第七話 あの海へ行く
第七話 あの海へ行く
1
2064年八月下旬。
海岸線沿いの国道から見える海はとても綺麗だった。雲ひとつない青空、照りつける真夏の太陽。今日は快晴だ。他の人がこの景色を見れば、心が自然と晴れてくるかもしれない。
でも、あたしはその景色を複雑な気持ちで眺めていた。この国道を通ったのは今回が初めてじゃない。今までに何度かこの景色を見たことがあって、そのどれもがあたしにとって特別な意味を持っていた。それが良い意味だった時があれば、悪い意味だった時もある。
今回はどうなのかしら……。
「貝堂? おい、貝堂!」
「え、何?」
ぼうっとしていたあたしの名前を呼んだのは、車を運転している梨折だった。車のハンドルを操作しながら、横目で助手席に座るあたしを見ている。
「そろそろ到着する。大丈夫か? あまり日差しを浴びすぎると熱中症になるぞ」
「平気平気。あたし、そういうのにはかなり強いから」
「だから、あまり疲れていないのか。よくこの暑さに耐えられるな」
流れ落ちていく汗を手で拭いながら、梨折は車を運転していた。町を朝早くに出発したにもかかわらず、時刻はもう昼前になっていた。ここまで長い道のりを所々で交代しながら運転していたけど、梨折のほうはかなり疲れているようだった。
「それにしても、わざわざこの国道を走る必要があったのか? 大阪経由で行ったほうが早いだろ」
「ちっちっち、甘いわね。和歌山の自然、真夏の日差し、そしてこの綺麗な海を堪能するにはこの道を走るのが一番なのよ。夏ソンとか流すことが出来たら最高なんだけどな~」
「そうなのか……。しかし、効率が悪いぞ」
「あんた、本当に真面目だねえ。モテないでしょ?」
「おい、恋愛とは関係ないだろ」
「あはは、ごめん、ごめん。心配しなくても、あんたはあんたで魅力的なところがあるわよ」
「からかうのはやめてくれ。余計に疲れる」
冗談めかして言うと、梨折はため息をついた。婚約する予定だった彼女がいたことは沢村から聞いていたけど、その時に色々と苦労していたんだろうなと思った。
「ところで真那、何を読んでるの?」
あたしは後ろの席でずっと小説を読んでいる真那に聞いた。
「西石 冬彦さんっていう人の書いたミステリー小説です」
真那はそう言いながら聖書のように分厚い本を持ち上げて、表紙のほうを見せてくれた。
「あー、あの分厚い本で有名なやつか」
「秀平 さん、知ってるんですか!?」
真那が驚いた表情で聞く。梨折が話題に食いついてきたことが意外だったみたい。それを察したのか、梨折はややため息混じりに言った。
「心外だな。俺だって本ぐらい読むぞ」
「あ、すいません……」
真那も失礼なことを言ったと思い、顔を赤くして謝った。それに対して梨折は軽く笑った。
「試しに本屋で読んだことがあるが、面白くて読むのが止まらなくなったな」
「ですよね! 私も今すっごくはまっているんです。シンナは最初の何ページかで読むのやめちゃったんですけど」
「あいつはそういうことを嫌がりそうだからな。本を読むより、体を動かしてるほうが好きなんだろ」
「ふふ、秀平さん、シンナのことをよくわかっていますね」
「あとで怒られるかもしれないがな」
二人が小さな声で笑いあった。思えば、二人のこうしたやり取りを見るのはこれが初めてかもしれない。何だかんだで仲良くしているみたいね。
「だから、そんな恥ずかしがらなくても似合ってるって言ってるだろ」
「そんな何度も言わなくていい! だが、やっぱり恥ずかしいんだよ……」
真那の隣の席では沢村と未国が話をしていた。沢村が未国の服装について褒めているけど、未国はずっと恥ずかしがっている。
まあ、当然かもしれないわね。今まで学生服ぐらいしか着てなかった子がいきなり水玉模様の入った青いワンピースに、白いリボンのついた麦わら帽子なんて被っちゃってるから。でも、あたしから見ても今の未国はすごく女の子らしくて可愛かった。
「せっかく渡井と橘がくれたんだ。もっと堂々としろよ」
「そんなこと言われても……うう、やっぱり恥ずかしい!」
顔を赤くして未国は麦わら帽子を外した。
「外に出たら被ってくれよ」
「うう、お前、本当はからかってるだろ!」
「からかってない。純粋に俺がそうしてもらいたいんだよ」
沢村は笑いつつも、口調はとても真面目だった。
「わ、わかった……」
「よしよし、良い子だな」
「やっぱりからかってるだろ!」
この前の誕生日パーティの前後でここまで二人の関係が変わるなんて、誰も想像していなかっただろう。とても良い事だと思うけど。
「うおおおおおお、綺麗だ! 綺麗すぎる! 海、サイコー! 地球に生まれて良かったぁぁぁぁ!!」
「ちょっと文仁、はしゃぎすぎよ! 窓から顔を出したら危ないでしょ!」
真那や未国たちの座る席の後ろから大きな声が聞こえてきた。見ると、文仁が大声で叫びながら車の窓から顔を出している。相変わらずテンションが高い。まあ、この旅行を一番楽しみにしてたのは間違いなくこいつだから、仕方ないっか。
そんな文仁を、隣に座っていた鶴香が必死に車内へ引き戻そうとしていた。いつもの仲が良い二人だ。俊明のことでわだかまりがあったみたいだけど、それも解消されたらしい。
「早く泳ぎてえええ! かわいい子の水着姿が見たーい!」
「いい加減にしなさい、この変態!」
鶴香の張り手が文仁の尻にヒットした。文仁は「あぎゃあああ!」と叫んで、車の中に戻った。漫才のほうにも磨きがかかってきたみたいね。
「お父さん、ババがどれか言って」
「わははは! 愛佳、ズルはいけないぞ、ズルは! 人間、正々堂々が一番! 己の直感を信じて、自分の求めるカードを引き当てるのだ!」
「そうだよ。あいちゃん。教えてもらったら、ババ抜きにならないよ」
「うん。じゃあ、仕方ない。必殺・千里眼!」
「あ、あいちゃん、目が怖いよ……」
最後尾の席では葉作、愛佳、千登勢の三人が座ってトランプをしているようだった。千登勢と愛佳はアメリカに行く前からいつも仲良しだった。葉作がいると、仲の良い姉妹と父親に見える。
本当に家族みたいね……。
一通り車に乗っているメンバーの様子を見たあと、あたしは前に向き直った。ちょうど、先にある信号が青から赤に変わったので梨折が車を止めた。何となく助手席の窓から辺りを見回す。
「あ……」
その時、道路脇に立つ一つの店が目に止まった。
今はシャッターが閉じていて休みになっているようだったけど、屋根についている大きな看板には『藤原亭』と書かれている。
あの店、今もやってたんだ……。
懐かしさが沸き起こってくる。あたしはまた過去の自分のことを思い出した。
2
十七年前。2047年。
朝からずっと晴れていたおかげで、真っ暗な空には大きな満月だけが浮かんでいる。その月の光に照らされた小さな町。都会から少し離れているけど、決して廃れた場所ではなく、いつもはとても賑やかな場所だ。
けど、今夜は違う。普段明かりのついてる建物は全て電気が消えていて、道路を走る車もその場で停まっていた。通りを歩いていた仕事帰りの人たちもみんな地面に倒れて眠っている。
「あたしよ。もうすぐ標的に追いつく。先に仕掛けておくわ」
そんな異常な状況にある町の建物の屋上をあたしは全速力で走っていた。どこの高校の制服かわからないセーラー服とスカートを身に付け、少し先の道路を走る一台の車から目を離さない。
普通の人なら落ちてしまうかもしれない距離だけど、あたしは建物の屋上から隣の建物の屋上へ大きく跳躍した。恐怖は少しもない。今まで何度も何度もやってきたことだ。いつもどおりにすればいい。
そう自分に言い聞かせながら次々と建物を飛び移って車の進む通りに先回りする。
『いづみぃ、一緒に死のう? パパたちがここで生きていても意味なんてないだろぉ?』
ふとしたことで思い出す。狂ってしまったお父さんの言葉は何年経っても、あたしの心を縛っていた。
でも、あたしは認めない。あたしがこの世界で生きていることには必ず意味がある。ないとは言わせない。絶対に。
やがて、ヘッドライトのついた一台の車が通りの向こうから走ってくるのが見えた。あたしは両手にメリケンを出してその場に身構えると、車が真下を通るタイミングを見計らって屋上から飛び降りた。
ものすごい速さで落下したあたしは狙い通り、奴らの乗る車の上に着地した。すかさず、運転席のフロントガラスをメリケンで叩き割る。車がコントロールを失って、近くの電信柱に激突した。
「くそっ、ガードレディか!?」
助手席から男が現れる。すかさずあたしは車から飛び降りて、男に襲いかかった。男が反応する前に拳を叩き込む。
「がっ!」
メリケンのついた拳をまともに受けて、男は頭から血を流して、はるか後方に吹き飛んだ。間違いなく即死だっただろう。
けど、その隙にもう一人、別の男が刀を振って襲ってきた。あたしはその場でしゃがみこんで男の攻撃を避け、その顎に向かって拳を振り上げた。顎が砕ける音と共に男の体が少し宙に浮き、そのまま地面に倒れた。
「もらったぁ!」
突然、後ろから声が聞こえて振り返る。三人目の男がすぐ近くで刀を振り上げていた。敵は二人だと思っていたのに、まだもう一人残っていた。
やられた、と思ったのは一瞬だった。銃声が鳴り響き、男は刀を振り上げたまま、動かなくなった。やがて眉間に開いた穴から血が流れ落ちていき、男は膝から崩れ落ちていった。
その背後で銃を構えている男がいる。
「大丈夫ですか、伊津美?」
「ええ、ありがとう、昇」
貝堂 昇。あたしのガードマンであり、変わっていくあたしをずっと支えてくれた男だった。
3
八年の歳月なんてあっというまだった。小学生だったあたしは既に高校生か大学生と呼べるくらいに成長していた。普通なら爽やかな青春を過ごし、甘酸っぱい恋愛をする少女になっていたかもしれない。
でも、現実は違う。かつての故郷から遠く離れた町で、誰にも気づかれない真夜中に、あたしは特別な力で奴らと死闘を繰り広げている。
刀人という特殊な能力を持った連中が実在するなんて、信じられるわけがなかった。でも、あたし自身がその力に目覚め、その力でお父さんを殺してしまったので、信じざるをえなかった。
お父さんを殺してしまったあたしは昇に引き取られて、NPO 団体『アサガオ』の施設で暮らしているガードレディの仲間になった。昇がお父さんの同僚だという話は嘘だった。あいつは刀人になる可能性のある子供たちを保護する仕事をしていたらしい。その過程で刀人になりかけていたあたしをずっと監視していたという。
あの手が急に熱くなる病気は刀人になる兆候で、遅かれ早かれ、あたしは刀人という特別な人間になっていたのだ。
昔、テレビでやっていたアニメに登場する炎や水を操る能力者。それに近いものにあたしもなれたというわけだ。普通だったら喜ぶだろうか?
