その5「心の底」
落ちていく。落ちていく。深い深い、心の底へ。
悪魔へと導かれて辿り着くのは、真っ暗な、心の底。闇の蠢く、心の底。悪魔の待つ、心の底。海の底に体が沈んでいく感覚。ずぶずぶと闇の中に意識が落下していく。
落ちて、落ちて、そして、
少女が目覚めたのは寝心地の良い柔らかなベッドの上だった。
「ん……」
夢を、見ていた気がする。良いか悪いかは分からない。ただ覚えているのは何か、大切な何かの夢だったこと。
少女はゆっくりと体を起こし、辺りを見回す。そこは何の変哲もない、普通の部屋。自分がこの世に生まれてから今まで過ごしてきた、自分の部屋。
ベッドも家具も棚も机も洋服も、全て自分が使っていたもの。だから、今日はいつもと何も変わらない、普通の日。
そして、ふと耳に入るのは聞き慣れた生活音。食事の準備だろうか。まな板に包丁が当たる音が自分の部屋まで響いていた。
「華歩! いつまで寝てるの。遅刻するわよ!」
下の階から母の声が聞こえた。いつもはもっと早く起きているはずなのに、今日は寝坊気味だ。
「今、起きるよ」
きっと母には聞こえていないだろうけど、寝起きはいつもこれぐらいの声量なので、基本的に母は返事が聞こえないことに関しては気にしていない。これも、いつもと同じ。
ベッドから降りて半開きの目のまま、手ぐしで髪をとかし、少女はリビングへと降りるために歩きだす。その時、ふと目に入ったのは小さな星型をした桃色の花。綺麗なそれは、自分のことを優しく見守っているようだった。
ただ、この花をいつ部屋に飾ったのか思い出せない。しかし、特に気に止めることはなく、少女はそれを少し眺めてから、階段を下る。
全てが全て、今まで自分の育った空間。下りた時にギシギシとなる階段も、部屋の柱から匂う古びた木の香りも、何も変わることはない。そして、扉を開けた先のリビングにいる人も、全てはいつも通りだった。
「お姉ちゃんおはよー」
「お、華歩。おはよう」
「華歩。ちょっと手伝って!」
リビングへ入った瞬間に、梁池華歩の弟が、父が、母が、一斉に声をかけた。
「おはよ。お母さん、どれ?」
「これとこれ。こっちがお父さんね」
簡単な返事を返しながら華歩が母の元まで歩くと、調理をする手を動かしながら母は顎をしゃくらせて準備の整った皿を指す。
「はい。お父さん」
「ありがとう」
少しぶっきらぼうに、父は返事をした。それに続いて、弟の前にも皿を運ぶ。
「ありがと! お姉ちゃん!」
「うん」
先日十歳になった弟が、無邪気に笑う姿に、華歩は思わず頬を緩ませた。
全員の準備が整うと、皆が同時に手を合わせ「いただきます」と一言。そして、全員が箸を進め始める。これも、毎日の日課である。それから始まるのが、学校生活に関する父の質問。
「華歩。最近、学校はどうだ?」
「んー。普通かな。特にこれと言ったことはないよ」
「そうか。勇太はどうだ?」
「楽しいよ! 昨日、まさくんが鬼ごっこしてる時にね……」
華歩の弟、勇太は楽しそうに学校での出来事を父へと話す。笑顔で話を聞く父と、そのやりとりを聞く母と娘。特別なことは何もない、普通の家族。
ただ、今日の華歩には、いつにも増してこの時間が幸せで堪らない感覚がした。昔のアルバムを押入れから引っ張り出して、うっとりと思い出に浸るような、そんな感覚。
「華歩はもう二年生だろう。友達はちゃんといるのか?」
「うん。まぁ」
友達は多くはないが、誰もいないわけではない。話しかけてくれる人も、中にはいる。席の近い何人かの女子たちがそれだ。自分と同じ本が好きな子がいて、想像以上に語りあってしまった経験もある。
男子の友達も、多くはないが、いることにはいる。その男子は一年生の時に席が隣だった。彼はどうやら弁当を忘れたらしく絶望で顔を暗くしていた。彼の友達はその表情があまりにも滑稽だったらしく、ひたすらに笑い転げていた。さすがに可哀想だと思ったので、少しだけだが弁当をあげたら、涙ながらに感謝してくれた。
それからはよく話すようになり、二年生になっても同じクラスだったので、まだ仲良く話したりしている。
それと、この前にも新しく友達ができた。それは、それは……。
「……あれ?」
思い出せない。大切な友達が、優しい存在が、すぐ近くにいてくれた気がする。でも、誰だったが思い出せない。
華歩は食事の手を止め、考え込む。胸の中で何かがつっかえている。思い出そうと華歩が遠くを見た時、リビングの隅に飾ってある花に目が止まる。
「お母さん。あの花は?」
そこにあるのは、自分の部屋にも飾ってあった、ペンタスの花。柔らかな桃色で星が集まったような、綺麗な花。しかし、華歩の問いかけに、母は首を傾げる。
「え? あんな花、いつ買ったのかしら。お父さん?」
「俺はあんな花買わないよ。華歩じゃないのか?」
「いや……私じゃない。私じゃなくて……」
思い出してきた。これを買ったのは自分じゃない。もらったんだ。でも、それは誰から?
