第八話「その男は立ちふさがる」
佐種家。
魔王サタンが下界に降り立つための器を作るための一族。
多くの人々が干渉し、余計な血が混じることを少なくするために片田舎に設置されたその家は、その狙い通りに魔王の器を作りだした。
まだ幼いながらも運命に天使と抗った息子を、器という運命を知らぬ娘を守るために戦った両親は、敗北し姿を消した……
「はずだったんだけどなぁ」
電車の外を流れる景色を眺めながら、佐種司は大きなため息を吐いた。
消えたと思っていた父親が急に戻ってきて、力の使い方を教えるから実家へ帰ると言っている。
まあ、嬉しいことは間違いないのだ。ただ理解が追い付いていないだけで。
「なあ司。急に呼ばれてから新幹線やら電車に乗ってかれこれ三時間くらい経つけどさ、そろそろどこに行くかとか教えてもらっていい?」
真穂がバカ父親を脅して手に入れた広い指定席を向かい合うように回転させた英雄は、今まで見たことないほど真剣な表情で司に問いかけた。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「言ってねぇよ! 電話かけてきたと思ったらとりあえず駅に来てくれっていうから言ったらさっそく新幹線ってなに!? 旅行なの!? 俺、替えのパンツ一つも持ってきてないよ? ゲーセンとか行くノリで来ちゃったんだぜ!?」
「おお。そうだったんだ。すまんすまん」
「それだよそれ! 謝って会話が毎回終わってるから三時間も俺が何も教えてもらえないんだって! 頼むからもうそろそろ教えてくれよ! もう窓からの景色が八割がた緑なんだけど!?」
どうやら、行き先を伝えずに三時間も乗り物に乗ると人間は恐怖を覚えるらしい。
別に隠す必要もないので司は素直に答える。
「俺の実家だよ」
「……なんで俺、お前の実家に呼ばれてんの?」
「俺の父親が天使の力の使い方を教えるって言ってるから」
「え、あそこに座ってるってもしかしてお前の父さん? じゃあ、その隣でその父親に暴言を吐き続けてる黒髪ツインテールの可愛い子は?」
「……妹」
ピキッ、と英雄の動きが止まった。
錆びれたブリキ人形のようにぎこちなく首を司へと向けると、英雄は怒髪天を衝くかのごとく怒りをあらわにして、
「てめぇ。美人天使二人だけでなく可愛い妹までいやがるのか……ッ!?」
「ちょっと何言ってんのか分からないから落ち着け。ほら、かりんとうでも食べるか?」
「どういうチョイスだよ! ……もらうけど」
司がバッグから出したかりんとうの袋に手を突っ込んで一気に数個を口に運ぶと、英雄は落ち着いたようで司は改めて説明を始めた。
電車を降りてバスに乗り換える頃には全ての説明は終わり、考え込むように英雄はバスの中で黙って座っていた。
そして片道五時間近くをかけて、ようやく司たちは佐種家へと辿りつく。
「懐かしい、ですね」
「ああ。片穂は五歳のころ以来だもんな」
司としても、高校進学にあって上京してから一度も帰ってきていないため、一年半ぶりの帰省となる。まあ、一〇年以上姿を見せなかった父親よりはよっぽどましだが。
「じゃあ、さっそく行こうか」
緑で広がる中でほんのわずかしかない家の中でもひと際大きな木製の家。それが佐種家だ。
片田舎だから土地を広く所有している家があるのは普通だと思っていたが、都会住みに慣れた華歩や英雄はその広大さに目を丸くしていた。
まあ、東京ならありえない広さだし、そもそも佐種家がサタンのためにある場所ならある程度の富が集まっても不自然ではないと今更ながら気づいた。
佐種勇は実家の玄関へと歩くことはせず、大きな一軒家から少しだけ歩いた場所にある竹林の入り口にポツンと建つバラック小屋にも見える廃れた小屋へと歩いていった。
どう見てもこの人数が入れるような大きさではないのだが、こんなところへ来てどうするつもりなのだろうか。
「はあ、入ってくれ。ここがお前たちの修行場だ」
ギィ……、と錆びついた蝶番が音を立てた。
そして、開いた先にあった光景に、全員が言葉を失った。
「これは、一体……!?」
そこに広がっていたのは、佐種家を囲う緑よりももっと鮮やかな緑色で囲まれた、まるで異世界のような草原だった。
ところどころに咲く色鮮やかな花や、ビルほどの大きさのある樹木。