そんなわけがない……。
あたしはこの力でお父さんを殺してしまった。お母さんも死んでしまった。普通の家族からあたしは一人ぼっちになり、こうして誰にも知られない仕事で命をかけている。
そんな目に遭ったのに、どうしてあたしはこの仕事を続けているのか。
それはあたしが生き続けていることに意味を持ちたかったからだ。
『パパたちがこの世界で生きていることに意味なんてないんだよ』
あの時のお父さんの言葉を認めないために、あたしがこの世界に生まれてきた意味を知るために……あたしは昇と戦うことを選んだんだ。
それがあたし、貝堂 伊津美がガードレディとして戦う理由だった。
「お疲れ様です、伊津美。今日もよく頑張ってくれましたね」
その日。命懸けの仕事を終えたあたしと昇は車で暗い夜の町を走っていた。外を見ると街灯や建物の明かりが見える。もうフィールドの外に出た証拠だ。今日はもう戦う必要がない。
「……昇」
「どうかしましたか?」
「疲れたわ。休みたい……」
「……わかりました」
あたしのその言葉を聞くと、昇はアサガオの施設に向かっていた通りから別の通りに入り、進路を変えた。
4
「疲れた。休みたい」
ただの愚痴にも取れるこの言葉はあたしたちの間では特別な意味を持っていた。
本来帰るべき場所から町の外れにあるホテルに車を泊め、そのあとは……。
昇とそうした関係を持つのはある意味必然だった。家族を失って行きどころのなかったあたしにガードレディとして生きる道をくれたのはあいつだし、とても感謝していた。苗字をあいつと同じ『貝堂』にしたのもそれが理由だった。昇もあたしに特別な想いがあったらしくて、ずっと支えてくれていた。だから、あたしは仕事でもプライベートでもあいつのことを頼っていた。
「体調はどうですか、伊津美?」
夜が明けようとしている時間帯。同じベッドの上で隣にいる昇が聞いてきた。眼鏡を外し、服を脱いだ状態で上半身をシーツから出している。
「ぼちぼちってところ。完全に疲れが取れたわけじゃないわ」
あたしも昇と同じように裸のまま、うつ伏せに寝ていた。疲れが取れていないのは当たり前だ。昇も仕事で疲れていただろう。悪いことをしてしまったかな……。
「連日連夜の仕事でしたからね。無理は禁物です」
それでも昇は決して弱音を吐いたりしない。いつもあたしのことばかりを心配していた。その優しさが余計にあたしの中で罪悪感を大きくしていく。
「……ごめん、昇。しばらく休みたいかも」
結局、あたしのほうが弱音を吐いてしまった。自分のことながら、頼りにならない女だ。
「伊津美」
「何?」
昇はベッドから起き上がり、近くに置いていた眼鏡をかけた。そして初めて会った時と変わらないあの優しい笑顔を見せた。
「良い機会です。前からあなたを連れて行きたかった場所があるんです。休みを取って一緒に行きませんか?」
5
数日後。休暇を取ったあたしは昇の運転する車に乗って、和歌山県の海岸線沿いの国道を走っていた。
助手席の窓から見える海はあの事故の時から何一つ変わっていない。でも、あたしはあの時のことをあまり考えないようにしていた。辛くなるだけだし、刀人に目覚めた時のことも思い出してしまうからだ。
「昇、どこに行くの?」
「僕がずっとお世話になっていたお店です。美味しいものが食べられますよ」
昇は運転しながら言った。
いったいあたしをどこへ連れて行くつもりなんだろうか。
やがて昇の運転する車がある店の駐車場に停まった。すぐ近くから海が見える場所にその店は建っていた。
「さ、着きましたよ」
昇が車から降りたので、あたしもそのあとに続いた。
店の看板には大きな文字で『藤原亭』と書かれていた。入り口のところにも同じく立て看板が置かれている。
昇が店のドアを開けて先に中に入り、あたしもあとに続いた。店の内部は綺麗な木製の壁に覆われていた。テーブル席が六つ、カウンター席が五つほどある。それほど広いわけではなかったけど、良い雰囲気の店だった。
「いらっしゃい、二名さまかい?」
店の奥から声が聞こえたかと思うとエプロンをつけ、黒いタオルを頭に巻いた女の人が現れた。綺麗な顔立ちのおばさんだった。スタイルも良く、特にその大きな胸に女のあたしでも目が向かってしまった。
「お久しぶりです、要おばさん」
昇がおばさんにお辞儀すると、おばさんはとても驚いた表情をした。
「あ、あんた昇じゃないか! しばらくぶりだね!」
「元気そうで何よりです」
「ちょっと道夫! 道夫! 昇が来たよ!」
「え、昇くんが!?」
店の奥からドタバタと誰かが走る音が聞こえたかと思うと、おばさんと同じエプロンとバンダナをつけたおじさんが出てきた。
「お久しぶりです、道夫おじさん」
「ああ、ほんとだ! 昇くんじゃないか! ずいぶん久しぶりだね!」
おじさんは嬉しそうにはしゃぎながら、昇の両手を掴んでブンブン上下に動かした。昇より元気のあるおじさんだった。
昇からの紹介でおばさんが藤原 要、おじさんが藤原 道夫という名前だとわかった。二人は高校を卒業してからすぐに結婚し、それからずっとこの店を経営しているらしい。地元ではそれなりに有名なうどん屋で、雑誌に載ったことがあるとかないとか、おばさんが自慢げに話してくれた。
「中でもイチオシなのはカレーうどんだよ。当店一番人気だからね」
「じゃあ、おばさん。それを六人前お願いします」
「ん? 二人前じゃないのかい?」
「大丈夫です。彼女は五人前ぐらい余裕で食べてしまいますから」
昇のその言い方にあたしは少し腹が立ってしまった。
「五人前じゃ足りないわ。おばさん、あたしは七人前でお願いします」
「あはは! 昇、あんた、面白い子を連れてきたじゃないか!」
おばさんが手を叩きながら大笑いした。
「よぅし、今回は特別に大盛りにしてあげようじゃないか。道夫、気合入れるよ!」
「任せておいて、要!」
二人がはりきった声でお互いの名前を呼び合うと、厨房のほうへ姿を消した。店内に軽快な音楽と若い女の人の歌声が流れ始める。奥を覗くと、おじさんが手際よくうどんをこねていて、その隣でおばさんが大きな鍋でうどんのカレースープを煮込んでいた。二人とも音楽のリズムに乗って楽しそうに料理を作っている。
「良い音楽ね」
「この曲は要おばさんたちの友人のお姉さんが作ったものだそうですよ。路上ライブで絶大な人気が出て、当時はとてもブームだったと聞いています。おばさんやその仲間の方々はみんなすごい人たちばかりですから」
「でも、昇、あの二人と知り合いなんでしょ? どこで知り合ったの?」
昇の過去の話をあまり聞いていなかったあたしは興味が湧いて、尋ねてみた。
「そんな大したことではないですよ。わかりやすく言うと、僕の人生面で色々と相談に乗ってもらって、何度も助けてもらっている大恩人って感じでしょうか」
「ふぅん、そうなんだ」
「ふふ、信じていないでしょう? 顔に出ていますよ、伊津美」
「別に構わないわ。話したくないならあたしは聞かない」
そう言うと、昇はいつものように優しく笑った。
「ありがとうございます。やっぱりあなたを助けることが出来てよかったですよ、伊津美」
「……そんなお礼なんて、あたしのほうが昇には返せないくらい大きな恩が――」
「はいよ、お待たせ!」
あたしが言い終わる前に厨房の奥からおばさんが現れた。どんぶりに入ったカレーうどんを八つ、お盆に乗せたまま軽々と運んでくる。
「藤原亭名物。藤原カレーうどん、大盛りだよ!」
テーブルに置かれたカレーうどんはとても美味しそうで良い匂いがした。食欲がそそられる。
「美味しそう……」
「遠慮せずに食べな。せっかく昇が連れてきた子なんだ。足りなかったらいくらでも作ってあげるよ」
「ありがとうございます。さっそくいただきます!」
あたしはお箸を手にとってカレーうどんを食べ始めた。
「この子もそうなのかい?」
「ええ」
「そっか。不思議な力を持つ人間なんて、あたしたちぐらいだと思ってたけど……」
「世界は広いってことですね」
「幸せになってほしいね。あたしらみたいに」
「大丈夫です。ずっと支えるつもりですから」
おばさんと昇が何か話をしていたけど、あたしはカレーうどんを食べるのに夢中になっていて、頭に入ってこなかった。
5
現在。2064年八月下旬。
昼過ぎになってから、照りつける太陽の暑さは本格的になっていた。普段なら、流れる汗を拭うのにイライラしてしまうのだが、今は平気だった。
海パンを履くのなんてリアルに高校生の時以来かもしれない。泳ぐつもりはないから上にティシャツを着ているが……。
松阪の町を出発した俺たちは目的地の和歌山県の白浜に来ていた。
白浜と言えば千畳敷、三段壁や円月島などの自然の名所、和歌山県唯一の空港である南紀白浜空港、そして日本三古湯の一つに数えられる白浜温泉が有名だが、実際に来るのは初めてだった。まさか、ここへ旅行することになるとは思ってもいなかった。
『綺麗な海だね』
弥生が心から感動しているように呟いた。確かにこの真っ白な砂浜と青い海を見ていると、心に響くものがある。
「ああ、綺麗だな」
ガードマンの仕事で来ていなかったら俺でも楽しんでいただろう。由美を連れてきたら喜んでいたかもしれない。
「くぅ、遂に……遂にこの時が来たぞぉぉぉ!」
「溝谷、そんなに楽しみだったのか?」
「何言ってるんだよ、沢村! 水着だぞ! あの制服ばかり着ていた華の女性陣が水着姿でここにやってくるんだぞ! お前だって佐東の水着姿見たいだろ! なっ!? なあ!?」
「わ、わかった。そうだな、俺も見てみたい。見てみたいから、そんなに顔を近づけるなよ」
「わははは、いよいよ愛佳も水着デビューか。何せ俺の娘だからな。絶対に可愛いに決まってるぞ!」
少し離れたところで女子メンバーの水着姿を見たくてたまらない溝谷とそれをなだめる沢村、そして昼過ぎから缶ビールを飲んでいる嵯峨山がいた。三人も俺と同じように海パンを履いていた。溝谷と嵯峨山は来る前からかなりテンションが高かった。実は最初、海パンに着替えるのを渋っていたのだが、あの二人にぐいぐい押されて、結局折れたのだ。
「はいはーい、お待たせ!」
やがて着替え場から声が聞こえたかと思うと、女子メンバーが次々と姿を現した。
「お、おお……ふぉおおおおおおおおおおおおおお!」
溝谷が訳のわからない叫び声をあげる。まあ、一番これを楽しみにしていたから仕方ないのか……。
6
さあ、さあ、お待たせしました。溝谷文仁、十七歳のお送りする美少女集団の水着解説コーナーだあああ!
