光の入口
その直後だ。
右斜め前方にある滑り台の奥の茂みからコソコソと音が聞こえた。
澪はへっ、と素っ頓狂な声を出すと茂みを怯えた様子で見つめる。
茂みからのその音は、隠れている何かの動物が出したものだろうと僕は思ったが、辺りは静寂に包まれている住宅街なので、一層音は不気味聞こえる。
「何?」
澪は怯えた声で言う。
さっきまで僕の悩みを聞いて、色々世間話をし合ったこの少女は今更ながら自分より年下の、か弱い女の子なのだなと思っていると、茂みからの音が止まり、おもむろに可愛い正体が姿を見せた。
ニャーという鳴き声と共に。
茂みから出てきたのは全身真っ黒な、単なる野良ネコだった。
「おっ、かわいいな。」
黒猫に近づいていこうとする僕…、いや、そのネコに問い掛けるように彼女は言った。
「あの時のネコちゃん?」
「…あの時って?」
「…ヒロ兄が消えたあの日、この公園にいたネコです。多分。」
澪が先に黒猫に近づいていくと、どうやら人懐っこいネコらしく、ミャーと声を出して澪に寄り添う。
澪はしゃがんでネコの頭をなでなでしつつ、僕に背を向けたまま言う。
「このネコ、毛がぼさぼさ。なんかゴワゴワしてる…。」
「野良ネコだからね。」
「一匹だけなのかな?母親とかはいないのかな?」
近くに別のネコがいる気配はない。
「いないみたい。」
「…そっか。じゃあね、ネコちゃん。」
澪が立ち上がったその時だった。
澪の眼の前一メートルほどのところに、いきなり空間上の一点に光が灯されたかと思うと、その光は次第に大きくなり、直径一メートル程度の大きな円の形をした入口が現れたのだ。
一瞬だった。僕も澪も声にならない驚きを見せる。
一瞬の出来事で眼前の事象を理解するのには少々時間がかかった。
円形のその入口はとてつもなく眩しい光を放ち、その眩しさゆえに凝視することができない。
澪はというと、口をポカンとあけた茫然自失な表情で立ち尽くしている。
「これは…何なんだ…?」
僕は自然と呟く。眼の前の不可思議極まりない現象を見て。
すると一方の澪は思い当たる節があるかのような口調でこう言った。
「あの時と同じ…。」
「えっ?」
「…テレビとかでは光に包まれて人が消えていった、なんて言われてるけど、私はあの日見ました。ヒロ兄がこの中へ入っていくところを…。」
「つまり、これがかの行方不明事件の謎の光の正体?」
「…そう。他の人達も多分おんなじです。」
この眩い光を放つ、どこかへと繋がっているであろう円形の入口が、たった今世間を騒がせている行方不明事件の正体?
澪は依然として何かを考え込んでいる様子である。
恐らくどの目撃者も遠目にしか見ていなかったので、光に入っていくところを光に包まれて消えてしまったのだと見間違えた、と考えるのが妥当か。
そして澪の兄も含めた二十人余りの人間がこの光の中に自ら入っていき、行方不明になったと…。
この時、恐怖、驚きと共に好奇心が湧いた。これはもしかして何処かへと続く入口で、もしかしたら別の世界へと繋がっていたりして…。
だが冷静になって考える。
これが二十人の人々を連れ去っていったものなら、僕は今どうすべきか。
そもそもこんな非科学的なことが起こる筈もない。これは一体何なのか。
何度見ても驚きを隠せない。
もしかして夢?そうなのか…?
そんなことを考えていると、突然に澪は脳内フル回転中だった僕の方に体を向けて真剣な顔つきで言った。再び髪についたヘアピンが光る。
「入ってみようと思います。」
「えっ…?!」
「…ヒロ兄はこれに入っていっていなくなった。なら私も…。」
僕は澪の発言を遮るかのように声を荒げた。
「お兄さんはそして帰って来なかった。だったらそれは危険すぎると思うよ?とりあえず近くに誰かを呼びに…。」
「だめです。」
澪はかつてないほど真摯かつ決意の表情で続ける。
「…リュウさんも分かってるんでしょ?行動に移さないと全ては始まらないって。」
「いや、でも…。」
僕は本当にどうしていいのか分からなかった。
今の澪の決意に反駁できるほどの説得なんてできないと思った。
僕は人並み以上には理解している筈だ。行動に移す、ということがいかに難しいことかを。
だから僕はずっと葛藤を続けてきたのだ。澪も同じはずである。澪は兄と父と自分との関係に悩まされてきた。
しかし彼女はそれを行動に移そうとしている。
行動力のない僕は澪を見習うべきなのである。
だったら僕の選択はただ一つ。
「僕も行くよ。」
「えっ?」
澪は兄を連れ戻して自分の居場所を取り戻すのが目的。
そして僕はこの選択が今の自分に何かを与えてくれることを期待して…。
澪は驚いた様子だったものの即座に僕の考えを理解してくれたらしく、こう言った。
「解りました。じゃ、入りましょっか!」
「うん。お先にどうぞ。」
「えー?まさか怖いんですかー?」
「そんなわけないよ。…でも不安なのは確かかな。」
僕のセリフを聞いた澪は少々陰鬱な顔になる。
「…私もですよ。」
そりゃ、得体の知れないこの謎の入口に入ることに不安感を抱かなかった奴はいなかっただろう。
僕も現在の脳の思考回路は、九割方不安的な感情が占めている。
だが、僕と澪を含めた二十人ばかしの人たちは、それを上回る何か特別な思いを秘めていたに違いない。
澪は言った。
「じゃあ、行ってきます。」
「何が起こったものか分かったもんじゃないけど、危険なことは確かだと思うから…、気をつけてね。僕もすぐ行くから。」
「はい。」
澪は僕に笑顔を見せると、傍にいた例の黒猫にも微笑みかけたのち、右足から謎の入口へと足を踏み入れた。
足から順に体、そして顔がすっぽりと光に包まれてその姿は見えなくなる。
澪の姿が跡形もなく消えたことを確認した僕は、手に持っていた学生鞄を砂地の上に置くと、大きく息を吸って、吐いた。
「よし。」
再度決意を固め、足を踏み入れる。足が地面につく感覚はない。ゆっくりと体を光の中へと入れていく。
体は下から順に見えなくなる。
そして頭のてっぺんまで光に覆われたことを感じるとその刹那、出口が消えるところが見えた。同時にネコの鳴き声も聞こえた気がする。
目の前は真っ白だ。
目を閉じると、自分は夢の中にいるのではないか…、そんな錯覚に囚われる。
このまま僕はどこへ行くのか…。どうなるのか…。解る筈もなかった。
それからの記憶はない。
自然と感覚がなくなり、意識は朦朧となっていく。
そして目が覚めた時、そこにはもう一つの現実があった。