第六話 生きる意味
第六話 生きる意味
1
二十八年前。2036 年八月。
普通の家族って何だろう?
あたしの思いつく限り、親のどちらかが亡くなっている。子供が何らかの障害を持っている。親から家庭内暴力を受けているといった特別な事情がない家族のことを言うんだと思う。
もしそれが正しい答えなら、あたしたちは普通の家族だっただろう。
「ねえ、ママ。とっても綺麗な海だね」
海岸沿いの国道を走る車。そこから見える海はとても綺麗だった。それまで写真やテレビでしか見たことがないものを、実際に自分の目で見ると言葉では表現できない美しさがあった。
「そうね。でも、これから行くところはもっと綺麗なところよ。何せママとパパのとっておきの場所なんだから」
「とっておきの場所?」
あたしが聞き返すと、隣の席に座っていたお母さんが優しい笑顔を見せた。
「そうよ。なんて言っても、あそこはパパがママに初めてプロボーズした――」
「おい、恥ずかしいから言うなって」
運転していたお父さんが顔を赤くして言った。
「あ、パパ、照れてる! 照れてる!」
「照れてない! パパは照れてないぞ!」
お父さんは必死に首を横に振ったけど、顔は真っ赤なままだった。
あたしたちは普通の家族だった。お母さんもお父さんもあたしを大切にしてくれていたし、仕事で忙しい時が多くても、必ず家族みんなでご飯を食べるようにしてくれた。
あたしはそれ以上のことを二人に望んでいなかったし、とても満足していた。あたしは幸せだったんだ。二人の子供に生まれて良かったと思った。
けど、あたしたちの関係はたった一つの出来事で変わってしまう。それだけ脆いものだということを、あの時のあたしは全く知らなかった。
窓から差し込んでいた太陽の光が急に暗くなる。見ると、あたしの乗っている車より、倍以上の大きさはあるトラックが隣の車線を通ってきた。
「大きいトラックだね、ママ」
「ええ、そうね」
「あのトラック、何が入ってるの?」
「あれはたぶんね――」
突然、何かが擦れるような大きな音が鳴って、お母さんの言葉を遮った。あたしたちの車じゃない。隣を走っているトラックだった。タイヤから火花を出したかと思うと、急に方向を変えて、あたしたちの車の進む先を遮った。
「え……?」
運転していたお父さんはとっさに反応できなかった。 避ける間もなく、トラックがあたしたちの車にぶつる。ものすごい衝撃が体にはしって全身を車のどこかに打った。 何も見えなくなり、そして何も聞こえなくなった。
2
2064 年八月下旬。 堀坂山 山中 アサガオ本部 食堂
「貝堂さん? 貝堂さん!」
「……え、何?」
顔をあげると、対面の席に座っていた絹子が心配そうな表情であたしを見ていた。
「どうしたんですか、急に黙り込んで……」
「ああ、ごめん、ごめん」
そう言いながら目の前に置いてあるスパゲティをフォークでつまんで口の中に入れる。
「暑さのせいでちょっと疲れたかもしれないわ」
「ちょうどピークですからね。夏バテとかで急に倒れないでくださいよ」
「大丈夫、大丈夫。気をつけてるから」
「それと……」
絹子はそう言いながら視線をやや下に向けると、半ばあきらめたような口調で言った。
「ほどほどにしないと太りますよ」
テーブルに置かれているのはスパゲティだけじゃなかった。お好み焼き、ピザ、野菜炒めなどたくさんの料理が並んでいる。
「いやぁ、昼間、ちゃんと食べることが出来なかったからさあ。全然足りなくて」
「何言ってるんですか! 昼ごはんもカレーライス五杯は食べてましたよ!」
絹子がテーブルから身を乗り出して言う。そんなに大げさなことかな。昔からこれくらいの量はあっさり食べていたんだけど……。
「貝堂さん、大食い選手権に出たら優勝できると思いますよ」
「あはは、冗談やめてよ。さすがにこの歳で出られないわ」
「はあ、とりあえず食べ過ぎは健康に良くないですよ。なるべく控えてください」
絹子はため息をつきながら椅子に座り直すと、目の前にあるお茶を飲んだ。
子供たちが昼寝をしている間、あたしと絹子は食堂で休んでいた。午前中は子供たちに勉強を教え、昼間はご飯の支度及びみんなで昼食。そのあと、子供たちが昼寝するまで面倒を見た。そこまで終わってようやくまともな休憩を取ることが出来るのだ。たぶん慣れていないと大変だと思う。
「心配しなくていいわよ。あたし、太ったことは一度もないから」
笑ってそう言ったけど、絹子の表情は堅いままだった。
「貝堂さん、やっぱり二、三日休みを取られたほうがいいんじゃないですか? 最近、ずっと休みなしで働いているから、バテてるのはそのせいですよ」
「そうかもしれないけどね……」
絹子の言っていることはわかる。基本的にあたしたちのやっている仕事は普通の保育士とそこまで大差はない。子供たちと遊んだり、勉強を教えたり、一緒にご飯を食べたり……一日の生活を子供達と共に過ごすのが仕事だ。