え、誰も待ってないだって? そんな堅いこと言うなよ。こんなシリアス満載の作品でもたまにはふざけてもいいじゃないか! 温かい目で見てくれよな!
というわけでトップバッターは……。
「うーん、良い風ね!」
さてさて、最初に快活な声で現れたのは金髪ツインテール美少女の鶴香だぁぁぁ!! そんなあいつが黒い縞模様のパンツタイプビキニだと!? いきなりハードルが高すぎるだろぉぉぉ! しかも、スタイル抜群! 特に胸! あいつ、あんなに大きかったんだ。知らなかった……って何考えてるんだ、俺は!? 俺の嫁はカンベちゃん! カンベちゃん一筋なんだ! いや、でもそれは二次元の話であって、三次元だと……くぅぅぅぅ、やっぱり鶴香さいこぉぉぉぉ! 最高の女だよ、お前は!
「ちょっと文仁、じろじろ見過ぎだと思うけど……」
さて次に登場したのは八重坂真那……っておいおいおいおいおいおいおいおい! 黒髪ロングヘアーの美少女はもう少し控えめな水着だと思ってたけど、ホルターネックのビキニとは大胆な! しかも赤色!? 胸は鶴香よりもアレだけど、負けるも劣らない抜群のスタイル! そして大人しい性格が相まって、モジモジしているその動き……最高です、真那さん。くぅぅぅぅぅ、もしシンナになったらどんなことになるのか、そのギャップも楽しみだぁぁぁぁ!
「変な顔だな、お前。こっち見るな」
おおぅぅぅっと、お次に登場したのは最近、沢村にツンツンからデレデレになった佐東未国! え、おいおい、ちょっと待ってくれ! あの未国が緑のチューブトップビキニだと!? 紐がない! 肩に紐がないぞ、お前! おまけに真那と同じようにどうして顔を赤くしているんだ! 可愛いじゃないか! 沢村よ……お前、こんな素晴らしい女を堕とすとはさすがだな……ちょっと見直したぜ。
「文仁、キモイ」
フォオオオオオオオオオ! ロリコン要因の愛佳はまさか、まさかのスクール水着だとぉ!? いや、ロリコンにスクール水着はしっくり来るが、予想通りの予想外! というか、どこの学校の物だよ、それ! そんなものが店に売っていて、しかもそれを着てくるとは……わかってる、お前はわかってるぞ、愛佳! しかも、二次元で有名なジト目で俺を見てくるなんて、まさに理想通りだ! 嵯峨山、あんたは素晴らしい父親です。こんな娘をゲットしたあなたは幸せ者でしょう。俺も幸せです、はい!
「溝谷さん、そんなに見ないでください。は、恥ずかしいですよぉ~」
うおおおおおおおおおお! 可愛げな美少女の典型とはまさにこのこと! 仕草も外見も言動もどれを取っても全てランクS! そんな千登勢が着ているのは真っ白なワンピース形のビキニだと!? なんという素晴らしいセンス! 愛佳と並んでロリコン属性最高だよ、お前! やばい、俺も何かに目覚めてしまいそうな気がする……いや、駄目だ駄目だ! 俺は二次元だとカンベちゃん一筋。三次元は鶴香一筋なんだ。そうでなければ……いけないんだ!
「すごい顔してるわね、文仁」
きええええええええい! ちょっと待ってください、貝堂さん! あの貝堂さんがフリンジ三角のビキニだと!? しかも黄色! これは意外だ、意外すぎる! 他の美少女たちにも負けずとも劣らない抜群のスタイル! 貝堂さん、そんなにスタイル良かったんだ! グラビアアイドル顔負けだよ、本当に! ぐすん、ぐすん……名前も覚えていないお母さん、お父さん、俺この世界に生まれて良かったよ。今まで生きていて良かったよ。
俺もリア充の架け橋を歩けたんだ……ああ、感動だ。
以上、溝谷文仁氏の水着解説コーナーでした。
7
メンバーが揃ったところで俺はビーチパラソルの下で横になった。海で泳ぐのもいいかもしれないが、日光浴するのも悪くない。
「おーい文仁、大丈夫? おーい。これ、どうしちゃったの、真那?」
「反応がないね……」
女性陣が現れて色々と奇声をあげていた溝谷は何も言わずにずっと立ち尽くしていた。橘と八重坂が心配しているが、完全に放心状態になっていた。
「へえ、未国、そういう水着にしたんだ」
「あ、ああ。その……どうだ? 変じゃないか?」
その向こうで沢村と佐東が二人で話をしていた。佐東が沢村の前で恥ずかしそうにしている。
「いや、全然良いよ。惚れ直したかも」
「ば、馬鹿! からかうな!」
「別に、からかってないって。ほら」
そう言って沢村が佐東に手を差し出した。
「え?」
「泳ぎに行こうぜ、未国!」
「あ、お、おい、ちょっと!」
佐東が返事する前に、沢村は彼女の手を掴んで海に向かって走り始めた。
「はっ! おい、沢村! 一番乗りはずるいぞ!」
それと同時に溝谷が意識を取り戻して、沢村たちのあとを追って海へ走り始めた。
「あ、待ってよ、文仁! もうせっかちなんだから。真那、私たちも行こ!」
「うん!」
橘と八重坂もそのあとに続く。どこからどう見ても高校生ぐらいにしか見えないあいつらは海水浴を始めた。
「お父さん、愛佳、城作る」
「わははは! いいぞ、いいぞ、愛佳! 海水浴も良いが、砂浜で城作りするのも悪くないな! よぅし、俺が誰にも負けない芸術品を作ってやろう!」
「わあ、葉作おじさん! すごいですぅ!」
嵯峨山親子と秋野千登勢はどうやら砂遊びをするつもりらしい。嵯峨山が慣れた手つきで砂の城を作り始めた。なぜ、お前は手馴れているんだ……?
「うひょー! 気持ちぃぃぃぃ!」
「ちょっと文仁、暴れないでよ! 水がかかるじゃない!」
「へへ、何だよ、鶴香。もっとかけてほしいのか? それ、それぇ!」
「きゃあ! この、やったわねえ!」
「ぶほぉ! 海水が目にぃ!?」
「おっしゃあ、あたしも参戦すんぞ!」
「げっ、シンナ!?」
「おらおらおらおらおらおらぁ!」
「ぐほぉぉぉぉ!」
溝谷たちは海で楽しそうに水をかけあっていた。八重坂がシンナになった以上、女性陣のほうに分がありそうだな。
「へえ、未国、泳ぐのうまいな」
「当然だ。普段から鍛えてるからな」
「よぅし、じゃあ、競争しようぜ。そら、行くぞ!」
「お、おい! フライングだぞ、沢村!」
沢村と佐東は二人で泳ぎ始めたらしい。遠くから見ても、二人ともかなり速かった。
「あれ、梨折。あんたは泳がないの?」
「ん?」
傍から声が聞こえたかと思うと、貝堂が俺を見下ろしていた。
「せっかく海に来たのに、泳がないともったいないわよ」
「そうかもしれないがな、これも悪くないだろ?」
「そうね。あたしもこっちのほうが良いし」
貝堂はそう言うと、俺の隣にしゃがみこんだ。
「楽しそうね、あの子たち」
「ああ」
「最初はちょっと心配してたんだけど、大丈夫みたい」
「……」
貝堂の表情に若干影ができる。俺と同じようにこいつもこいつなりに心配していたことがあったらしい。
「見なよ、梨折。あの子たちの顔。あの子たちだって心の底から笑うのよ。ああやって仲良く、楽しく遊ぶことが出来るのよ。刀人も人間も、そんなの全く関係ない。あの子たちはこうした時間を過ごすのが当たり前なのよ。そうでないとおかしいわ」
「そうだな。でも、お前だって同じだろ。あいつらだけじゃない。お前だって普通の暮らしをしていて当たり前なはずだろ?」
貝堂の言葉に少し引っかかりを感じた俺は素直に疑問をぶつけた。すると、貝堂はくすっと笑った。純粋に笑っているというより、どこか自虐的な笑いに見えた。
「あたしはどうなんだろうね……少なくともあの子たちと同い年ぐらいの時はちゃんとした青春を過ごしていなかったと思うわよ」
「どういうことだ?」
「梨折、あんたは知ってた? 刀人には寿命があるのよ」
「寿命ぐらい誰にだってあるだろ」
「ううん、人としてのそれじゃなくて、刀人の能力を使うほうの寿命よ。時間は特に決まっていないけどね。あたしの場合はそれが唐突に訪れたから」
「お前、昔、何かあったのか?」
「ふふ、まあ、それなりにね。よぅし、あたしも泳ぎに行こっと!」
それまで暗い表情をしていた貝堂はいつもの明るい調子に戻った。立ち上がってあいつらの遊んでいる海に向かって走っていく。
結局、貝堂が俺に何を言いたかったのか、よくわからなかった。
8
海水浴を楽しむと、すでに辺りは段々と暗くなり始めていた。海の向こうを見ると、白浜のシンボルと呼ばれている円月島のちょうど輪の向こうに、大きな夕日が沈みかけている。
「綺麗な景色ね……」
「おーい、貝堂! 材料切るの手伝ってくれ!」
「オッケー、今行く!」
葉作の声が聞こえてきたから、あたしは円月島から視線を外して、海のそばにあるコテージの階段をあがった。
そこには幾つかの大きなテーブルがあって、その一つで葉作、愛佳、千登勢の三人が野菜や肉を次々と切ってボールに入れていた。
「そのサツマイモを頼む!」
「オッケー!」
あたしは三人の反対側に立って包丁を手にもち、何本か置かれているサツマイモを切り始めた。
「うわー、すごいね、あいちゃん! 材料切るのすごく上手だね!」
「お父さん直伝の技。これぐらい朝飯前」
愛佳は千登勢にドヤ顔を見せながら、玉ねぎをすごい速さで刻んでいた。その隣で千登勢がピーマンを切っている。
「わはははは! 当然だ! 俺を誰だと思っている? 料理を作らせれば、右に出るものはいない男、嵯峨山葉作だぞ!」
葉作のほうも丸ごと一個のかぼちゃを豪快に切り分けていた。
「嵯峨山、これ持って行くぞ」
「おう、頼む!」
葉作たちの切った材料を、頭に白いタオルを巻いた梨折が運び、真ん中のテーブルにセッティングしたバーベキューのグリルに運んで行った。
「おーい、おっさん、火加減はこれくらいでいいのか?」
「ああ、良い感じだ」
グリルの火加減の調整は文仁がしていた。梨折と同じように頭にタオルを巻き、鉄火バサミで炭を入れながら流れてくる汗を手で拭っている。
「大丈夫、文仁? はい、水」
「おう、サンキュ、鶴香」
「梨折さんもどうぞ」
「ああ、すまない」
そんな二人に鶴香と真那がそれぞれ水の入ったコップを渡した。鶴香と文仁はもちろん、梨折と真那のペアの組み合わせはやっぱり良いなと思った。
「おい、沢村。そっちのお皿は足りてるのか?」
「ああ、悪い。二つくれないか?」
「わかった」
「サンキュ、未国」
沢村と未国はグリルの周りにみんなのお皿や割り箸のセッティングをしていた。それぞれがテキパキと作業を進めてくれたおかげでバーベキューの準備は短時間で済ませることができた。
「よぅし、準備完了だ。みんな席につけー!」
葉作が呼びかけて、全員が真ん中のテーブルを囲むように座った。
「はーい、ビールとオレンジジュースをついでいくわよ! ビールの人は手を上げて!」
「俺はもちろんビールだ!」
あたしがみんなに聞くと、真っ先に文仁が手を上げた。
「未成年はだめに決まってるでしょ!」
「へぶぅ!」
調子に乗った文仁に鶴香がするどいツッコミを入れた。
「他の人は? えーと、葉作、沢村、梨折、あたしの四人ね。じゃあ、他の子はオレンジジュースを入れていくわよー」
「ちくしょう、ビール飲んで大人の階段を登ろうと思ったのに……」
「ふふ、あと二、三年は我慢しないとね」
悔しがる文仁の持つコップにあたしはオレンジジュースを注いだ。一通り飲み物を入れ終わると、自分のコップにビールを入れた。
