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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

あの空の先へ

作者: 重原重治

 仙人の修業を始めてから一カ月が経った。

 何も知らない頃はよかった。

 すぐにでも師匠を追い抜いてやる。どんな厳しい修業でも弱音なんて吐かない。例え血尿が出るようになったとしても全うする。

 そう意気込みを入れて、確かな意志とともにまい進することが出来た。

 しかし、まるで退屈を絵に描いたような仙人の生活には少し、嫌気がさしてきた。

「師匠!今日は何をしますか!?」

「あ?ああ、屋上で風でも読むか」

「・・・はい」

 師匠は相変わらず私に頓着しない。仙人たるものこうあるべきなのかもしれないが、それでも少しは興味関心を向けてほしい。

 白蛇マンションの一室より出て、階段をひたすら上る。以前師匠にエレベーターを使わないのですか、と聞いたことがあるが、気分によっては使うらしい。今日は使わない気分なのだろう。

 階段を上る。視点は高くなる。しかし、周囲にあるマンションの姿は変わらない。

 この辺りは無計画に建てられたマンションが多い。景観を重視するような設計思想が毛ほども見られない。このマンションの家賃が一カ月二万円という安さである要因の一つだ。

 屋上に繋がる扉の鍵も老朽化し、師匠が軽く引っ張っただけでも簡単に取れてしまう。扉を開けて階段を上る。

 屋上に出ると、そこは風が強く吹いていた。それでも横を見れば周囲のマンションしか見ることが出来ない。突き抜けるような青空だけが開放感を与えてくれる。しばし、空を眺める。

「茜、今日の風はどうだ」

 師匠が私に尋ねる。しかし、どうだ。と言われても答えようがない。

「わかりません」

 素直にそう答えると、師匠はふむ、と顎に手を当てた。普段は休日にソファで寝転がっているサラリーマンにしか見えないが、今の姿は実に堂に入っていた。

 師匠はさほど考え込んでいた様子もなかった。師匠が何を考えているのか。私にはそれがわからない。何も考えていないようにも見える。はっきりしているのは師匠が仙人だという事実だけだ。

「・・・なんでもいい。今日の風はどんな印象を受けるか、それを言え」

 師匠に言われて、私は長袖のシャツを捲って、肌を露出させる。露出させた肌に風が吹いていく。

 これはどんな風だろう。考えてみたところで平凡な答えしか生まれなかった。

「・・・なんか、湿気てます。あと生ぬるいです」

 話していて恥ずかしくなるくらいに素朴な感想だ。自分の顔が赤く染まるのを自覚した。

 しかし、師匠は感心したようにふんふんと頷いていた。

「なるほど。確かにその通りだ。今日の風はどうも陰気臭いな」

 師匠はそう言ったきり、何も言わずに屋上に佇んでいた。

 私の感想に同意して、それで終わり。師匠はいつだって私の言うことを否定しないし、指導してくれるわけでもない。

 ただ私が意見を言うように促し、それを肯定する。師匠が師匠としてやることはそれくらいだった。

 いったいこのやり取りに何の意味があるのか。

弟子入りしてから一カ月経った。

 けれど、師匠の、不敵に笑ったその顔の意味さえも、私にはわからないままだ。



 月に一度、私は仙人の皆さんと、その弟子たちが集まる会合に出席するように言われていた。前に出席したのは一カ月前。ちょうど私が弟子入りして三日後のことだ。

 パークライトビルと呼ばれるそれなりに大きな、それなりに古いビルの地下一階でそれは行われる。

 繁華街を少し歩いて、ちょうど活気がなくなった場所あたりにあるビルに入る。エントランスをまっすぐに進む。非常階段を開けて、立ち入り禁止と書かれた札を跨いで、地下への階段を下りていく。

 十三段の階段を下りた先にあったのは重々しい鉄の扉。何の装飾もなされていない。一つ目立つものといえば『仙人会』と書かれた表札が横に掛かっていることくらいだろうか。

 その扉のドアノブを回して、扉を開く。

「おー、茜ちゃん。こんばんわー」

最初に目に飛び込んできたのは、酒瓶を持ってソファに沈んでいる女の人だった。顔が若干赤い。部屋が酒臭い。それすなわちこの場で長時間酒盛りが行われていたことを意味する。

大きく円形に作られた部屋には、同じく円形にソファが置かれていた。それぞれが一人用で、中心には何もない。ただ人が座る場所と、話ができるだけのスペースがそこにはあった。

しかし、何もないはずの中心に堆く積まれた人間の姿はいったいどういうことだろう。

部屋を少し見渡してみればまさに死屍累々。見覚えのある仙人の弟子たちが一様に伸びきっていた。

「・・・あの、今日って会合じゃ」

「あっはっはっは。会合?なんだっけそれ?師匠たちは揃いも揃ってすっぽかすのに弟子たちだけが勢ぞろいする集まりのこと?」

 酒瓶を持った女性、蒼さんは笑っている。笑っているが、その口調から滲み出る怒りは隠しきれない。そして私も、そこに一人として仙人の姿が見えないことを確認する。

 実はこの会合、『仙人会』は実質、仙人の弟子たちが集まる会合なのだ。理由は簡単で、仙人の皆さんは会合など参加するほど社会的な生物ではないから。

 この会の目的はわかっていない。大昔は、それこそ二千年前くらいには存在していたらしい。けれど、その当時から仙人は会合には来ず、その弟子たちだけが集まるという奇妙な会。それが仙人会だった。

「・・・それでも、一応この惨状はひどいんじゃ」

「大丈夫大丈夫。こいつらだって仙人の弟子だから。酔いくらいやろうと思えばポポイのポイよ」

「え、私そんなことできないんですけど」

「まだ一カ月でしょー?そんなの弟子じゃない弟子じゃない」

 一か月間、退屈に耐え抜いてきた私の心が音を立てて折れそうになった。

 しかし、気が付けば蒼さんの顔の赤みもとれ、倒れ伏していた弟子たちも次から次へと立ち上がり始めた。どう考えても三日ほど二日酔いになりそうな様子だったというのに、大したものだ。

 仙人という存在の理不尽さを感じていると、いつの間にか多くの人々がそれぞれ用意されたソファに座っていた。私も慌てて自分に用意されたソファに腰掛ける。

「では、会合を始めます」

 蒼さんの顔は普通の色に戻っていた。それどころか、理知的な印象さえ感じる切れ長の目。背中まで伸ばされた黒髪。黒いスーツを違和感なく着こなすその姿。そのすべては先ほど酔っぱらって酒瓶を振り回していた姿とは似ても似つかない。

