第九話「一〇年という月日」
とてもとても、穏やかな声だった。
買い物に行くからと子どもに留守番でも頼むかのような。
そんな。そんな声で、この男は。
世界を救うまでここにいろと、そう言ったのだ。
「何を言ってんだ……?」
「ん? 何か変なことを言ったか? 親が子供を守るのは当たり前だろ?」
気が付いたときには、もうすでに司は勇の胸倉をつかんでいた。
「ふざけんなッ‼ 一〇年も俺たちをほったらかしにしておいて、今更守ってやるから引っ込んでろだと!? そんなふざけたことが通ると思ってんのか!?」
「だから、その一〇年はお前たちを守るための準備期間だ。実際にこうやって二人ともここにいるだろ?」
「自分勝手に話を進めて、俺たちの都合を何一つ考えないで、それでどうしてあんたはそんな父親面できるんだよ!?」
司は七歳、真穂は五歳のときに二人の両親は、佐種美佳と佐種勇は魔王との決戦ののちに姿を消した。
親からの愛を受けずに育った時間の方が長かった。
自分たちを残して去っていった親たちが、もう帰ってくることはないのだろうと思ったのはいつだっただろうか。
父や母がいなくとも私がいるから大丈夫だと胸を張ってくれた真穂の気持ちは。寂しいと決して言わずに笑ってくれた真穂の一〇年間を、この男は。
「もう俺はあんたたちに頼らずに生きていく覚悟だって決めてるんだよ! 俺は俺の力で母さんを助け出して、片穂と二人で悪魔たちを倒すって。片穂を死んでも守るんだって決めたんだよ‼」
「……そうか」
肉親の言葉を受けたとは思えないほどに殺風景で、味気のない無表情で、勇は呟いた。
「頑固なところは、父さんそっくりだ」
「――ッ‼‼」
司は掴んでいた勇の胸倉を突き放すように離し、気味悪さから逃げるように距離をとった。
そして、外敵を前にした獣のような、敵意をむき出しにした顔で、司は言う。
「ここから出る方法は、あんたが作った入り口を使うしかないんだよな」
「ああ。そうだ」
「だったら、ぶん殴ってでも無理矢理ここから出てやるよ」
司が勇へと距離を詰めようとすると、心配そうな片穂が隣から、
「司、さん……?」
「ごめん、片穂。これは俺とこいつとの話なんだ。今は口を出さないでくれ」
「で、でもっ」
「いいからッ!」
声で片穂を制すると、自分の父親を敵に対するかのように鋭く睨み、司は歩み寄る。
と、後ろから耳慣れた声が聞こえた。
「ねえ、お兄ちゃん。これ、どういうこと?」
勇に特訓内容を伝えられ、司たちから離れていた真穂がこちらへと戻ってきた。
しかし、この緊迫した雰囲気を感じ取ったからか、真穂は一切気を抜かずに二人を見つめる。
「こっちの話だよ。真穂には関係ない」
「うっさい。早く話して」
「わかったよ。じゃあ俺が出した課題を終わらせたら話すから。ほら、行っておいで」
「それならもう終わった」
初めて、勇の表情に変化があった。
その視線の先が、真穂の後方にあるはずの大樹へと移る。次いで、追うように司もその視線を大樹へ向ける。
「…………凄い」
思わずそんな言葉が、司の口から漏れた。
それも思えば当たり前だろう。なにせ、真穂が天使や悪魔の存在を知ったのは今日なのだ。そして、自分の力を使ったのは遊園地でのアスモデウスとの戦いだけ。
それだけなのに、自分の意思で力を使いこなし始めているのだ。簡単に信じることは難しい。しかし、信じるしかない。
こんな、根元から綺麗に折れている大樹を見てしまったのなら。
「さすが母さんの力を受け継いだだけあるな。お父さんは誇らしいぞ」
大樹の大きさは直径三〇メートルは優に超えているだろう。それを数分で折ったにも関わらず、勇が驚いたのは最初の数瞬だけだった。
成長スピードが想定外だっただけで、これぐらいはやってのけると最初から知っていたのだろうか。
しかし、真穂は一切喜んだような顔はしなかった。
「お世辞はいいから、早く話して」
「…………、」
機械のように冷たい表情。
親としての温かさなど、感じられなかった。
それなのに、急に笑顔を作って勇は言う。
「いやぁ。お前たちが心配だから全てが終わるまでここで待っててくれって頼んだだけだよ。それなのに司が怒るもんだからさ。お父さん困っちゃったなぁ」
