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俺と天使のワンルーム生活  作者: さとね
第一章「俺と天使の四日間」
18/106

その5「いつまでも、どこまでも」

 佐種司が目を開いた先に広がっていた風景は、緑豊かな田舎だった。


 見覚えのある、どこか懐かしい空気。耳に入るのは、風が草花を撫でる音だけ。


 雲一つない碧空から降り注ぐ穏やかな日差しに、司は思わず目を細める。


「ここ……は?」


 意識は確実になったが、状況を理解できずに司は辺りを見回す。そうしてみて初めて、自分が目の前に広がる村を一望できる丘に立っていることに気が付いた。


 そのことに気付くと、司はようやく自分のいる場所が何処であるのかを把握した。


「俺の村だ。どうしてここに」


 どこを見ても視界に入る家や木々は確かに自分が生まれ育った村のそれである。


 それにしても、何故自分がここにいるのかを覚えていない。直前の記憶が曖昧で、ついさっきまで何をしていたかがわからない。


 辺りを探るように、司は丘を歩く。


 そして、司は丘のある一点を見て、立ち止まる。


「懐かしいな。たしか、ここで―――」


 司の思考に、ノイズが走る。そこには一見すると何もない、ただの坂。しかし、司は記憶を遡る。大切な何かが、そこにあるような気がして。


 司が自分の記憶を探っていると、背後から、優しい声が聞こえた。


「おはようございます。司さん」


 その声に、司は慌てて振り返る。そこに立っていたのは純白の翼を背に宿した天使だった。その神聖な輝きを放つ存在に、司はゆっくりと歩みよる。


「かた……ほ?」


「はい。天羽片穂と申します」


 悠揚とした様子で片穂は司に返事をする。いつもと同じ、柔和さが滲み出るような、温かな笑顔で。


「ここは……?」


 司の問いかけに、片穂は簡明に答える。


「ここは、司さんの心の中。私と司さんの記憶が生み出した、精神世界の中です」


 片穂の言葉を、理解の追いつかない司はゆっくりと吸収していく。


 そして、その言葉の中にある単語に、司の思考が反応する。


「きおく……」


 記憶。自分と、片穂の記憶。


 反応の無い司に対して、片穂は確かめるように問いかける。


「思い出した……ですね?」


 その言葉で、司の滞っていた思考が全て繋がる。


 ようやく、思い出したのだ。ずっと忘れていた、大切な記憶を。心の奥底に閉じ込められていた、最愛の人への感情を。


 繋がった記憶たちは、司の心の中を狂奔し、感情をかき乱す。そして、その感情は、瀑布となって司から溢れ出る。


「ごめん。ごめんな、片穂。俺、ずっと忘れてた」


 全てを思い出した司は、泣き崩れながら片穂への謝罪を口にする。


 情けなく泣き顔を晒す司に対して、片穂は優しく話しかける。


「大丈夫です。お姉ちゃんが記憶操作したんですよ? 簡単に思い出せるわけありませんから」



 そんな言葉で、許されていいはずがない。自分だけが、全てを忘れてのうのうと生きてきたのだから。


 そして、司の自戒にはもう一つ理由があった。流れ込んできた記憶の中に、二人が別れてからの十二年間の記憶が断片的に混ざり込んでいた。そして、司は知った。


 不器用な天使が、司に再会するためだけに、どれだけの努力を重ねてきたのかを。


 本来、天使が一定範囲の地域を管轄するためには、それ相応の実力が必要だった。女天使の導華が広い地域を管轄すること自体、異例であったのだから。


 それなのに、それに及ばない片穂が、研修と言う形だとしても下界で活動することが認められるためには、相当な努力が必要であった。


 それでも、ひたすらに努力を続け、片穂はついに認められたのだ。天羽導華の妹としてではなく、天羽片穂として。