「では、何か議題がある人は手を挙げてください。ない場合は解散となります」

 もっとも、なぜこの会合があるのか、それが私には結局わからないのだけれど。

 人を集める。それは何かをやるための行為のはずなのに、そのやるための何かがまだ決まっていない。この会合の意味はいったい何なのか。本当にわからない。

 そんなことを考えていたとき、一人の男の子が手を挙げた。

「はい、浅葱」

「最近、近辺に泥棒が多発しているそうです。気を付けてください」

「はい、わかりました。ではほかに」

 浅葱、と呼ばれた中学生くらいの男の子をきっかけとして、手が次々と上がっていく。

「最近、俺の師匠が職務質問されることが増えてきた。気を付けてくれ」「あと三日で梅雨入りだってうちの師匠が」「ああ、うちの師匠は明日寒くなるって言ってたな」「誰かお玉余ってない?この間師匠が全部黄金に変えちゃって使えないの」「うちはコンクリートで作られてた家が木造になってた」「俺の家は元々橋の下」「私は山の上」「俺は滝の奥」。

 もはや議題とも言えないような議題が上がり、会合はあっという間に雑談の体をなしていった。各々が自分の境遇を打ち明ける。それに呼応するように周りの弟子が共感する。その繰り返しだ。気が付けば皆ソファから立ち上がり、立ち話をしていた。

「・・・この会合、何の意味があるんだろう」

「意味なんて求めちゃいけないわ。感じるのよ」

 いつの間にか隣のソファでお酒を飲んでいた蒼さんは、私の独り言に答えた。

 でも、そんな意味の分からない答えは聞きたくなかった。


 会合はそのまま流れ解散となった。夜の街を歩いて、私は白蛇マンション107号室に帰ってきた。

 結局、なんの実りもない一日だった。

「師匠、帰りました~」

 私はそういって部屋に入った。

 その時だった。

 意識が飛んだ。

 目の前が真っ暗になり、私の意志は意識の縄を危うく取り落としそうになる。けれど、なんとか、ぎりぎり、私は耐えきることが出来た。

 耐えきると、次に感じたのは痛みだった。

 喉を何かに捕まれている。ということを自覚したのはその時だ。私はまだ眩暈のする目で必死に暗闇にいる何者かを見ようとした。

 そこにいたのは真っ黒な毛皮を持った何か。それについている真っ赤な目が見えた。

 暗い、狭い室内の中ではそれくらいしかわからなかったけれど、その正体はわかった。

『悪魔』

 人類の敵、人間を太古の昔から食い物にしてきた最悪の魔物。西洋東洋問わず存在する存在。

 そこまで考えを巡らせて、私の頭は急激にもやがかかったように動かなくなった。

 痛い。苦しい。なんで?いま、どうなってるの?

 私はどこにいる?私って何?なんでこんなに痛いの?嫌だ。ダメ、助けて。

 喉を捕まれて声にならない声は、掠れた空気として外に出ていく。けれどそんなことを気にすることもできない。何がどうなっているのかわからない。自分がどうなっているのかすらわからない状況。

 けれど、その声ははっきりと聞こえてきた。

「どんな時でも、慌てるな」

 その瞬間、喉が解放された。

 真っ暗だった視界がピカピカと光を取り戻し、今度は立ちくらみのように視界がしばらくの間真っ暗になった。ごほごほとせき込む自分の体がまるで他人事のように感じられる。立ち上がることも、しゃがむこともままならない。玄関で倒れ伏して呼吸を整えていた。

 しばらくすると、何も聞こえていなかった耳も、鼻も、目も、すべてがその力を回復した。

「大丈夫か?」

 その声のする方を見てみると、そこには師匠がいた。

 まるで何もなかったかのように、白いTシャツとジーパンを履いている。無精ひげをしきりに触って感触を楽しんでいるようにも見える。

 大丈夫か?と聞きながら、師匠は私の心配などしていないようだった。既に私の様子を見て、何の問題もない。と判断しているのだろう。

 私は大丈夫です。と掠れた声で返事をして、悪魔がいたはずの場所を見る。

 しかし、そこにあったのは悪魔の死体ではなく、私の首を絞めていた腕だけだった。





「中々すばしっこい。俺が腕を切った途端にあちら側に逃げられた」

 師匠は悔しそうな顔一つせず、私が作った肉じゃがに箸を付けていた。悪魔によって荒れ放題の部屋はそのままに、師匠は机だけを出して私に夜食の料理を命じた。できればもう少し休みたかった。けれど師匠の命令とあっては逆らうわけにもいかない。冷蔵庫の中から材料を取り出して人参なし、肉なしの肉じゃがを作って提供した。それでも師匠は満足そうだった。

「あちら側って、地獄ですか?」

 悪魔の住処は地獄だ。テレビはいつでもそんな風に伝えている。けれど、師匠は首を横に振った。

「地獄、というのは人間のための場所だ。悪人が行くためのね。あちら側は地獄ではない。地獄などという生易しいものではないよ」

「・・・地獄とあちら側、見たことあるんですか?」

「ない。ただ、わかるようになる」

 師匠は言葉少なに言って、ほっと息をついた。

「今日の肉じゃがはうまいな。お前は良い嫁さんになるよ」

「嫁さんは良いです。仙人になりたいです」

 私が言うと、師匠はそうか。と言ってほほ笑んだ。朗らかな笑みだけれど、その笑顔の裏にある意図は読み取れそうにない。

 そうだ。私は仙人になりたい。

 人類の敵を、最悪の魔物を、殺すために。

 なによりも、両親の敵を取るために。




 ふわふわと燃える太陽。吹き抜ける風。遠く届く水滴の音。そして、それらを包み込む葉擦れの音。私たちはそんな森の中で森林浴をしていた。

 私は師匠の言いつけ通り、森林の中には何があるかということを考えていた。今回の課題だ。森の中には何があるか、それを師匠に教えろ。それが師匠の出した課題だった。

 その師匠は木の根元に腰を下ろしている。相変わらず白いTシャツとジーパンだ。悠々と煙草を煙らせている姿はリストラされたお父さんにも見えるし、老後のおじいちゃんのようにも見える。

 ただ、それでも彼は仙人なのだ。

 悪魔を殺すだけの力を持つ存在。そんな力を持つものである以上、尊敬の念は禁じ得ない。

 先日の悪魔の襲撃。いったいどうやったのかはわからないが、悪魔の腕の切断面はこの上なく鋭かった。機械で切断されたパイプのように、滑らかな切断面。あれを瞬時に発動できるだけの力を持つということを再確認することが出来た。これは新たな動機になる。

