第十二話「隻腕の剣士」
直視も躊躇われるほどに禍々しい闇が、灰色の天使から溢れていた。
上界の鮮やかな緑の中ではあまりにも不釣り合いなその姿を、天使と呼ぶことはできなかった。
夜空のように黒く染まった瞳に憎むべき敵を映すと、天羽片穂は艶麗な唇をわずかに開いた。
「殺してやる。司さんを、返せ」
「私は、刺した……だけ……? まだ……奪えて、ない…………?」
「――‼」
闇が怒りを視覚化させるかのように噴き出し、その奔流が片穂の周囲を竜巻のように渦巻いた。獲物を狙う蛇のようにアスタロトを睨みつけると、その渦の中に右腕をねじ込んだ。
「――【闇焔之剣】」
ゴァァァァ‼ と片穂の周りに渦巻いていた闇が片穂の右手に集まっていく。
そうして形作られたのは、彼女が今まで使ってきた剣とは真逆の、漆黒の剣。
生成された黒い刀身の表面に薄い霧のような闇がまとわりついており、剣の軌道が形となって現れるようになっていた。
その剣の切っ先をアスタロトに向けると、片穂は何も言わずに地を蹴った。
ガギィ‼︎ という金属のぶつかり合う音が上界に響き渡る。
片穂の剣を赤黒い鎌で防いだアスタロトは、真っ向から立ち向かうつもりはないようで、後ろへ下がりながらその剣を受け流す。
「消耗が、激しい……から、今は……退避…………?」
「逃がさない。絶対に殺してやる」
あまりにも冷たい声だった。
回避のみに全神経を注いでいるはずのアスタロトに一切の余裕を作らせない片穂は、異常な速さで剣を振り続ける。
既にアスタロトの息は上がっていた。勇との戦闘の後に、司と片穂の全力の一撃を受けたダメージはこの灰色の天使と戦うにはかなりの重荷だった。
目的は『大器』である佐種司の回収。それが出来ればこんな場所にいる必要はない。司を抱えて、再び雨谷朱理を媒体として外に出れれば満点なのだ。
ならば、ここは出し惜しみをする場面ではない。
「【闇血之黒刃】‼︎」
ギャギャギャ! と矮躯を覆う衣から夥しい数の武器が飛び出し、灰色の天使へと襲いかかる。
鎌が、棍が、扇が、飲み込むように灰色の天使を包み込み、めちゃくちゃにかき回す……はずだった。
「【闇焔之太刀】ッッ‼︎」
獣が獲物を食い散らかすような、そんな暴力的な一撃だった。回転しながら剣に宿した闇を斬撃として自分の中心に円形に放ち、それを何周もすることで四方から襲う武器の全てを薙ぎ払った。
あまりにも圧倒的な力に、アスタロトは反射的に後ろへ下がろうとするが、
「殺してやる……ッ‼︎」
じわじわと灰色に染まった翼の根元が、さらに濃い色へと変わっていく。体も同様にほんのわずかではあるが、黒い斑点模様が浮き出始めていた。
もう既に、体の三割近くが闇に侵食された片穂は、漆黒の剣を黒に穢れた手で握りしめる。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す‼︎‼︎‼︎」
左胸に向かって、片穂は容赦なく突きを放った。後ろへ下がっていたことでわずかに回避の時間を得ていたアスタロトは、体をわずかにずらして左肩でその剣を受け止める。
「あああああぁぁぁぁあああ‼︎」
傷を抉るように剣を回転させながら根元まで剣をアスタロトの左肩に突き刺すと、片穂は剣でアスタロトを拘束したまま左の拳を握る。
メキャ……! という折れるとも潰れるとも言えないような曖昧で不快な音が響く。
左拳でアスタロトの腹部を殴ると同時に剣を引き抜いたことで、アスタロトは真っ直ぐに吹き飛ばされる。障害物のない上界が故に、その姿が小さく見えてしまうほどにまでアスタロトは飛ばされた。
「力が……暴走して、る……? これは、『大器』を……無視して、逃げる……べき…………?」
鮮血が溢れる左肩を苦しそうに抑えながら、アスタロトは呟いた。片穂によって吹き飛ばされたために、佐種司はかなり遠くにいる。あの半端者の天使の攻撃をかいくぐりながら佐種司を回収し、下界へ戻るのは無謀すぎる。