違いがあると言えば、普通の保育園の子供たちには帰る場所がある。あの子たちには育ての親がいることだ。でも、ここにいる子たちに親はいない。刀人になったせいで親と離れた子、刀人に家族を殺されて孤独になった子。そういった境遇の子が大半を占めている。
特別な環境で暮らす特別な子供たち。その子たちのお世話をする職員を集めるのは容易なことじゃなかった。人手不足の問題は避けられないせいで、シフト制を取っても連日仕事に入ることは珍しくない。
だから、あたしは絹子や他の人の負担を減らしてあげられるように、毎日子供の世話をしていた。あたし自身、この仕事が好きだったし、嫌なことなんて何一つなかった。けれど、逆にそれが絹子の不安を煽ることになってしまったらしい。
「毎日仕事するなんて無茶ですよ。もっと私や他の人たちを頼ってください。貝堂さん一人で頑張る必要なんてないんですから」
「ありがとう、絹子。でも、自分の体調ぐらい、自分で管理できるわよ」
「貝堂さん……」
「それにここの状況も良い方向に進んでるみたいじゃない。あの誕生日パーティ以来、未国 は性格が丸くなって、鶴香たちと仲が良くなったみたいだし、奴らの目立った動きもなくなって、あの子たちが仕事へ行くことも少なくなった。良くなってるわよ、絶対に……。このまま、何も起こらなくなる。それでいいじゃない」
目の前にあるお茶の入った湯呑をぐっと握った。
そう、状況は良くなっている。うまくいけば、あの子たちが普通に暮らせる日も近いんじゃないのかと思った。
『君はもっと自由に生きていいんですよ、伊津美。どんなに辛くてもたった一度の人生です。楽しまないと損じゃないですか』
ふと頭の中に声が響いてくる。あいつの言うとおりなら、あたしはあの子達をもっと自由にしたい。幸せになってほしい……。
「貝堂さん、堺さん」
食堂の入口のほうから声が聞こえてきた。見ると、同僚の松藤 が立っている。
「ああ、まっちゃん、どうしたの?」
「理事長がお呼びです。大事な用事があると……」
3
女子寮の食堂をあとにして、あたしと絹子は『大広間』のある建物に入った。そのまま、四階にある理事長室に向かう。
「大事な用事って何でしょうか?」
「さあ、あたしにもわからないわ」
理事長の部屋に到着し、ドアを叩く。
「理事長、入っていいですか?」
「どうぞ」
理事長の返事が聞こえたので、ドアを開けて部屋の中に入った。すると……。
「あ……」
四方の棚に隙間なく置かれたぬいぐるみ。その数が増えていたことにも驚いたけど、それ以上にびっくりしたことがあった。
中央に置かれたソファ。そこに一人の女の子が座っていた。桃色の髪のショートヘアー。オレンジ色のティシャツに、短めのチェック柄のミニスカートを履いている。あたしがその子を見たのは数年ぶりだった。
「もしかして……千登勢!?」
「お久しぶりです! 貝堂さん、堺さん!」
そう聞くと、ソファから立ち上がって女の子が明るい声でお辞儀した。その場にいるだけで周りの雰囲気を明るくしてしまう不思議な力の持ち主。間違いない、理事長の一人娘の秋野 千登勢だった。
「驚いたわ、こっちに帰ってきてたなんて……。言ってくれれば良かったのに!」
「えへへ、ついさっき帰ってきたんです。みんなを驚かせようと思ったんで……」
「くぅ、相変わらず可愛いわね、こいつぅ!」
あたしは思わず千登勢を抱きしめて頬ずりした。初めて会った頃からこの子は子猫みたいで可愛いくて仕方がなかった。
「にゃひぃ! 痛いです、痛いですよぉ、貝堂さん!」
「ふふふ、伊津美さん、千登勢を放してあげてください。泣いてしまいますよ」
理事長が優しく笑いながら言うのに対し、千登勢はぷぅっと頬を膨らませた。
「お、お母さん、私、もう泣き虫じゃないよぉ! 向こうでうたちゃんや昇 おじさんと頑張ってきたんだから!」
「……!」
その名前を聞いた瞬間、あたしは千登勢を頬ずりするのをやめた。頭の中にあいつの姿が思い浮かぶ。
「ち、千登勢……もしかして、昇も帰ってきてるの?」
遠慮がちに聞いた。
もし、千登勢と一緒にあいつが帰ってきていたら、あたしはどんな顔をして会えばいいんだろう。その答えがはっきりとわからなかった。
「いえ、昇おじさんはまだうたちゃんと一緒にいます。帰ってきたのは私だけなんです……」
千登勢が残念そうに答える。
「あ、そうなの? そうか……そうなんだ」
あたしは心の中でほっと一息ついた。
良かった。今、あいつがいたら何を言えばいいのかわからないし……。
「……」
あたし、何をほっとしているの? あいつが気を遣ってここを出て行ったのはわかっているのに……。悪いのはあたしのほうなのに……。
込み上げてきた罪悪感を打ち消すために、あたしは千登勢にあいつのことを聞いた。