 私が新たな退屈への戦いへ熱意を燃やしていると、師匠がぽつり、とつぶやいた。

「・・・茜、お客さんだ」

 その声とほぼ同時に、遠くから誰かの足音が聞こえてきた。

 雑草を踏み分ける音と地面を踏みしめる音、それが私たちのいる森の中を通り、師匠の前に姿を現した。

「・・・風海、あんたに話がある」

「聞こうか。健二」

 師匠の前に現れたのは私と同い年くらいの男だった。一目見て高校生くらいかな、という判断が付いた。優しそうな顔つきをしている。

 しかし、男は健二と呼ばれると顔をひきつらせた。

「今は慈円と名乗っている。あんたも昔の名で呼ばれたくはないだろう?三郎」

「どうでもいい。そもそも風海、というのはお前たち寺院が決めた名称だからな」

 師匠は三郎、という名前を呼ばれても飄々とした様子だった。むしろ、師匠がそれ以外の態度をとっている姿を想像することが出来ない。

 それとは対照的に、慈円は苛立たしそうに指で額をたたいた。すると、段々強張っていた表情が元の優しそうな顔へと戻っていく。彼なりの落ち着く方法なのだろうか。

 私がぼんやりと考えていると、師匠は私を手招きした。

「茜、こいつを紹介する」

「あ、はい!」

 呼ばれた私は小走りで師匠に近づいていく。すると、慈円もこちらに気付いたのか、怪訝そうな顔を見せた。

「・・・風海、この娘は?」

「お前と同い年の娘だ。俺の弟子。年は十六」

「弟子・・・なるほどな」

 慈円は納得したように頷いて、私に顔を向けた。

「寺院に所属している。慈円だ。よろしく頼む」

「あ、はい。私は風海師匠に師事しています。茜といいます」

 二人とも同時に頭を下げた。慈円は物腰も柔らかく、話しやすそうな人物だった。どことなく師匠に似ている。

 そう思って二人を少し見比べてみると、私の考えていることが分かったらしい。慈円は苦笑いを浮かべた。

「風海と俺は叔父と甥の関係だ。だからこの男の昔の名前も知っている」

「俺は今でも五十嵐三郎のつもりだがなあ」

「寺院の名門に生まれながら仙人になった人間が何を言っている」

 慈円の糾弾に、師匠は微笑みを返すだけだ。私はあまり師匠のことは知らないが、寺院と関係があるのだろうか。だとしたら、随分と数奇な運命を辿っているらしい。寺院の仙人嫌いは有名な話なのに。

 さて、と慈円は一呼吸おいて、再び師匠に向き直った。その目は真剣そのものだ。

「あんた、この間悪魔と交戦したな」

「あれを交戦、といっていいのかどうか。腕を一本切り落とした程度だ」

「十分に戦闘だ。その腕はもう処理したのか?」

「お前たちが欲しがっていると思ってね、ここにあるよ」

 師匠は腰掛けた木の根元から、一本の白いものを取り出した。紙に包まれた悪魔の腕だ。この間私が梱包したのはこのためだったのか。

 慈円はそれを受け取ると、少しだけ顔を歪めた。

「・・・凄まじい瘴気だな」

 私は首を傾げた。瘴気?いったい何のことだろう。悪魔の腕に目を凝らしてみても、特に特別なものが出ているようには見えない。

「目を凝らしても見えるようなものじゃない。寺院の人間は特別な訓練を受けているから見える」

 師匠から戒めるような声がかかった。慈円も頷く。

「見えても気持ちのいいものではない」

 そう言われれば納得するしかない。けれど、ほかの人間に見えて自分には見えないものがある。というのはどこか妙な心地がする。

「では、用も済んだ。俺は帰るとしよう」

 慈円は踵を返し、元来た道を帰っていく。その慈円の背中に、師匠は声をかけた。

「兄貴によろしくな」

「気が向いたらな」

 慈円がそう返すと、師匠は不敵な笑みを浮かべた。どこか嬉しそうな表情だ。

 慈円が完全に見えなくなると、私は聞いた。

「なにか楽しいことでもあったんですか?」

 師匠は返した。

「ああ、堅物にはならなかったようだと思ってな」

 慈円のことを言っているのか。と、わかるのに少し時間がかかった。

 そして、そんな風に、気に掛けて貰える慈円のことを少し、うらやましく思った。




 窓を打つ雨は激しい。天気予報は梅雨入りを告げていた。私と師匠が暮らす八畳のワンルームは湿気と熱気がまじりあうサウナと化していた。

「・・・師匠、今日は、なにをするんですか」

「そうだな。雨でも感じるか?」

「え、雨に打たれるんですか?」

 外を見てみると、風はないものの、打たれて気持ちいいと言えるほどやさしい雨ではない。仙人らしいと言えば仙人らしいが、やりたくない。

 しかし、師匠は首を横に振った。

「窓を開けてみればいい。ああ、虫が入ってくるといけないから網戸は閉めろよ」

「はい」

 複雑な気分だった。確かにやりたくなかったが、仙人らしいことも少しはやってみたかったのだ。

 そんな複雑な心境を、元から私に頓着しない師匠が気にするわけもない。私は窓を開けて、すぐさま網戸を閉めた。

 むわっとした熱気が外に抜けていき、代わりに湿った風が部屋の中に吹き込んでくる。少しは過ごしやすくなった。

「よし、それじゃあいつも通り、気付いたことを言ってくれ」

「あの、師匠」

「うん?」

「何を言ったら正解になるんですか?」

 弟子入りしてから毎日このやり取りを続けているが、私はいまだに師匠をあっと言わせるようなことを言うことが出来ていない。いや、あっと言わせるなんて高望みはしない。ただ、仙人の視点というものを教えてほしい。

