その4 「私は」
片穂は司の胸に手を当てて、鼓動を確認する。
弱々しい脈が、司の命の縮小を感じさせる。司の意識はすでに朦朧としており、苦痛に歪む表情すら力を失ってきている。
助けを呼ぼうにも、自分がどこにいるのかもわからない。頼りの姉も、側にいない。周りを見渡すが、自然で囲まれた二人の周囲に人の気配は微塵もなかった。
今、司を助けることが出来るのは自分だけ。しかし、肝心の片穂は司の隣で座ったまま俯き、涙を流していた。
「私には……できないよ……。お姉ちゃんみたいには…」
自信が、無かった。
今まで、何かが上手くいった経験なんてなかった。姉の様な天使になろうとしたところで、全て無駄な努力だった。
もし、自分が力の制御に失敗して大量の力が司に流れ込んでしまったら、司を治療するどころか、片穂が司の命を奪ってしまうだろう。
その可能性が、片穂の手を止めていた。
片穂は、自分の無力さに涙を流し続ける。
自分ではどうしようも出来ない。導華がいれば。
自分が、導華だったら―――
―――片穂ちゃんは、片穂ちゃんのままでいいんだよ。
心の中で、声が響いた。
涙が、止まった。
優しい声が、片穂の胸の奥の何かを溶かしていく。
「私は、お姉ちゃんじゃ、ない」
片穂は、自分に言い聞かせるように、明晰に、一言一句を発する。
「私は……天羽、片穂だ。私は…カトエルじゃ、ない。天使、カホエルだ」
片穂は視線を司の顔へ移す。青白い顔が、生命力の低下を知らせている。風前の灯。消えかけの蝋燭のような命が、片穂の目の前で弱々しく揺らめいている。
司のことを見つめて、片穂は声を出す。自分の気持ちを、伝えるために。
「私も、あなたのことが好き」
聞こえていないのなんて分かっている。それでも、片穂は続ける。
「せっかく出会えたのに、こんなところでお別れだなんて、嫌」
この時、片穂は生まれて初めての感情と出会う。
「私しかいないんだ」
導華がいなくても、やるしかない。
自分一人で、司を助けなければならない。
「私が、やるんだ」
「私にしか、できないんだ」
片穂の目つきが、はっきりと変わった。決意で満ちた目をした片穂は、司の胸に再び手を置き、意識を集中させる。
ゆっくりと片穂が目を瞑ると、その体を光が覆っていく。その光は、少女を高次元の存在へと引き上げていく。幼いながらも神々しさを身に纏う少女の背中に、白銀の翼が現れる。
「待っててね、司くん。今度は私が、あなたを助けるから」
天使へと姿を変えた少女は、司の胸に置いた自分の手を一心に見つめ、治療の準備を始める。
自分でも驚くほど落ち着いていた。滑らかに、練り込められた力が天使の手に集中していく。
そして、天使の手から白い光が溢れ出し、司を優しく包む。
「あなたのことは、絶対に死なせない!」
決意の声とともに、天使の治療が始まる。丁寧に、確実に、治療を進めていく。
お願い。お願いだから。
「死なないでっ……! 司くん!」
こんな素晴らしい出会いを、ここで終わらせるわけにはいかない。
大切な人の命を、ここで絶えされるわけにはいかない。
天使は、全身全霊を司の体へ注ぎ込む。
「天使カホエルの名に懸けて、あなたは絶対に死なせない!」
そして、癒しの光が、輝きを増して、司を包み込んだ。
「………でき……た……?」
司の顔から、痛苦が抜けていく。乱れていた呼吸も落ち着きを取り戻す。
司の意識が回復したのは、それからほんの数分程度であった。
「………あれ……?」
司の声を聞いた瞬間に、横で座っていた片穂は声を上げる。
「司くん!」
「片穂……ちゃん?」
司の返事を聞いた瞬間に、緊張の糸がほどけた片穂は涙を流して司に抱きつく。司の命を救うことが出来たことに、片穂は心から安堵した。
「よかった……。よかったよぉ……」
片穂に抱きつかれた司の視界の中に、白銀の翼が入る。それを見た司は、理解が出来ず片穂に問いかける。
「片穂ちゃん……? その格好は」
片穂は自分が天使化したままであることを思い出す。
「あ……。やっぱり、驚くよね。こんな見た目じゃ」
「え……?」
ここまで見られてしまっては、もう隠す事もできないと考えた片穂は、ありのままの真実を司に伝える。
「私、天使なの」
「天……使?」