「の、昇はどうしてるの? 元気にやってる?」
「とても元気ですよ。今はずっとうたちゃんの訓練の相手をしています。日本に戻ってくるのがいつになるかはわからないですけど……」
「そっか……」
てっきり、千登勢に何か伝言を頼んでいるのではないかと思ったけど、そんなことはなかったらしい。余計なことを伝えて、あたしを困らせないようにしているのか、ただ忘れていただけなのか。どちらにしても今のあたしには推測することしか出来ず、今のあいつがあたしのことをどう思っているのか、わからなかった。
「さて、伊津美さん。大事な用事があると言ったことですけど……」
理事長が改めて言う。そういえば、そのために理事長室に来たんだった。千登勢と再会して喜んだり、昇のことを思い出して自己嫌悪になったりしたせいで、すっかり忘れていた。
「どんな用事ですか?」
「実はですね……」
理事長は千登勢のほうをちらりと見てから話を始めた。
『君はもっと自由に生きていいんですよ』
ずっと心に残っているあいつの言葉、思い浮かんだあいつの姿、さっきの罪悪感。それらのせいなのかどうかわからないけど、あたしはあいつと出会った時のことを思い出した。
4
二十五年前。2039 年六月。
夕焼け空を眺めると保育園の時によく聞いた曲が頭の中を流れていく。その曲が終わってから友達としばらく遊んでいると、先生がいつも声をかけてくる。
「伊津美ちゃん、お迎えですよぉ!」
その声を聞いて、あたしが振り返るといつも優しく笑っているお母さんがいた。お母さんを見て、あたしも笑顔になる。二人で手を繋いで家に帰って、仕事が終わったお父さんと三人でご飯を食べる。それがあたしたち家族の日常だった。
いつもと変わらない日々。これから先も変わることはないだろう。そう思い込んでいた自分が遠くにいるような気がするくらいに、時間が過ぎていた。
小学校からの帰り道。田畑の広がる田舎道を歩くあたし。その足取りは決して軽くなかった。空にのぼった太陽が沈んでいくのと同じように、学校での楽しい時間からあたしの嫌う時間がやってくる。
田舎道を抜け、自転車で登りきるのが難しい坂道を歩く。その上にあたしの住んでいる家があった。生まれた頃からずっと暮らしている家。ここにはたくさんの楽しい思い出が詰まっている……はずだった。そのはずだったのに……。
「ただいま……」
靴を脱いで玄関にあがる。漂ってくるのはいつもお酒の匂いだった。何度も何度も嗅いだことがあるけど、未だにあの匂いに慣れることは出来なかった。
匂いの漂う台所に向かう。電気のついていない真っ暗な場所。使われた大量の食器がそのまま置かれた洗い場、残飯で溢れているゴミ箱。それらに囲まれたテーブルの上にも空になった瓶や缶ビールが散乱している。
お父さんはそのテーブルの上に突っ伏して寝ていた。手に缶ビールを持っているから、仕事から帰ってきてからずっと飲み続けていたんだろう。
「ただいま、パパ」
「ん……」
お父さんが目を開けて、あたしのほうを見る。
「ああ、お帰り、伊津美」
言葉は穏やかだったけど、その目はどこか虚ろで焦点が合っていなかった。あたしのことをちゃんと見ているのか、どうかわからない。
「今日は忙しくて疲れているんだ。話しかけないでくれないか」
「……うん」
あたしがそう返事すると、お父さんは握りしめていた缶ビールに口をつけた。
「ごめんな。パパ、今日も死ぬことが出来なかったよ。くく、情けない父親だな。くく、くくく……」
「……」
意味のわからないことを独りでつぶやき始めるお父さん。そんな父の姿をあたしはどこか冷めた目で見ていた。最初は驚いていたけど、毎日のように見ているともう慣れてしまった。
台所をあとにして、一階の廊下を歩き進み、奥にある部屋に向かう。そこは家族三人で一緒に寝ていた部屋だった。けど、今は……。
「ただいま、ママ」
部屋の半分を占領している大きなベッド。その上で横になっているお母さん。
綺麗だった髪はすっかり乱れ、体はひどく痩せてしまい、お父さんと同じように目も虚ろになっていた。
元気だった頃のお母さんはどこに行ってしまったんだろう。そこにかつての面影はなかった。
「……」
「ママ?」
「……」
「ただいま、ママ」
「あ……」
ようやくお母さんがあたしに気づいて声を出した。
「お、おか……えり……い、いづ……いづみ……」
その声は掠れてほとんど聞き取れなかった。起き上がろうとしていたけど、動いているのは手だけで、体……特に下半身は全く動いていない。
「……っ!」
そんなお母さんの姿をじっと見ることが出来ず、あたしは部屋を出た。お父さんの姿を見るのには慣れていたけど、なぜかお母さんの変わり果てた姿を見続けることは出来なかった。二階にある自分の部屋に向かい、そのままベッドに倒れ込んで、枕にしがみつく。
何でこんなことになってしまったんだろう?
