その2「はんぶんこ」
急に現れた台風が過ぎ去った瞬間に、司の部屋には沈黙が流れた。あの謎の天使を見た司の率直な感想が、情けなく開いた口からポツリと溢れる。
「……変な子、だったな」
「そうですか? とってもいい子ですよ」
「いい子、なのか……?」
一体先ほどの言動のどこにいい子成分が含まれていたのか全く理解できないが、とりあえず司の頭にはあの天使がいい子として認識される。
「はい! イーちゃんは司さんと会う前からのお友達なんです!」
本人が友達を否定していたのは別として、自分と出会う前、ということは本当に幼馴染なのだろう。そう納得すると、司の頭にはさらに疑問が浮かぶ。
「じゃあ、ライバルってのは?」
「イドミエルは幼い頃から何かと片穂を意識しておってのぉ。事あるごとに片穂に勝負を挑んでおったんじゃよ」
なるほどな、と司は合点がいった。誉からすると友達ではあるが本当にライバルという視線で片穂のことを見ているのだろう。
ただ、当の片穂にはライバルという概念が存在していないようなのだが。
「イーちゃん、凄いんですよ! 私よりもずっと強いんです!」
「……マジ?」
「……勝ち星の数だけなら、イドミエルのほうが上、かのぉ」
にわかには信じがたいが、導華が言うならば本当なのだろう。片穂の強さはその身に宿した司は身に染み込んでいる。多少攻撃方法が単調で脳筋なこと以外は相当な実力だと思っていた。しかし、それよりも強いとなると司の誉を見る視線も変わってくる。
「そんな強いのか。でも、下界に来たのは片穂が先だろ? 誉ちゃんのほうが強いなら、あの子の方が先に下界に来てるんじゃないか?」
「今回は運が良かったんです! ミカエル様の許可を頂いたから私の方が少しだけ先だったんです」
「許可?」
「ミカエル様が剣を片穂に渡したんじゃ。それだけでも下界に降りれる理由になる」
「そんなに凄い天使なんですね」
「そうじゃ。天使によって得意分野は異なるが、ミカエル様は特に戦闘に秀でておる。そのミカエル様が認めたとなれば、誰も文句は言うまい」
この話の最中も片穂はクリクリした目でとぼけた顔をしているが、これでもミカエルに認められるために司の想像を遥かに超える努力してきたのだろう。
しかし、司の心に浮かぶ感情はそれだけではない。
「じゃあ、そんなに凄い天使と俺の父さんは契約してたってことですか?」
自分の父がただ剣を渡すだけで相当な評価となるような大天使の契約者だったと、以前導華は言っていた。なんて事はない普通の優しい父という印象しかない司からすると、それはとても意外だった。
「そうじゃ。十年前の戦いも、勇殿や美佳殿がいなかったなら敗戦の可能性まであったんじゃからな」
「俺の両親は一体何者なんだよ……」
さすがに笑えてくるほどだ。いつの間に自分の両親は世界を救っていたんだろうか。そんな重荷を背負っていたようには微塵も見えなかったのに。
理解の範疇を超え始めたスケールの大きさに、司は胸に溜まったモヤを溜息として吐き出した。
「まぁ、勇殿も美佳殿も、明らかに普通の人間ではないのぉ。司の天使への適性も、両親の遺伝子じゃろう」
「そう、ですか」
天使への適性は、努力などの介入する余地のない完全なる先天的な才能だ。
片穂と契約をする前から、司は天使や悪魔を視認し、生身で悪魔との接触が出来てしまうほどだ。それらを見える人はまだいる。しかしここまでの適正となるとあり得ないのだ。
両親が、どちらも天使や悪魔の戦いに関わるような人間でない限りは。
実感の湧かない司が遠くを見ていると、思い出したように導華が声を出す。
「それよりも片穂よ。先ほどイドミエルにアイスを渡していたが……」
「そうだ! 今日はちょっと暑かったからアイス買ってきたの! 司さんも食べますか?」
「お、サンキュー」
「はい! いっぱい食べて下さいね」
「ワシはチョコレートを貰おう」
「じゃあ俺はバニラで」
誉の時と同様に片穂は袋からアイスを取り出して司と導華に手渡し、自分の分を取ろうとするが、そこで片穂はあることに気づく。
「あっ。三個しか買ってないから私の分が無いです……」
「じゃあ俺のあげるよ。また今度買えばいいし」
司は封を開けて気持ちの良い冷気が手にかかる美味しそうなアイスを片穂に差し出した。
「……いいんですか?」
「いいよいいよ。食べなって」
「……ありがとうございます」
申し訳なさそうな片穂の横で、導華は司のことなど全く気にせずにけろっとした表情で。
