第十話「三色血の刃」
「下がっていろ。司、真穂。片穂ちゃんもだ」
黒い瘴気をまとい、力なく倒れる雨谷朱理の上に浮かぶ悪魔へと勇は歩み寄っていく。
右肩を軽くもみながら首を回し、対する相手が悪魔であることに一切動じていない、
今まで様々な敵と戦い続けてきたからだろうか。歴戦の戦士、という言葉がよく似合う後ろ姿だった。
それに続こうとした司へ、振り返らずに勇は言う。
「お前は片穂ちゃんと真穂を守れ。あの悪魔は俺がやる」
「で、でも。一人で悪魔となんて」
「勝てるか勝てないかなんて関係ない。何度も言ってるだろう。俺はお前たちを守るって決めてるんだ」
なんという迫力なんだろう。
その方法に納得はできなかったけれど、その決意と覚悟は本物だ。
「……死なないでくれよ」
「当たり前だ。美佳を助けて、お前たちを守り切るまで俺は絶対に死なない」
そういって、勇はアスラロトと相対する。
「……あなたは、邪魔…………?」
「うるせえ。ここは悪魔が遊ぶための場所じゃねぇんだ。さっさと消えな」
「私は……『大器』を…………回収、しにきた……だけ」
浮いていたアストロトが、少しだけ前に進んで草原へと足を下ろす。大きな布を雑に切ってローブにしたような黒い衣をまとい、上界の鮮やかな緑をした草を褐色の肌を覗かせる素足で踏みつけた。
まるで迷子の子供が行く当てもなく歩くような足取りで、アスタロトは歩き出すが、
「さっさと消えなって、言ったんだ」
ドァア‼ という鈍い破裂音が直後に響いた。
一瞬の出来事だった。進む瞬間に蹴りだした右の足首から先のみを天使化させ、その勢いを一瞬だけ天使化させた右の拳に乗せて打ち込む。
もしその拳を打ち込む相手が司だったのなら、それだけで決着はついていたのだろう。それほどまでに力強く精密な攻撃だった。
が、しかし。
「回収しにきただけ…………私は、そう……言った…………?」
雨谷朱理が戦闘時に使用していた漆黒の鎌と同じものを顕現させたアスタロトは、その柄の部分で勇の拳を受け止めていた。
だが、勇の顔に動揺はない。瞬く間に次の打撃がアスタロトに襲い掛かる。
攻撃の度に勇の体の至る場所が白く光り、必要最低限の天使の力のみでアスタロトへ攻撃をする。
だがさすが悪魔というべきか。後ろに下がりながら回避をしているため、優勢ではないものの一度も勇の拳がアスタロトの体に当たらない。
と、そんな攻防の中でアスタロトの表情が変化した。
「――【翠血棍】」
トプン、と大きな水滴が水面に落ちるような音が響いた。
直後、アスタロトの余っていた袖の中から緑の混じった黒く細長い棍棒が飛び出した。
あまりに唐突な武器の出現に、勇は強引に体を捻って対応する。そのため攻撃の手が一瞬だけ止んだ。そして、その数瞬の中でアスタロトが蕩けたような笑みを浮かべた。
「朱と翠。混じり変わるは黄色の血」
ザンッ‼ という空気を裂く音とともに、勇の頬の真横にあった棍棒からいくつもの鎌のような刃が飛び出した。
例えるなら、凶暴性の増した釘バットに近いだろうか。しかし、飛び出た鎌は五〇センチは確実にある。
顔の真横からそんな攻撃が襲うということは、これを回避しなければ最悪、首を切り落とされてしまう。
少し苦しそうな顔をして、勇は口を開いた。
「――【光焔之剣】‼」
勇と鎌の付いた棍棒の間に入り込むように、白光をまとう黄金の剣が顕現した。
だが、体を天使化させていないため、首への刃を防いだだけで肩や腕の数か所に切り傷が生まれる。
すぐに回避に移り距離を取る勇。
睨みつける勇に対して、アスタロトは恍惚とした顔で棍棒から出た刃についた勇の血を人差し指でふき取り、それを見つめていた。
「……あかい、血…………」
そう呟き、アスタロトは指についた血を妖しく舐めとった。
頬が紅潮していることが、司からも分かるほどだった。
「……ん。やっぱり、佐種……家? 悪魔への適性が、高いから…………おいし……」
不気味だった。ただひたすらに不気味でおぞましかった。