「正解か。それは難しいな。お前の言っていることも間違っていたことは一度もない」

「でも、それじゃあ師匠は満足しないんですよね」

「俺が満足しない。というわけじゃないな。重要なのはお前だ。茜」

「私が気付くかどうか、ってことですか?」

 私が質問すると、師匠は顎に手を当てた。無精ひげをしきりに撫でて、ふむ、と息をつく。

「気付く、とはどういうことかな?」

「え?」

「お前は、自分が何に気付けばいいと思う?」

「それがわからないから聞いているんじゃないですか」

 師匠は少しだけ考え込んだ。とはいっても、せいぜい数秒だ。師匠は私に向き合った。

「では、少しだけ道標をあげよう」

 思わず、耳を疑った。

 師匠が私に何かを教えようとしている。師事していればあるはずのその出来事が、いままではなかった。けれど、やっとその時が来たのだ。

 私は全神経を耳に集中させる。師匠の言葉を一字一句忘れないように。聞き洩らさないように。

 師匠はそんな私の様子を見て、少し笑った。その笑いの意味を考える余裕もない。私の今の感覚は耳に集中している。

「世界はたった一つしかない」

 師匠は、言った。

 そして、口を噤んだ。

 耳に痛い沈黙があたりを支配した。

「・・・えっと、それで終わり、ですか?」

「ああ、これ以上は自分で考えることだ」

 私は肩を落とした。『世界はたった一つしかない』この言葉がいったい何の意味を持つのだろうか。当り前ではないか。

 師匠は肩を落とした私を見て、またもや不敵な笑みを浮かべた。相も変わらず何を考えているのかわからない。

「気負うことはない。まだまだ時間はたっぷりとある」

 穏やかに笑う師匠の顔を、初めて殴りたいと思った。

 そして、その日も私は、何も特別なことに気付くことが出来なかった。





「わかりませんよー。なんだってんですかもー」

「あの、茜ちゃん?そのー、蒼さんも一応仙人の弟子だから、ね?ほら、わかるでしょ?お金なんてあんまり持ってないというか」

「私の酒が飲めないっていうんですかー」

「いや、私の酒だし!さっきから茜ちゃん好き勝手に飲み食いしてるだけだし!」

 師匠とともに街を散歩していると、同じく散歩をしていた蒼さんと出会った。

 そこから何やかんやで話が弾み、気が付けば師匠はいなくなっていた。

 ならば、と蒼さんは私にお酒を奢ってくれたのだ。やはり蒼さんはいい人だ。

 周囲は仕事帰りのサラリーマンや大学生で溢れており、多少うるさくしたところで怒られるような雰囲気ではない。酒も手伝ってくれる。溜め込んでいるのは限界だ。

「それに引き換えあの糞師匠おおおおお。何が師匠だあ。もっといろいろ教えやがれってんだー」

「・・・なんか昔を思い出すなー。すっごい思い出すなー」

 蒼さんは遠い目をした。蒼さんは好きだ。師匠と違って私のことを気遣ってくれるし、師匠と違って割と有益なアドバイスをくれるし、師匠と比べて話しやすいし。

 もちろん、師匠と比べての話であって、仙人特有の浮世離れした空気はきちんと纏っているのだけれど。

「蒼さーん。なんか術見せてくださいよー。師匠全然見せてくれないんですよー」

「えー、でもなー、私の術ってしょぼいよ?修業不足だし」

「一つも出来ない私よりましですよー」

 蒼さんは腕を組んで首をひねった。結構大きなうめき声も聞こえてくる。そんなに嫌なのだろうか。しかし、いやでもやってもらわなくてはならない。ぜひとも。

「蒼さん、最近もう限界なんです。師匠は確かにすごいです。この前も悪魔の腕を切り落としてました。強いことはわかってます。でも違うんです。私はもっと目に見える目標がほしいんです。蒼さん。わかってますか?」

「あー、うん。言わんとしてることはわかるよ。要するに割と手軽で扱いやすい術が見たいってことでしょ?」

「そうです!そうですよ!私でも使えそうなやつ教えてくださいよー!」

「あー、茜ちゃんって溜め込むタイプだったのかー」

 蒼さんが「ちょっと面倒」と呟いているのが聞こえたが、今はそんなことを気にしている暇はない。少しでも前進していると思いたいのだ。

 私の度重なるアタックに、さすがの蒼さんも根負けしたと見える。

 蒼さんは自分のお酒が入ったコップを私にも見えるように置いた。

「今からちょー小規模な術見せるから。今日はそれで満足してね。流石に私のお金がやばいから」

「はい!もちろんです!」

 私の元気な返事に蒼さんは苦笑いを浮かべると、お酒の入ったコップを指さした。私も視線を向ける。そして、しばし待つ。

 最初に見えたのは渦だった。小さな渦はやがてコップ全体に広がっていく。蒼さんはただコップを指さしているだけ。しかし、その渦はコップ全体に広がったかと思うと、コップに入っていたお酒はコップの上で球体となって浮き上がり、まるで星のように自転を始めた。

「・・・凄い、です」

 私は酔いがすっかり醒めて、その美技に酔いしれていた。

 まるで繊細なガラス細工のようなそれはしばらくの間回転をつづけた。

「回転させたり浮き上がらせるのは少し難しいかもしれないけど、渦を作るだけならすぐにできるようになるよ」

 蒼さんはそういうと同時にお酒をコップに戻して、口に運んだ。

 周囲の人々は蒼さんが仙人の弟子であることに気付いたようで、少しの間騒然となったが、誰かが話しかけてくるということもなかった。

「・・・それ、どうやったら出来るようになるんですか?」

「それを私が言っちゃいけないね。というか、私が言うとできなくなると思う」

 私の驚いたような表情に、蒼さんは苦笑いを浮かべる。

「しんどいでしょ。たぶん、結果の見えにくさで言うならどんなスポーツよりも、勉強よりもきついよ。仙人の修業って」

「・・・私、どうすればいいのか全く分かりません」

 仙人の修業、精神を鍛えて、何かしらのコツをつかめばすぐにできる。そんな風に思っていた。けれど違う。

 仙人の修業は、暗闇で目を凝らして何かを見つけようとするような行為に等しい。しかもその暗闇は生半可なものではない。自分がどこにいるのかもわからないような、星の明かり一つない暗闇だ。

 私は、いったい何をやっているのだろうか。

「・・・茜ちゃん。師匠はなんて言ってる?」

「・・・世界は一つだって。そう言いました」

 すると、蒼さんはびっくりしたように目を見開いた。そして、へえ、と感心したような声を出した。

「風海仙人。すごいね。そんなこと教えちゃうんだ」

「蒼さんはこの意味、わかるんですか?」

「・・・それが完璧にわかったら。たぶん私は仙人になれるんだろうけどね」

 なかなか難しい。蒼さんは笑いながらそう言って、またもやお酒に口を付けた。

 その困ったような表情が痛ましかった。このような人間には到底できない芸当をやってのける人間ですら、一つの言葉の意味を分からない。

 先ほどまでの浮ついた心は一挙に凍え、思わず唇を噛みしめた。

 そろそろ二カ月。

 どうすればいいのか、わからない。





 帰り道は暗かった。

 繁華街から少し離れた私たちの住処は住宅地だというのに人の気配がしない。人が住んでいるとは思えないおんぼろマンション群であるということを考えても、まるでゴーストタウンのようだ。

 チラチラと点灯する街灯が道を照らしている。私と蒼さんが飲んでいる間に雨が降ったのか、道は街灯の光に呼応して私を照らしている。

 人気のしない場所を歩いていると、まるで自分がこの世に一人になったような感覚に陥る。

「・・・前にも、こんなこと、あったな」

 思い返すまでもない。忘れるわけがない。

 両親が死んだ夜のことだ。

 まだ、私が茜ではなく。人間としての名前を持っていたころ。あの時も、確かこんな風に、夜道を一人で歩いていた。

 家は警察が差し押さえていて、どこに行けばいいのかもわからなかった。

 あの時は周りに人がいっぱいいたけれど、今の心境はあの時と同じだ。

 道の真ん中で立ち止まる。

 このままでいいのか。自分の中に、そう問いかける。

 すぐに、良いわけがない。その答えが返ってくる。それと共にどうすればわからない、そういう情けない声も。

 名前を捨てた。学校の友人も、親戚も、すべての人間関係を断ち切って、私は仙人の弟子になった。

 新しく与えられたのは師匠と、ほんの少しの弟子仲間と、茜という名前だけ。

 けれど、それは本当に私の望んでいたことか?