さらには室内に入ったはずなのに、上から天然の光が降り注いでいた。
あんなボロボロの小屋の扉を開いてたどり着く光景では決してない。
全員の疑問に答えるために、勇は答える。
「ここは『上界』だ」
「上界、じゃと……!?」
いち早く反応したのは導華だった。
次いで、片穂と誉も息をのむ。
「な、なあ。上界ってどこなんだ?」
司が片穂に問いかける。
天使としての知識があるのだろう。困惑しつつも片穂は答える。
「司さんは、どうして司さんたちの世界を私たちが下界と呼んでいるか知っていますか?」
「え……? そりゃ、天界の下にあるからじゃないのか?」
「……不正解、じゃな。そういった位置でいうなら、天界は下界の横じゃ」
補足するように、導華が言った。
下界の横に天界がある。つまりは横並びに世界が並んでいるということなのだろうか。だが、それならば。
「二つの世界が自分たちの横にあったら、上と下でそれぞれ呼ぶに決まってるでしょ?」
言ったのは誉だった。
つまり、下界という言葉は上界という存在があるからこその呼び名だったということなのだろうか。だが、今までそんな話は天使の三人の誰もが言ってこなかった。
今更になってそんな世界はありますと言われても理解が出来ない。
「上界はな、入り口がないんだよ」
地面に生い茂る草に触れながら、勇は言う。
「ここでは基本的に草木のような命しか生まれないし、育たない。もちろん例外的な生命はいるが、この周辺にはいない。だからここは、俺たちが何をしようが誰にも文句は言われない。修行にはもってこいだろ?」
「でも、入り口がないならどうやって」
「造ったんだ。一〇年かけて」
勇が言った言葉は、それだけだった。
一〇年前に佐種美佳を失ってから、ただ姿を消していたわけではなかったのだ。この男は。来るべき時に備え、必ず愛すべき妻を助けようと準備をしてきたのだ。
力を蓄えるということも、この上界へ繋がる扉も、全てはそのためなのだというかのように。
「……そっか」
それ以上の言葉は、言えなかった。
きっとこれから先はたくさんの悪魔と対峙するだろう。そのためにも、今は力をつけなければ。片穂に頼らなければ戦うことすらできない自分から変わるために。
「あの、特訓って一体何をすればいいのでしょうか?」
「ああ。司と誉ちゃんは引き続き力を蓄える練習だ。ここなら邪魔も入らないし、万一力が暴発しても誰も被害を受けないからな」
「え、なあ父さん。暴発ってなに?」
「それで、真穂は母さん譲りの力を扱う練習をしよう。まずは、あそこに生えている木を手や足を使わずに、というか触らずに折ってみてくれ」
「触らなきゃ何してもいいの?」
「ああ。出来たらどう折ったのかも教えてくれ。それによって教えることも変わってくるから」
「はーい」
司の言葉を完全に無視して娘に指示を出す父親と、素直にそれを聞いてさっそく大樹の前に歩きだす妹。
これ以上は訊いても意味がないとあきらめた司は、仕方なく片穂の元へと歩く。
自分の息子たちに指示を出した勇は、華歩と導華、そして誉と英雄にそれぞれ話す。
「君たちにもいろいろやってもらうことがあるが、それぞれ別の場所へと言ってもらう。俺についてきてくれ」
勇が言いながら自分の前に手を出すと、どこからともなく扉が現れた。
勇が扉を開くと、そこにはまた別の大自然が広がっていた。
司の視界からはあまり見えないが、おそらく天使たちそれぞれに適した場所を選んだのだろう。
「こっちだ」
扉を進んでいく勇の後に続いて、四人が扉の向こうへと進んでいった。
これで、ここに残っているのは司と片穂と真穂と朱理の四人。
とりあえずはこのメンバーで特訓ということになるのだろうか。
「あの、司様。よろしいでしょうか」
司の後ろに立っていた朱理が、細い声を投げかけてきた。
わずかに不安を顔に滲ませている朱理に、司は視線を合わせる。
「どうしたの? ああ、雨谷さんには父さんが何も指示出してなかったからだよね。大丈夫、すぐに戻ってくるだろうから、そしたら一緒に特訓を――」
「そうでは、ないのです」
司の言葉を遮った朱理の声は、いつもよりも少しだけ低く、それでも雑談やそういった意味のない会話ではないことが分かった。