力の抜けるような声で、勇は言った。
あからさまに困惑しているような顔で頭をかく姿は、あまりにもわざとらしかった。
腹が立つというよりも、気味が悪いと司は背筋に寒気を感じて思わず体を震わせた。
しかし、それに正面から相対する真穂は表情を少しも変えずに自分の父親を見つめる。
「お兄ちゃん。お父さんが扉を作る以外に、ここから出る方法はないんだよね」
「ああ。そうみたいだ」
「なら、やるしかないね」
覚悟を決めたのか、真穂も足を進めて司の横に並んだ。そして、自分に抗おうとする二人の子どもを前にして、父親は大きなため息を吐いた。
「乱暴なことはしたくなかったんだが、これはもうやるしかないみたいだな」
滑らかな挙動で、勇はヨレヨレのワイシャツの襟元をなんとか締めていたネクタイを解いた。
そして、腕まくりをして両の袖を肘まであげると、勇は脱力して立ったまま、
「二人まとめてこい。俺に勝ったらここから出してやる」
「……上等!」
相手が父親であろうが関係ない。
司は拳を握りしめて全力で右腕を振ろうと正面から突っ込んだが、それでも勇は動かずに、ついには失望をその顔に浮かべた。
「もしかしてお前、人間のままで父さんに勝とうとしてるのか?」
一瞬だけ、白い光が司の視界の隅に映った。
そう思った時には、もう目の前に父親の姿はいなかった。
慌てて視線を動かすと、身をかがめた勇が司の懐に入っていた。
「なッ――!?」
ドスッ、と鈍い音が司の腹部から全身へと響いた。次いで、鈍痛が司の思考をすべて奪い去る。
激しい吐き気と、乱れた呼吸に苦しむ司は、膝から崩れるように上界の草原に倒れる。
理解が出来なかった。あれは明らかに、人間の速さではない。
「この馬鹿アニキ! 天使の力に決まってるでしょ!」
特攻に失敗した兄に続くように、真穂が勇との距離を瞬時に潰す。
流れるように体を捻ると、大樹を折ったときの感覚を思い出しながら拳を握る。
「とにかく全力で殴って少しでもかすれば、私の勝ちでしょ?!」
「間違ってはいないな。まあ、四〇点ってところか」
大きな挙動で振られた拳を容易に避けると、勇は真穂の足にひっかけるように自分の足を出した。
大体に踏み出していた真穂は、そんな簡単な小細工すらも避けることが出来ず、その場に腹から倒れた。
と、直地の瞬間に勇にぶつかるはずだった力が大地へと衝突し、直線五〇メートルにもわたって地面が抉れ、耕したばかりの畑のようにひっくり返る。
あの規模の攻撃をものにしている真穂も凄いが、それをあそこまで簡単に処理する勇の強さは本物だ。
司は深呼吸をして痛みに耐えて立ち上がると、右手を前に突き出す。
「【光焔之剣】」
白光が司の手の周囲に集まり、凝縮し、剣として上界に顕現した。
片穂の力を体に蓄積する訓練のおかげだろうか。以前に朱理と戦った時よりも剣の感覚がはっきりあるし、耐久力も段違いな気がする。
しかし、勇は冷めた表情のままだった。
「……0点だ」
倒れた真穂が体を上げる前に、勇は司へと再び一瞬で距離を詰める。
先ほどの経験からそれを予測していた司は、勇の姿が視界から消えた瞬間に剣を振り下ろしていた。
しかし、その剣はただ空を斬っただけだった。
「何度も言わせないでくれ」
司が剣を振ったすぐ横で、ただ立っているだけの勇は言った。
「お前は、人のまま父さんに勝とうとしてるのか?」
「だからこうやって剣を出して戦ってるんだろうが!」
縦に振った剣を、勇の腰を狙って司は横に振った。
だが、勇の顔に危機感はない。
ただ一つ。ため息がこぼれていた。
「これじゃあなおさら、お前を外に出すわけにいかなくなったな」
勇は、司の剣を避けることはしなかった。
避けずに、未だにそこに立っていた。
しかし、司は確実に剣を振ったはずだ。彼を上下に両断してもいいという気持ちで。
それなのに、勇に傷は一つもない。
理由は単純だった。
「受け、止めた……?」
黄金に輝く天使の剣が、ただの人間であるはずの男に片手一本で止められていた。
その光景をみた片穂が、驚いたように目を見開く。