 そんな血が滲むような努力を前にして、司に開き直る自信など微塵もなかった。


「でも、でもよ……」


 首を横に振りながら泣き続ける司を見て、片穂は頬を膨らませる。


「もう! 私はあなたに謝ってほしくてこっちにきたんじゃないんですよ?」


「じゃあ……」


 力なく問いかける司を優しく見つめながら、片穂はゆっくりと口を開く。


「約束、しましたから」


「やく…そく……」


「はい。もう一度、会いに来ました。ちょっと時間、かかっちゃいましたけど」


 五歳の少女が、大切な人と交わした再会の誓い。


 それを果たすためだけに、天羽片穂は努力してきた。その十二年もの辛労を、片穂は笑い飛ばす。苦労の痕跡を、ほんの少しでも司に悟らせないように。


 照れくさそうに笑いながら、片穂は続ける。


「今まで黙っていてごめんなさい。こんなタイミングじゃないと、規則違反になってしまいますから」


 もう二度と、忘れてほしくない。規則に絶対に触れないために、片穂は無理やりにでも悪魔が関係するまで隠していたのだ。


「でも、思い出してくれてよかったです。約束すら覚えていないのに、こんなこと言われても困るでしょうし」


 導華による記憶操作は少しのきっかけで解除できるような軟なものではない。実際、片穂は司が記憶を忘れたままならば、十二年前のことを話して、全てを思い出してくれるまで根気よく話し続けようと思っていた。


 しかし、本当に自分を忘れている司を目の当たりにした片穂は、仮に司が片穂との記憶を最後まで思い出せなかったらという恐怖に駆られ、言いだせなかった。


 だから、こんなきっかけだったとしても構わない。司が記憶を取り戻したことが片穂に約束を果たす機会を与えてくれたのだから。


 もちろん二人の記憶が混ざり合うことで全てを思い出すとは予想もしていなかったが、巡ってきた機会を見逃す事なんてできない。


 片穂が溜めこんできた想いを前にして、司は声を出そうと口を開くが、その口を片穂は人差し指で優しく押さえ、甘く囁く。


「約束、もう一つ」


 天使は司に、想いの全てを伝える。この瞬間のための全ての努力を慰労するかのように。


「私はあの時、司さんに救われました。身も心も全て。あなたがいなかったら、きっと私はダメな天使のままでした。だから――」


 天使は、小さく息を吸った。


「私を助けてくれて、守ってくれて、そして、私の道を示してくれて——」



「ありがとう」


 少女は、笑った。


 十二年の歳月をかけて、天使は約束を果たす。そして伝える。自分の生きる道を示してくれた最愛の相手に、精一杯の感謝を。


 きっと、あの一日がなかったら片穂は姉という枷に絞め殺されてしまっていたかもしれない。自己肯定をできぬまま、挫折し、全てを諦めていただろう。そんな哀れな未来を、あの日の出会いが変えてくれた。


 佐種司が、未来を変えてくれた。


 その感謝を、司は全身で受け取る。一人の体では受け取りきれないほどの、巨大な想いを。


 だが、司の涙は止まらない。喜び、感謝、謝意、様々な感情が虹の様に混ざり、目から流れ落ちる。


 異常なほどの感情の起伏は、司の体を休ませない。


 止まる気配を見せない涙を袖で拭きとりながら、司は呟く。


「感謝するのは、俺だってのに」


 こんなにも大切な気持ちを、思い出させてくれた天使に、誓いを果たすために身を粉にした天使に、司は自らの心情を吐露する。


 伝えたいことはたくさんある。それでも、最初に言いたい言葉は、司の心を満たす感情は、一つだけ。


「ありがとう。片穂。また会いに来てくれて」


 最愛の天使に、せめてもの感謝を。


 涙でくしゃくしゃの、情けない顔だった。片穂のように、笑って気持ちを伝えられるほど、司は強くない。それでも、涙を流しながら話す司に、片穂は優しく笑いかける。


「はい! どういたしまして!」

 