別に機会は今回だけではないのだから、今は逃げて態勢を立て直すべきだ。
それに、とアスタロトは独り言を呟く。
「ここで私が死んだ、ら……『深淵の牢』の鍵が、こいつらに……奪われる……? それだけ、はいけ……ない……」
苦痛に顔を歪ませながらも、アスタロトは立ち上がり、逃げることだけに全身全霊を懸けることを決意し、遠く正面にいる灰色の天使を見つめた。
だが、そんな決意を揺らがせるような闇が、その視界に映った。
「これ、は…………なに……⁉︎」
気の抜けるような口調のアスタロトすら、本能的に声を上げてしまうような闇。
その闇を使うのは、言うまでもなく。
「…………殺す。殺して殺して、殺してやる」
遠くに立っているはずの灰色の天使の口から放たれたその言葉は、不思議なほど自然にアスタロトの鼓膜を震わせた。
灰色の天使は強く強く、漆黒の剣を握りしめる。
彼女の全身から、闇が溢れ出ていた。
天羽片穂を中心にして、闇によって生成された巨大な竜巻が渦巻き、それが灰色の天使へと凝縮されていく。
つい先ほど同じ強大な力によって大ダメージを受けたアスタロトは、本能的に死を感じていた。
剣など届くはずもない距離でその闇を振り上げた片穂は、おもむろに口を開く。
そして、
「…………【闇焔之大――」
「やめておけ。お前にその闇は深すぎる」
振り上げたその手が、何者かによって止められた。
腕を掴まれて始めてその存在に気づいた片穂は、鋭い目つきでその存在を睨みつける。
「……あなた、は…………⁉︎」
真っ黒に濁った双眸が、大きく見開かれた。
戸惑いを隠せない片穂とは対照的に、腕を掴む誰かは落ち着いた表情で、
「見たところ半分以上飲まれてはいるが、まだ完全に堕天使にはなってないみたいだな。これなら天使には戻せるだろうが……まったく、勇の野郎は何してんだ」
そんな文句を垂れる誰かを見つめる片穂は、完全に言葉を失っていた。
ぐちゃぐちゃに乱れていたはずのその感情すら、一時的に忘れてしまうほどの衝撃が、片穂を襲っていたからだ。
傷だらけの勇を、瀕死の司と雨谷を、放心中の真穂を、そして闇に飲まれる片穂をそれぞれ観ると、その誰かは大きなため息を吐いた。
「散々な状況のようだが、まあ、これで形勢逆転ってところだな、アスタロト」
その誰かは右手に握る細い刀身を持つ漆黒の剣をアスタロトへ向けた。
対して、アスタロトも片穂と同様に困惑の表情を……いや、その困惑を上書きするほどに膨大な怒りをその顔に浮かべ、血が流れる左肩を強く握りしめた。
「どう、して……! お前が、ここに……てんいる……ッ‼︎」
そんな圧力のこもった言葉を受けてもなお、その誰かは表情を変えなかった。
アスタロトは、その存在を強く睨みつける。
全身を覆うのは周りの光すらも飲み込んでしまいそうな、隣にいる灰色の天使が霞んで見えるほどの漆黒の衣。
背中には烏よりも美しい黒の翼を持っており、スーツでも着たら似合うのではないかと思うような上手に歳を重ねた落ち着きのある顔立ちはきっとこの場でなかったら女性から好意を抱かれることも少なくはないだろう。
だが、それらよりも視線が向いてしまうのは彼の左肩だろう。
衣の左袖が、空洞となって風に吹かれているところを見ると、隻腕であることは明らかだった。
そして、だ。
そんな存在を、片穂もアスタロトも知っているのだ。これらの条件が当てはまる存在は、天界にも魔界にも、上界にも下界にも、どの世界を探しても一人しかいない。
「なんの、つもり……! アザゼル……ッ‼︎」
敵の立場として剣を向ける同胞に対して、アスタロトは怒りをあらわにした。
だが、堕天使アザゼルは涼しい顔のまま、
「なぜか、だと? 俺は今も昔も、ずっと同じ目的に向かって行動してるよ。……一〇年前からな」
「な、にを……」
隻腕の剣士は漆黒の翼を広げて大きく開き、まっすぐにアスタロトを見つめる。
そして、彼は言う。
堕天使が目指す、その目的地を。
「俺の目的はずっと変わらない。佐種美佳を救うこと。ただそれだけだ」