考えなくても答えはわかっている。あの時……家族みんなで旅行へ行った時に起こった事故のせいだ。あの事故があたしたちの全てを変えてしまった。
その事故で一番大きく変わってしまったのはお母さんだった。お母さんは命に別状はなかったけど、下半身不随という腰から下が動かなくなる障害を負ってしまった。
下半身が動かない。つまり歩くことや階段を登ること、起き上がることやお風呂に入ることなどが一人で全く出来なくなってしまった。
お母さんが生きていくためには誰かの助けが必要になる。ホームヘルパーを雇うほどのお金も持ち合わせていない以上、その役目を引き受けるのは必然的にお父さんだった。お父さんはそれまで働いていた仕事をやめて、短時間で済む仕事に転職した。そして残りの時間を全て、お母さんの介護に費やした。つまり、お母さんの食事、着替え、お風呂、用を足すことすら、全部お父さんがすることになったんだ。
最初こそ、お父さんは一生懸命頑張っていたけど、それが一ヶ月、半年、一年、三年と続けば誰だって限界が来る。日に日に溜まるストレス。その捌け口として、お父さんはそれまで一滴も口にしていなかったお酒に手をつけるようになった。そのせいで台所には酒の臭いが充満するようになり、お父さんは精神も体もボロボロになって……そして、酷い欝状態になってしまった。
そんなお父さんが変わり果てた姿になるのを、子供だったあたしは黙って見ていることしか出来なかった。どうすればいいのか、全くわからず、無理をして笑いながら「いってらっしゃい」って言うお父さんに「行ってきます」と返事して、学校に行くことしか出来なかった。
何て自分は無力なんだろう……。あたしはその日もお父さんやお母さんのために何もすることができない自分に嘆き、枕を涙で濡らした。
その時だった。
「あ……」
まただ。両手に熱がこもる。まるで手にアイロンを押し付けられているようにとても熱かった。でも、あたしは洗面所に行かず、その場でぐっと我慢した。
最近になって、手が急に熱くなる病気が続いていた。原因はわからない。最初は洗面所の水で洗っていたけど、熱は全く冷めなかった。氷をつけたこともあったけど、効果はなかった。
どうすることも出来ないんだけど、その病気はいつも一、二分で治まった。手を見ても火傷の痕どころか変わったところは何もない。いったいこれが何なのか、あたしにはわからなかった。
その時も一分ほどで謎の病気は収まった。
「う……」
何度も経験したとはいえ、この異常な熱さに慣れるのは難しい。全身を汗で濡らしながら、歯を食いしばって我慢することしか出来なかった。
5
次の日の夜。あたしはランドセルを背負ったまま、自分の家から離れた町の通りを歩いていた。
なぜ、家に帰らずにこんなところにいるのか……。別に何か買い物をするわけでも、一人でカラオケをしに来たわけでもない。特に何の用事もないまま、あたしはただ歩いていた。
じゃあ、どうして家に帰らないのか。
どんな人でも一度くらい現実逃避はしたくなるだろう。あの薄暗い家に帰るのが嫌になったあたしも、そうしたくなっただけだ。現実から目を背ける。それが恥ずかしい事で、愚かなことだという人もいるかもしれない。でも、あの時のあたしにはこうするしかなかった。
家庭の事情という深いところまで相談できるほど、親しい友達や頼りになる親戚もいない。そんなあたしに何が出来るって言うの……。
「お腹空いたな……」
お昼の給食から何も食べていないから当然だった。だからと言って、こんな夜中に小学生一人が外食することも出来ない。持っているお金もほんの少ししかなかった。
とりあえずコンビニでおにぎりでも買おうかと思っていると、行く手を誰かが立ちふさがった。
「君、こんな夜遅くにどうしたんだ?」
見上げると、目の前にあたしよりとても背の高い警察の人が二人立っていた。そのうちの一人が厳しい顔つきで見下ろしている。
「だめだよ、子供が一人でウロウロしてちゃ。お母さんかお父さんは? 一緒じゃないのか? 早く家に帰りなさい」
「……」
ドラマやアニメで似たような科白を聞いた気がする。もし、この人たちに今のあたしの悩みを打ち明けたら、ちゃんと聞いてくれるだろうか。ちゃんと解決してくれるだろうか。
そんなことはない、と幼いあたしは冷静に判断した。お父さんとお母さんがあんな状態になっているといっても、大きな事件が起きたわけじゃない。その予兆はあるかもしれないけど、それだけでこの人たちは積極的に動かない。警察はあくまで何かの事件が起きた後に捜査を始める組織だ。それが悪いことだとは言わないけど、今のあたしが抱える問題を解決してくれるとは到底思えなかった。それに、そこまで親しい付き合いをしたわけじゃない相手に何もかも話すことには抵抗があった。