「よぅし、飲み物は行き渡ったわね。じゃあ乾杯するわよ。みんなコップを上にあげて!」
「よっしゃああ!」
「ほら、未国。ちゃんと上げないと」
「鶴香……わ、わかってる。上げればいいんだろ」
テーブル席に座った全員がコップを上にあげた。
「さて、何に祝おうかしら。千登勢が帰ってきたお祝いって意味もあるけど、このメンバーで旅行をするのは初めてだからね」
「白浜の海サイコー!ってことに祝おうぜ」
「あんた、バカ?」
「うおおおお! 俺の夏はこれからだあああ!」
オレンジジュースを片手に雄叫びをあげる文仁。言ったら悪いけど、かなりかっこ悪い。
「千登勢、何かない?」
「ふぇっ!? 私? 私ですか……そうですね」
千登勢は少し考えてから言った。
「じゃあ……皆さんが生きてくださっていることを祝いましょう」
「え?」
「私、本当に嬉しかったんです。アメリカにいた時、あいちゃんや他の人たちが死んでしまったら。どうしようかとずっと考えていました。もちろん死んでしまった人たちは確かにいます。それでも、皆さんが生きていて、私を迎えてくれたことは本当に嬉しかったんです。あいちゃん、真那さん、鶴姉さん、未国さん、沢村お兄ちゃん、葉作おじさん、文仁お兄ちゃん、貝堂さん、梨折さん。あ、梨折さんは初めまして、なんですけど……。皆さん、本当にありがとうございます」
「へへ、何言ってるんだよ、千登勢。俺たちがそう簡単に死ぬわけないだろ」
文仁が笑いながら言った。
「そうよ。あたしたちは最後まで生き延びるわ」
鶴香もその後に続くと、他のみんなも同意するように頷いた。
「ちーちゃん、愛佳も簡単に死なない。うたちゃんがいない間、ちーちゃんのことは愛佳が守る」
愛佳も真剣な表情で言った。そこには決して揺るがない意思があった。
「みんな……本当にありがとうございます」
千登勢の声は少し震えているように聞こえた。その目も泣きそうになるくらい潤んでいる。
嬉しかったんだ、千登勢。また、みんなと会えて、こんな楽しい旅行ができて……。
「よし、じゃあ改めて……みんなが今日も元気に生きていることに乾杯!」
「かんぱーい!」
こうして夜の楽しいバーベキューが始まった。
「うひょう、この肉うめえ!」
「ほんと、こんなに美味しいなんて!」
「た、確かに……何だ、この肉は?」
文仁、鶴香、未国が串に刺さった肉を食べて、その美味しさに驚きの声をあげる。あたしもさっき食べたけど、本当に美味しかった。
「それは松阪牛だよ、未国。おっさんが地元の肉屋と仲良くてな。この日の旅行のために仕入れてくれたんだ」
「わははは! たくさん持ってきたから遠慮なく食べていいぞ!」
「これは……美味」
「おいしいね、あいちゃん!」
愛佳や千登勢もそれぞれ松阪牛の味を堪能していた。
「秀平さん、おかわりいります?」
「ああ、頼む」
真那は梨折の持つコップに新しくビールを注いでいた。まるでどこかの女将とお客さんのように見える。
「よぅし、あたしも食べまくるわよ!」
あたしは服の袖を巻いて、焼かれている野菜や肉を皿に取って食べ始めた。一度始めたらなかなか手が止まらない。取っては食べ、食べては新しいのを手にとって口に入れた。
「ちょっと、貝堂さん。ペース早すぎますよ!」
「お、俺だって負けないぞぉぉぉ! むごっ、げほっ! げほっ!」
「ちょっと文仁、一度に食べ過ぎよ! 喉に詰まってるわよ!」
楽しいバーベキューの時間はあっというまに過ぎていった。
9
バーベキューを堪能し、すっかり日が沈んだ時間になると、あたしたちは白浜温泉の旅館に宿を取った。部屋に荷物を置いて、整理する。その後にやることと言えば、一つしかなかった。
「よし、温泉に入るわよ!」
みんなにそう言って、あたしは一番乗りで露天風呂の湯船に浸かった。この温泉は夜の白浜の海が一望できる最高の場所だった。昼間、あたしたちが遊んだ場所をこの時間帯に見ると、また違う雰囲気と魅力が出ている。
「はぁ~、いい景色、いいお風呂。最高だねえ」
「露天風呂なんて入れると思っていませんでしたよ」
少し離れた場所で鶴香は膝から下を湯船につけて、あたしと同じように海を見ていた。
「……」
「うわぁ……」
そこへ湯船に顔の上半分だけを出した愛佳と千登勢が鶴香に近づいてきた。
「どうしたの、二人とも?」
「鶴香、胸大きい……」
「う、羨ましいですぅ、どうしてそんなに大きいんですか?」
「ちょ、ちょっとジロジロ見ないでよ!」
鶴香は顔を赤くして湯船の中に入って体を隠した。
「解せぬ……ちーちゃん!」
「了解、あいちゃん!」
愛佳と千登勢が頷きあって、両側から鶴香に飛びかかった。
「鶴香、観念して揉ませて」
「鶴姉さん、お願いです。触らせてください!」
「ちょっと! あんたたちそういうキャラだったの!? や、やめなさいよ! きゃあ!」
「くだらない。風呂場ではしゃぐなんて……」
三人のじゃれあってる様子を見ながら、あたしのそばにいた未国が呟いた。タオルをしっかり巻いて湯船に浸かっている。
「なぁに? 未国、もしかして妬いてるの? 鶴香よりもアレだから?」
「な、何を言うんですか! べ、別に私は何も思っていません! 大きいからって良いことなんてないでしょ! 小さくたって……小さくたって……」
必死になって否定しようとしていたけど、赤らめた顔を見るだけで、未国も鶴香の抜群なスタイルを見て何かしらの劣等感を抱いているのはすぐにわかった。
「うふふ、大丈夫よ。未国だってスタイルいいじゃない?」
「ひゃあ! 触らないでください、貝堂さん!」
太もものあたりをちょっと触ると、未国は驚いた声を上げた。
「あはは、ごめんごめん。やっぱり未国も女の子だね。可愛くて仕方ないわ」
「うう……」
未国は口をお湯のところまで沈めてブクブクと泡を立て始めた。どうやら拗ねてるらしい。
「大丈夫。心配しなくても、沢村はあんたのこと大切に想ってるわよ」
「……」
「この前だってあたしに色々と相談しに来たからねえ。あっちもすごい必死なのよ」
「え、沢村が!?」
未国が驚いて湯船から立ち上がった。
「そうそう。沢村だって悩みぐらいあるわよ。未国にどうしたら喜んでもらえるか、いつも考えてるんだから」
「そうなんですか……」
そうつぶやくと、未国はまだ湯船に浸かった。何も言わないけど、その表情はどこか嬉しそうだった。
幸せになりなよ、二人とも。
「あれ?」
ふと、湯船の奥で海を眺めている子が見えた。後ろ姿だったけど、サラサラとした長い黒髪を見れば、真那だということはすぐにわかった。
「真那、どうしたの? ぼうっとしてるけど」
そばに近づいて聞くと、真那はゆっくりとあたしのほうに顔を向けた。
「貝堂さん……」
「何だか元気ないじゃん。どうかしたの? 楽しくなかった?」
「いえ、そんなことはありません。今までにないくらい、すごく楽しかったです。それは本当です。ただ……」
いったん言葉が途切れて、真那は胸の辺りにぎゅっと握りしめた拳をあてた。
「今の時間がずっと続いたらいいのに、現実はそうしてくれません。あの人たちは私から次々と大切なものを奪っていきます」
「……」
「でも、私はこれ以上何も失いたくありません。だから、みんなを守るために私は戦います。シンナとそう約束したんです」
その言葉は決して表向きではなくて、真那の堅く決意した意思が込められていた。海を見ているその瞳にも強い光が宿っている。
真那とはだいぶ歳が離れていたけど、あたしは彼女に何かの憧れを抱いたのかもしれない。あたしはつい、それを言葉にした。
「強いわね、真那もシンナも。あたしには応援することしか出来ないけど」
「そんなことありませんよ」
真那があたしのほうを見て優しく笑った。その表情があいつの見せる笑顔と重なったのは偶然だろうか……。
「貝堂さんのおかげで、私や他のみんなは生きる希望をもらっています。貝堂さんがいてくれたおかげで、ガードレディとして戦う理由を見つけることが出来たんです。そんなに自分のことを低く見ないでください。貝堂さんは貝堂さんにしかできないことをちゃんとみんなにしてくれていますよ」
「真那……」
真那はもう一度笑って湯船から立ち上がった。
「すいません、そろそろのぼせそうなので先にあがりますね」
言い終わると、彼女は温泉の出口のほうに向かって歩いていった。
「生きる希望……か」
真那の後ろ姿を見ながら無意識のうちにつぶやいていた。
『悩んでいないで、何も考えずにがむしゃらに生きてみるのもいいんじゃないのかい? 辛いことがあれば、その分幸せなこともある。進む道は一つじゃない。伊津美、あんたにはもっと可能性のある未来があるんだよ。あたしらのようにね』
あいつとは違う人の言葉を思い出す。あの言葉に救われたんだとあたしは改めて思った。
そして、また過去の光景が頭に浮かんできた。
10
十六年前。 2048年。
高齢者保護法が制定される以前からダルレストの活動は始まっていた。法律の制定は組織の規模が大きくなり、その存在意義を強調するための名目にすぎない。
だから、奴らはかなり前からおじいさんとおばあさんを密かに抹殺していたし、それを防ぐためにあたしたちガードレディやガードマンも日々の戦いに身を投じていた。
昇に藤原亭の店へ連れて行ってもらってから一年後、あたしはその時もダルレストの行動を妨害するために昇と行動していた。
「相手は二人……余裕ね」
スマホの画面を見て、少し離れた家に反応があるのを確認する。
「油断は禁物ですよ、伊津美」
隣の運転席に座っている昇が言った。あたしが車から出る時にあいつが必ず口にする言葉だった。でも、その時のあいつの笑顔はどこか寂しそうに見えた。
「昇、どうかしたの?」
「……」
「昇?」
「いいえ、何でもありません。気をつけてください、伊津美。何かあったらすぐに行きますから」
「大丈夫。これくらい何度もやってきたから平気よ。じゃ、行ってくるわ」
あたしは車から降りた。昇が何か別のことを言おうとしていたのは何となく察したし、気になったけど、今は仕事のほうに集中することにした。
真夜中の住宅街の通りを歩き、目的の家に向かう。スマホに表示されているのはこの町の地図だけで、実際の建物の造りは自分の目で確認するまでわからない。
だからこそ、その家を見た瞬間、あたしは思わず足を止めてしまった。
「この家……」
この町はあたしの故郷ではない。たまたま同じ物が二つ存在することなんてこの世界では珍しいことじゃないし、自分とそっくりな人が遠くの海外に住んでいる話もよく耳にする。
あたしの運が悪かった、ただの偶然だった、勘違いだった……理由なんていくらでも並べられることが出来る。
それでも、その家が子供の時に暮らしていたあたしの家とそっくりだったのには、驚きを隠せなかった。
頭の中にあの時の思い出が蘇る。優しかったお父さんとお母さんの笑顔。そして、そこから変わり果てた姿になってしまった二人。
『いづみぃ、一緒に死のう? パパたちがここで生きていても意味なんて――』
あるわよ! あたしには生きている意味がある!
