第四話「満開」その1
導華が悪魔に取り憑かれた華歩を助けるためにその体へと入り込んでから明らかな変化が起こるまでは、ほんの十数秒だった。司も実際に体験したから分かるが、精神世界と現実世界では時の流れが全く違う。
精神世界で数十分経過したところで、現実世界ではたったの数秒しか経過しない。だから、こんな数秒でも華歩の心では様々なことが起こったのだろうと司は感じた。
そして、現実世界にも変化は起こっていた。それはきっと偶然なのだろう。タイミングがよかった。ただ、それだけであることはわかっている。しかし、司にはどうにもこの現象が偶然には思えなかった。
「雨が……」
雨が、止んでいた。
何日も降り続けていた雨が、この瞬間に止んだ。そして、雨が止んだことに司が気づいた時に、華歩の体にも変化が起きた。
それまでの華歩は、闇と光が互いに包みあい、胸を押さえて苦しんでいるようだった。悪魔に取り憑かれ闇に染まった体が、必死にその闇に抗っているようにも見えた。
その姿を、力を使い果たし天使化を解除した司と片穂は黙って見守るしかなかった。二人は足掻き続ける華歩の前で心配そうに佇んでいた。【灮焔之大剣】を無理矢理に使用した今、天使として戦うほどの余力などもうどこにも残っていなかった。
全ての運命を導華に託し、二人は待ち続ける。そして、見守り続けた抗いがピタッと止まり、途端に華歩の体が白く光り出したのだ。発光を目撃した瞬間にその意味を理解した片穂は瞬時に声を上げる。
「司さん! 来ます!」
「導華さん……ッ!」
白光を放つ華歩から、蒸気機関車のように漆黒の煙のようなものが勢いよく溢れ出した。その煙が全て華歩の体から出ると、それは人型に圧縮され、醜い表情をした悪魔へと姿を変える。
「ちくしょう……ッ! あのクソ天使め。殺す。殺す! 殺す!」
神々しく光り輝く華歩を睨みつけながら、アスモデウスは叫んだ。
「アスモデウスが、出てきたってことは……」
「お姉ちゃん……!」
アスモデウスのみが華歩の体から出てきたということは、華歩の体に存在するのは導華のみ。それはつまり、契約の上書きの成功と、天使化の始まりを意味する。
華歩の体を、白く淡い光が覆っていく。その光は、華歩の外観を少しづつ変化させる。先ずは服。普通の女子が着るようだった服はその形を変え、神々しい衣装へと変化していく。
そして、徐々に白銀の翼が姿を現わす。それは紛れもなく天使の象徴。間違えることがないほどに、華歩は天使へと昇華した。
「華歩!」
司と片穂が華歩の元へと駆け寄ると、華歩はゆっくりと目を開き、笑いかける。
「司くん。片穂ちゃん。ただいま」
その返事を、片穂は満面の笑みで迎え入れる。
「はい! おかえりなさい!」
『司、片穂! 無事じゃったか!?』
そして、華歩の体内から聞こえてくる声は、優しくも逞しい天使であり片穂の姉、天羽導華の声。
「うん! 大丈夫だよ!」
「司くんたちが、助けてくれたんだよね」
「俺たちじゃないよ。導華さんが身を削って戦ってくれたんだ」
笑いながら司は答えるが、笑顔のまま華歩は首を横に振る。
「ううん。知ってるよ。今ならわかる。司くんと片穂ちゃんの力も私のことを助けてくれたんだって」
天使化して天使の力を鋭敏に感じ取れるようになった華歩は、自分の周りで攻撃をしたその力の持ち主が片穂であることに、その剣を司が振り下ろしたことに気づいていた。
片穂は照れくさそうに頭をさすりながら顔を少し赤らめて、
「えへへ……。なんだか恥ずかしいです」
「ふふっ。本当に変な人」
手で少し口元を隠しながら、華歩は笑みを浮かべる。それは今まで見た中でも一番自然な笑いで、司もそれにつられて笑い出す。
「ははっ。まぁな」
笑いが収まると、華歩は二人の目を交互に見ながら、
「ありがとう。司くん。片穂ちゃん」
「はい! どういたしまして、です!」
片穂は思い切り頭を下げ、返事をした。
華歩は振り返り、視線を悪魔へと移す。
「じゃあ、あいつを倒さないとだね」
「大丈夫なのか?」