「うん。本当は隠しておきたかったんだけど、司くんを助けたかったから」
片穂の言葉を聞いた司は、胸に手を当てて、再び問いかける。
「じゃあ……胸が苦しいのも、怪我も、片穂ちゃんが治してくれたの?」
「うん……」
何と言われるだろうか。怖がられ、嫌われてしまうのだろうか。
過去には、恐れられて迫害された天使もいたと姉に教わっていた片穂は下を向いて目を合わせないで司の反応を伺う。
しかし、司の口から出た言葉は、片穂の想像とは反対であった。
「凄い……」
「……え?」
「凄いよ片穂ちゃん! 今まで薬以外で胸が苦しいのなんて治ったことなかったのに! それに怪我も全部治しちゃうなんて!」
司は笑顔で片穂の功績を讃える。
しかし、片穂は素直には喜ばなかった。というのも、片穂にとっては司への治療の成功は奇跡そのもの。博打で偶然勝ったものを、どうして自分の力だと胸を張ることができようか。
「……偶然だよ。凄くなんてないよ。司くんを治せたのだって、上手くいったのは嘘なんじゃないかってぐらいで……」
導華なら、もっと上手くやっていただろう。
片穂は俯き、惰弱な様子で続ける。
「きっと、私じゃなかったらもっと早く司くんを治せてあげたのに」
しかし、そんな片穂に、司は優しく笑いかける。
「でも、僕を治してくれたのは片穂ちゃんだよ」
「………」
「片穂ちゃんがいなかったら、きっと僕は死んじゃってたかもしれない」
「………」
「だから、ありがとう。片穂ちゃん。片穂ちゃんのおかげだよ」
「……うん」
全ての言葉が、片穂の心に染み込む。感情が目から溢れそうになるのを必死に堪えるが、それを塞き止めている壁も、司の言葉が溶かしていく。
「片穂ちゃんがいてくれて、片穂ちゃんに出会えてよかった」
涙を堪え切れず、片穂の目から涙が零れる。
「私で、いいの? 何にも無い、私なんかで」
無力さによる卑下が、片穂から漏れだした。
それでも、司の顔に浮かぶ朗色は消えることはない。
片穂に対する気持ちを、司はもう一度伝える。心からの気持ちを、大切な人に。
「僕は、片穂ちゃんがいいんだ。僕には、片穂ちゃんが必要だよ」
柔らかな風が、涙を吹き飛ばした。
カチャリと心の奥で鍵の開く音がした。今まで片穂を縛り付けていた枷が、消滅していく。檻から解き放たれた鳥のように、片穂の心が解放される。
もう、姉の背を追う必要なんてないのだ。自分のままで構わないのだ。
こんな自分を、必要としてくれる人がいるのだから。
雲一つない星空の下で、天使は少年に自分の心を伝える。
「ありがとう。司くん」
生まれて初めての、心からの笑顔だった。最大の感謝を込めて、天使は少年に礼を伝えた。
「助けてもらったのは僕の方だよ。こちらこそ、ありがとう」
司の無邪気な笑顔と見た片穂は、互いに礼を言い合っていることが可笑しくなって笑い出す。
「ふふっ」
それにつられるように、司も笑う。
「ははっ」
二人は笑いあう。互いの苦労を忘れて、今を心から楽しむように。
笑いが落ち着くと、片穂は司の目を見つめ、
「司くん」
「どうしたの?」
「私と、『契約』してくれないかな?」
「けい……やく? それって、一体―――」
司の返事を聞かないまま、片穂は司の頬にそっと唇をつける。柔らかな感触が、司の脳に刺激を与える。
「ど、どど、どうしたの!? 片穂ちゃん!?」
慌てふためく司を見て、片穂は嬉しそうに笑う。
「天使にはね、『契約』っていうのがあるの」
「そ、それがどうしたの?」
「『契約』は、魂と魂の契約。でも、今の弱い私のままじゃ、司くんにも、他の人にも迷惑をかけるだけ」
理解できない言葉の羅列に思考が追いつかない司は、混乱した様子で片穂を見つめる。
「片穂ちゃん。分からないことが多すぎて目が回りそうだよ」
「今は、分からなくて構わないよ。いつか私が強くなって、みんなに認められる天使になったら、もう一度司くんに伝えるから」
「伝えるって、何を?」
司の質問に、片穂は行動で示す。
「か、片穂ちゃん! ま、まま、また!」
頬を手で押さえて赤面する司を見て、喜色満面のまま、片穂は言う。
「今は、まだ、心の契約」
目を閉じ、胸に両手を当てて、片穂は続ける。