目をつぶり、激しく首を横に振って心の中で叫んだ。お父さんの言葉を無理やり遮る。最後まであの言葉を聞きたくなかった。
あたしはお父さんとは違う。この世界で生きている意味がきっとある。 それを証明してみせる。
あたしは ぐっと拳を握りしめて、家のほうに向かった。 フィールドが張られているため、家の電気は点いていない。スマホの画面を見ると、家の中の反応はまだ続いていた。
向こうもあたしが来ることは知っているはずだから、まだ対象の人たちを始末している可能性は低かった。先にあたしを倒すほうを優先するだろう。待ち伏せされているかもしれない。でも、だからと言ってあたしは引き返すようなことはしなかった。そんなこと今まで何度もあったし、死にそうになってもこうしてくぐり抜けてきたからだ。 恐れることなんて何もない。あたしにはこの力がある。
階段を登り、家のドアの前に立つ。向こうはバレていないつもりだろうけど、わずかに呼吸音が聞こえてきた。あたしがドアを開けたタイミングで襲いかかろうとしているのだろう。
甘いわね。
刀人の力であたしは両手にメリケンを出すと、右腕を後ろへ振りかぶった。
「うらあっ!」
大声を上げてドアに向かって拳を放つ。その瞬間、ドアはいともたやすく家の内部へ吹き飛んでしまった。
「ぐわっ!」
ドアの向こう側で待っていた敵の男も一緒に吹き飛ばされて、廊下の奥にある壁に激突した。男が怯んで反撃してこないうちにあたしは靴を履いたまま、廊下を走ってその懐に入った。
男が手にした刀を握り直して斬りかかろうとしたけど、もう遅い。それより早くあたしはメリケンのついた拳を男の腹に叩き込んだ。
鈍い音が鳴り、確かな手応えを感じた。男は刀を離して、膝から崩れていった。
「あと一人……!」
背後から殺気を感じてあたしはその場にしゃがみこんだ。それとほぼ同時にすぐ頭の上を刀が通り過ぎていく。横目で後ろを見ると、刀を持ったもう一人の男がいた。すぐに後ろを振り向いて男に向かって拳を叩き込む。男が刀でそれを防いだけど、威力まで抑えこまれなかった。そのまま、後ろの部屋に吹き飛ばした。
「不意打ちであたしを倒そうとするなんて、まだまだね」
「くっ……」
男が軽く舌打ちして刀を構えた。薄暗いせいで顔なんか見えないけど、たぶん相当悔しがっているんだろう。
楽勝だ。今まで戦ってきたダルレストの刀人の中でも手応えがない部類に入る。
さっさと倒そう。倒して早く昇のところへ戻ろう。そう思ったあたしは右の拳を後ろへ引いた……。
変化が起きたのは突然だった。何の前触れもなく、それは起きてしまった。最初はガラスが割れる音だと思った。こいつらの仲間がどこかの窓から侵入してきたと思った。でも、違った。その音はあたしのすぐ耳元から聞こえてきた。
「え……?」
自分の目を疑った。右の手を覆っていたメリケンにヒビが入ったかと思うと、粉々に砕け散った。それと同時に左手のメリケンもバラバラに崩れてしまった。
「うおおおおお!」
その隙を突かれて男が突進して、あたしは思いっきり蹴られた。
「ぐっ!」
廊下の壁に激突して、衝撃が全身にはしる。
「へへ、どうした? 刀人の能力を使わずに俺を殺すつもりなのか? 随分、余裕だな」
「う……」
蹴られたお腹がズキズキ痛む。でも、それよりあたしは自分自身の体の変化に驚いていた。
メリケンが出せない……? 能力が使えない?
手に力を込めれば自分の意思で自由にメリケンを出すことができた。でも、それが急に出来なくなった。いつも感じる刀人の力が消えていた。信じられなかった。
どうして、急にこんなことになったのか、まったくわからなかった。
「おらぁ!」
男が刀を両手に持って振り下ろしてくる。あたしは横に飛んでそれを避けた。けれど、間髪入れずに男が刀を横に振ってきた。左腕をかすめて、血が飛び散る。
斬られた……と思ったのも束の間、男がその直後に回し蹴りを放ってくる。反応することが出来なかった。また脇腹の辺りを蹴られて、近くの台所に吹き飛ばされた。洗い場に頭を打ってしまい、視界が歪む。
どうして? どうして急に力が使えなくなったの?
理由が全くわからなかった。それまで優位に立っていた状況から一気に逆転されてしまった。体の痛みを久しぶりに感じたような気がした。
「くく、どうやら能力が使えなくなったみたいだな」
男が刀を肩にもたせかけてにやりと笑う。
「仲間の仇を取らせてもらうぜ!」
刀を構えて再び突進してくる。起き上がろうとしたけど、力が出なかった。体が……動かない。
ざくっと音が鳴り、今までに感じたこともない痛みが右肩にはしった。あまりの痛さに声が出なかった。
見なくてもわかる。男があたしの肩に刀を突き刺したんだ。
「簡単には殺さねえぞ。お前が生きている意味なんざ最初からなかったことを、たっぷり味あわせてから殺してやる」
「!」
男の言葉があたしの心に響いた。胸がときめくとかそんなものじゃない。押さえ込んでいたあの時の絶望が蘇ってくる。
『いづみぃ、パパたちがこの世界で生きている意味なんかないんだよ』
同じだ。お父さんと同じことを言われた。生きている意味なんかない……。あたしがこの世界で生まれた意味は最初からない。そんなの……そんなの……。
「いや……」
刺された刀がどんどん奥に押し込まれていく。尋常じゃない痛みが襲ったけど、叫ばずにはいられなかった。
「いやああああ!」
咄嗟に床に落ちていた物に目が止まる。包丁。さっき洗い場にぶつかった衝撃で落ちてきたんだろう。このままだと殺されてしまう。迷っている場合じゃなかった。
あたしはその包丁を手に取ると、目の前にいる男の首に向かってそれを突き刺した。
「がっ!?」
予想していなかった反撃に男は驚いて目を見開いていた。男が手にした刀をさらに突き刺そうとしたけど、その前にあたしは力を振り絞って包丁をもっと奥へ刺しこんだ。
「て、てめえ……がはっ!」
男が口から大量の血を吐き出す。手にした刀を離して床に倒れ込んだ。ほぼ根元まで包丁が刺さっていたのに男はまだ生きていた。口や耳から血を流しながら、真っ赤な目であたしを睨みつけている。
『いづみぃ、いづみぃ……』
その姿があの時のお父さんの姿と重なった。
「いや……」
あたしは首を横に振った。
「いやあああああ!」
無理やり男から包丁を引き抜き、両手に握りしめて力いっぱい男の腹に向かって突き刺した。男が「むぐっ!」と声をあげる。声を出すということはまだ生きている。
また包丁を引き抜いて同じところを突き刺す。男の着ていた服の下からおびただしい血が噴き出してきた。それを顔に浴びたけど、あたしは気にせずにまた男の腹に突き刺した。
思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない!
消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて消えて!
心の中で何度も叫んで、何度も男に包丁を刺した。
そして……。
「あ……」
ふと我に返ったあたしは手を止めた。包丁を持った両手は肘のところにまで血のあとがべっとりついていた。
男は目を見開いたまま死んでいた。腹のあたりがぱっくり裂かれていて血がどくどくと溢れ出ている。
「あ……」
あの時と同じだ。子供の頃にお父さんを殺してしまった時と何一つ変わっていない。
『生きている意味なんてない』
その言葉を否定したかった。二度と聞きたくなかった。だから、目をつぶって無我夢中になった。そして結局、お父さんを、この男を無残な死体にしてしまった。
「伊津美……伊津美!」
玄関のほうから声が聞こえたかと思うと、部屋の入り口から昇が現れた。戻って来るのが遅くて心配したんだろう。
「昇……」
「……」
昇は何も言わなかった。この惨状を見て全てを理解したらしい。あの時と同じ笑っていない表情をしていた。自分の両手が震え始めた。
「昇、あたし……」
そして、あたしは刀人の力を失った。
11
刀人特有の症状がある話は以前に聞いたことがある。それは刀人の持つ得物……能力を使う時に発現する武器が何らかの損傷を受けると、刀人自身も何かの障害を負うことだ。
けれど、刀人の持つ武器はその人自身の最も強い感情が具現化した力であるため、損傷するケースはかなり稀だった。
その話を聞いていたからこそ、何の前触れもなく自分の武器が砕け散ることになるとは思ってもいなかった。アサガオの施設であらゆる治療を受けたけど、結局、あたしの力が戻ることはなかった。
あたしが受けた衝撃は決して小さいものではなかった。刀人の能力が使えない。それはつまり、今後一切ガードレディとして活動出来なくなったということだ。この世界で生きている証を失ったことになる。
『この世界で生きている意味なんてないんだよ』
聞こえてくるあの言葉。それを否定し続けていた力を失ってしまったあたしは何も出来なかった。あたしの部屋に昇を初めとした他の仲間たちが見舞いに来て励ましてくれたけど、そんなのはあたしにとってただの気休めにしかならなかった。
呆然とアサガオの施設で暮らす毎日が続いた。日に日にあたしの心に残る呪いの言葉が色濃くなっていく。
そして、最後にはこう考えてしまった。
刀人じゃない自分に生きている意味なんてあるの……?
