シーン3.戦闘
互いの距離はおよそ10m。暗い路地裏、南雲の靴だけが辺りを青白く照らしている。
「アンタが来ないんだったらこっちから行かせてもらうよ」
南雲の一言によって静寂は破られた。
ほっそりした体のラインが幾重にも重なりその姿がブレたかと思いきや、次の瞬間には見る影もなく消えていた。辺りが暗いことに加え、その異常なまでの速さによって南雲の姿は完全に闇に溶け込む。
何も見えない状況で存在するのはタタタァン! という連続する甲高い破裂音と不気味に尾を引く光だけ。一歩一歩踏み出すたびに足元のコンクリートを破壊して急加速していく。
相手に接近するにつれて破裂音は大きなものとなっていき、もはや鼓膜が破れるのではないかと錯覚するまでの大音響となった時、突如辺りを支配していた音が止んだ。
相手の背後、身長3mにぴったり合う高さまで跳躍した南雲の姿が一瞬だけ靴の光りで照らされた。空中で腰を最大限に捻り無防備な首へと渾身の蹴りを叩き込む。
これから人の意識を奪うというのに微笑んでいるようにも見えた。その姿はまるで死神。右足という名の鋭い大鎌で罪人を処刑していく無慈悲な執行人。
まだ相手はこちらに振り向いていない。思い切り蹴り飛ばして意識を刈り取れば終了だ。
だが、そう簡単には事は進まなかった。
坊主頭がいきなり揺れ動き、死をもたらす右足を避けたのだ。
首筋を狙った蹴りは虚しく空を切る。
「っ!」
今の攻撃は何故躱されたのか。
瞬時に南雲の頭に焦りではなく疑問が生じる。
確かに激しい音は生じたが、肝心の姿は見えなかったはずだった。しかも相手はこちらに背を向けている状態で、だ。
しかし初撃をかわされたからといって慌てる暇など無い。
一度着地した途端、すぐさま次の攻撃を仕掛ける。
次の攻撃は人体頭部への強打。一瞬で相手を昏倒させることだけに特化した技。運が良ければ脳震盪で倒れるが、悪ければ頭蓋骨骨折で死亡するだろう――――――常人ならば。
ここで行われているのは常軌を逸した人外共の闘いだ。相手に怪我をさせるのをためらえばこちらが死んでしまう。気を使う必要など無い。
飛んでくる銃弾をも容易く跳ね返す超高速の拳打を放った。
しかし、またしても当たらない。
それどころか南雲が攻撃を放つ『直前』から避け始めていた。
「遅いんだよ」
ゾワッと鳥肌が立つ。いきなり相手の身体から気合いのような物が発せられた。恐怖や焦りではなく本能。身体が頭に危険を知らせていた。必死に後方へ飛びのいて距離をとる。
南雲の口からひゅうと息が漏れた。
まるで自分の攻撃がどこに来るか『始めから知っている』ような先読み。予知か何かでも使っているのかと疑いたくなる。
名残惜しそうな顔を浮かべて坊主がこちらを振り返った。
「おいおい、攻撃して来ないのか? 」
「ヤバそうな時は素直に引くのが一番ってね」
「最初の勢いが無くなってんじゃねぇか。こりゃ期待できないな」
もう終わりかーなどと呑気な声で呟いた後、退屈そうに頭を掻いて、
「次はこっちの番だ」
直後、3mの巨体が眼前に迫り、大きく空いていた距離はいつの間にか詰められていた。激薬によって不自然に肥大した腕から不可視の拳が発射される。
のけぞってそれを避けたのも束の間、追撃が南雲の身体目がけて次々と襲う。首のすぐ横でビル壁が崩れるのが分かった。相手にとっては軽い牽制であっても、その一発でも食らえば致命傷は間違いない。
「避けてるだけじゃ何も変わんねえぞ! 」
「んなこと分かってる! 」
南雲は高く跳び上がって攻撃を回避したが、それを待ってましたとばかりに相手も両側の壁を交互に蹴って接近してきた。
「空中じゃあ身動きは取れねえよな?」