記憶を遡ろうとした時、華歩の目に入るのはまた別のもの。
「これ、は」
ふと下を見た華歩が見つけたのは、質素で使い古された、銀色のペンダント。それが首に掛かっていたことに、華歩は初めて気づいた。そして、華歩の記憶が蘇り、すべてを思い出した。大切な友達を、大切な天使の存在を。
「私は、私は――!」
華歩は箸をテーブルに置き、慌てて立ち上がった。家族たちは突然の挙動に目を丸くしていたが、気にかける余裕はない。
自分がいる場所は、一体どこだ。悪魔へと走って、それからどうした。記憶が曖昧で、思い出せない。
「どうしたの。華歩」
心配そうに娘を見つめる母の瞳が、華歩の心を揺さぶる。
「お母さん……」
華歩の記憶が戻ったことで、華歩は目の前にいる家族たちのことも思い出した。
つまり今、華歩の瞳に映るのは、もういないはずの、大切な人たち。だが、ここにいるのは、紛れもなく大切な家族。おかしい。何かが、おかしい。死んだはずなのだあの時に。殺されたはずなのだ、目の前で。
「どうしたんだ。華歩」
母に続いて父も華歩へと声をかける。
こんなほんの少しの言葉が、華歩には温かくて仕方がない。
そうして、華歩の思考はある一つの結論へと辿り着く。
ここは、夢の中なんだ。温かく幸せな、夢の中。
家族が全員目の前にいてくれることで、もういっそこの夢の中で過ごし続けてもいいのではないかと思うほどの幸せな感覚が、華歩の心を染め上げる。
「お姉ちゃん!」
家族の心配そうな顔を尻目に呆けたように遠くを見る華歩に、勇太が声をかけた。それによって我に帰った華歩は、勇太へと視線を移す。
「どうしたの?」
「あのね。お姉ちゃんに訊きたいことがあるの!」
明るい笑顔を見せる勇太に、華歩は次の言葉を待っていた。
すると、突如として部屋が暗くなったような感覚に陥る。いや、実際にこの部屋が暗くなっている。
「勇太……?」
徐々に、闇がリビングを、そして家全体を覆っていく。慌てて華歩は周りを見渡すが、気づいたときには父と母の姿がない。闇が、全てを隠している。
唯一、華歩の目に映るのは、暗がりの中に佇む弟の姿。あまりの暗さに、華歩は勇太の輪郭しか捉えられない。しかし、その影から声が響く。
「ねぇ、お姉ちゃん?」
さっきまでの雰囲気とはまるで違う勇太の立ち振る舞いに、華歩は動揺を露わにする。
「どう、したの?」
闇の中で悪魔のように立つ勇太は、その表情を陰で隠したまま声を出す。荘厳で、冷酷で、狂気に満ちた声を。
「どうして、僕を助けてくれなかったの?」
「……ぇ?」
華歩は、ここが幸せな場所だと、幸せな夢なのだと思っていた。しかし、違う。違うのだ。ここは、ただの夢の中ではない。そんな、優しい世界ではない。
華歩は、この夢が悪夢の中であると、その時初めて気がついた。