ベッドで眠っていたあたしは目を開けて起き上がった。新しい服に着替えて部屋を出る。
「伊津美?」
部屋を出ると昇が立っていた。いつもこの時間帯に来るのはわかっていたけど、ちょうど同じタイミングで出くわした。
「何処か出かけるんですか?」
昇が笑顔のままで聞いてくる。ずっとこいつは笑っていた。毎日毎日、あたしのお見舞いに来て、いつもこいつは笑顔だった。でも、今のあたしはあいつの顔を直視出来なかった。
「ちょっと外にいく」
それだけ言って、あたしは昇の横を通り過ぎて寮の出口へ向かおうとした。
「伊津美!」
その直後に腕を掴まれた。
「本当に外へ行くだけですか?」
顔は見なかったけど、その口調が真剣なのはすぐにわかった。今思えば、あの時の昇はあたしの異変に気づいていたのかもしれない。
「……離して」
「死に急ぐようなことはしないでください」
昇の言葉に私は驚いて目を見開いた。自分でも薄っすら考えていたことをすぐに見抜かれたからだ。
「それはあなたが父親の言葉を認めることになるんですよ」
「……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、あたしは激しい怒りをおぼえた。昇はただあたしのことを心配していただけなのに、無性に腹が立った。
気がつけば、あたしは手を振り払って昇の頬を叩いていた。昇のメガネが取れて、床に落ちる。あたしに叩かれた頬が赤く腫れた。
「あんたに何がわかるっていうの? あたしの苦しみや悲しみなんか全く知りもしないくせに、勝手に踏み込んでこないで!」
「……伊津美」
昇は笑っていなかった。怒ってるわけでも、悲しんでいるわけでもなく、無表情にあたしのことを見ていた。
「もう話しかけないで!」
あたしはそう言って、再び寮の出口へ向かった。これ以上、昇の顔を見たくなかった。声も聞きたくなかった。
12
死ぬ前にあの海を見ておきたい。
そう思ったきっかけは特になかった。単なる思いつきで、あたしは電車に乗って和歌山県白浜の海に向かった。
当然、行くのはあたしだけで隣の席に昇の姿はない。数日前に寮で会った時に話したのが最後で、スマホの電源も落としていた。
あたしは一人だった。あの事故の後、昇と出会う前と同じ一人だった。
これ以上苦しむ必要はない。お父さんの言葉を認めてしまうけど……あたしにはこの世界で生きていることに理由がない。
電車の窓から外を眺める。照りつける太陽の光に反射して、白浜の海は相変わらず青く澄んでいた。
あの綺麗な海へ身を投げると、どこへ行くだろう。今度はお父さん、お母さんと一緒にいつまでも楽しく暮らすことが出来るだろうか?
力を取り戻して生きがいを手に入れることが出来るだろうか?
少なくとも今の自分よりはマシな生き方が出来るんじゃないかと思った。
呆然と考えていると、やがて電車が白浜駅に到着した。特にどこか行きたいところがあるわけでもなく、とりあえずあの海を見ようと思ってバスに乗った。
白浜駅からバスでおよそ二十分。円月島の見える海沿いの場所が気に入って、そこで降りた。まだ昼前で雲一つない青空と綺麗な海が広がっている。
その光景に魅了されて、この場所に初めて来たわけじゃないことに気づくのが少し遅れてしまった。
「ここは……」
すぐ近くから海が見える場所に立つ店。一年前、昇に連れて行ってもらった『藤原亭』という名前の店だった。来るつもりはなかったのに、あたしは無意識のうちにこの店に来ていた。
これはいったいどういう意味……?
「あれ? あんた……」
ふと背後から女の人の声が聞こえてきた。振り返ると、あの時に出会った要おばさんが立っていた。バンダナやエプロンはつけていなくて、私服姿だった。
その手にはネギやカレー粉、うどんの元になる小麦粉などのたくさんの食材が入った袋がある。
「やっぱり、昇が前に連れてきた子じゃないか! 確か、伊津美って言ったかい? 久しぶりだね!」
一年前と変わらず要おばさんはとても明るかった。それと対称的にあたしは何も言わず、呆然と立っておばさんを見ているだけだった。
そんなあたしの異変に気づいたのか、笑っていた要おばさんは表情を戻した。
「……何かあったのかい?」
「要おばさん、あたし……」
口に出した言葉が思った以上に小さく、そして重かった。その後に続く言葉を口に出していいのかわからなかった。
『この世界で生きている意味がないから、死のうと思うんです』なんて言えるわけがない。
でも、言わないと自分がどうしてここへ来たのか、説明できない。どうしたら……。
「ぐうううううう」と音が鳴った。こんな時に限って空気の読まない音がお腹から鳴ってしまった。
あたしは恥ずかしさのあまり顔を赤くしてうつむいた。思えば、朝からちゃんとご飯を食べていなかった。
「お腹が空いたのかい?」
要おばさんが元の明るい調子でそう聞いてきた。でも、あたしは恥ずかしくて何も言えなかった。
恐る恐る顔を上げると、要おばさんはふふっと笑って親指で後ろに立つ藤原亭を指した。
「久しぶりに食べていくかい? 今日は休みだけど、特別に作ってあげるよ」
13
「せっかくだし、道夫と三人で食べるかい?」
要おばさんのふとした思いつきであたしは店内から更に奥にある和室へ案内された。その中央にちゃぶ台が置かれ、周囲を覆うように四人分の座布団が用意されている。あたしはそのうちの一つに座って要おばさんがそばにあるキッチンで支度している様子を眺めていた。
「要、手伝うよ」
「ああ、助かるよ、道夫」
二階の階段から道夫おじさんが降りてきた。あたしの顔を見ると、「久しぶり、伊津美くん」と言った。一度しか会っていないのに、ちゃんと覚えてくれていた。
二人が手際よく作っている様子を見ていると、ふと、視界の端に何かが止まった。
ちゃぶ台のそばに置かれた木のタンス。その上に一つ写真立てがあった。
ずいぶん前の写真なのはすぐにわかった。どこかの海辺を背景に複数の男女が立っている。見た目からして半分以上が高校生ぐらいの女の子たちだった。その中には要おばさんと道夫おじさんの面影がある人も写っている。
「その写真が気になるのかい?」
要おばさんがうどんを茹でる鍋の湯を沸かしながらあたしのほうを見た。
「この写真、要おばさんと道夫おじさんですよね?」
「懐かしいね。みんなで凛くんのプライベートビーチへ遊びに言った時に撮ってもらったやつだね」
「能登かぁ、その名前を聞くのも久しぶりだね」
「あ、ちょっと待っててね」
そう言うと道夫おじさんが一旦支度をやめて上の階へ登っていった。しばらくすると一冊のアルバムを持って降りてきた。
「これ、その時に撮ってもらった他の写真だから、ご飯が出来るまで見ておくといいよ」
そう言ってあたしにそのアルバムを差し出した。それを受け取って、あたしは冊子を開いた。
中には何枚も写真が貼られていた。ある写真は水着姿の女の子たちが一人ずつ、木の棒を持ってスイカ割りをしている。でも、その先をよく見ると、スイカともう一人別の男の子が泣き顔になっているのが写っていた。面影からして道夫おじさんだった。 もしかしたら、おじさんはこのメンバーの中でとてもいじられる人だったのかもしれない。
またある写真ではみんなでバーベキューをしているところが撮られていた。要おばさんが道夫おじさんにイカ焼きを食べさせている。この頃から既に良い雰囲気が出ていた。
別の写真では眼鏡をかけ、昇と同じくらい背の高い男性と大和撫子のように長い髪をした女の子が夕焼けの海を背景に走っているところが写っていた。要おばさんでも道夫おじさんでもない人だった。この二人は誰なんだろう?