「でも、私の心は、あなたのものです。そして、いつか来る真の契約の時に、私の魂をあなたに授けましょう」
「片穂……ちゃん?」
片穂の言葉の意を掴みきれない司は、困惑した表情で片穂の名を呼ぶ。
「わからなくていいの。もう一度会えたら、その時に伝えるから」
ほんの少しだけの寂寥感を顔に浮かべながら、片穂は言った。
噛み合わない二人の間に沈黙が流れようといた時だった。
「あら、二人ともこんなところにいたのね」
艶麗な声が、丘の上から響いてくる。
「お母さん!」
司は母の存在を視認すると、片穂の手を取り、坂道を駆け上がる。
「ずいぶんと大変だったみたいね。怪我はなかった?」
美佳の問いかけに、司は笑顔で答える。
「あのね! 片穂ちゃんが、全部治してくれたんだ! 胸が苦しくなるのも治してくれたんだよ!」
その言葉を聞いて、美佳は笑みを浮かべる。
「そう。やっぱり、あなたならできると思っていたわ。ありがとう。片穂ちゃん」
「え? え、は……はい」
まるで今までの出来事を知っているかのような反応や言葉に、片穂は動揺しながらも返事をする。
「それよりも片穂ちゃん。そろそろ人間に戻ったほうがいいと思うわ」
「え……? ……あっ!」
余りにも通常通りに天使を認識し、話しかけているので自分が天使化していることを完全に忘れていた片穂は慌てて天使から人間へと姿を戻す。
片穂が纏う光が離散し、天使は人間へと次元を落とす。
「あ、あの……」
「ふふふ。気にすることはないわ。誰しも、秘密の一つや二つを持っているものよ」
問題は天使であるのがばれてしまったことではなく、なぜこうも知り合いと会話をするかのように天使と話しているかなのであるが、呆気にとられた片穂は問いかけることができなかった。
もじもじとしている片穂を尻目に、美佳は口を開く。
「さぁ、あなたたち、お家に帰りましょう。お客様も来ていることだしね」
「お客様?」
司は首を傾げるが、美佳は「そのうちわかるわ」と笑みを浮かべたまま帰路を歩き始める。
家の前まで歩いた所で、人影が視界の中に入った。
暗闇で誰だか確認できなかったが、それの存在の正体に気付いた瞬間に、片穂は声を上げて走り出す。
「お姉ちゃん!」
涙を浮かべながら走る勢いそのままに片穂は導華に抱きつく。
「無事じゃったか。片穂」
「うん……。うん……」
姉の胸に顔をうずめながら、片穂は涙や鼻水を流し続ける。
「ほれほれ、泣くでない片穂。そこの少年も見ておるぞ」
司の存在を思い出した片穂は、姉を抱きしめる手を離して袖で目や鼻を拭く。
片穂から解放された導華は司の元へ歩き、言う。
「お主が、司か?」
「そうだよ!」
返事を聞いた導華は司の前でしゃがみ、頭を撫でる。
「片穂が世話になったな。礼を言おう」
「うん! どういたしまして!」
少年の笑顔を見て、導華は立ち上がり美佳の方を見る。
「なるほど。さすが美佳殿の息子じゃな。並大抵の人間とは器が違うのぉ」
「ふふふ。そうでしょう? でもね、導華。妹の真穂はもっと凄いわよ?」
美佳の言葉を聞いて、導華は大笑いをする。
「はっはっは。それは面白いのぉ。将来が楽しみじゃ」
そして、会話が一通り落ち着いてくると、導華は話を切り出す。
「さて、ここまで天使の力に関わったのなら、ワシたちに関する記憶は消すことになるが、構わんな? 美佳殿」
人間が天使に頼り切ってしまわぬように、最低限の、最小限の接触だけをするために決まった規則、記憶の消去。
そもそも、片穂と司の出会い事態が異例の出来事。出会うはずの無かった二人が出会い、互いに惹かれあった。もし、そこで終わっていたのなら対象外にも出来ただろう。しかし、事は単純では無くなってしまった。
司は、片穂の天使化を見ただけではなく、その力によって治療を施されたのだ。これは必要以上の接触以外の何物でもない。当然、規則の対象となる。
今までの片穂との記憶が、全て消去されてしまうのだ。
それでも美佳は、導華の言葉に快諾する。
「ええ、構わないわ。司と真穂の記憶が消えたところで、これから先には何も関係ないもの」
嬌笑を浮かべ続ける美佳を見て、導華は怪訝な表情で問いかける。
「どういうことじゃ」
「私の子供たちよ? 天使や悪魔と関わるのがこれで最後になるとでも?」