その真剣さに気づいた司は、聞く体勢を整えた。
「司様のお義父様、勇様の話を聞くに、ここは入り口のない上界という場所なのですよね?」
「俺もよく分からないけど、そうだな」
若干お義父様の言葉に違和感を覚えた司だが、言葉だけではそれが説明しきれないのでスルーする。
真面目な顔で悩む朱理は、あごに手を当てながら。
「なぜ、上界なのでしょうか。修行をする場を作るのなら、力を使って厳重な結界を張る方がかかる力の量も年月も半分程度になるはずです。ですが、入り口のない世界に無理矢理扉を設置し、そこに連れていく必要などないはずですわ」
「言われてみればそうだな。俺たちに関しては華歩の家でもできたわけだし、わざわざこんな広い場所にすぐさま移動することもないはずだ」
「はい。しかも入り口がないということは、出口もまた無いということ。見てください。先ほど私たちが入ってきた扉も、華歩さんたちが通った扉も、もうなくなっていますわ」
言われてから、司はそのことに初めて気が付いた。
見渡してみても、辺りには草木だけで、扉のようなものどころか、人工的なものが一つも見えない。
「勇様しか自由に移動できず、外部からの干渉が一切できないこの上界という空間。これではまるで……」
「俺が子供たちをここから出す気がないように思えるってか?」
「――ッ!?」
唐突に背後から響いたその声で、朱理は慌てて振りかえった。
そこにいたのはヨレヨレのスーツを着た佐種勇だった。
きっと華歩たちを別の場所へ移動させて戻ってきたのだろうが、朱理に対するこの威圧感のようなものは、何か特別な意味を司に感じさせた。
気怠そうに、勇は頭を掻く。
「やっぱり、完全にこっち側じゃない子を連れてくるべきじゃなかったかな。気づかなくていいところまで気づきやがる。まだ完全に閉める前に気づかれるのは、俺的にはすげぇ困るんだけどなぁ」
話す声色におかしな点はない。むしろ、友人に愚痴を言っているような感覚でこの父親は話している。
が、しかし。
この、違和感は。
「……父さん。何を隠してるんだ……?」
「なぁにも隠してないよ。お前たちにはここで修行してもらうだけだ。いつかくる悪魔との戦いのためにな」
「いつかくる、悪魔との戦いのため……?」
違う。司が願った力は、そんな抽象的な目的のためのものではないはずだ。
彼が、彼らが願った力は、そう。
「俺は、サタンと戦って母さんを取り戻すための力が欲しいんだよ」
「そ、そうです! 私も司さんのお母さんを助けたいです!」
勇は、無表情だった。
その言葉の一つも、彼の心には届いていないような。
彼の心にある目的とは、遠くかけ離れているような。
「…………そんなの、いらないよ」
ただそれだけ、勇は言った。
オモチャを買ってもらえず店先で駄々をこねる子ども慰めるような、そんな声で。
「お前たちは、ここにいて全てが終わるのを待ってればいいんだ」
「……は?」
「俺はな、司。決めたんだよ。お前たちを守るって」
佐種勇は、子どもだった司に何度もこう言っていた。
『大切な女は死んでも守れ』と。
そして、その言葉を言った男は守れなかったのだ。死んでも守るはずだった、大切な女を。佐種美佳を。
「俺はあの時、美佳を諦めたんだ」
死んでも守れないと。そう気づいてしまったのだ。
佐種美佳を守ろうとしたところで、ただ無意味にその命を散らすだけだと、そう気づいてしまったのだ。
「美佳は言ったんだ。『私はきっとすぐには死なない。だからあなたは逃げて』ってな。分かるか、この意味が」
「……分かんねぇよ。なんでそれで素直に逃げてんだよ。大切な女は死んでも守るんじゃないのかよ」
「お前たちなんだよ。俺が今、死んでも守るべきなのは」
かつて男は、決断したのだ。
死んでも守るべきは、妻だけではないと。
自分の命よりも、何万、何億と輝く尊い命が自分のそばにいるのだと。
佐種美佳を諦めるという決断をした佐種勇にとって、もはや残る選択肢はそれしかないのだ。司を、真穂を、何があっても守るということしか。
「だから、いいんだ」
佐種勇は、そう言って笑う。
父親のような、温かい表情で。
「お前たちはここで仲良く恋人ごっこでもして、世界が救われるのを待っててくれ」