次の写真は女の子たちがコスプレをしている写真だった。セーラー服を着た綺麗な女の人、チャイナ服に身を包んだ要おばさん、メイド服を着て猫耳を装着したツインテールの子、チアガール姿の子もいる。さっき海辺を走っていた女の子も写っていた。なぜか、袴姿になっている。
他にもたくさんの写真が撮られていて、最後のページに写真立てと同じ集合写真が貼られていた。
「はいよ、お待たせ。五人前くらいしか用意出来なかったけど、良かったかい?」
おばさんがいくつものどんぶりをお盆に乗せて運んできた。
「ありがとうございます……」
アルバムをそばに置いて、あたしは姿勢を正した。
「どうだい、あたしらの青春時代の写真は? バカなことばかりやってるだろ?」
おばさんは苦笑いしながら、どんぶりをちゃぶ台の上へ乗せていった。
「いえ、とても楽しそうでしたよ」
控えめに言ったけど、本心だった。写真の中の人たちはみんな楽しそうに笑っていた。
「そっか……良かったよ。そう見えたのなら良かった」
でも、なぜか要おばさんは哀しそうな表情をしていた。どんぶりをちゃぶ台に移し終えてもお盆を持ったまま座っている。
「要?」
「ん、ああ、大丈夫。ちょっと昔のことを思い出しちまっただけだよ」
おばさんは笑ってお盆を足元に置いた。その隣に道夫おじさんが座る。
「要……」
「大丈夫。大丈夫だよ、道夫」
二人はお互いの名前を呼んで笑いあった。でも、心の底から笑っているように見えなかった。アルバムを見る限り、楽しい思い出のはずなのに……。
「何かあったんですか?」
そう聞くと、要おばさんがため息をついた。
「何か……ね。あると言ったらあったかもしれないね。あたしたちが出会って、一緒に楽しんで、喜んで、時には喧嘩して、挫けそうになって、それでも頑張ってきたのに……なぜか辛くて……」
「要……」
「あたしは大切な仲間を助けることができなかった。そのせいでしばらく落ち込んだけど、そんなあたしたちの姿をあいつが喜ぶはずがない。だから、あたしはあいつの分まで幸せに生きてやろうと思ったのさ」
要おばさんが道夫おじさんの手を握った。道夫おじさんもその手を握り返す。
「あたしは幸せだよ。昔も今も。苦労したことはあったけど、こいつと一緒なら大したことなかったね」
要おばさんは嬉しそうに笑ってあたしのほうを見た。
「あんたはどうなんだい? 何か辛いことがあったんだろうけどさ」
「あたし……あたしは……」
言葉に詰まる。でも、ようやくあたしは心のうちで思っていたことを口にした。
「わからないんです。どうして自分が生まれてきたのか。どうして、今、生きているのか。その理由を知りたくて頑張ってきました。そして、ようやくその答えが掴めそうだと思ったのに……もう出来なくなったんです」
話しているうちに唇が震える。目にも涙が溜まってきた。
「あたしには自分が生きている意味がわかりません。だから、いっそのこと……」
それ以上は言葉に出来なかった。言ってしまったら、本当にあの言葉を認めてしまうことになる。そうなったら、もうあたしは……。
「悩んでいないで、何も考えずにがむしゃらに生きてみるのもいいんじゃないのかい?」
「え?」
「自分の生きている意味は何だとか、どうして生まれてきたのか、そんなの誰もわかりっこないよ。わからないから人生は楽しいんじゃないか。山あり谷ありだよ。辛いことがあれば、その分幸せなこともある。進む道は一つじゃない。伊津美、あんたにはもっと可能性のある未来があるんだよ。あたしらのようにね」
要おばさんの言葉は、あたしの心を縛っていたあの言葉とは正反対の考え方だった。
生きている意味がわからないから人生は楽しい。何も考えずにがむしゃらに生きてみる。
単純な考え方だった。でも、だからこそわかりやすくて、心に響く。
そして、あたしは山道に入る前の駐車場で、あの綺麗な夜景を見ながら昇に言われた言葉を思い出した。
『君はもっと自由に生きていいんですよ、伊津美』
ああ、そうか。
あいつにも同じ言葉を言われたんだった。すっかり忘れていたせいで、あたしはまた暗い闇の中をさまよいかけていた。
刀人の力を失ったからどうだっていうの?
要おばさんと道夫おじさんにもあたしの想像できないような辛い過去があるんだろう。それがどんなものなのか、あたしにはわからない。でも、それでも二人はちゃんと乗り越えてきたんだ。
要おばさん、道夫おじさん、そして昇も、みんな必死に生きてる。あたし一人が落ち込んでどうするのよ。
あたしはぐっと拳を握った。
「さ、話すのはこれくらいにして食べようじゃないか。せっかくのカレーうどんが冷めてしまうからね」
「そうだね、食べよう、食べよう」
要おばさんと道夫おじさんが優しく笑ってくれる。あたしも自然と笑顔になった。
「いただきます」
二人と一緒に手を合わせて、あたしはカレーうどんを食べた。初めて食べた時よりもその味はとても美味しく感じた。
14
夕日が見えてきた時間帯で、伊津美が「そろそろ帰ります」と言ったので、あたしと道夫は白浜駅まで見送ることにした。
最初に会った頃は物思いにふけた顔をしていて、とても心配していたんだけど、今のこいつの顔は明るかった。何かの目的に向かって突き進もうとする意思のこもった強い目をしていた。
もう大丈夫みたいだね。
あたしは安堵して隣にいる道夫を見た。道夫も同じことを考えていたのか、黙ったまま頷いた。
「要おばさん、道夫おじさん、送ってくれてありがとう」
駅の改札口の前で伊津美はあたしらにお辞儀した。
「またカレーうどん食べに来ていい?」
「ああ、もちろんだよ。今度はもっとたくさん作ってあげるからね。な、道夫!」
「うん! それまでに新しいトッピングメニューを考えておくよ。まかせといて!」
細々とした体なのに胸を張って答える道夫。一見したら頼りない奴だけど、辛い時や挫けそうになった時にあたしを支えてくれたのはいつもこいつだった。
「絶対にまた来る。じゃあね!」
そう言うと伊津美は改札を抜けて、あたしらのほうに手を振りながら駅のホームへ向かっていった。その姿が見えなくなるまであたしらも手を振って見送った。
「これで良かったのかな、要?」
「あんたも見てただろ、あいつの顔。大丈夫だよ、きっと」
「昇くんとも仲直り出来るといいね」
「意外と不器用なやつだから、時間はかかるだろうね」
「誰かに似て……かな?」
道夫が笑いながらあたしのほうを見てくる。あたしは肩をすくめてため息をついた。
「さあね。わざわざ苗字を変えて他人のふりしてる馬鹿息子のことなんか知らないよ」
「ふふ、そうだね」
「あんな危ない仕事辞めて早く店を継げって言いたいけど、あの子を見てるとそうも言ってられないよ」
「うん。この世界には伊津美くんのような子がたくさんいる。その子たちを助けるためには昇くんたちが必要だからね」
「ああ。別れの挨拶もなしに死んだら、ただじゃ済まないよ……昇」
伊津美の姿が見えなくなった後も、あたしたちはしばらく駅の改札の前で立ち尽くしていた。
15
要おばさんと道夫おじさんに見送られた後、あたしはアサガオの施設に戻った。そして、刀人の子供たちに勉強や日々の生活を世話している女性に、仕事を教えてもらいたいと頼み込んだ。最初こそ驚いていたけど、彼女は心地よくあたしの頼みを受け入れてくれた。
こうしてあたしの新しい仕事が始まった。
もちろん、仕事のほうは最初、うまく進めることが出来なかった。子供たちの世話をすることなんて初めてだったし、勉強を教えてあげるほど知識が多かったわけでもない。
最初の一年、二年は徹夜で自分自身が勉強し、無邪気な子供たちの相手をするため、自主トレーニングで体力作りをする毎日を送った。とても辛く、疲れる日々だったけど、子供たちの笑顔を見る時や「貝堂先生!」と初めて呼ばれた時は言葉が出ないほど嬉しかった。何より、子供の頃に自分が夢見てた先生に近い仕事が出来たのが幸せだった。
そうして五年、十年と年月が経ち、何人もの子供たちが成長してガードマンやガードレディになっていく姿を見てきた。その中にはダルレストとの戦いで死んでしまった子も大勢いる。その時は一晩中泣いたこともあった。
でも、新しく入ってくる子供たちはまだまだ大勢いる。あたしが頑張らなくて、誰があの子たちを育てるのよ。そう考えていたら、いつまでも落ち込んでいられなかった。あたしは必死に働いた。孤独な身になった子供たちに少しでも幸せになってもらうために、無我夢中で働き続けた。
そうしているうちに、あたしは三重県松阪の本部で働いている人たちのリーダーをするようになっていた。
全てが順調のように思えた。でも、あたしには要おばさんたちと別れた後からずっと解決出来ていない問題があった。
十年以上の年月を経ても、昇との関係は修復していなかった。昇が別の子とペアを組んで活動している話は耳にしていたけど、どうやって謝ればいいのかわからなかったし、毎日の仕事が忙しくして、考えている余裕がなかった。そのうちに昇は別の施設へ異動してしまい、本当に出会える機会が少なくなってしまった。
そんなある時、理事長から話を聞いたのだ。
昇がある任務でアメリカへ行くことを。
16
二年前。2062年。関西国際空港。
出会いがあれば必ず別れが来る。たとえずっと一緒に生きていこうと誓い合った夫婦でも、どちらかは先に逝ってしまう。それは運命かもしれないし、逃れることの出来ない現実とも言えるだろう。
じゃあ、あたしの場合はどうだろう?
