その7「贈り、送る」
信じられなかった。目を疑った。特に幽霊などの霊的なものを信じていたわけではなかったのだがしかし、こればかりは信じるしかない。否、信じたい。目の前にいる少年が死んだはずの自分の弟であることを。
華歩は穴が空いてしまうのではないかと思うほどに少年を凝視し、途切れ途切れの声を投げかける。
「ゆう、た……なの?」
声をかけられた当の本人も理解できないようで、迷子の子供のようにキョロキョロを周りを見回して、目の前で呆然と自分のことを見つめる少女を、幼さが窺えるまんまるの瞳で見つめ返す。
「お姉ちゃん……? ここは……?」
この一言だけで、華歩の脳に衝撃が走った。
間違いない。間違いなく共に過ごした弟、勇太だった。
先ほど流した冷たい涙とは全く違う涙が頬を伝って床へと落ちる。火傷してしまうかと思うほどの熱を帯びた涙がひたすらに零れ続ける。
耐えきれなくなった華歩は、自分の胸辺りまでの身長しかない弟の胸に飛び込む。
「勇太ぁ……勇太ぁ……」
目や鼻から流れ出す物が、少年の胸元をどんどんと濡らしていく。唐突な姉の行動に勇太は目を丸くした。
「泣いてるの……?」
「ごめんね……。ごめんね、勇太……。私、私……」
華歩は、勇太の言葉に返事をすることなく謝罪を繰り返す。自分の臆病さが、惰弱さが、勇太を殺してしまったのだから。あの時、警察へと電話をかけたあと、すぐに勇太の元へ戻り、時間を稼げばよかったのだ。盾となり、身代わりとなり、守るべきだった。
しかし、逃げたのだ。恐怖から、自分から。その結果がこれだ。家族は全員死に、自分だけがのうのうと生きている。死んだ家族はもうこの世で幸せを感じることなど出来ないのに、自分だけが人生を満喫するなど傲慢すぎる。
だが、命を失った弟は、姉に懺悔を求めない。
「泣かないで。お姉ちゃん」
「ぇ……?」
顔を上げる華歩に、勇太はもう一度優しく伝える。
「泣かないで」
「……」
鼻を啜りながら、華歩は勇太を見つめる。その表情はとても穏やかで、恐怖の中で命を奪われたようには全く見えなかった。
「僕、死んじゃったんだよね」
「……」
華歩が答えずとも、自分の命が消えたことは幼い勇太も理解していた。死を理解し、受け入れていた。
その原因は自分なのだと、華歩は常に後悔してきた。そして今、積りに積もった罪への悔いが、目から涙となり、口から謝罪となって溢れだしたのだ。
しかし、弟はその自戒を求めない。
「でも、泣かないで。お姉ちゃん」
「勇太……」
勇太は自分の胸で泣いている華歩の頭をそっと抱き、呟く。
「あの時もお姉ちゃん、泣いてた」
「……」
触れたら崩れてしまいそうなほどに傷心した姉を、勇太は優しく包み込む。
「僕も怖かったけど、お姉ちゃんも怖かったよね」
「……」
勇太のほうが怖かったに決まっている。そう言いたい。でも、声が出ない。口を開いても、何も言えない。
せめてもの返事として、華歩は勇太の胸に埋めた頭を横に振る。
「あの時もお姉ちゃん、ブルブルしてた。でも、お姉ちゃんがついてるから大丈夫って、言ってくれた」
「でもっ……わだしは……勇太を……」
見殺しにしてしまったのだ。助けると、救いが来ると口にしたのに、自分は動かなかったのだ。
「ううん」
勇太は微笑んだまま首を横に降る。
そして、姉の目を見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「お姉ちゃんが生きててくれて、よかった」
「……ぇ」
許されない罪だと、許されてはいけない大罪だと思ってきた。自分が死ぬべきだったと、悔やんできた。
しかし、目の前の弟が口にしたのは、全く逆のこと。こんなこと、今まで考えたこともなかった。
「死なないでくれて、よかった」
ほんの十年しか生きることが出来なかった弟の前で、この言葉を素直に受け入れ喜ぶことなど華歩には不可能だった。
涙は、未だに止まらない。
「泣かないで。お姉ちゃん。僕がついてるから」
あの時自分がかけた言葉を、今度は弟が口にする。情けない。情けない。自分は、勇太を守れなかったのに。
「ごめんね……。ごめんね……」
「ありがとう。お姉ちゃん」
それでも、弟は贖罪を求めない。
「なんで……」
「僕は、死んじゃったけど。お姉ちゃんは悪くないよ。ずっと、お姉ちゃんはあったかいお姉ちゃんだったよ」
「私は……」
甘い言葉が、華歩の脳を陶酔させる。自分を大切にしてくれた姉に、勇太は慰めの言葉をかけ続ける。
「もう一度、お姉ちゃんに会えてよかった。ありがとうって、言いたかったから」
「ゆうた……」
そう言うと、勇太は笑顔で話し始める。いつもの朝食で行われているような日常の話を。
「もっと遊んで、ゲームして、お父さんやお母さんと、みんなで色んな所に行くんだ。学校の友達と、今度カードゲームで戦う約束してたんだ。この前お姉ちゃんと買い物に行った時に買ったカードがすっごく強くて、それで……それで……」
楽しそうに話す勇太の口元が、徐々に動かなくなっていく。
「……」
