大きい方が特殊。お前のような者が普通じゃ。気にすることはない」
適性は先天的に、生まれ持って確定する。無いと断言されてしまえば、決して天使の力を受け止めることは許されない。
「ワシも天使として長く過ごしてきたが、悪魔を目で見れるだけでも充分なんじゃ。ワシを許容できる華歩でさえ、人間のままでは天使や悪魔には干渉出来ない」
「じゃあ司も、特別なのか……?」
深く深く、導華は頷いた。
「この男はさらに特別じゃ。生まれた時からこちら側に片足を突っ込んでいるほどにな。ここまでの適性と器を持つ人間は世界中探してもそうはいないじゃろう」
「……そうか」
「英雄……」
司と英雄は互いに目を合わせた。何を言いたくて、何を言われているのか、声などなくてもわかった。
だから英雄は目を閉じて大きく深呼吸をして、導華を見つめる。
「ここで記憶を消されたら、俺は片穂ちゃんや誉の事も忘れてちまうのか?」
「それはない。天使と悪魔に関することだけ消去する」
「じゃあ、これからもみんなといつものように過ごせるんだよな?」
「約束しよう」
決断までは、数秒しかかからなかった。
「……わかった。記憶を消してくれ」
「……賢明な判断じゃ。礼を言おう。巻き込んでしまって悪かった」
導華は英雄の決断を讃えるように、深々と頭を下げた。
「いいんだ。知るべきじゃない世界があったってだけさ。謝る必要なんてないさ」
「英雄、ごめんな」
「何謝ってんだよ。お前はみんなが知らない場所で頑張ってたんじゃないか。俺はこんな凄いやつの友達で幸せだぜ」
英雄はピンと親指を立てていつものように笑った。そして、司と同じように悲しそうな目をする華歩にも同じように声をかける。
「華歩もだ。色々辛いことがあったのによく頑張ったな」
「……うん」
華歩はコクリと頷いた。
「それでは、いくぞ」
「あぁ。頼むよ」
導華は右手を英雄の顔にかざして、小さく何かを呟いた。すると、白く淡い光が英雄の頭を優しく包み込み、吸い込まれるように消えていった。
たった数秒で呆気なく終わった記憶操作。英雄は不思議そうに首をかしげる。
「これだけで、いいのか?」
「うむ。教室に戻る頃には天使に関する記憶は全て覚えておらんじゃろう」
過去に自分の記憶を消された時の感覚を思い出して、司は少し遠くを見た。
記憶操作の過程が完了した導華が後ろに下がると、入れ替わるように誉が前に出る。
「英雄、ごめんなさい。巻き込んでしまって」
珍しく素直に、誉は英雄に誤った。
「何言ってんだ。誉がカッコよく戦うところ、ちゃんと見えてたぜ。これからも頑張れよ」
「……ええ。精進するわ」
弱々しく立っていた誉は、もう一度強く立ち直した。
皆を一瞥すると、英雄は大きく胸を張る。
「それじゃあ、教室に戻ろうぜ。まだまだ文化祭は終わらないからな!」
何事もなかったかのような笑顔のまま、大股で英雄は屋上の出口へと向かっていく。
誉と華歩も英雄の後に続くが、司はその場で英雄の後ろ姿を見つめる。
「……導華さん」
同じように隣に立つ導華は、英雄の後ろ姿を見たまま返事をする。
「なんじゃ」
「あいつ、きっと凄い悔しいと思います」
「……そうじゃろうな」
「俺、本当は英雄って冗談抜きで『英雄』に憧れてると思うんです。小さな頃に見たヒーロー番組みたいな英雄に。だから困ってる人がいたら助けるし、頼まれたら全力でやりきるし。今日だってみんなの為にめっちゃ仕事してます」
嘉部英雄は、常に善人だった。司は英雄が誇らしいし、皆が英雄を信頼するのも当然だと思う。きっと生まれる世界が違っていたら、勇者になっていただろうと、本気で思う。
「……そうじゃろうな」
「天使って存在を聞いた瞬間、多分あいつはようやく勇者とか英雄とか、そういった存在に本当に自分がなれるって嬉しかったんだと思います」
ようやくきた、自分が皆を守る力を得る機会。目の前にいる特別な力。
「——でも、現実は違かった」
手の届く所まで近づいたと思っていたそれは、ずっとずっと、遠くにあった。
「英雄という者がワシらを見ることが出来たのも、大量の天使の力が集中した戦いの場に居合わせたことによる一時的なものじゃろう。記憶を失えば、きっとまた見えなくなる」
「俺って、やっぱり特別なんですかね」
改めて痛感する、自分の異質さ。片穂と再会してから、悪魔は他の物と同じようにはっきり見えるし、触ることだってできる。
それは、異常だった。
「特別じゃ。世界を探しても、お前と同じ器の大きさを持つ人間がいるかすら分からん」
そう言われても納得できない自分が、心の奥にいることは、否定できない。
「こっちの世界に憧れを持つことって悪いことなんでしょうか。現実ではあり得ないことに、夢を見ないほうがいいんですかね」
幼き頃にテレビのヒーローのようになりたいと思ったことのある人は多いはずだ。そして、そんな存在にはなれないと理解した人も、それでも夢を見ている人も、いるはずだ。