「まさか、指先だけ天使化を……!?」
「お、片穂ちゃんは優秀だなぁ。さすがはミカエルの弟子ってところか?」
行っている行為とは対照的に、軽い言葉を発する勇。
未だに勇が受け止めている剣に力を入れ続ける司が、片穂の言葉を聞いて自分の父親の指先に視線を移す。
その指先、司のよく知る白い光が覆っているのが確認できた。
それはさきほど、勇が移動するときや司の腹に打撃を入れた刹那に見えた光だ。
勇の指だけにその光があり、その指だけで剣を受け止めているということは、片穂の言う通りなのだろう。
つまり、指だけを普段司が行ってきた天使化させ、剣を止めた。
しかし、そんなことが――
「長い長い、一〇年間だったよ」
たったそれだけの言葉の中に、答えはあった。
目の前にいる父親の言葉に、おそらく嘘はほとんどない。
全ては自分の子供たちを守るため。子供たちを守って、最愛の妻を救うための一〇年間。
その歳月と、司は対峙しているのだ。
「だったら、なに」
勇の足につまづいて転んだ真穂が、静かに立ち上がった。
握る拳に力が入りすぎているのか、腕から肩までが小刻みに震えていた。
「あんたがどれだけこの一〇年の間に努力したのかなんてどうでもいい。私たちを置き去りにした事実を、正しかったなんて絶対に言わせない」
真穂の言う通りだ。
あの一〇年間を、絶対に肯定してたまるか。
司は勇が止めていた剣を自分の元へ引き付けて勇から少しだけ距離をとると、真穂と横並びになり、力強く立つ。
「行くぞ、真穂」
「うん」
今度は二人同時に、地を蹴った。
おそらく、移動のときに勇からわずかに光が見えるのは、動く瞬間だけ足かどこかを天使化させているのだろう。
だが、あそこまで器用に力を制御するのは今の司には不可能だ。
ならば、どうするか。
思考を巡らせようと少しだけ動きに遅れが出た司と、迷いなく正面から先ほどと同じく拳を振る真穂。
やはり、大振りとはいえ、当たりさえすれば一撃必殺の拳だ。
力の総量が多い分、ゴリ押しも戦略の一つだろう。
が、しかし。
「真穂の攻撃はな、お前の体の中に蓄積された力を腕を振った方向に放出してるだけなんだ。だから――」
勇は無駄のない重心移動で真穂の右に避けると、振られた拳を右手で弾いて向きを変えた。
ゴアァ‼ と、真穂の振った拳の延長線が花火のように弾けた。
だが、肝心の勇にはかすることすらしなかった。
それでもあきらめず、真穂は何度も拳を振る。
爆音が響くが、それでも勇に傷がつくことはない。
と、ここで真穂の攻撃が変化する。
「これなら――ッ‼」
拳の打撃と絡めるように、鋭い蹴りが勇を襲う。
打撃とは違い、一点からビームのように力が放出されず、蹴りの軌道に合わせて弓のような形をした力が放出された。
しかし、それでも勇は体の必要な部位だけを天使化させ、蹴りの延長から華麗に避ける。
だが、ここで司の頭が違和感を感じ取る。
あれだけ大振りの打撃や蹴りを繰り出して何度も隙が生まれているはずなのに、勇は一切反撃をしていないのだ。そういえば司への攻撃も、最初の腹への一撃だけだった。
「綱渡りな戦法なら、俺の得意分野ってな」
司は戦う真穂を見つめ、機会を伺う。
と、不意に真穂と目が合った。司はその一瞬でアイコンタクトをする。
伝わったかは分からないが、なんとなくやってほしいことは伝わったはずだ。
「おりゃあぁああ‼」
今までの中でも、もっとも大振りな打撃が真穂から繰り出された。
これだ。
司は剣を握る力を強め、ふっ、と小さく息を吐く。
感覚はいつもと同じはずだ。自分の体の奥に眠る何かを奮い立たせるような感覚。
「らぁぁあああ‼」
父親のように細かな力の調節は出来ない。
でも、全身を天使化させることなら出来るはずだ。
だからこそ、司は持てる力を出し惜しみなく使い、白銀の翼を背中に生やして全力で勇に向かって斬りかかった。
そして、剣撃の延長にいるのは勇だけではない。
「これ、は……ッ!?」
はたから見れば、単なる挟み撃ちだっただろう。
しかし、片や一撃必殺の拳。片や全身全霊の剣撃。