アスモデウスと相対したときも気味の悪さは感じたが、それとはまったく別のベクトルの気持ち悪さ。
何を考えているのかが一切分からないという感覚が、決してあの悪魔には同情できないだろうという確信が、ここまで吐き気を呼ぶものだとは。
「おい! 大丈夫か!」
「ああ。軽く切っただけだ。問題ない」
それだけ言って再び拳を構える勇だが、あれだけの力があるのなら天使化をして一気に畳みかけるべきなのではないのか。
さきほどだって天使化して光焔之剣を使えば怪我すらしなかったはずだ。
だが、そんなことを考えていても何も始まらない。
今は、自分に出来ることを考えるべきだ。
「片穂、天使化だ。加勢しよう」
「は、はい!」
いつまでもあのバカ父が一人で戦い続けるのを見続けるわけにはいかない。
何かをするにしても、片穂と真穂を守るということなら天使化は間違った選択ではないはずだ。
司は片穂の手を握り、その体を天使のそれへと変えていく。
今やるべきは、真穂の安全の確保と倒れた朱理の救助だ。
アスタロトは勇が引き付けてくれているし、こちらへと攻撃を向ける余裕もないはずだ。
「よし、じゃあ俺は雨谷さんのところへ行くから、真穂はここで……」
言いながら振りかえって、思わず司は言葉を止めてしまった。
真穂が、後ろにいなかった。
慌てて司は周囲を見渡して真穂の位置を確認する。きっと、真穂が向かう場所は一つだけだ。
司はそっとその場所へと視線を移す。正しかった。
拳を握る真穂が、アスタロトのすぐ後ろにいた。
そして、真穂が攻撃をする直前に勇はその存在に気づき、少しの動揺を顔に浮かべた。
その父親としての素直な心配が、アスタロトにとっては自分の後方にいる敵を知る間違いのない指針となった。
「ラァ‼‼」
真穂の拳から放たれたのは、ただのパンチだ。
しかし、つい先ほどに勇が解説したように、あのパンチは真穂の中に存在する膨大な量の力を打撃を繰り出した方向に放出するものだ。例えるなら、拳からバズーカが放たれるような、そんな型破りな打撃。
しかし、
「――【蒼血扇】」
ゴポポ、という水が湧き出す音とともにアスタロトの右手に青色の混じった鉄扇が現れた。そのままアスタロトはその扇を持ったまま言葉を紡ぐ。
「蒼と翠。混じり変わるは藍緑の血」
瞬間、扇の要から勇の頬をかすめた棍棒が伸び、その先端についていた扇からさらに何枚もの扇が出現し、それは棍棒を柄にした傘のような形となった。
そして、真穂の放った打撃による衝撃を、雷雨から身を護るように扇の傘で防ぐ。
ゴォッ‼ という凄まじい轟音が響くが、その力は全て傘によってアスタロトの周辺の地面へと流された。
その衝撃で勇の足場が崩れ、追撃も叶わない。
扇の傘の中から覗くように、アスタロトは真穂を見つめる。
「……あなたは…………佐種家……? ただの、人間じゃ……ない……?」
「当たり前でしょ! 私はお兄ちゃんの妹なんだから!」
凝りもせずに、真穂は何度も拳をアスタロトへと放つ。しかし、扇の傘によって真穂の攻撃は防がれた。
そんな連続した打撃が繰り返されるが、真穂は格闘技に関しては素人だ。当然、その打撃には隙が生まれる。
そんな隙に滑り込ませるように、アスタロトは腕を振ってピンポン玉くらいの大きさをした黒い液体にも見える球体を袖の中から真穂の懐へと飛ばされた。
「――【闇血】」
直後だった。黒い球体が一瞬のうちにそれは形を変え、今までアスタロトが使っていた武器たちが濁流のように溢れる。
鎌、棍棒、扇。さらにはそれら全てが混ざった一言で表せない異様な形の武器。まるで悪夢でも現れそうなぐちゃぐちゃな物体が真穂の懐で爆発する。
どれだけ真穂に力があるといっても、彼女は生身で、さらに戦いの素人だ。
あの弾ける武器のどれか一つでも真穂の体を突き抜けてしまえば、命が危ない。
「真穂ッ‼」
白銀の翼が、アスタロトの目の前を高速で通過した。
司の天使化という判断は間違っていなかった。
天使化によるスピードがなければ、きっと間に合わなかっただろう。