 私は、一人でも生きていけるような、両親を殺した相手を殺すためにここにいるのではなかったか?

 一度疑問がわき上がってしまえば、それを抑えるのは難しくなる。

 私は今何をやっているのだろう。寺院に入って修業するわけでもない。かといって仙人としての力を得られているわけでもない。ただただ無為に日々を過ごしているだけ。

 これ以外に選択肢はなかった。どちらにせよ、私は仙人の弟子になるしかなかった。両親が居なくなった途端に手のひらを返した親戚たちに厄介になることなどできなかった。残された資産だってすべて騙し取られた。生きていくためには、差し伸べられた手を拒むことなどできなかった。

 けれど、少し考えれば、もっと選択肢はあったのではないか。

 寺院に行けば修業させてもらえただろう。衣食住だって確保してもらえたに違いない。それに、あそこの修業は厳しいと聞くが、耐え抜いたなら必ず僧兵になれるとも聞く。

 仙人は、そもそも修業が厳しいのかも、修業とは何なのかもわからない。風を感じろ、木々の息吹を感じろ、雨を感じろ。何を感じろというのだ。

 なぜ、私はここにいるのか。

 頭にポツリと、冷たい何かが当たった。

 雨だ。と思った時には、ぽつりぽつり、次から次へと滴は降ってきた。あっという間に体は濡れて、冷やされた表面とまだ暖かい内面のおかげで、なんだか自分の体の中が異様に熱く感じられる。

 走る気が起きなかった。

 ただ、ゆったりとした足取りで、傘もささず、私は歩いた。

 雨はすぐに土砂降りとなり、道に落ちていたごみたちはすべて横に寄せられて、道は綺麗に流された。

 けれど、私の頭の中の雑念までは流してくれそうになかった。





「風邪だな。ゆっくり休め」

 情けないことに、雨に濡れた程度で私の体調は崩れた。頭がぐらぐらとして、起き上がっていることが出来ない。辛うじてものは食べられるが、噛んでいる途中で咳き込んでしまうこともある。

 師匠は常と変わらず、優しく、飄々と接した。私が風邪でも構うことなく外に出かけて行ってしまうのはまさしく師匠といったところだろう。何事にも動じない。そんな心を持たなくては仙人にはなれないのだろうか。だとしたら、今なお昨夜の精神状態を引き継いでいる私では、とてもなれそうにない。

 ネガティブなものの見方がどうしても抜けない私はせき込みながら、いつもと同じ天井を眺める。シミ一つない天井だ。外は雨が降っているためか、部屋の全体としての印象が冷たくなったようにも感じられる。

 雨が降り続いている。地面に当たった音が聞こえる。風が窓を揺らしている。空気はひんやりとしている。けれど、何故か湿っぽくはない。ぼんやりとした頭はついつい、いつもの癖で周りの音を、空気を、分析しようと働いてしまう。今の空の色は灰色だろうか、それとも青みが買った黒だろうか。黄色だろうか。なんとなく灰色のような気がする。空気の湿り気がそんな風に感じさせる。

 考えているうちに、また頭がぼんやりとしてきた。もうそろそろ眠ってしまいそうだ。

「・・・あー」

 気まぐれに、悪戯に、声が出したくなった。そして出た声はどこかしゃがれていて、自分の声だというのに少し笑ってしまった。

「・・・はっはっはっは」

 せっかく笑ったので、今度は大笑い風に声を出してみた。おかしい。くだらない。けれど、笑っていた方が気分の落ち込みが抑えられるような気がした。

 やがて大笑いするのにも疲れたので体から力を抜いて、また天井を眺めた。

 こういう時は天井のシミを数えろ。と言われたことがあるけれど、シミがなかったときはどうすればいいのだろうか。ああ、でも、天井の凸凹は見えるから、それを数えればいいのかな。でも、どうやって?そこまで考えて、自分の考えが取り留めもなくなっていることに気付いて思考を打ち切った。

 ああ、でも、なんだか笑ってたら眠気がなくなっちゃったかも。

 そう思い、部屋の中にあるものを見渡した。

 仙人の弟子になるにあたって、不必要なものはすべて処分した。というか、持っていても意味がなくなった。

 だから今の私はスマートフォンも携帯電話も持っていないし、パソコンだって、テレビだって持っていない。

 けれど、この部屋の中には暇をつぶせそうなものが一つだけあった。

 本だ。

 随分と古びた。師匠の持ち物らしき本だった。最初にこの家に来た時から配置が換わっていないのでめったに読むことはないのだろう。

 しかし、私は今暇だ。なら、読んでも良いんじゃないか。

 私はそう思ったが、何かが可笑しい。と思った、ああ、そうか、私の寝ている布団から本が置いてある床まで、手を伸ばしても届かないんだ。でも、私は起き上がれないから、だからおかしく感じるんだ。なんで本が読めると思ったんだろう。

 私は自分で自分をそう納得させようとした。けれど、それは無理だった。

 だって、本に手は届くんだから。

「・・・手、延ばせば、届く」

 そうだ。手を伸ばせば届くじゃないか。だって本はそこにあるんだから。

 本があるのなら、どこにあったって同じはずだ。だったら、私の手元にあってもおかしくないじゃないか。

 あれ?なんだかおかしいな。ああ、そうか。師匠の持ち物を勝手に読むのがダメなのかな。でも、別にいいよね。師匠は怒らないもの。私が来て二カ月の間、どんな粗相をしても怒ることはなかったもの。