 返事をしながら、片穂は丘から周りを見回す。


「懐かしいですね。記憶の中とはいえ、あの時とそっくりです」


 ようやく感情の波が静まり、涙が止まった司は、片穂と並んで村を見下ろす。


「あぁ、そうだな。本当に故郷に帰ってきたのかと思ったよ」


 十二年前に約束を交わした場所で、二人は静かに佇む。


 そして、遠くを眺めながら、片穂はゆっくりと息を吐き、司へ話しかける。


「司さん。もう一つ、伝えなければならないことがあります」


 ほんの少しだけ変わった片穂の声色に、司は何かを感じ取り、すぐに返事をする。


「なんだ?」


 片穂は司の目を見て、言う。


「今、現実世界の司さんは瀕死状態にあります」


「瀕死……?」


 一瞬、何の話か理解できなかったが、司はようやく自分がここにいる原因を思い出す。


「そ、そうだ! 片穂たちは悪魔と戦ってたんじゃないか! 早く導華さんを助けに行かないと!」


 致命傷を受けながらも、自分の意識があるということは一命を取り留めたのだと、司は判断する。


 そして、今は導華とアザゼルが戦闘中であることも思い出した司は、一刻も早く助けなければと、焦りを露わにする。


 そんな司に、片穂は冷静に声をかける。


「大丈夫です。この精神世界では時間の流れは現実世界とは違います。この世界を保てるまでの時間ならどれだけ会話をしても、現実では一秒ほどにしかなりません」


「そ、そうなのか」


 落ち着いた片穂の言葉が、司の焦りを鎮める。


 司が冷静さを取り戻したことを確認すると、片穂は話を再開する。


「現在、私の治療で司さんの傷は完全に塞がりましたが、出血量が余りにも多すぎました。お姉ちゃんならきっとそこまで治せるんですけど、私の力ではそこまでの回復はできませんでした」


 天使カホエルに治療の才能はない。司の傷を治しただけでも奇跡であった。しかし、奇跡はそこまで。片穂では司を万全な状態にまで回復させることは出来なかった。


「それじゃあ、一体どうすれば…?」


  司の問いかけに、片穂は真率に答える。


「一つだけ、方法があります」


 少しだけ間を開けて、片穂は口を開く。


「私と、『契約』してください」


「契約………?」


 かつて片穂が口にした言葉を、司は思い出す。『契約』という言葉に何か特別な意味があることはわかっていたが、それが一体どんなものなのかは見当もつかない。


 そんな司の心境を察したのか、片穂は説明を始める。


「『契約』は、古来から人間が天使の力を使うために必要なものです。私と司さんが契約をすれば、一時的にですが、司さんは私自体を取り込んで天使化することができます」


 今までも日常からかけ離れた現象が起こり続けていたが、その中でも群を抜く非日常に、司は理解が追いつかない。


「俺が……天使?」


 片穂はコクリと頷き、話を続ける。


「はい。私の制御しきれない膨大な力を全て司さんの体の一部とします。そうすれば、天使の力による自己再生で司さんの怪我は全て回復するでしょう」


 昨日、導華が助けに現れる前の悪魔との戦闘で、確かに司は片穂の傷が再生しているのを見ている。


 司を天使化させ、回復させる。それが片穂に残された唯一の手段だった。


「それが、俺の助かる方法なのか……?」


「それだけじゃありません。きっと、アザゼルを打倒できるだけの力が得られるはずです。どの点でも、この状況での最善の一手であることは間違いありません」


 片穂は司に説得するように話し続ける。


「だから、私の力を―――」


「―――俺で、いいのか?」


「え……?」


 不意に、司の口から溢れ出た声に、片穂は言葉を失う。


「片穂は、ずっと俺のために頑張ってきてくれたのに、俺は今まで片穂のことを忘れてたんだ。それなのに、こんなに都合がよくていいのかなって思ってさ」


 天羽片穂は、司との約束を守るために、十二年間ひたすらに努力を重ねた。それに比べて、司は今まで片穂のことを忘れてただ毎日を生きてきた。特別な努力もせず、とりあえず歳を重ねてきた。