そんなことは導華だって分かっている。
「気持ちは分かる。あの者の心が美しいことは見ればわかる。しかし、それでも——」
導華は言葉に区切りを入れてはっきりと言った。
「憧れは、命を懸けるには余りにも脆すぎる」
司はこの導華の言葉に、何も言えなかった。諦めるしかない。別に英雄と仲違いした訳でも、別れを告げた訳でもない。ただ非現実的な出来事が無かったことになっただけだ。
そう自分に言い聞かせて司も屋上から出ようとした時、導華が声をかける。
「司、少し待て」
「どうしたんですか?」
「まだ、ワシらに用がある者がいるようじゃ」
意味ありげな導華の声は司のみに届き、未だに歩かない二人を不思議に思った華歩が振り返る。
「どうしたの? 導華ちゃん」
「すまない。ちと司と二人で話したい事がある。すぐに戻るから、先に行ってくれ」
「うん。じゃあ、また後でね」
華歩が手を軽く振って屋上から出ると、その場にいるのは司と導華のみ。——の、はずなのだが
「……これでいいんじゃろう? さっさと姿を見せんか。気持ちが悪い」
どこかに向かって話しかけた導華の声に反応するのは、艶かしく響く女性の声。
「初対面の人間に気持ち悪いだなんて、とても失礼な天使なのね。あなたは」
屋上の影から姿を現したのは、ジーンズにTシャツというラフな格好をした長髪の女性だ。一見しただけでも成人していると分かるほどに大人びた風貌。そして未成年にはない色気と雰囲気が、女性の妖艶さを一層に際立たせていた。
自分と対照的に膨らんだ胸元を導華は睨みつける。
「ずっと影からワシらを見ていた無礼者に失礼と言われるのは心外じゃな」
女性は口元に手をやり、上がる口角を軽く隠しながら、
「あら、気に障ったのなら謝るわ。別に不快にさせる気はなかったの。ただ見ておきたかったのよ」
「天使の戦いを、か?」
上がる女性の口角が不気味な笑みへと変貌し、冷たい声が発せられる。
「いいえ。——佐種司くん、よ」
「——ッ⁉︎」
瞬間、寒気。べったりと体に纏わりつくような気持ちの悪い悪寒。全身が反射的に身構え、冷たい汗が額を流れた。
この感じはさっきと同じ悪魔の、否。もっと別の、異質な感覚。
「……お前は、『何者』じゃ」
同様の悪寒を鋭敏に感じ取った導華は瞬間的にその姿を天使へと変え、殺気と弦を張り詰めて限界まで弓を引く。
「あらあら、随分と殺気立っているのね。少し見物していただけなのだから、あまり気にかけることもないと思うのだれど——」
「もう一度問う。『何者』じゃ」
異常なほどに敵意を露呈させる導華。しかしその矢を向ける先にいるのは悪魔ではない。人間だ。
「と、導華さん。さすがに弓を構えるのはやりすぎじゃ……」
「気にすることはないわ。確かに私にも非があったもの。きちんと自己紹介をするから、その矢を下ろしてもらっていいかしら? 私、とても臆病なの」
「……」
殺気はそのままに、導華はゆっくりと構えた弓を下げ、矢から手を離した。
それを確認すると、女性は変わらず笑みを浮かべる。
「ふふ。ありがとう。話が分かる天使で嬉しいわ」
「導華さん、この人は一体……?」
「ワシが訊きたいぐらいじゃ。貴様、本当に人間か?」
違和感なく今までの行動を行なったが、この女性は天使を視認している。さらに『弓を下ろせ』というのだ。つまり、天使との肉体干渉ができる司と同じレベルの適性を持つ人間である可能性まで考えられる。
つい数秒前に特別と言われた矢先だ。いっそのこと、悪魔だと言われたほうが納得できる。
しかし、司の欲しい回答は得られない。
「もちろん人間だわ。少し、そちらの世界に近いだけよ」
「じゃあ——」
「それにしても、前に一度会ったのに、忘れられているなんて寂しいわ。佐種司くん」
一度会った。女性と目が合った瞬間に、司の脳がフル回転し、記憶という記憶を掘り返し始める。
そして辿り着いた記憶は、華歩がまだ契約者になる前の、皆で夕食を食べた日まで遡る。
「この前のスーパーの……!」
買い物をした際、落とした財布を拾ってくれた女性だ。たった数回の会話しかなかったので記憶からほとんど抜け落ちていたが、確かにあの時に感じた悪寒と同じ感覚が今も司を突き刺している。
「司よ。この女と会ったことがあるのか?」
「いえ、会ったというよりは財布を拾ってもらっただけなので……」
「ほんの少しだけだったものね。私は器の大きな人間だから、許してあげるわ」
ふふっ、と笑う女性。話を濁されたイラつきを隠そうとせずに、導華は敵意をそのまま女性へとぶつける。
「そんなことはどうでもよい。これで最後じゃ。お前は一体、『何者』じゃ?」
突き刺すような導華の言葉。それに一切動じることなく、女性は言った。
「私の名前は初知真里。ずっと昔に大量に殺された悪魔の血筋。——魔女。その生き残りよ」
感じたことのない異質な雰囲気は、尚も初知真里を覆っていた。