 だったら、別にいいよね。

 私は本を手に取って、それを開いた。

 けれど、熱があるからだろうか。文字がぼやけてよく読めない。

 ああ、これはやっぱり、寝なくちゃダメなのかな。だったら寝たいな。でも、このまま寝ちゃったら本がおれちゃうかもしれないよね。

 私はそう思い、本を元の場所に戻した。そうすると、私の瞼は錘でもついているかのように、重くなった。

「・・・お休み」

 誰に言ったのかは分からない。けれどなんとなく、自分を見ている目線が二つあった気がした。

 師匠だろうか。でも、だとしたらあと一人は誰だろう。

 そんなどうでもいいことを考えながら、私は眠りに落ちた。





 目が覚めた時には、割と頭ははっきりしていた。

 なんとなく何度か目が覚めた感覚はあるものの、その記憶もあいまいだ。夢か現かの判断も出来そうにない。

 けれど、どうやらベッドから起きたということはなさそうだ。

 寝たときとモノの配置が換わった様子はない。恐らく師匠も帰ってきてはいないだろう。

 それにして、熱で寝込むなんて、本当に私は仙人の弟子なのだろうか。常々思っているが、仙人の弟子らしい弟子になるにはどうすればいいのだろう。師匠のように飄々とすればいいのだろうか。いや、そういうものでもない気がする。

 一人でうんうんと唸っていると、ふと、自分の手に違和感があった。何だろうと思ってみてみると、右手の掌が、まるで埃をかぶったものをつかんだように汚れていた。

 うへえ、と言いながら手を叩いて汚れを落とす。それと同時に疑問に思う。

 寝ていただけなのに、いったいどこでこんな汚れが付いたのだろう。

 しかし、そんな疑問は寝ていた私に解明できるはずもなく、綺麗さっぱり忘れて今日の夕飯に関する思考にとってかわられた。

 だから、私が師匠の古ぼけた本を見て、くっきりとした手形が付いていることに気が付くことはなかった。



時は過ぎ去り、弟子となってから三カ月が過ぎた。

 相も変わらず私に仙人の兆候は見られない。

 そろそろ真剣に弟子を止めようかと考えている私だったが、とりあえず仙人会の時期がやってきたので一カ月前と同じく、パークライトビルの地下一階に赴く。

 その途中で、見覚えのある少年を見かけた。そして、その少年もこちらに気付いた。

「・・・」

「・・・」

 お互い、見つめあったままで沈黙した。名前、なんだっけ。私の頭の中はそんな思考で埋め尽くされていたが、とりあえず、何かを言うことにした。

「・・・おはようございます」

「・・・今は昼だよ」

 時計を見てみると、確かに十二時だった。

 うん、どうしよう。

 再び二人の間に沈黙が流れる。

「・・・えっと、茜さん。だっけ。蒼さんと仲が良かった」

「え、うん。そうそう。そっちは」

「浅葱。限りなく青に近い緑って感じかな。よろしく」

 随分と物腰柔らかな少年だった。見たところ私よりも年下だろうに、さすがは仙人の弟子といったところだろうか。

 浅葱くんは嫌味を感じさせないさわやかな笑顔を浮かべた。

「せっかくだから一緒に行かない?色々と聞きたいこともあるし」

「うん。良いよ」

 あちらから声をかけてくれると非常に助かる。ここ最近師匠や蒼さんくらいしか話していないからか、人との接し方がいまいちわからなくなっているのだ。

 話してみると、浅葱くんはやはり十四歳。学校の年齢で言えば中学二年生に該当するらしい。

「仙人の弟子になってからは学校には行ってないけどね」

 彼は笑いながらそう言っていたので、結果的に中学中退ということになるらしい。恐ろしい学歴だ。けれど、私も似たようなものなので人のことは言えない。

 話している途中で、そういえば敬語を使われていないな。と思い当たったが、まあいいか。と無視した。あまりそういった礼儀作法は好きなほうではないし、なにより浅葱くんの話し方がうまいのか、馴れ馴れしさといったものは一切感じないのだ。

 どことなく、師匠に似ている。

「茜さんは何年くらい弟子をやってるの?」

 浅葱くんに聞かれて、私は苦笑いを浮かべながら三カ月。と答えた。すると、浅葱くんはびっくりしたように私の顔を見た。

 なにか、もっと少ないと思ったのか?そう問い詰めたい気分だったが、今名前を交換し合ったばかりの人間に威圧的な態度をとるのは気が引けたのでやめておいた。

「・・・意外だ。三年くらいやってると思った」

 お世辞なのかそうでないのか。いまいちよくわからなかった。

 けれど、この流れならば聞けるだろう。

「そっちはどうなの?何年くらいやってるの?」

 今十四歳だと言っていたが、纏っている雰囲気は蒼さんに近い。個人的に、仙人というものは飄々としていればしているほど力が強いような気がする。

 その感覚に従えば、目の前の少年の力はかなり強い。直観だが、割と自信があった。

「八年くらいかな」

「八年っ!?」

 予想をはるかに超えた年数に、思わず声を荒げる。

 つまりは小学一年生のころから弟子入りしているということになる。いや、下手をすれば小学校にすら言っていないのかもしれない。

 私が心の中で戦慄していると、浅葱は儚げに苦笑した。

「僕の両親、僕が五歳の時にどこか行っちゃって、途方に暮れてたら今の師匠が引き取ってくれたんだ」

「そ、そうなんだ。なんか、ごめんね?」

「ううん。正直、もう両親の顔も覚えてないんだ。師匠にもよくしてもらってるし、そこまで自分が不幸だって意識はないから。だから気にしないで」

 私は頷いたが、正直、想像もできなかった。

 つまりこの少年は、生まれてからの時間を両親よりも師匠と過ごしている時間の方が多いということになる。

 けれど、それはつまり、私たちにあまり関心を持たないあの師匠とずっと一緒ということは、つまり、誕生日などを祝われるという経験も、五歳までの時点でストップしているということに他ならない。

 仙人の弟子にとってそれは当たり前だ。仙人の弟子はそれまで名乗ってきた名を捨て、繋がりを捨て、年齢を捨てる。ただ必要なのは師匠に与えられた新たな名前と、仙人としての修業だけ。

