その6「最愛の弟」
「ゆう……た?」
闇の中で、勇太のような影がもう一度、同じ言葉を華歩に言う。
「なんで、助けてくれなかったの?」
小さな弟から放たれた言葉は、華歩の心の深層を突き刺し、ぐちゃぐちゃに掻きまわす。そして、華歩はまるで言い訳をする小学生のように早口で話し始める。
「ち、違うの。違うの、勇太。私は、そんなつもりじゃなくて」
「ねぇ? お姉ちゃん?」
纏わりつくような声が、華歩の耳を気味悪く刺激した。
「ぁ……」
一歩、二歩と歩いてきた弟は、華歩の耳元へと顔を近づけてそっと呟く。
「なんで、お姉ちゃんだけが生きてるの?」
「……やめて。やめてぇ……」
聞きたくない。華歩は耳を押さえて玩具のように首を振る。涙が溢れだし、振る首が涙を飛ばす。
今までずっと、蓋を被せてきた、自分の背負った最大の罪。悔んだ。苦しんだ。戒めても、戒めても足りないくらいに、自分のことを責めてきた。
枯れるほど泣いて、朽ちるほど絶望して、自分の魂など既に崩れ切ったと思っていた。折れる心など、もうないと思っていた。しかし、それでも、最愛の弟の言葉は華歩の心を崩壊させる。
「お姉ちゃん。僕、痛かった。怖かった」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
泣きながら、華歩は謝罪を繰り返す。何度も何度も、償いきれないほどの、脳裏に焼きついた罪への謝罪を。
それでも追撃は止まらない。
「お姉ちゃん『絶対助かるからね』って言ってくれたよね?」
「――ッ!」
息が、出来ない。記憶が、蘇る。奥底に閉じ込めていた最悪の記憶が。襲いかかる。壊れる。心が、崩れる。
「お姉ちゃんの事、信じてたのに」
「ぁあ……。ぁああ……」
止まらない。涙が、嗚咽が、目眩が、錯乱が。
「どうして、お姉ちゃんだけ?」
「ごめんなさい……。ごめんなさいっ……」
雨のように涙を流し続け、崩れ落ちた華歩の耳に突然、甘い声が響いた。
「でもね。お姉ちゃん」
「……」
雰囲気の変わった声に、華歩はゆっくりと顔を上げる。
「僕、お姉ちゃんのこと、恨んでなんかないよ」
「ぇ……」
涙でぼやける視界の中の勇太は、笑っているようにも見えた。
「痛かった。怖かった。でも、怒ってないよ」
「勇太……」
華歩の心が落ち着いていく。濁流した川の氾濫が、穏やかな下流のように変わっていく。
「でもね、寂しいんだ」
「寂しい……?」
悲しそうな顔をしながらポツリと、勇太が呟く。
「お姉ちゃんがいないから。寂しいんだ。だから、一緒に来てほしいの」
「一緒……に?」
勇太は小さく頷く。
「うん。お姉ちゃんと一緒なら、僕、寂しくないから。だから、一緒に来て」
華歩の目の前に勇太の小さな手が差し出される。しかし、
「……」
「……お姉ちゃん?」
華歩は、この手を取れない。
本能が、言っている。この手を取れば、もう二度と元の世界へ帰れない。
「なんで、この手を取ってくれないの。お姉ちゃん」
「……どう、すれば」
きっと、あと一歩で、自分の心が、この魂がどこか別の場所へと連れていかれるだろう。恐らく自分の家族と同じ場所に。
手を取りたい。取って、楽になりたい。
この重罪に、自分の背負った十字架に。贖罪を。断罪を。ここで、全てを終わらせてしまいたい。
「さぁ。おいてよ。お姉ちゃん。ずっと、僕と遊ぼう?」
「……どうすればいいの…………?」
ここで勇太と共に行けば、自分のために尽力してた友人を、裏切ることになる。大切な友達ともう二度と会えなくなる。
そして、華歩の脳裏に浮かぶ、無邪気で陽気な優しい笑顔。
あの小さな天使と、導華と、もう笑い合えなくなる。
それは、嫌だ。また、会いたい。もう一度、あの笑顔に囲まれたい。
「ねぇ。早く、お姉ちゃん。僕はもう、怒ってないから」
ほんの少しだけ圧力がかかった声で、勇太は華歩に言った。
怖い。全てが怖い。ここにいるのも。手を取ることも。この手を取れない自分自身も。
この真っ暗な世界の全てが怖い。
助けて。
華歩はペンダントを涙を流しながら握りしめる。
約束した。約束してくれた。助けてくれると、守ってくれると。とても大きく、小さな天使が、言ってくれたのだ。
願え。願え。きっと、きっと天使は来てくれるから。
「――助けて……! 助けてっ……! 助けて……導華ちゃん……!」
「あぁ。もちろんじゃ。ワシが、お前を助けよう」
握りしめたペンダントから、天使の声が聞こえた。
優しく逞しい声と共に、ペンダントが美しく光り始めた。光が、溢れ続ける。溢れた光は少しずつ集まり、彫刻のような小さく美しい天使が現れる。
「とうか……ちゃん?」
「すまんな。少し遅れてしまった。許してくれ」
華歩の目の前に現れたのは、背に翼を生やす小さな天使。神々しく闇を照らすその姿は、まさしく天使と呼ぶにふさわしく、その佇まいはとても小さな少女の外見とは噛み合わなかった。しかし、それこそが天羽導華。それこそが天使カトエル。
「なんで……?」
「約束したじゃろうが。お前に助けが必要な時は、ワシはいつでも駆けつけるぞ」