「ごめんなさい、すぐに帰ります」
「本当に大丈夫か? 何か顔色も悪いようだけど……」
どうやら心配してくれているらしい。でも、あたしには余計なお節介にしか思えなかった。あたしのことなんて何も知らないくせに、何も解決出来ないくせに……。
「家はどこにあるんだ? 私たちが送ってあげよう」
「……」
どうやってこの場を離れようかな……。そう考え始めた時だった。
「あ、ここにいたんですか。随分、探しましたよ」
後ろから聞き覚えのない声が聞こえてきた。振り返ると、そこには一人の若い男が立っていた。短めの焦げ茶色の髪、縁のないメガネをかけたその男は、二人の警察よりも更に背が高かった。でも、その大柄な体格とは裏腹に男の見せた笑顔はとても優しかった。
「保護者の方ですか?」
警察の人が男に聞いた。男は笑顔のまま答えた。
「すいません、妹なんです。途中ではぐれてしまって……」
そして、あたしの手を掴んだ。
「さ、行こうか?」
そう言いながら男が目配せしたことにあたしだけが気付いた。黙って頷くと、そのまま手を引いて反対側の通りを歩いていく。二人の警官は何も言わずにあたしたちを見送った。
「あの、ちょっと……」
警官の姿が見えなくなったのを確認してから、あたしは男に話しかけた。
「申し訳ないことをしましたね。でも、こんな時間に女の子が一人で歩いていると、本当に危ないですよ。最近、この辺りでは良くない事件が起きていますから」
「いや、そうじゃなくて……」
「ああ、すいません」
あたしの聞きたいことが何なのか、ようやく察したらしく、男は私のほうを見た。
「私は昇……貝堂 昇 です。あなたのお父さんとは同じ職場で働いていました。はじめまして、伊津美くん」
これがあたしと昇の初めての出会いだった。
6
昇にお父さんの転職先の同僚と言われても、あの時のあたしでも半信半疑だった。お父さんの仕事のことはよく知らなかったし、あんな状態のお父さんからそんな話を聞くことが出来るわけもなかった。
でも、昇はあたしのことやお母さん、お父さんのことをよく知っていた。詳しい話を聞いたところ、どうやら、お父さんは職場で昇に家族の話や悩みの相談相手をしてもらっていたらしい。あたしのこともお父さんからよく話を聞いたと言っていた。
だけど、少し前にお父さんが突然会社を辞めたので、何かあったと思った昇は何度かお父さんに連絡を取って、力になろうとしていたらしい。けれど、そんな努力も虚しく。お父さんが鬱病になってから、連絡が出来なくなってしまった。それでお母さんのお見舞いも兼ねて、家まで行こうか迷っていると、たまたま通りかかったあたしを見かけた……という。
「家を出た時はあまり考えていなかったのですが、さすがにこの時間から伺うのは失礼ですよね」
隣を歩く昇が肩をすくめて言った。
「……」
「とりあえず、家まで送ってあげますよ」
「……いや」
「ん?」
「……帰りたくない」
あたしは昇の手を掴む力を強めて、小さな声で言った。
電気のついていない家。台所で意味のわからないことをつぶやくお父さん、変わり果てた姿になってしまったお母さん。
家に帰っても、良いことなんて何もない。どうせ、あたしは一人ぼっちで、自分の無力さを嘆くしかない。今さらどうあがいても、あの楽しかった家族には二度と戻れない……。
「どうして、こんなことになっちゃったの? あたし、何も悪いことなんてしてないのに……。お父さんもお母さんも優しかったのに……。どうして、こんな思いをしなくちゃいけないの?」
自然と目から涙が溢れてきた。まだ出会って間もない昇のそばで、あたしはこんな惨めな姿を見せていた。さっきの警察には絶対に言わないと思っていたのに、なぜか昇の前では自分の抱えていた辛さや弱音を口にしていた。
「とても辛かったんですね」
あたしの苦しみや悲しみがどれだけ深いものなのか、それを知っているのはあたし自身だけだ。お父さんやお母さんはもちろん、昇には全くわからないはずだった。だけど、昇は少しでもあたしを慰めようとしていたのだろう。ただ一言そう言って、あたしが泣き止むのをじっと待っていた。
そんな状況で「ぐううう」と空気を読まない音が鳴った。
「……」
「……」
お互いに顔を見合わせる。昇はくすっと笑うだけだった。あたしのほうは顔を赤くして目をそらした。
「お腹がすきましたね。何かご飯でも食べに行きましょうか」
お腹が鳴ったのはあたしのほうなのに、昇は自分のお腹に手を触れながら言った。
7
昇に連れられて入った店は二十四時間営業しているファミレスだった。