堂々とした喋り方に、美佳は少しの戸惑いを見せる。
「天使だけならまだしも、悪魔と関わると命の危険だってあるのじゃぞ。それでもいいのか?」
導華の問いかけに、美佳は毅然とした態度で口を開く。
「何度も言わせないで。私の子供たちは、そんな運命の元に生まれてないわ」
美佳の凛とした言葉に導華は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑い始める。
「はっはっは! ならば、その二人が無事に過ごせるように願うとしようか」
美佳との会話を終えると、次は片穂へと導華は話しかける。
「片穂も、構わんな?」
「うん。平気」
この一言だけで、導華は今日一番の驚きを見せる。そして、導華の喫驚を感じとった片穂は、姉の目をしっかりと見て口を開く。
「私、強くなるって決めたの。だから、大丈夫」
予想外だった。片穂が別れを悲しみ、再び泣き出すと導華は確信していた。しかし、実際はその逆。記憶消去の規則を受け入れ、前を向いていた。
この片穂の変化に思考が付いていけない導華に対して、片穂は続ける。
「私、お姉ちゃんよりも凄い天使になる。絶対に負けない!いつかお姉ちゃんを追い抜いて、私が天界一の天使になるの! そしてもう一度、凄い天使になってから司くんに会うの!」
片穂は覚悟に満ちた真剣な眼差しを、姉に向ける。
そして、少し間を開けた後、導華は美佳の方を向いて笑う。
「これが、美佳殿の望んでいた結果ということか」
「ふふふ。その通りよ。二人とも、たくましくなったでしょう?」
美佳が片穂を預かる条件として提示した問題の解決という言葉をようやく導華は理解した。
そして同時に、片穂を縛り付けていた枷にも、導華は気付く。
「人も天使も、心と言うのは複雑なものじゃな」
「そうね。でも、気付けたのなら、よかったわ。これからも仲良くね」
「あぁ……。礼を言おう。ありがとう」
誠実な感謝を、導華は目の前の家族に再び伝え、片穂の方へ振り返る。
「お主の覚悟、しかと受け取った。負けないように、ワシも精進しよう」
「うん!」
元気の良い返事を聞くと、導華は司へと視線を移し、頭に手を置く。
淡い光が頭部を包み、記憶消去の準備が整う。
「では、ワシらはこれで失礼しよう。司よ。お主の記憶はワシらがいなくなってから消えるようにしておいた。別れの言葉を、片穂と交わすがいい」
「え? ……帰るんだよね?記憶って?」
理解が及ばぬ司を気にせず、導華は片穂と場所を入れ替える。
「あのね、司くん。私、もうすぐ帰るから、お別れしないと」
「うん。片穂ちゃんのお姉ちゃんも見つかったしね! それで、次はいつ会えるの?」
片穂は言葉に詰まるが、必死に口を動かす。
「すぐには会えないけど、きっと、また会いにくるから」
司の手を取り、片穂は続ける。
「絶対に、また会いにくる! 約束する!」
「うん! 楽しみにしてるよ!」
司の笑顔が、片穂の涙腺を揺らす。溢れそうな涙を、必死に堪えて、片穂は話す。
「約束する。いつか必ず、ありがとうって言いに行く。私、強くなるから!」
「それなら、僕も約束する! もう一度、会えたら、今度は僕が片穂ちゃんのことを助けるよ! 大切な女は、死んでも守るからね!」
「……ずるいよ。またそうやって」
片穂の目に滲む涙が、溢れ始める。司の優しさが、言葉が、片穂の心を掴んで離さない。
片穂は涙を見られないように司に抱きつく。
「……大好きだよ。司くん」
「うん。僕も」
涙をなんとか止めた片穂は、腕を離す。
「片穂、そろそろ時間じゃ」
「……うん」
片穂は導華の手を握り、愛おしき人を見つめる。
「これでお別れじゃ。もう一度、礼を言おう。ありがとう。司よ」
「うん」
導華の言葉と共に、二人の体が薄らと輝き始め、天界へ戻る準備を始める。そして、その姿が透けて、下界から存在が無くなり始める。
「司くん」
片穂は涙を堪える。別れの言葉は、そんな顔で言いたくないから。
少女は微笑み、別れの言葉を告げようと口を開く。でも、『さよなら』は言わない。もう一度会えるという希望を絶対に失わないように。
「またね。またいつか、会える日まで」
その言葉と共に、二人の天使は目の前から姿を消した。