だが、それでも。
「ぐぅうう……ッ‼」
司の右わき腹に、鎌の刃が突き刺さっていた。
真穂は司に抱きかかえられながら、痛々しく突き刺さるそれを見つめる。
間違いなく重傷だ。目の前で激痛に司が顔を歪めるのが何よりの証拠だ。
それなのに。
「……大丈夫か、真穂」
一番最初に口を開いて言った言葉が、それだった。
この兄は、自分の怪我なんて差し置いて妹にそう問いかけたのだ。
守られた。何一つとして自分に及ばなかったはずの兄に。
兄に出来ることは全て兄以上に出来た。
ダメダメな兄には、自分がいなければならないと思っていた。
それ、なのに。
「ここで待っててくれ、真穂。俺が、俺たちが守るから」
真穂を下ろした司は、笑ってそう言ったのだ。
姿は見えないが、片穂の『任せてください!』という声も心に響いてきた。
白銀の翼を背負い、白く輝く天使の姿をした、自分の兄。
きっと、司も片穂も人の姿だったら、今まで通り情けない二人なのだろう。
しかし、この二人がこうして一緒になった瞬間、不完全ではなくなるのだ。
欠けたピースが、一切のズレなく収まるような、そんな。
「……そっか」
きっとこれが。自分にはなく、司にだけはある強さなのだ。
いや、司と片穂の二人だからこそ、強いのだ。
「――【光焔之剣】」
左手で先ほどの力でわき腹に刺さった鎌の刃を引き抜きながら、司はその右手に黄金の剣を握る。
通常、体に刺さった刃物を引き抜くのは悪手とされるが、天使の体である司の場合には関係ない。
引き抜いた直後から、司の傷が癒えていく。天使化による高速自然治癒。天使の力は消費するが、片穂の莫大な力の総量を考えればそこまで気にすることはない。
「行くよ、片穂」
『はい、司さん』
アスタロトと勇は、未だに交戦していた。そして、やはり先ほどと同じように劣勢。蓄えた分のみしか力を所持していない勇にとって、持久戦は最も嫌うはずだ。
まずは状況を立て直さなくては。
「バカ親父! 一旦距離を取れ!」
翼で空気を叩くようにして勢いをつけた司は、アスタロトへ剣を振ろおろしながらそう叫んだ。まっすぐのひねりのない攻撃のため、アスタロトの棍棒によって剣は防がれたが、それでも勇が下がるには十分だった。
「司、お前……」
「いいか、クソ親父。一分間でいいから時間を稼いでくれ」
「……俺が一人でやる」
「うるせぇ! とりあえずはあの悪魔を撤退させれるぐらいのダメージを負わせればいいんだろ!? あいつの狙いはサタンの器だ。刺し違えても俺たちを殺すことじゃない。ならある程度の怪我で引き下がるはずだ」
「……、」
きっと、彼の中で様々な思考が巡っているのだろう。
司と真穂を守るためだけに生きてきた一〇年間。それなのに、司を戦いへと参加させてしまっていいのだろうか、と。
でも、これだけは言わなければならない。
司は、口を開いた。
「俺にも、守りたいものがあるんだ。一緒に、守らせてくれ」
なんとなく、勇の顔に笑みが浮かんでいるように見えた。
「……一分で俺があいつをぶっ倒してやる。それでダメなら後は任せた」
「倒せなかったら格好悪いからそういうこと言うんじゃねえよ、父さん」
その言葉を聞いて、勇はアスタロトへ向かって地を蹴り、勢いよくその前へ出た。
アスタロトは、回収対象ではない勇に対しては一切のためらいなく三種、いや、それらを組み合わせた多種多様な武器を振りかざしていた。
だが、それでも勇は止まらない。
「息子に格好いいところを見せなくちゃいけないんだ。すぐに終わらせるぞ」
直後、勇の天使化が始まった。
司と真穂が戦ったときにも一瞬しか見せなかった天使化を、躊躇なく勇はアスタロトへとぶつける。
さきほどの劣勢が嘘のように押していた。滝のような武器の奔流を、勇は弾いて反撃をしていく。
彼の名に恥じないその勇ましい姿に、司は目を奪われていたが、すぐに我に返って司は自分の中にいる片穂に話しかける。
『片穂。一緒に力を練ろう。今なら二人で力を練れるから二分もかからないはずだ』