様々な感情が、華歩に涙を止めさせない。洪水のように、華歩は涙を流し続ける。
「……ありがとう…………」
「礼はここを出てから聞こう。それよりもまず、先は……」
勇太と華歩の間に割って入った導華は、勇太を鋭く睨みつける。
「華歩から離れんか。人の心を、心の中を、好き勝手に弄びおって。この腐れ悪魔め」
「……チッ。どこまでもどこまでも。外でも中でも。どれだけ僕の邪魔をするんだ。このクソ天使め」
導華の言葉を聞いた途端に、勇太の口調が変わる。
「勇太……?」
「あれはお前の弟などではない。お前の記憶から読み取った情報で、表面だけを形作っただけじゃ。あれは、決してお前の弟などではない」
弟では、勇太ではないと告げられた華歩は信じられないと勇太を見つめる。その容姿は、紛れもなく自分の弟そのもの。しかし、目の前にいるのが勇太ではないのなら。もしそうならば、
「それじゃ、一体……」
きっぱりと一言、天使は言った。
「ただの、悪魔じゃ」
勇太は戸惑いを見せながら弁明を口にし始める。
「な、何を言ってるの……? 僕は、悪魔なんかじゃないよ。ねぇお姉ちゃん?」
「ぇ……」
姉を見つめる弟の目に、華歩は違和感を感じた。
そして、次の言葉が放たれた瞬間に、その違和感が形となって華歩の脳に届く。
「そうだよね? 僕が、悪魔なわけないよね? そんなわけないよね? ないよな? ないはずだよね? ないはずだよな?」
世界が、歪んでいく気がした。自分の弟とは思えない薄気味悪さと言葉遣いに、華歩は目の前にいる弟が本人ではないと確信した。
「違う……。あなたは……誰?」
「僕は、僕だよ。僕は、悪魔なんかじゃなくて、勇太だよ?そうだよ。そのはずだよ。そのはずだ。間違いないよ。間違えてないはずだ。そう、僕が悪魔なわけないよ。だって、僕は悪魔じゃないだからなぁ。なぁ?」
そう言って、梁池勇太の殻を被ったアスモデウスは、不気味な笑みを浮かべた。
「――ッ!?」
目に見えるように形となった異質を感じて、反射的に華歩は後ろへと飛び跳ねるように下がった。しかし、すぐ近くで凛と立つ導華は依然として悪魔を睨みつける。
「欲深き悪魔よ。人間にも成りきれぬその腐った性根が、臭いほどに滲み出ておるぞ」
悪魔は一つ溜息を吐いて、その場で円を描くように歩きながら話し始める。
「はぁ。なんか、疲れちゃったんだよね。うん。疲れるんだよ。人間って。お前が急に入ってくるもんだから急いで意識を完全に消そうと思ったのに。本当はもっと、ぱぱっと精神持っていって完全に乗っ取るつもりだったんだ。それなのに……。お前が邪魔するからだ」
悪魔は突き刺すような眼光を導華へと向ける。弟の姿をした悪魔に不安を抱いた華歩は、導華へと助けを求める。
「……導華ちゃん」
虚ろな目をした華歩の肩に、導華はポンと優しく手を置く。
「華歩。気を確かに持て。ここはお前の心の中。お前の感情が、この世界の全てじゃ。この世界が全てが闇に染まった時、お前もワシも、こいつに飲み込まれて消滅する」
「ペラペラペラペラ喋りやがって! 余計なことばっかりするんじゃねぇよ!」
「……」
もう勇太の真似をすることを諦めたのか、悪魔は突然に声を張り上げた。
それに返事をしない華歩に、悪魔はさらに続ける。
「ほら! お姉ちゃんよぉ! さっさとこっちに来い! たっぷり遊んでやるって弟が言ってんだよ!」
許せないと、華歩は思った。
「……やめて」
華歩は呟く。
「聞こえねぇよ!」
もう一度、呟く。
「……勇太は、そんな子じゃない。勇太から、出ていって」
「聞こえねぇって言ってんだろうがよォ!」
そして、華歩は心から叫んだ。
「勇太から、出ていって!」
心からの咆哮は、衝撃波となって悪魔に襲いかかる。
この世界は、華歩の心の中。華歩の心の持ちようで、この世界はいくらでも改変される。
そして、その世界が悪魔を否定した。
華歩たちがいる世界が、弟の体を悪戯に使うことを拒絶する。そうなれば、悪魔は勇太の体に留まることはできない。
弾き出されるように、悪魔は勇太の体から吹き飛ばされる。
気がつけば、闇に染まっていた世界に少しずつ光が戻り、景色も華歩の家のそれになっていた。
「……なんだよ。ちくしょう……」
華歩の拒絶で吹き飛ばされた悪魔は、体を壁にぶつけたのか苦しそうに呻いていた。
その一方で、自分の弟が偽物だったことに華歩は落胆し再び涙を流す。
もう一度、会えたと思った。あの時の罪を、懺悔できると思った。でも、そんな機会はないのだと、華歩は痛感した。
「ゆうた……ゆうたぁ……」
泣き続ける華歩の横で、導華がそっと囁く。
「華歩よ。前を、見てみろ」
「まえ……?」
華歩はゆっくりと前を向く。いるのは、悪魔だったはず。そこに何があるのだと言うのだろう。
だが、そこには、
「……おねえ……ちゃん?」
自分の弟が、そこに立っていた。
「ゆうた……?」
悪魔によって作られた体から悪魔が抜け出し空となった勇太の体に、奇跡が起きた。
華歩にはわかった。この奇跡がどういうことなのかを。声を聞いて、目を見て、立ち方を見て、確信した。
本物の梁池勇太が、華歩の目の前に現れた。