「ワシも食ってしまうぞ?」
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
今食べれないからといって特に困ることない。そう思ってテレビを見ようとした瞬間だった。
「司さん!」
「どうした?」
「はい! 半分こです!」
罪悪感に駆られた片穂はどんな思考回路でその結論に行き着いたのか分からないが、既に半分まで食べられたアイスを司のこと目の前に出してきた。頬にアイスが付いているのを見ると、一口で半分を食べてしまったのだろう。
しかし、問題はその食べたスピードでは無くて、
「お、おう。でもさ、片穂」
「なんでしょう?」
言葉に詰まりながら、司はそっとアイスに視線を落とす。
「これ、いいのか? このままじゃあ……」
「……? このままじゃ?」
「えっと……」
司が手に持っているアイスは当然片穂の食べかけである。それはつまり、間接キスというやつだろう。司は特に潔癖症の類いは無いので気にはしないのだが、片穂の反応次第ではやめておこうと考えていた。
数秒置いてから司の意図を察した片穂は、一気に顔を真っ赤にして慌てて司からアイスを取り上げた。
「や……やっぱりダメです! 私、食べます!」
「あ、あぁ」
元々そのつもりだったので残念ではないが、手に持つアイスを取られてしまうと、なんとも言えない気分だった。
そんなやり取りを片目にのんびりとアイスを舐めている導華が、司に話しかける。
「そういえば司よ。勉強はいいのか?」
「あっ。そうだ。勉強もしないと」
誉の来訪で完全に忘れていたが、自分はつい先程まで数学をしてたのだった。机の上に開かれた教材は導華に教えてもらった問題のページのままだった。
早速勉強に戻ろうとした司の動きと同時に、片穂はそっと立ち上がり、台所を向く。
「じゃあ、私はお皿洗いを……」
「待て。皿洗いならワシがやろう。お前らは勉強に専念するといい」
「ありがとうございます。ほら片穂。やるぞ」
勉強から反射的に逃げようとした片穂の退路を導華が防ぎ、司が片穂を引っ張って机に向かわせる。苦い顔をした片穂を座らせると、ようやく諦めたのか鉛筆を手に取る。
「うぅ……わかりました。頑張ります……」
諦めた片穂も自分の教科書を開いて勉強を始めるが、その手に握られた鉛筆の鉛はノートに押し付けられることなく微動だにしない。そして、数分経ったところで片穂は小さく呟く。
「……司さん」
「んー?」
「数学が、何にもわかんないです……」
時計を見ると、片穂の心が折れるまで約三分。お前はウルトラマンかとツッコミを入れたくなるが、実は司は片穂を責めることができない。
司もクルクルと鉛筆を回しながら苦笑いを浮かべる。
「わりぃ。俺も導華さんに教えてもらわなきゃ分からないんだよ」
「ワシは皿洗いで忙しいから見てやれんぞー」
「ってことだから、頑張ろうか」
実際、導華に教えてもらえなかったら今は数学ではなく別の教科をやっていただろう。導華の説明のおかげで先程と関連した数問は解けそうだが、それ以外は依然として理解できない。
導華の皿洗いが終わるまでは自力でやるしかないと気づいたのか、片穂は少し落ち込み気味に頷く。
「はい……。頑張ります……」
渋々再び片穂は教材とにらめっこを始める。どれだけ鋭く睨みつけても答えは浮かんでこないぞ、と言ってやりたいが、今回限りは司も自分のことで手一杯だった。
「……もう、無理ですぅ……。別の教科やりますぅ……」
「それがいいな。これじゃあ見つめられてる数学の教科書も恥ずかしいだろうよ」
「そ、そんなこと……ないです」
もう抵抗する元気もないほどに数学に惨敗した片穂は落ち込んだ様子で別の教材を漁り始める。
その後ろから、皿洗いを終えた導華が大きく溜息を吐いて歩いてくる。濡れた手をタオルで拭き終わると、老人のようにゆっくりと腰を下ろす。
「仕方ないのぉ。本当にどうしようないやつらじゃ。まとめて教えてやるから、本を開け」
「いやぁ。ありがとうございます」
「お姉ちゃん。遅いよぉ」
「さっさと終わらせるぞ。ほら、どこじゃ」
司と片穂の開かれたページを見て、導華は解説を始める。相変わらずわかりやすい。内容がスルスルと頭に入ってくる。司たちは順調に問題を解き進めていった。
それからまもなく片穂が睡魔に負けて眠りに落ちて、導華にこれでもかと怒られた話はまた別の話だ。
若干不思議な少女がやってきた気もしたが、今日も平和に佐種家の週末は暮れていった。