 私は、少なくとも高校生までは普通の人間として生きてきた。両親も居たし、友人もいた。恋人だって居たことはある。そんな風に、人並みの人生をそれなりに送ってきた。

 けれど、それもなしに、いきなり仙人の世界に放り込まれるというのは、いったいどのような心地なのだろう。

 私には分からない。蝙蝠が蝙蝠であるということをどう感じているのか分からないように、浅葱が浅葱のことをどう考えているのかは分からない。

 けれど、それは、なんだかとても残酷なような、そんな気がした。

 考え込んだ私に気を使ったのか、浅葱はそれからしばらく黙っていた。私も、あまり会話を続ける気にはなれずに歩き続け、じきに、仙人会の会場へとたどり着いた。





「来たわね」

 蒼さんがそこにはいた。今日は酒瓶を持っていなくて胸を撫で下ろしたが、浅葱は怪訝そうな顔をする。

「珍しいですね。酔ってないなんて」

 浅葱に追及されると、蒼さんは困ったように笑みを浮かべた。

「あはははは、ちょっと予想外の出費がねー」

 その笑顔を見て、私は申訳ない気持ちでいっぱいになった。

 今度お酒を持っていこう。できればいいものを。

 たぶん、というか絶対、この間の私の自棄酒のせいだろう。誠に申し訳ない。

 そんな私を見て、蒼さんは少し笑った。気にするな、とでも言いたいのだろうか。それでも後でお酒は差し入れしよう。

「さて、それじゃあ今月の仙人会を始めますよー。議題がある人はどうぞ」

 それぞれの席に全員が座ると、蒼さんはいつも通りの軽いテンションで仙人会の開会を宣言した。

 しかし、もう私にはわかっていた。

 仙人という人種は、ちょっとやそっとのことは気にしない。よって議題というものが成立するのは稀だ。それは弟子であっても例外ではない。

 実際、席に着いた十人十色の表情だが、誰一人として気まずそうな様子を見せる人間はいない。議題がなければそれでもいいし、議題があってもそれでもいい。そういう人の集まりが仙人という人種なのだ。

 十秒ほど待って何の応答もないことがわかると、蒼さんは周りを見渡して頷いた。

「よし、それじゃあ今日は解散。お疲れ様でした」

 私史上最速で仙人会が終わった。

 軽い脱力感と共に、地上に繋がる階段へ向かおうとする。

 そして、背筋が凍った。

 唐突に、足の感覚がなくなった。

 あれ?と思った時には既に床に倒れていた。血が目の前に流れている。よくわからない。何が起こっているのか。

蒼さんが呼んでいる気がする。けれど返事をすることも億劫だ。私は眠くなってきた。

『■■』

 誰かに、名前を呼ばれた。

 懐かしい名前。

 本当に、懐かしい。






 気が付いた時には、よくわからない場所にいた。

 よくわからない場所だ。赤い空も黒い海も冷たい風も辛い空気もすべてが違う。私に牙を剥いている。ここはどこだろう。そう思うと、不思議と頭の中に浮かぶものがあった。

 これは、あちら側だ。

 自分でもよくわからない感覚だった。ただ、ここがどこかというのが自然とわかるのだ。まるで既に知っていることを思い出すような感覚。師匠が言っていたのはこういうことか。ぼんやりと思う。