考えなしに空中に退避した南雲と確実に攻撃を仕掛けるために何度も軌道を修正して移動した相手。この状況ではどちらが有利なのかは言うまでもない。
ボクシング選手の何十倍と重いボディーブローが南雲の体に突き刺さった。
「ぐおおおっ!!!」
周りの風景がぐにゃりと曲がる。体の奥でメキリと嫌な音が響く。自分の腹に太い鉄パイプでも刺さっているのかとまで錯覚してしまう。
もはや物扱いされるくらいの勢いで下に投げ飛ばされると、受け身も大して取れないまま背中から地面に叩き付けられた。頭部に損傷が無かったのは不幸中の幸いか。
「おら、避けねぇと危険だぞ」
顔を起こしてみれば巨大な人影が上空から降ってくるのが見えた。痛みで悲鳴をあげる体を起こして横に回避する。
ただの踏み潰しで頑丈なはずのコンクリートが粉々に砕け散った。ひびが入ったとかそういう生易しいレベルではない。まるで豆腐でも崩しているかのような手軽さ。
力勝負に持ち込めば絶対に負ける確信はあった。あと少し遅れていたら自分の体にぽっかりと大穴が空いていたのか。そう考えただけで南雲は少し身震いがした。
「まったく……人をリアルに吹っ飛ばすとか何だよ。あ、帽子とれてんじゃん」
手前の水溜りからはダークブラウンに染まったショートヘアの青年がこちらを見ていた。地味な顔をしているくせに、その淡青色のジト目のせいで変に目立ってしまっている。この何千回と見た顔は紛れもなく自分、「南雲正和」だと分かった。この目は個性でもなんでもなく、単なる悪目立ちだと自覚はしているつもりだ。
相手は地面に降りて南雲の顔を見るなり驚いたようだったが、それはすぐに余裕の表情に変わった。
「ハハッ、どんな奴かと思えばガキじゃねぇか。お前みたいな奴を寄越すなんて、奴らもさぞかし人手が足りてねぇみたいだな」
「そう言われるのは慣れてるさ。うちの上層部の方々は半人前の俺で十分だと判断したみたいだけどな。そのおかげでこんな予知の真似事までする相手に当たった訳なんだけど」
南雲の発言に対して自信ありげに相手は答えた。
「予知? それは違うな。この薬は身体の隅々まで強化される、つまり聴力や触覚、視覚さえも発達する。言ってみれば人類の"進化形"だ。お前のような人間とは格が違うんだよ」
人類の進化形。
格が違うといっても、一般人と有名人といった社会的な地位を言っているのではない。
例えば飢えたライオンがいる檻の中に、武器も持たない人間が放り込まれたとしよう。この時、人間はまともにライオンと対峙できるだろうか? 人間はこう考えるだろう。『抗うだけ無駄だ、自分は食われる運命なのだ』と。
頭で考えなくとも本能で分かってしまう「食物連鎖の上下関係」。
これと同じように考えればよい。時代に身を任せてゆっくり進化した人類と、科学の力で超常的に発達した人類。そもそも立っている立場が違うのだと。
「呼吸の荒さ、筋肉の動き、重心の位置。お前の動作は手に取るように分かる。次にどう動こうがお前の攻撃は俺には当たらねぇ」
「人類の進化ね。そんなアホ臭いことやって何が楽しいんだか」
「何?」
それまで地面に腰を下ろしていた南雲は、服に付いたコンクリートの破片を払落とし、ゆっくり立ち上がりながら言った。その顔には今までのヘラヘラした表情ではなく、どこか威厳を感じさせる表情をしていた。
「そろそろお遊びの時間は終わりにしようか。麻薬の力に頼らなくても人類が十分強くなれるってこと、アンタに教えてやるよ」
「このクソガキ風情が調子のりやがって」
瞼を閉じて深く息を吸い、深呼吸をする。そして再び瞼を開く。
目の相手をしっかりと見据えて、先の言葉に一言付け加えた。
「これが装工機動だ」