『は、はい! ……だから一分って言ったんですね』
『ああ。俺だって父さんに負けてられないからな』
『はい、分かりました。では、行きましょう』
片穂の言葉が終わると同時に、司は目を閉じて片穂の力に集中する。
力を練るとは、司の中に存在する器に本来なら入りきらない力を圧縮して詰め込むことだ。あの父親に習ったことだ。きっと、出来るはずだ。
三〇秒。
勇はまだアスタロトと互角以上の戦いをしている。だが、それも長くは持たないはずだ。焦らずに、冷静に急ぐ。
自分でも力を練っているからだろうか、自分の中にずっしりと重いものが溜まる感覚があった。不快ではない。むしろ、温かいとまで感じるような。
「……できた」
所要時間七〇秒。宣言通りとはいかなかったが、及第点。
司は視線を父親へと向ける。
「父さん、下がれ!」
返事はなく、大きく横なぎに剣を振ってアスタロトの攻撃を弾いた勇はすぐに後ろへと飛んで司の背後まで下がる。
自分の横を勇が通り過ぎた瞬間、司は口を開いた。
「――【光焔之大剣】ッ‼」
ゴァァァアア‼ と、強敵アザゼルの腕を落とした司の身長の百倍近くはある超弩級の大剣がアスタロトの正面に顕現した。
「…………これが……『大器』……‼」
太陽のように輝く大剣を見上げながら、アスタロトは頬に汗が流れるのを感じた。
当然、この規模の大きさで回避などしても意味がない。やれるのは、出来る限りの攻撃で少しでも相殺を。
「朱、蒼、翠。混じり変わるは光の血。されど我が名は悪魔アスタロト。光は転じて闇へと変わり、その全てを漆黒に沈める‼ 【闇血之黒刃】‼」
ゴポポポポッ! という水の沸騰するような音とともに、アスタロトを覆う衣のあらゆる隙間から漆黒の刃が濁流のようにあふれ出した。
そして、それら全てが一つとなるように集合していき、歪な形をした剣のような何かへと変形した。だが、黄金に輝く大剣に対すると歪な黒い剣なんて雀の涙だ。
「……私は、アザゼルみたいには…………いかない……」
直後、光がアスタロトを呑み込んだ。
莫大な力を叩きつけられた上界の地面が揺れ、真穂は少しふらつきながら空気に溶けていく大剣を見つめていた。
徐々に、その光が薄れていく。
そして、そこに残っているのは、黒い血に染まり、その場で倒れる悪魔の姿。
「……勝った、のか」
地面に足を下ろした司は、長いため息を吐いた。
天使化しているにもかかわらず、異常な疲労感が体を襲っていた。
当然だろう。【光焔之大剣】は片穂の持つ膨大な力のほぼ全てを圧縮して一度に放出する、一撃必殺の攻撃。もう間もなく、天使化も解除されるはずだ。
「お疲れ様です、司さん」
司の体から溢れた光から人間へとその姿を戻した片穂が、労うように司に笑いかけた。
「ああ。今度は倒れることもなさそうだ。俺も少しは強くなったのかな」
そう言って笑いながら、司はゆっくりと歩き始めた。
行き先は、アスタロトではなく、アスタロトに利用されてしまった少女のもとだ。
未だに、力なく雨谷朱理はその場に倒れていた。
息があるのを確認した司は、朱理の首に手を回してそっと彼女の体を起こす。
「つかさ、さま……」
外傷はないものの、悪魔を顕現させるための媒体となったことの負担は大きいのだろう。今もなお憔悴しきった虚ろな瞳で司を見つめていた。
「大丈夫か、雨谷さん。でも大丈夫だ、アスタロトは倒したから」
「…………て」
力のない小さな声が朱理の口からこぼれたが、聞き取れなかった司は耳を近づける。
「……にげ、て…………アスタ、ロトは……まだ……」
その言葉を理解するよりも前に、状況は変化した。
朱理の胸元辺りにわずかに黒いもやのようなものが見えた。
彼女の体から滲むように溢れたそれは、野球ボールほどの大きさとなって、
「……【朱血鎌】」
倒れている悪魔の口からこぼれたその言葉は、誰にも届いていなかった。
が、しかし。
その効果だけは、正常に作用していた。
「……ぇ?」
雨谷朱理の胸から出現した赤黒い鎌の刃は、司の体の中心を音もなく貫いた。