ファミレスに行くのはかなり久しぶりだった。家族三人で行ったのが最後だから、少なくともここ二、三年は行ったことがなかったと思う。
店員に案内されて、二人用のテーブルにつき、料理を注文して二人で食べ始める。どこからどう見ても、父親と娘が二人でご飯を食べている姿にしか思えないだろう。でも、あたしから見ると、昇がそこまで年上に思えなかった。たぶん、二十代を過ぎたがどうかってところだと思う。
「……」
「……」
「……」
「何……さっきからじっと見てるけど?」
「ああ、すいません。失礼なことを聞くかもしれませんが、それを全部お一人で食べるんですか?」
あたしの目の前にはステーキ、オムライス、お子様ランチ、カレー、スパゲティなど六、七人前に相当する量の食事が並んでいた。対して、昇のほうは一人前のハンバーグだけだった。
「いつもこれくらい食べてたの」
「伊津美くんは育ち盛りなんですね」
「でも、今はこんなに食べない。レトルトかインスタントぐらいだから……」
またお母さんやお父さんのことを思い出す。嫌な気持ちで心がいっぱいになっていく。
でも……。
「いいですよ。遠慮せず、いっぱい食べてください。今日は僕の奢りですから」
昇が笑顔でそう言った。その表情を見ていると、なぜか心がすっと軽くなった。今でもあたしはこいつの笑っている顔に良い意味でも悪い意味でも弱いんだと思う。
目の前にあるオムライスをスプーンですくって食べる。それがあまりにおいしくて、手が止まらなかった。あっという間にオムライスを完食し、今度はスパゲティを食べ始める。
昇はずっと笑顔のままだったけど、ふとハンバーグを食べていた手を止めた。あいつの視線があたしの手元に向かう。
「……」
昇が何を見ているのか気づいていた。あの火傷のような痛みを少しでもおさえようと、あたしは手にそれぞれ包帯を巻いていた。初めて見る人が気になっても仕方ないだろう。
「これ? これはインスタントを作ろうとしてたら、お湯をかけて火傷しちゃったの……どんくさいでしょ?」
誰かに聞かれたら、こう答えようと思っていたことを口にした。これが一番自然だと思うし、こう言えばわざわざ包帯を外す必要もないだろう。
「……」
でも、昇は何も言わずにじっとあたしの手を見ていた。顔は笑っていたけど、何か別のことを考えているようにも見えた。
「どうかしたの?」
「……ああ、すいません。そうでしたか、そんなことがあったんですね。とても痛かったでしょう」
昇はまた笑ってハンバーグを食べ始めた。
そのあと、しばらくお互いに何も話さずに黙々とご飯を食べた。昇がハンバーグを食べ終わるのとほぼ同時にあたしも完食し、二人でファミレスを出た。
「おいしかった。ありがとう、えーと……」
「昇でいいですよ、伊津美くん」
笑顔のままで昇が言う。二時間近く一緒にいたけど、まだ一度も笑顔以外の表情を見ていなかった。
「ありがとう、昇。いつ出来るかわからないけど、必ずお礼はする」
あたしはランドセルを背負いなおした。近くのビルに表示されている時間は夜の十一時前だった。
「ちょっと気分もましになったから、家に帰るね」
「本当に大丈夫なんですか?」
「……うん」
「間がありましたね」
「……」
さすがに家に帰らないといけないと思ったけど、あの光景を思い出すと、はっきりと「もう帰れるから大丈夫」と言えなかった。
「無理をしなくてもいいんですよ。朝までお付き合いします」
「え?」
昇は笑うと、ポケットから小さな黒い物を出して、それについているボタンを押した。ファミレスに停まっていた青い車のライトが点滅する。車のキーだった。
「乗ってください。僕のお気に入りの場所に連れて行ってあげます」
8
知らない人の車に乗るのは普通だったら危険なことだろう。何十年も前から幼い子供を誘拐する事件はよく聞くし、当時のあたしもそれなりの知識を持ち合わせていた。
でも、あの時のあたしは現実から目を背けたかったし、家に帰ったらお父さんと同じように自分自身もおかしくなってしまうんじゃないかと思っていた。学校が終わってからずっと夜の町を歩いていたのもそのためだったし……。それになぜか、昇には妙な安心感があった。あいつはあたしの気分を害するようなことを絶対にしない。根拠も何もないけど、なぜかそう感じて、あたしは何の抵抗もなく昇の車に乗った。
昇の運転する車が夜の町を通っていく。もうすぐ日付が変わるのに、町の明かりはずっと点いたままだった。居酒屋やさっきのファミレスと似たような店もまだまだ営業している。
「ねえ、お気に入りの場所ってどこ?」
「それは着いてからのお楽しみです」