 それなのに片穂に甘えて天使の力を手にするなど、余りにも都合が良すぎたのだ。


 司は素直に片穂の手を取れない。自分は今の片穂の力に見合うだけの人間ではないのだから。


 もう片穂は弱くなんてない。諦めずに戦える、強い天使だ。あの頃の片穂とは、比べ物にならないくらいに。


 悩み俯く司に片穂は不思議そうに返事をする。


「え? そんなこと気にしてたんですか?」


「そ、そんなことって。大変だったんだろ?」



 あまりにも片穂が軽く発言するので、司は動揺する。


「もちろん。とっても大変でした。それはもう泣きたくなるぐらい」


「じゃあ! なんでそんなことだなんて」



 辛く苦しい道であったのは片穂の記憶が教えてくれた。それを、その苦労を、この天使は一切気に懸けない。


 それどころか、まるで軽い通り雨に当たれただけかのように、片穂は話しているのだ。


 理解が出来ず呆然とする司に、片穂は穏やかな表情で話す。


「司さんは道を示しただけ。歩くと決めたのは、私です。だから、後悔は一つもありません。私は、私として生きていくって、あの時決めたんですから」


「………」


「だから、気にすることなんてないんですよ」


「でも、俺には、何にもないから」


 自信が、無かった。


 今まで、自分が片穂にしてあげたことなんて、誰だって出来ることだった。いなくなった片穂を探したのも、見つけたのも、助けたのも、自分である必要なんてなかった。


 むしろ、片穂が出会っていたのが自分以外の誰かだったならば、もっとよりよい未来が待っていたのではないだろうか。そんな考えまで過る。


 それでも、せめて自分にもっと力があれば、片穂の努力に相応しいほどの、器量があれば、胸を張って片穂の手を取れただろうに。


 もっと俺が、強い人間だったら――



「―――司さんは、司さんのままでいいんじゃないですか?」


「え……?」


 時が、止まった気がした。


「あの時のお返しと、弱気な司さんへの仕返しです。ダメでもいいって、言ってくれたじゃないですか。完璧である必要なんてないんですから」


 卑屈になる司を、その縮小する心を、片穂は温かく包み込む。


 かつて自分が、そうされたように。


「かた、ほ……」


 片穂は、続ける。


「それに、私を忘れてても、司さんは司さんのままだった」


 幸せそうに、記憶を手繰り寄せるように、片穂は話し続ける。


「あの時と同じように、見つけてくれた。あの時と同じように、助けてくれた。司さんは変わってない。とっても温かな、あの日と同じ司さんだった。あの時も、そして今も、私の大好きな司さんは、ここにいますよ」


 そして司の弱さを打ち砕くように、片穂は言う。いつもと変わらない、優しい笑顔で。


「私は、司さんを愛していますから」


 司の放った言葉たちが、時間を超えて自分の心へ反射する。


 司の心に纏わりついていた惰弱が、削ぎ落とされていく。片穂の言葉が、司の心を優しく撫でる。


 その心地よさに、司は言葉を発することが出来ない。


「………」


 深く、大きく呼吸をしてから、司は口を開く。


「片穂」


「はい」


「俺、やっぱり片穂のことが好きだ。あの時も、今も」


 今まで司を動かしてきたものは、この感情だけだった。


 悩んでいるのを励ましたことも、命を懸けて守ろうと思ったのも、全ては単純に、好きだったから。


 好きな人の心を、体を、救いたかったから。


 天羽片穂に恋をしていたのだ。初めて出会った、あの時からずっと。


 記憶を失ってもなお、司の心に、魂に刻まれた思いが、今までの片穂に対する司の行動の原因だった。自分の部屋で出会ったあの時から、司の心は知っていたのだ。


「はい」


 司の言葉に、片穂は笑顔で頷く。


「それに、守るって、約束したからな。弱気になってる暇なんて、ないよな」


「……はい」


 約束したのだ、「大切な女は、死んでも守る」と。


 あの時の約束を、果たさなくてはならない。自分に足りないものはいくつもある。


 でも、それでも、それを諦める理由にはしない。苦しくても、未熟でも、諦めなかった天使が目の前にいるのだから。


「出来れば俺の力で守ってあげたいんだけど、やっぱり俺はダメダメだ。一人じゃきっと、何もできない」


「知ってます。それでも胸を張って笑ってくれる司さんが好きなんですから」


 片穂は、肯定してくれる。不完全で、平凡な男を。


 こんな自分でも、必要としてくれる。立ち上がる理由は、それで充分だった。


「だから、俺と一緒に、歩いてほしい。苦しい時は一緒に励ましあって、楽しい時は一緒に笑いあってほしい」


 片穂がいれば、きっと進める。二人で支えあえば、どんな場所へも行ける気がする。


 命をかけて、生涯を尽くして、君を守りたい。


 そんな思いを、司は素直に伝える。


「………」


  そして 片穂は何も言わずに司の言葉を聞く。次の一言を待つかのように。


  司は、片穂にそっと手を差し出す。


「ずっと、一緒にいてくれないか? 君が、必要なんだ」

 

 時間が経っても、変わらない。天羽片穂は、佐種司の人生に必要不可欠なのだ。不格好で不完全な二つのピースが合わさることで、欠けた二つはようやく一人前となる。


 それでいい。それがいい。支えあえばいい。完璧である必要なんてないのだから。


 自分を救ってくれたこの天使に捧げよう。


 佐種司の、一生を。


 自分の胸に溢れるこの感情を、司は声に出す。これ以上ないくらい簡潔に、的確に。


「君を、愛しているんだ」


 目の前に出された司の手を、片穂は大事そうに取り、胸にそっと頭を寄せる。そして、司の心に、直接語りかけるように、片穂は返事をする。


 幸せそうな、穏やかな笑顔で。



「はい。ついていきます。いつまでも、どこまでも」



 二つの人生が、絡み合い、一つの線となっていく。


 溶け合うように、淡く、優しい光が、そっと二人を包み込んだ。



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