司の心配そうな声には答えず、華歩は片穂へと言葉をかける。
「……片穂ちゃん。前に使ってたナイフみたいなやつ、ある?」
「えっ……? それくらいなら、出せますけど……一体何に使うんですか?」
華歩が要求したのは以前片穂が料理を作る時に使用した天使の力でできた短剣。わずかしか力が残っていない片穂でも、それくらいならば作り出すことは出来る。
不思議そうな顔をしながら、片穂は自分の手の中に弱く輝く短剣を顕現させ、華歩へと手渡す。
「ありがとう。少し借りるね」
華歩は短剣を右手に握りしめると、空いている左手で肩甲骨の下ほどまで伸びている髪の毛を大胆に掴み、うなじが見えるほどに上へと持ちあげ、短剣を掴んだ髪に当てる。
「お、おい! 華歩!」
その行動の意味を察した司は慌てて声を上げるが、その制止に華歩は一切止まることなく髪に当てた短剣に力を込め、全ての想いを断ち切るように勢いよく自らの長髪を切り上げた。
切れ味のよい片穂の短剣を使用し、華歩の髪型は一瞬のうちに短髪へと変わる。切られて舞い上がる髪の中で、強く前を見て凛と立つその姿に司は綺麗だ、とまで思ってしまうほどで、それは清々しく美しい瞬間だった。
先ほどまでの長髪は、肩に髪が届かないほどにまで切られており、華歩への印象が急激に変化した。
「華歩さんっ!? どうしたんですか!?」
驚く片穂に、華歩は説明を加える。
「戦うには、長い髪は邪魔になりそうだし、それに……」
言葉を切った華歩は、胸にかかるペンダントをそっと握り静かに目を瞑る。
それだけで華歩の脳裏に明瞭に浮かんでくる。両親、弟、そして、大切な仲間たちの顔が。
強くなろうと、思った。今までの自分ではダメだとも思った。だから、変わろう。いつか自分が家族の元へ旅立った時に、誇りに思ってもらえるような娘になるために。だから、変わろう。お姉ちゃんの弟でよかったと、勇太に笑ってもらえるように。
そして華歩はゆっくりと目を開き、力強く最後の一言を口にする。自分自身を、奮い立たせるかのように。
「生まれ変わるには、丁度いい」
そう一言口にしたとき、華歩の心から声が響く。
『いいのか? 華歩よ』
「気持ち、切り替えたくて」
後悔はない。むしろ晴れ晴れとしている。迷いが無くなった今、体中についていた重りから解放されたような感覚がしていた。
逞しいほどの華歩の決意を感じ取った導華は素直に華歩の選択を受け入れる。
『そうか。ならば、行こうか』
心の中からの導華の言葉に華歩は「うん」と小さく頷くと、司と片穂を見つめる。
「司くん。片穂ちゃん」
「はい?」
首を傾げる片穂と、何も言わず華歩を見る司に、華歩は凛々しい顔つきで自分の気持ちを伝える。
「私を助けてくれてありがとう。後は、私に任せて。私が、守るから」
自分のために戦ってくれた。自分のために、笑ってくれた。こんな大切な人達に出来ること。誇れる娘になるために、するべきこと。
「今度は、私があなたたちを護るから」
大切な人たちを、護ること。
勇太は、導華に華歩を守ってほしいと願った。その気持ちは自分も同じ。大切な人を守りたい。
「私の願いは、護ること。もう二度と大切な人を失わないように、守ること。私はもう、逃げない。恐れない。諦めない」
弱い自分は大切な弟を守れなった。だからもう二度と、この手から大切なものが零れないようにと、そう願った。
「たとえ険しい困難が立ち塞がっても、私は決して止まらない」
どんなに苦しい道だったとしても、自分の足で歩くと、そう誓った。だから、止まらない。
華歩は歩き出す。闇が取り巻く、悪魔の元へと。
悪魔の目の前に立った華歩は、真っすぐな視線を悪魔へと向ける。そして、力強く華歩は覚悟を、決意を口にする。
「悪魔、アスモデウス。覚悟して。これから先、私の大切な友達には指一本触れさせない!」
「やれるもんなら、やってろよ。このクソ天使どもめ。全部まとめて、僕が殺してやる」
憤怒と憎悪に燃えあがる悪魔は、噛みしめる歯からギリギリという音を立てていた。