車の中で何度か聞いたけど、昇ははぐらかすだけで答えようとしなかった。そう言っているうちに車が町を離れて、目の前に街灯も何もない山道が見えてくる。
いったいどこに向かうつもりなんだろう。あたしはこのまま山道に入ると思った。
だけど、その前に昇が車のスピードを落とした。道路脇にある駐車場に車を停める。
「さ、着きましたよ」
「え、でもここは駐車場じゃないの?」
そう聞いても、昇は笑うだけで答えなかった。シートベルトを外して車を降りていく。あたしもそのあとに続いた。
「これを見せたかったんです」
「あ……」
車から降りた後にあたしはようやく昇が言ったお気に入りの場所の意味がわかった。
暗い山道に入る手前にある駐車場。町から少し離れた場所だからこそ、ここから見える町の夜景はまさに絶景だった。高い建物の屋上や展望台から見える景色と比べたら劣るかもしれないけど、それでも言葉では言い表せない美しさが広がっていた。
「正確に言えば、ここは僕の友達のお気に入りの場所なんです」
「え?」
「僕の友人は女の子を連れてくるたびにここで告白してお付き合いしたそうです。断られる可能性が他の場所より四割減るそうで、もし気になる人が出来たらここで告白しろって何度も言われましたよ。残念ながらそういった相手に会ったことがないので、使う機会はありませんでしたが……」
昇が駐車場の周りを覆っている手すりにもたれて町のほうを見た。
「伊津美くん、あなたには夢がありますか?」
「夢?」
「将来なりたいものや、やりたいことはありませんか?」
「うーん……」
唐突にそんなことを聞かれても、うまく答えることができなかった。
「夢があれば人はとても強くなれるんですよ。学校や仕事で嫌なことがあっても、夢があれば立ち直ることができる。毎日同じことを繰り返して虚しくなっても、夢という目標があれば明日へ希望を持つことができる。夢があるのと、ないのとでは全く違います。それに夢を追い始めるのに早いも遅いもありません。大人になってから夢を追う人だって大勢います。もちろん、子供の頃から追い続けていれば、それが叶う可能性は高くなるかもしれませんが……」
昇が夜景からあたしのほうに視線を移す。
「今は色々と辛いかもしれませんが、伊津美くんが夢を持てばきっと良いことがたくさん待っていると思いますよ」
「あたしには……わからないわ」
「小学校や幼稚園、保育園でそういったことを考える機会はありませんでしたか?」
昇にそう聞かれて、あたしは何年か前のことを思い出していた。そういえば、みんなで将来なりたいものを考えて発表したような気がする。
「小学二年の時だったと思うけど、あたし、先生になりたいって言っていた気がする」
「先生ですか。どうしてですか?」
「一年生の時に好きな先生がいて、あ、もう他の学校に行っちゃったんだけどね……。あの人の授業は本当に楽しくて、みんなが笑っていて、時間があっという間に過ぎていくの。それが毎日続いて、学校にいくのが楽しみで仕方なくて、普通の子なら喜ぶ夏休みもあのクラスのみんなだけは先生の授業にしばらく行けなくなるから残念がってたの。あたしもそうだった。先生がみんなあの人みたいだったら、すっごく良いと思った。だから、あたしもあの人みたいに毎日学校に来るのが楽しみになるくらい、子供たちのことを喜ばせてあげたい。辛いことがあっても、そんなことを忘れることができるくらい、子供達を笑顔にしたいの! あたしが先生でクラスのみんなを笑顔にしている。その光景を想像するだけですごくワクワクするの!」
最初は言いづらかったけど、話しているうちに色々なことが思い浮かんで、あたしはそれを全部昇に話した。どれだけの時間が過ぎたのかわからなくなるくらいに、今までにないくらい、自分のことを話した。たぶん、話を聞いている人にとっては長すぎて面倒だったかもしれない。でも、昇はずっと笑顔で「なるほど」、「そうですか」と相槌をうってあたしが話すのをどんどん促してくれた。
とにかくいっぱい話した。色々なことをたくさん……。
「……」
そうしてようやくあたしが話し終えると、昇はまた笑ってこう言った。
「ほら、君にも素晴らしい夢があるじゃないですか。その夢を追うためにも、君はもっと自由に生きてもいいんですよ、伊津美。どんなに辛くてもたった一度の人生です。楽しまないと損じゃないですか」
「……」
まだ出会って一日も経っていないのに……。まだ、あいつのことをよく知らないのに……。
あたしはあいつに、貝堂 昇に惹かれていた。
9
2064年八月下旬
夏が最高潮になったと言えるくらいに外はじりじりとした暑さが続いていた。生い茂る木々からは無数のアブラゼミの鳴き声が聞こえてくるし、雲一つない青空のおかげで朝からずっと太陽が地上を照らし続けている。