ただ、ずっと逃げていただけじゃないだろうか。一方的に突き放して、あいつを拒絶した自分が悪いのに、あいつの優しい笑顔を見ることが怖くて、意図的に避けていただけじゃないだろうか。
「貝堂、千登勢のことをよろしく頼みますよ」
「はい、任せてください」
空港のロビー内。キャリーバックをそばに置いた昇が理事長と話している様子を、あたしは他の人達に混じって見ていた。
その時に見た昇は初めて会った時からほとんど変わっていなかった。相変わらず、体格は大きくて、縁のない眼鏡をかけてるし、次々と別れの挨拶をする人たちにも笑顔を見せている。
そばでは一緒にアメリカへ行く千登勢たちと鶴香や明日野、愛佳たちが泣きながらお互いに握手したり、抱き合ったりしていた。特に愛佳はいつも無表情なのに、この時は目からぽろぽろと涙を流していた。
一時的とはいえ、やっぱり離れ離れになるのは辛いよね……。
「貝堂さん、貝堂さん」
小声で後ろから絹子に話しかけられた。
「え、絹子、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないですよ。いいんですか、昇さんに挨拶しなくて。今度こそ、本当に会えなくなるかもしれないですよ」
「わかってる、わかってるわよ。でも……」
でも、何を言えばいいんだろう。ずっとあいつのことを避けていたあたしはあいつにどんな言葉をかければいいんだろう。
わからない……わからなかった。あたしは口を引き結んだまま、じっとあいつのほうを見ていることしか出来なかった。
「じゃあ、理事長。そろそろ行きます」
「ええ、気をつけてね」
昇が理事長にそう言うと、キャリーバッグを手に持った。けど、その前にあたしのほうを見た。
目が合った瞬間、体が震えた。昇があたしのほうに近づいてくる。何を言えばいいのか、まだわからなかった。目を逸らすように顔を下に向けてしまう。
「伊津美」
数年ぶりに名前を呼ばれた気がした。でも、あたしは目を閉じたまま、俯いていた。
「最後になるかもしれないんで、顔を見せてくれませんか?」
「……」
昇にそう言われて、あたしは顔をあげた。昇が目の前に立っている。あいつはしばらくあたしをじっと見たまま何も言わなかった。
言葉を待っている? なら、あたしは、あたしは……。
「昇、あたし……あたしはあんたに――」
「うん、もう大丈夫みたいですね、伊津美」
昇があたしの言葉を遮った。驚いてあいつの顔を見ると、やっぱり笑っていた。でも、それは今まで見たあいつの笑顔とは違う何か特別な表情に見えた。
「やっぱり、自分の意思で自由に生きている伊津美が一番魅力的です。僕はそんな伊津美のことをいつまでも好きでいますよ。これから辛いことがあるかもしれませんが、頑張ってください」
それを聞いたあたしは一瞬、頭の中が真っ白になった。
どうして、あたしのことをいつまでも好きでいるって? なんで? だって、あたし、あんたに酷いことばかりしてきたのに……何年も何年もずっと避けていたのに……。
「また、会えるといいですね」
言い終わると、昇はキャリーバッグを持って千登勢たちと共に空港の奥へ向かって歩き始めた。
「の、昇……」
行かないで。あたし、まだ何も言ってないじゃない。ごめんなさい、の一言も。あたしもあんたが好きよ、ってことも。何も言っていない。もう会えないかもしれないのに……行かないで、昇。
でも、やっぱり言葉が出なかった。目から溢れ出る涙のせいで声が出ない。だんだんと小さくなっていく昇にただ手を伸ばすことしか出来なかった。
どうして、あんたはそんなに優しいのよ……昇。
結局、あたしは何も言えないまま、あいつと別れることになってしまった。
17
現在。2064年。
「みんな、荷物はまとめた? 忘れ物とかないわね?」
旅館に宿泊した翌朝。あたしは荷物の入った鞄を持って同じ部屋に泊まっていた子たちに聞いた。
「大丈夫です!」
「愛佳、準備万全」
「あたしも大丈夫」
「問題ない」
「私もオッケーです」
「よし、帰りますか!」
みんなの返事を聞いたあたしはみんなと一緒に部屋を出た。
「千登勢、楽しかった?」
「はい、とっても。今までで一番楽しい旅行になりました。ね、あいちゃん!」
「もちろん。ちーちゃんと旅行出来たなんて夢みたい」
千登勢がそう聞くと、愛佳も嬉しそうに笑った。無表情な時が多い子だけど、この旅行では本当によく笑っていた。
「また行きたいわね、未国?」
「な、なぜ私に振るんだ?」
「楽しくなかったの? 沢村と一緒に泳いでたじゃない」
「鶴香、お前、見てたのか!?」
「さあ、どうかなぁ」
「お、お前……」
笑うのを必死にこらえている鶴香と顔を真っ赤にしている未国。あんなに仲が悪かった二人がこんなに仲良くなるなんて思ってもみなかった。二人とも、それぞれのパートナーとうまく行くといいわね。
「真那、楽しかった?」
「はい、これ以上なかったくらいに楽しかったです」
温泉では辛そうな表情をしていた真那も今は嬉しそうに答えた。
「貝堂さんはどうでしたか?」
「あたし? あたしは……」
楽しくなかった……わけがない。もちろん、すごく楽しかった。この子たちの幸せそうな顔を見ているだけで、あたしも同じ気持ちになった。でも、それでも、あたしには楽しいと言葉にする権利があるだろうか。
この場所へ連れていこうとしてくれた親を失い、あの店へ連れて行ってくれた昇を傷つけたあたしが、楽しい思い出を作っていいのだろうか……。
『君はもっと自由に生きていいんですよ、伊津美』
そう……そうよね、昇。こんなことで迷っていたら、あんたが言ってくれたあの言葉を裏切ることになるわよね。
「もちろん、あたしもすっごく楽しかったわよ。またみんなで行きたいわね」
「はい、もちろんです!」
真那がそう言うと、他の子たちも笑って頷いてくれた。
そうだ、また来よう。今度は昇も連れて、みんなで行こう。全てに決着をつけたその日が来たあとに。
「おーい、何してんだよ。早く帰るぞー!」
正面玄関のところで待っていた溝谷が言った。沢村や葉作、梨折の姿もある。
「わかってるわよー!」
返事した鶴香が先を歩いていく。あたしも他の子達と一緒にそのあとについていった。
こうして短いけれど、とても幸せなあたしたちの旅行は幕を閉じた。
18
ヒグラシの鳴く声が静かに聞こえてくる。それは夏の終わりを告げ、新たな季節が始まる合図のようだった。
木々の生い茂る神戸神社。僕はその境内にあるベンチに座っていた。
今のところ、僕以外の人は誰もいない。普段、一緒に行動している花麗やメンバーに指示を出す浜家の姿もなかった。
「さて、僕に何をさせようとしているのかな……」
そう呟きながら手にしていたランニングバーを食べる。期間限定のチーズケーキ味は夏を過ぎると一年はお預けになる。もしかしたら、これが最後の一本になるかもしれない。
「買いだめしておけばよかったかな……」
「ほう、ずいぶん早い到着だな、伊月」
神社の入り口のほうから声が聞こえてきた。視線を移すと、白髪混じりの髪をしたスーツの男が何人かのボディガードを連れてやってくるのが見えた。
誰なのかはすぐにわかる。僕をここへ呼びたした張本人の吉住だった。
以前は高級レストランで僕たち刀人を軽蔑し、浜家に色々と指示を出していた。正直に言えば、僕はこの男にあまり好感を抱いていない。けれど、政府の関係者に名指しで呼び出しを受けたからには、断わることができなかった。
「お前らはここで待ってろ」
「しかし、吉住さま。相手は刀人ですよ」
「かまわん。あいつは馬鹿な真似はしないさ」
吉住はボディガードたちを少し離れた場所に立たせて、一人で僕のところへやってきた。
「僕だけを呼んで、デートでもするつもりかい?」
軽く冗談を言ってみると、吉住はふん、と鼻を鳴らした。
「馬鹿なことを言うな。誰がお前ら刀人と付き合わないといけないんだ? そんなのに時間を費やすのなら別のことをやっている」
「なら、どうしてわざわざ僕を?」
「浜家からダルレストの刀人に関する話は色々と聞いている。その中で一番まともなのがお前だったというだけだ」
吉住は僕の隣に座ると、ポケットからタバコを取り出し、ライターで火をつけた。
「桜夢とかいう奴がやられたそうだな」
「本人はピンピンしてるけどね」
「ふん、一人も人質を取ることができないとは、能力の高い刀人と聞いて呆れる。結局奴らの尻尾は掴めないままだろ。使えないにも程がある」
「なら五人目を使えばいい。それで全部解決するんでしょ?」
我ながら思い切ったことを口にしたと思った。この男ならやりかねない。 けど、吉住は表情を変えなかった。
「五人目に関しては全て浜家に任せている。俺個人としてはさっさと使ってもらいたいが、奴のことだ。何か考えがあるのだろう。いずれ使わざるをえない時が来る。それを促すためにもおまえには一働きしてもらうがな」
「どういう意味かな?」
僕がそう聞くと、吉住はにやりと笑ってタバコを近くのゴミ箱に捨てた。
「お前と字倉にこいつらを捕まえてもらいたい」
そう言って、この男はポケットから一枚の写真を取り出して、僕に渡した。
「……」
写真を受け取った瞬間、言葉を失った。予想もしていなかった人物に驚きを隠せなかった。
「その娘が少し前にこっちへ戻ってきている。そして二週間後に帰ることもわかった。そこを狙って捕まえろ」
「待て、吉住。この情報はあんたの力だけでは絶対に掴めないはずだ。まさかスパイを……」
口調を厳しくして吉住に問い詰める。既に僕はその答えを予想していた。もし、僕の予想通りなら、こみ上げてきたこの怒りを抑えるのは難しいかもしれない。
「まさか。向こうにスパイを送っていたらすぐにこんなくだらない戦いは終わっているだろ? あいつを使わせてもらったのさ」
そう言って吉住が後ろのボディガードに向かって顎を指す。ボディガードが頷いて、後ろに停めてあったリムジンのドアを開いた。
「い、伊月さ~ん!」
そこにいたのはよく知っている子だった。だからこそ、自分の予想が的中してしまった。リムジンを降りてきたのは回収屋の創路だった。創路は泣きそうな顔で僕のほうに駆け寄ってきた。
「伊月さ~ん、すいません! すいません! この人たちがどうしてもっていうんで……」
「向こうの情報を誰よりも知っているのはこいつだからな」
吉住のその言葉で、もう確信に変わった。間違いない。この男は創路から向こうの人たちの情報を聞き出したんだ。
でも、それは暗黙の了解の上で禁止されていることだった。創路はあくまで僕たちとガードレディたち双方の中立な立場にいる子だ。中立な人間だからこそ、お互いにフィールド内で出た死体の回収を彼女に頼んでいる。けれど、どちらか片方が相手の不利になる情報を彼女から聞き出せばその立場も危うくなる。それがバレれば、創路の死体の回収をうまく出来ない可能性も出てきてしまう。
「ルールを破るのか、吉住。この子から情報を聞くのは禁止になっているはずだ」
「お前もこんなくだらない戦いをダラダラと続けるつもりか? 笑わせるな。俺たちだって暇じゃないんだ。高齢者保護法を効率よく行い、刀人の管理を徹底しなければ、社会を乱れたままだ。それに五人目を使うよりはマシなことだろ?」
「吉住、お前……!」
手に力がこもる。それと同時に吉住のボディガードたちが拳銃を構えた。そばにいる創路も僕の腕を掴んで、首を横に何度も振る。
この状況で能力を使うのはまずかった。吉住たちを始末するのは簡単だけど、この男が死ねば、浜家が黙っているはずがない。それに創路の身にも危険が及ぶのは明らかだった。
最初からこれを狙っていたのか……。
僕は笑っている吉住を睨みつけたまま、動くことができなかった。
「ふふ、さすがだ、伊月。やはりお前は優秀だな。この状況で能力を使えばどうなるか、ちゃんと理解している」
吉住は新しいタバコを口にくわえて、火をつけた。そのまま、リムジンのほうに歩いていく。
「浜家には既に伝えてある。お前に拒否権はないぞ」
「彼女たちが黙っていないよ」
「ふん、向こうにも強い奴がいるらしいが、お前の敵ではないだろ。伊月、お前には期待している。我々を落胆させるなよ」
言い終わると、今度こそ吉住はリムジンに乗った。ボディガードたちも銃をしまって、あとに続き、そのまま走り去っていった。
僕は何も言わずにそのリムジンを見送った。憤りや悔しさが沸き上がってきて、それを我慢するために唇を噛んだ。結局、僕はあの男や浜家の言う通りにするしかない。
「すいません、伊月さん。私のせいで……」
あとに残った創路が申し訳なさそうに言った。
「大丈夫。創路のせいじゃないよ。悪いのはろくでもない考えしか出来ないあいつらだ」
僕は笑って創路の頭を撫でてあげた。創路は顔を赤くしたまま、何も言わずにうつむいた。
もう一度、吉住から渡された写真を見る。松阪駅と思われる場所から、車に乗り込もうとする二人の人物。一人は彼女たちのリーダーである秋野 希莉絵。そして、もう一人は桃色の髪の少女だった。たぶん、秋野の娘だろう。
「どうしてこうなってしまうんだろうね……」
誰に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。
日が沈んで辺りが暗くなっていく。ヒグラシはまだ寂しそうに鳴いていた。
第七話 あの海へ行く 終
次回へ続く。
ゲストキャラ紹介
・藤原 要
スガ氏作『ugly virgo SCREAMS』より登場。旧姓 後藤 要。藤原 道夫と和歌山県の白浜でうどん屋『藤原亭』を営んでいる。
・藤原 道夫
スガ氏作『ugly virgo SCREAMS』より登場。要と共にうどん屋『藤原亭』を営んでいる。
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