シーン4.任務
時同じくして別の路地裏。南雲と似たような恰好をした者が闇の中を疾風のように駆けていた。
「南雲の奴、無茶してなけりゃいいんだが……」
雨上がりの道はまともに日が当たらずじめじめとしていたにも関わらず、上下スーツで固めたあごひげの男、泉謙二郎はポツリと独り言をつぶやいた。その顔には湿気による不快の表情は無い。彼は別のことで頭がいっぱいだった。
彼の部下にして現相棒でもある南雲正和という男は、ことある度に問題を起こすことで署内ではちょっとした有名人だった。
敵に遭遇すれば言いつけを無視して交戦し、周囲の被害を一切考えずに行動する。闘いに夢中になる余り、敵の仲間を見失うことも少なくない。
確かに強い敵と戦うことになれば無茶をしたくなる気持ちも分かる。だが周りにもう少し配慮してほしいというのが泉の本音だった。
頭に手を当てながら泉は自分がやるべきことを確認した。
今回の作戦は敵二人の拘束。
奴らを見失えば今後の被害が拡大することは間違いない。
と、彼のインカムからノイズ音が走った。部下からの連絡だ。
『こちら渋谷警備担当藤代、泉警部補に連絡』
「どうした」
『鼠たちの居場所が三分ほど前に分かりました。位置データの転送準備は既に整っていますがどうしますか?』
「よしきた。そいつをこっちによこしてくれ」
『了解』
言うが早いか、サングラスからピピッと軽快な音が鳴った。視界の隅に黄色の点が二つ浮かび上がる。普通なら目にも留めない地図上の小さな道を急ぐように動き回っていた。奴らにとって路地裏など自分達の庭にも等しい場所。張り巡らされた警備網をかいくぐることなど朝飯前のはずだ。
「ドブネズミめ、衛星に映らないように隠れてやがったか」
警察内では相手に悟られないようするための隠語がいくつも存在する。
例えば薬物売買人。薬が人から人の手へ渡っていくその拡散性から「鼠」と名付けられている。
麻薬やウイルス剤で一時的に身体を強化した者、つまり薬物乱用者のことは、力の象徴である「虎」を隠語に当てている。
鼠は裏ルートを通じて虎に薬物の手引きをし、その代わりに金をもらう。取引相手である虎は自ら薬物を入手することは無く、鼠から手に入れるのみ。
警察の立場からすると薬物撲滅の要となるのは鼠だ。彼らを捕まえて裏ルートを追い、発生源を突き止める。その発生源を抑えることで、かなりの薬物流出を防ぐことができる。逆に考えれば、鼠を一度逃すだけで多くの薬物が再び世に出回ってしまうのだ。
先ほど南雲に虎の始末を押し付けたのもそれがあってのことだった。今の彼の注意力では敵を倒すことはできても、捉えることなど不可能に近い。あっさり逃げられておしまいだろう。こんな事を本人に言ったら意地でもやりそうだから怖かったりするが。
サングラスのフレームに手をかざして画面を操作すると、泉と鼠二人との直線距離が映し出される。
「距離700m、この地形なら30秒足らずってとこか」
陸上選手は100mを9秒台で走る。単純計算をすれば700mを一分弱で走り切ることになるが、それは常に全力で走った場合だ。疲労によりタイムは自然と伸びてしまう。さらにビルが密集している渋谷区の状況を考えれば、直線距離などたいした意味は持たない。
しかしこの「装工機動」はそれを可能なものにさせる。ありとあらゆる地形や状況に対応し、常に最適な動きを人体へと伝えるのだ。
「さすがに壁をぶち破るのはまずいな。屋上からなら行けそうか?」
泉はその場で強く踏み込んで高くジャンプすると、パイプや室外機を伝って上へ上へと駆け上がった。幸いこの辺りは廃ビルが多いので泉の姿が人目に付くことは無い。動きが制限されなければ、この装工機動は最大限の効果を発揮する。
適当な屋上に上がって周囲を見回すと、自分の目線には同じような風景が広がっていた。誰の手によって管理されるわけでもなく、サビだらけの屋上を脇目も振らずに飛び移っていく。ビルの屋上から屋上へと飛び移る際にタイルが何枚か剥がれ落ちたが、ビルの利用者もいないので気にする必要はない。
一応言っておくが、泉はパルクールやフリーランニングといった、何年もかけて会得する技術は持ち合わせていない。持っているものと言えば、せいぜい壁を使わずに逆立ちができるとかのレベルだ。そんな人間でさえも人工関節を装着してしまえば超人的な芸当が行える。
「ここまでくれば人間なんでもありだな。……おっと、いたいた。見つけたぞ」
「ひぇっ」
恐怖なのか驚愕なのかよく分からない声が下から聴こえてきた。ビルの淵から見下ろすと、ちょうど鼠もこちらを見上げている。
「対象の鼠二人発見。これ以上逃げられるのもめんどくさいから大人しくしろよー」
気楽に下へと言葉を投げかけた後、ビルの屋上から10mほど垂直落下した。
ドガッ!! と靴の裏から音が鳴る。鼠の目の前に降り立った泉には、かすり傷一つ見当たらない。
人工関節の取扱説明書に15ページにもわたって事細かに書いてあった、わけわからんシステムが勝手に作動したのだろう。もちろん泉はその説明を全部読み飛ばしたが。
いきなり上空から泉が降ってきたこともあって、びびった様子で鼠の男の一人が口を開いた。
「お、俺たちを捕まえても何も変わらないぞ」
「そんなことは百も承知だ。だがな、ちょっとした積み重ねが最後の結果に現れるんだよ。そう、まさに塵も積もれば何とやらだな」
ほい、と軽い掛け声で泉は男の顎の横をタッチする動作をした。というか、猛烈なスピードでぶっ叩いた。
男は自分の身に何が起きたのか分からない顔ですぐに地面に崩れ落ちた。
泉は横を振り向いてもう一人の男の服の襟を掴み、ぐいと手元に引き寄せる。
「次はお前だ。どこまで耐えられるかな?」
「警察ってのはこんなに乱暴なのか、はは」
その男は諦めた様子でがっくりとしていた。
「署でたっぷりと話を聞いてやる。とりあえずお前も寝ようか」
同じように男の顎を一叩きしたが、まだ意識はわずかに残っていた。先ほどより力が少し弱かったか。
と、ここで何か男が呟いていたのを、泉は聞き逃さなかった。
「警察もた、大変だな、進化するのによ……」
「おい、おーい。……気絶したか」
首元から手を離し、泉は男をドサリと地面に横たわらせた。
進化、という謎のキーワード。この単語が意味するものは何なのかは分からないが、今後の予定が一つだけハッキリした。
こいつらを尋問して、意地でも「進化」について吐かせることだ。
泉はスーツの内ポケットから慣れた手つきで煙草を取り出すと、とりあえず一服する。
「任務完了っと。さぁて、南雲はどうしてっかな? 」