「お姉ちゃん」
「……?」
「まだ、みんなとバイバイしだくないよっ……」
勇太の笑顔が、泣き顔に変わった。
未練がないはずがないのだ。幸せな家族の元で生まれ、愛され、友達と遊び、日々を過ごしてきた少年に、未練がないはずがない。
ただ、その一言は華歩にはあまりにも重過ぎて。
「勇太……っ」
「おねぇちゃん……」
姉弟は泣き続ける。この機会が終わってしまえば、もう会えないとわかっているから。
だから、抱きしめた弟の体を、華歩は離せない。
「行かないで。勇太。行かないで」
「お姉ちゃん。大好き」
「うん……わだしも……私も……」
こんなこと、口にしたことはなかった。きっと他から見たら、溺愛した姉弟だと笑われるのだろう。
だが、愛しくて、仕方がない。失ってみて、改めて痛感する。家族とは、こんなにも大切なものなのかと。
涙を流す姉の耳元で、勇太は悲しそうに呟く。
「ああ。お姉ちゃん。……もう、時間みたい」
抱きしめた勇太の体が、淡く光り始めた。そして体が光の粒となり、少しずつ、少しずつ消散していく。
「あ……。ま、待って。勇太」
名残惜しそうに弟を見る華歩の横に立つ小さな天使に、勇太は視線を移す。
「……あなたは、天使さん?」
「うむ。そうじゃ」
落ち着いた様子で、導華は頷いた。
「お願いがあるの。聞いてくれる?」
「言ってみるがいい」
「僕の代わりに、お姉ちゃんを守ってあげて」
「わかった。約束しよう」
勇太の目をしっかりと見て、導華は誓った。それを聞いた勇太は、安心したように笑みを浮かべて、
「ありがとう。天使さん」
今際の際を感じさせる発言に、華歩は慌てて導華に問いかける。
「導華ちゃん……。勇太を、このまま生き返らせることはできないの……?」
導華は、悲しそうに首を振る。
「それは、できん。死は、何があっても取り返しがつかん。その流れは、決して逆流はしないんじゃ。そもそも、死者の魂がこの場に来ただけでも奇跡じゃ。それほどまでに会いたいと願ってくれた弟と、もっと話してやれ」
死は、唐突で、そして取り返しがつかない。回復を司る天使でも、この命の流れは変えられないのだ。
わかってはいた。わかっているつもりだったが、今一度はっきりと伝えれた華歩は潤んだ瞳で勇太を見つめる。
「勇太……」
もう既に半透明になってしまっている体で、勇太は華歩に笑いかける。
「ずっと、お姉ちゃんに会いたかった。言えなかったこと、言いたくて」
「……」
「お姉ちゃん」
勇太は深呼吸をして、長めに一呼吸を置いてから、満面の笑みを浮かべて最愛の姉に、精一杯の気持ちを込めて、その言葉を口にする。
「今まで、ありがとう」
「……」
涙は、止まらない。情けなく泣き続ける華歩に、依然として勇太は笑いかける。
「だから、笑って? お姉ちゃん」
「ゔん……」
泣き過ぎてぐちゃぐちゃになった顔で、華歩は無理矢理に笑った。そんな笑顔でも、勇太は嬉しそうに頭を掻く。
「えへへ」
華歩は服の袖で顔を拭いて、今にも光となって消えてしまいそうな勇太を見つめる。
「私こそ。ありがとう、勇太。お母さんとお父さんにも、言っておいてくれる? 二人の子供に生まれて、よかったって。ありがとうって」
家族に言うことすら許されなかった、感謝の言葉。今伝えずしていつ伝えるのか。両親の元に生まれてよかったと今は心の底から感じる。もう戻ってこないのなら、この感謝を弟に託そうと、華歩は思った。
「……うん!」
「ありがとう……。勇太」
この言葉たちを口にした途端、華歩の心には感謝が溢れて仕方がない。
「うん」
「ずっとずっと、私の大切な弟。ありがとう……ありがとう」
華歩は勇太を抱きしめる力を一層強くして感謝を伝え続ける。起こるはずのなかった再会の機会をこれでもかと噛みしめるために。
「……もう、行かなきゃ」
「ゔん……」
勇太の体はすでに光となり指先は殆ど消えてしまっており、この世界に留まることの出来る時間はもうほんの少しとなっていた。抱きしめている華歩はそのことを察し、未練たらしい言葉を吐くことはなかった。弟に送る最期の言葉を、必ず伝えたかったから。
「お姉ちゃん。バイバイ」
これ以上にないくらいの号泣をしながら、勇太は華歩に別れを告げる。これが、最期だ。決して悔いの残らないような言葉を。大切な家族に、最愛の弟に贈る、最大の感謝を。
「会いに来てくれて、私の弟に生まれてきてくれて、ありがとう。勇太」
心からの感謝を、華歩は伝えた。涙を流しながら、華歩は強引に笑顔を作り勇太を送り出す。二人とも引きつった笑顔だが、姉弟であることが一目でわかるようなそっくりの笑顔。家族の繋がりを、愛を、最も感じる瞬間だった。
抱きしめている体が消えていく。失われていく。別の世界へと、旅立っていく。勇太の体が端から少しずつ消えていき、下半身が消え、腕が消え、そして体の全てが消散していく。
顔が消える直前に、声を出せる最期の機会に、勇太は口を開く。
「大好き。お姉ちゃん」
そう言って笑いながら、勇太は光となってこの世界から消えていった。