子どもたちを守るという行為が彼の本質であるのなら、避けた時点で片方が大怪我をする可能性を、彼は簡単にさばけないだろう。
これなら、きっと――
「――【光焔之剣】」
耳慣れた単語が、勇の口からこぼれた。
それと同時に、金属がぶつかる甲高い音が司の耳に響いた。
さらに続くように、勇の体から広い光が溢れだす。
白銀に煌めく翼が、大空へ羽ばたく鷹のように波打った。
その体を完全に天使へと変貌させた勇は、全力で殴りかかる真穂の拳の軌道を強引に下へ向けさせ、地面へとその力を流す。
三人の立つ大地が、クレーターのように大きな半球型に抉られる。
足場が悪くなったところで、司や真穂は追撃を試みるが、全身を天使化させた勇のハヤブサのような俊敏な動きの前ではその攻撃の全てが回避された。
「ちくしょう……ッ!」
埒が明かないと思った司は、真穂を抱えて打撃で生み出されたクレーターから逃げるように翼を羽ばたかせる。
クレーターの中心に立つ勇は、もうすでに天使化を解除しており、くたびれたスーツ姿に戻っていた。
「細かな力の調節が出来ないから捨て身の全力攻撃、か」
小さな声で呟くと、勇は視線を上げる。
自分の子供たちが、軽蔑するような目でこちらを見下ろしていた。
「まったく。嫌われちまったもんだ」
そんなふうにため息を吐く父親を見ながら、司は天使化を解除して真穂を地面に下ろす。
「ごめんな、真穂。怪我ないか?」
「私は大丈夫。……それより、戦いに参加してない二人は大丈夫なの?」
「――そうだ。片穂と雨谷さんは……!?」
湧き出るような焦燥に駆られ、司は必死に二人の姿を探す。
数秒で、その姿は確認できた。
しかし、何かがおかしい。
「どうした、二人とも!」
司が慌てて駆け寄ると、二人の様子がはっきりとわかった。
二人とも、先の戦いの被害を受けている様子はない。しかし、それとは別の原因であろうが、朱理が頭を抱えて膝をついていた。
激しい頭痛に襲われているのか、地鳴りのようなうめき声が朱理の口から溢れていた。
「司さん! 雨谷さんが急に倒れて、頭が痛いみたいで……!」
「おい! 大丈夫か!? くそ、導華さんがいれば……!」
司が悔しそうに声を発している間も、朱理は体を震わせて痛みに耐えていた。
「あ、ぁあぁあ……! あぁあああぁああああああ‼‼‼」
そして、変化が訪れた。
叫ぶ朱理の体から、黒い瘴気があふれ出した。
これは、司がかつて見た、彼女の持つ力。
「これって、悪魔の……?」
と、突然、勇の顔色が変わった。
全力で司たちの元へ来ると、全員に対して声を上げる。
「みんな離れろッ‼」
声だけでは足りないと思ったのか、強引に朱理から三人を引きはがして距離をとる勇。
断末魔のような声を張り上げている朱理を、濃くなった闇がさらに集まっていく。
その様子を見ながら、怒りの滲む声で勇は静かに言う。
「やはり、あの子は連れてくるべきではなかったか……‼」
取り返しのつかない後悔を孕んだ声。
そんな声に対する返事が、闇の中から響いた。
「…………不意打ち……失敗…………??」
途切れ途切れで、細い糸のようなか弱い声。
闇の中から聞こえる、聞き覚えの無い声。
そんな声の源泉を形作るように、闇が凝縮を始めた。
徐々に、それは人のような形になっていく。
「……こんな、ところに…………隠れて……たんだ」
穏やかな海の波のような、ゆったりとした速さで、みなの苛立ちすらも湧き出させるような、愉快にも不快にも感じる奇怪な声だった。
その声の持ち主が、人の形となってこの上界に姿を現していく。
背丈や顔立ちはどこから見ても小学生にしか見えなかった。そして、褐色の肌と、それよりもずっと暗い、漆黒の衣をまとっていた。
しかし服のサイズが合っていないのか、袖が腕の半分ほど残っており、何も考えずに見ると腕の関節が二つあるのではないのかと思ってしまうような見た目だった。
そんな褐色の幼女は、クリクリとした丸い目をこちらへと向けて、首を傾げる。
「……『大器』を…………回収、しに……きた」
そう呟く幼女の足元で、鈍痛にうめく朱理はその姿を見てこうつぶやいた。
彼女の名を。
その、悪魔の名前を。
「アスタロト、さま……?」