 そんな時、気付いた。

 黒い海に見えたもののなかに、赤い斑点がいくつも浮かんでいる。

 違う、赤い斑点ではない。

 あれは悪魔の群れだ。

 どこまでも続く悪魔の群れがくぼみに何体も、何十体も、何百体も存在している。これを見たならテレビのジャーナリストたちは失禁するかもしれない。今私がしているように。

 ああ、なんだろう。どうしてこんなことになったのだろう。私は何か悪いことをしただろうか。ああ、ああ、ああ。

 体が震える。心が震える。歯が震える。指が震え、目が震える。

 全身のありとあらゆる場所が恐怖を持つ。

「・・・茜、か?」

 名前を呼ばれ、後ろを振り向く。

 僧衣を纏った少年。剃髪はしておらず、お坊さんというにはまだ若い。修業中といった印象だ。

 そして、私は彼を知っている。

「慈円・・・?」

 あちら側で、私と彼は、そんな風に再開した。





 慈円の話を聞くと、どうやらこういうことらしかった。

 私と慈円君は、悪魔に食われ、あちら側に来た。

「正直、寝所にまで侵入されるとは思っていなかったがな」

 不覚を取った。慈円はそう言いながら、赤い空を見上げていた。

 私も同じように赤い空を見上げ、息が止まった。

 黒い雲だと思っていたものに、無数の斑点があった。

 赤く、ぎょろぎょろと動く、そんな無数の斑点が。

「・・・あれ」

「俺も見たことはなかったが。空を飛ぶ奴もいるらしいな。恐らくは仙人たちが処理しているのだろうが」

 慈円は淡々と語る。まるでなんでもないことのように。

 つまり、あれはすべて悪魔だということだ。

 あの黒い海も、上にある黒い雲も、拡大すればすべてがあの悪魔ということだ。

「・・・どう、して」

「さあな。何故俺たちがこんな場所にいるのか。何故あいつらは襲ってこないのか。わからないことだらけだ」

 慈円はぼんやりと返答し、ため息を吐いた。

「・・・これから、どうしよう」

「・・・わからん。わからんが、ずっとこうしているわけにもいくまい」

 慈円は歩き出す。海ではなく、山の方へ。慌てて追いかけ、話しかける。

「どこに行くの?」

「どこでもいい。とりあえず、手掛かりを探す。奴らがこちら側に来ているんだ。帰れないと決めつけるには早すぎる」

「・・・そっか」

 それも、そうだ。

 けれど、こんな場所で、こんな何もかもが違う場所で、果たして見つけられるものなのだろうか。

 しかし、慈円は私の心配をよそに、先を歩いていく。私はそれについて行くことに必死で、慈円の顔色など気にも留めなかった。




 森を歩き。山を越え。谷を渡った。

 湖に浸かり。草原を踏み。洞を通る。

 一体どれほどの間、歩き続けただろう。

 何故、これほどまでに歩き続けられるのだろう。

 私は涙ぐみ、慈円は何も言わなかった。

 悪魔たちは何故襲ってこないのだろう。

 生きとし生けるものならば、すべて襲い掛かってくるような、そんな存在なのに。

 どうして私たちには襲ってこないのだろう。

 私たちは、なんなのだろう。

 とっくに答えは出ていた。それを認めたくないだけ。納得したくないだけ。

 けれど、私と慈円はたどり着いてしまった。

 世界の果て。

 海も、山も、森も、すべてが途切れ、そこより先は何もない。

 暗闇さえもなく、光さえもなく、ただ空のみがある。ただ、無のみがある。

 矛盾にも思えるその現象が、私にはよくわかった。

 ここは世界の終わりだと。ここから先には、何もないと。

「・・・慈円。これ以上は無理だよ。何もない」

「わかっている。ここから先には、瘴気もない。ぱったりと、何も見えない」

 私と慈円は座り込み、目の前の空に目を向けた。

 そして、どちらともなく口を開いた。

「死人、なのかな」

「死人、だろうな」

 二人が同時に、同じことを口にした。そして、二人とも驚かなかった。

 歩き始めて、一体何日、何か月、何年の月日が経ったのだろう。

 わからない。わからないけれど、その間、腹が空くこともなければ、嫌気がさしたこともない。ただ最初に決めた通り、ひたすらに歩き続けていただけ。

 こんなにも長い間、決意が変わらないなんてことがあるだろうか。

 一カ月の修業でも音を上げていた私が、何年もの間、休まず、ただ歩き続けるなんてことが出来るのだろうか。

「・・・慈円。どうするの?」

「どうするかな。俺は、この場所で生きていくなんてことは、耐えられない」

 そもそも生きていないのかもしれないが、そんな言葉も、今は冗談でも何でもない。

 慈円の顔色は、ずっと悪かった。

 青く、白く、普通の色ではなかった。

 歩き始めてから少しして、私は気付き、それが薄まることがないことにも気付いた。

「瘴気?」

「ああ、こいつには慣れそうにない」

 慈円は地面に倒れこみ、顔を顰めた。私も同じことをした。

 地面はもぞもぞと蠢いているけれど、襲い掛かってくる様子はない。そうだろう。私たちは仲間なのだから。

 同じ、命に恋い焦がれ、命を亡くした、哀れな仲間だ。

「・・・私たち、これからどうなるのかな」

「いっそ、狂えたら楽なのだろうな。下のこいつらのように」

 悪魔の正体。それもなんとなくわかっていた。

 きっと、運が悪かったのだ。

 誰も彼もが運が悪くて、きっと、ここに来てしまったのだ。

 私はもう、誰かを恨むことが出来ない。

 何も、恨めない。

 だって私は、仲間なのだから。

 世界が広がって見えた。

 下にいる悪魔も、上にいる悪魔も、隣の悪魔も、自分という悪魔も、すべてが何の垣根もなく、見ることが出来た。

 そう。そういうことなのだろう。

 誰も彼もが動いている。自分の意志で、自分の行動で、自分の身体で、世界を形作っている。

 個が集まり全となり、全の中に個が存在する。

 だから、全は個だ。

 世界は、一つだ。

『■■』

 名前が、呼ばれた。

 体を起こして、後ろを見る。

 すると、そこには一体の悪魔が居た。

『■■』

「・・・うん、私だよ」

 否、それは悪魔ではなかった。

 そこにいたのは、二人の男女だった。

『■■』

 それ以外には何も言わない。けれど、きっとそれほどまでに思ってくれていたのだろう。

「元気だよ」

 ただ、それだけを言った。

 二人はただそこにいて、私を見下ろしていた。

 けれど、すぐに笑った。笑って、私たちを追い越して、空へと消えていく。

「・・・そっか」

 満足、してもらえたらしい。

 本当のところを言うと、私もここで満足していいようにも思える。

 両親の仇など取れそうにない。ここに居るのは仲間だ。

「・・・今のは、なんだ?」

 けれど、隣にいるのは、きっと特別な仲間だ。

 今ここで満足してもいい。けれど、きっと私はまだ、何か、未練がある。

「・・・ねえ、慈円」

「なんだ?」

 慈円の方を向いて、手を差し出す。

 すると、慈円は少し怪訝な顔をして、目を見開いた。

 私が何かに見えたのだろうか。師匠だろうか、それとも別の誰かだろうか。

 それは別にどうでもいい。

 ただ、私は、やりたいようにやる。

「帰ろう」

 慈円の手を取って、私は空へと飛び出した。





「・・・無茶するわね。茜ちゃん」

「そうですか?結構自信あったんですけど」

 蒼さんに、お酒を奢った。

 いろいろと心配をかけたらしい。考えてみれば、心配して当然だろう。目の前で悪魔に食われたのだから。

 しかし、蒼さんも死んでいないことは分かったらしい。腐っても仙人の端くれということだろう。

「・・・ま、無事に帰ってきてくれてよかったわ。ほんと。よく帰ってこれたわね」

「はい。正直、彼が居なかったら無理だったとは思います」

「ああ、寺院のあの子ね。まあ、結構グロッキーだったけど」

 私と慈円は、無事帰ってくることが出来た。

 幸いにも、時間は一週間しか経っておらず、身体にも異常はなく、帰ってくることが出来た。

 慈円は瘴気に晒され続けた影響で、しばらくは休養が必要とのことだった。けれど、きっと数日もすればなんとかなるだろう。

「それにしても、まさか茜ちゃんに先を越されるとはねー。いや、もう茜ちゃんじゃないんだっけ?朱熹仙人?」

「やめてくださいよ。それ、慈円が勝手につけた名前じゃないですか」

「そんなこと言って、貰った時は嬉しそうだったくせに」

 私は、師匠からお墨付きをもらい、仙人になった。

 対外的に見れば、弟子入りして二カ月半ほどで仙人になった計算になる。

「ま、それだけ時間を重ねれば当然か。むしろ、それくらいかかったんだから、そうなって当然ってところよね」

「そうですね。いくら何でも遅すぎました」

 私は、あちらに何年も居たと思っていた。

 けれど、実際はその何百倍か居たらしい。

『五百年ぶりのこちら側はどうだい。茜』

 師匠に言われたときは、少しだけ、目を瞬かせてしまったものだ。





「また来たのか」

「連れないなー。私と慈円の仲でしょ?」

「親しき中にも礼儀あり、だ」

 もはやお馴染みとなったやり取りをして、慈円の隣に座る。

 慈円は今、実家で療養中だった。

 あらゆる意味で規格外な仙人とは違い、寺院に所属する人間である慈円は五百年もの月日を過ごしたことでかなりの精神的疲労があったらしい。しばらく寺院の仕事は休むということだった。

 思いのほか小さな庭の、思い通りの古い縁側で、二人、空を眺める。

「・・・実感が湧かん」

「大丈夫だよ。私もだから」

「五百年。そんなにもあそこにいたのか、俺は」

「私たちは、ね」

 あちら側は、こちら側とは違う。

 時間も、理も、思想も、何もかも。

 そんな場所からこちらに来た。歪が出るのは当然なのだろう。

 慈円は瘴気に関してかなり敏感になったらしく、仙人には及ばないものの、招来は寺院のトップになれるほどの実力者と持て囃されているらしい。

「ねえ、慈円」

「どうした。朱熹仙人」

「こういう時くらい、茜って呼んでほしいんだけど」

「それでいいのか」

 慈円が言った言葉の意味が、少しだけわからなかった。

 けれど、すぐにわかった。

「・・・そっちの名前は、健二、だっけ」

「五百年前のことを、よく覚えているものだ」

 おかしそうに笑い、少し、世界が狭まることを感じた。

 ああ、やっぱり、まだ仙人には成れそうにない。

 私はもう少し、人間で居たい。

「じゃあ、教えてあげる」

 この時間は、あまり長くは続かないだろう。

 きっと、高々百年、もしかしたらその半分。そのくらいの時間だ。

 けれど、それが終わったら、それこそそれでもいい。

「私の名前は――」

 いざとなったら二人で行けばいいのだ。

 あの空の先へ。

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