「暑いな……」
ずっと部屋にいるのが嫌だったから、気分転換しようと思って中庭に出てみたが、間違いだったかもしれない。 日陰の中にあるベンチに座っていたが、暑さがマシになることはなかった。
「こんな時は海にでも行きたいな」
『こんな時は海に行きたいね』
誰かと言葉が重なる。驚いて周りを見たが近くに人はいなかった。ということは声の主は一人しかいない。
「弥生か……」
その声を聞いたのは久しぶりのような気がした。
『おじさん、パーティ楽しそうだったね』
「パーティ? ああ、この前のやつか」
俺は数日前、寮の食堂で行った佐東の誕生日パーティのことを思い出した。
佐東とは最初に出会った時の印象や実際に襲われたこともあって、それほど関係が良いとは言えなかった。パーティに誘われた時も一度は断ったが、沢村にどうしても参加してほしいと言われたので、やむなく出席した。
そしたらどうだろう。俺だけでなく他の仲間にさえ、あの険悪なオーラを出していた佐東がみんなからプレゼントを受け取って泣いていたのだ。一番仲の悪そうに見えていた橘とも和解したように見えた。
その証拠にあのパーティ以来、ここで活動しているメンバーの雰囲気はかなり良くなっていた。結果的にあのパーティは無事に成功したと言えるのだろう。
「佐東の誕生日を祝っていたんだ。確かに良い雰囲気だったな」
『うらやましいな。すごく、うらやましい』
「なんだ、お前も誰かに祝ってもらったことぐらいあるだろ? 家族や友達に」
『ううん。そんなことはなかったよ。弥生のことを大切にしてくれているのは昔も今も二人だけだよ』
「二人?」
『一人はもちろん、おじさんだよ。おじさんのおかげで、弥生は弥生としてここで生きていることができるから』
また訳のわかないことを言うんだな、と思った。
「もう一人は誰なんだ?」
『弥生の……大切な人で、弥生のことを大切に思ってくれている人』
「好きなやつなのか?」
『ううん、ちょっと違うかもしれない。その人はね――』
「あ、こんなところにいた! おーい、おっさん!」
弥生の声を遮って『大広間』のある建物のほうから声が聞こえてきた。私服姿の溝谷 (みぞたに) と沢村 (さわむら) がやってくるのが見えた。
「部屋にいないと思ったらここにいたのかよ。結構、探したんだぜ」
「何かあったのか?」
そう聞くと、沢村が答えた。
「仕事です、梨折先輩」
「何?」
まだ太陽の照りつけている時間帯だった。こんな早くに奴らと戦いに行くつもりなのか……。
「あ、すいません、、そっちの仕事じゃないですよ」
俺の考えていたことを察したのか、沢村が笑いながら否定した。
「じゃあ、何の仕事だ?」
そう尋ねると、溝谷が拳を握って「くぅ~」と声を出し始めた。何かを我慢しているというより、嬉しいことがあって、それを噛み締めている感じだった。
「まさか俺たちが本格的なサマーライフを満喫することができるなんて……カンベちゃん、俺はこの時代に生まれて良かったぞぉぉぉ!」
「……?」
青空に向かって意味のわからないことを叫ぶ溝谷。そのインパクトが強すぎて、俺は弥生が何を言おうとしていたのか、聞くことを忘れていた。
10
『真那……おい、真那』
「どうしたの、シンナ?」
『そろそろ交代するか? 今日はめちゃくちゃ暑いだろ』
「大丈夫よ。シンナはゆっくり休んでて」
『けどよお……』
「最近、ずっと戦ってばかりだったじゃない。休めるときに休んでおいて。戦えない私にはそれぐらいしか出来ないけど」
『……そうか? まあ、真那がいいなら、別にいいけどよお……』
シンナは少し間を空けて真剣な口調で言った。
『それぐらいしか出来ないなんて言うなよ、真那。真那のいるおかげであたしは戦うことができるんだからな。何があっても、あたしはあんたを守るぜ』
「うん、そうだね……。ありがとう、シンナ」
『んじゃ、もう少し寝ておくわ。何かあったら、呼んでくれ』
「おやすみ、シンナ」
心の中でそう言うと、シンナは何も喋らなくなった。少し遅めの昼寝に入ったのだろう。
「はあ、今日も暑いわねえ……」
シンナとの話を終えたのと同時に、隣のベッドでうつぶせに寝ている鶴香が呟いた。袖なしの真っ白なティシャツに黒いショートパンツの格好をしていても、かなり暑そうに見える。それも当然だった。今の私たちの部屋は冷房が故障していてかなり蒸し暑かった。窓を全開にして涼しい風を取り入れようとしているけど、不幸が重なって今日は全く風がなかった。
「真那、食堂でも行っておばちゃんにかき氷頼まない? このままじゃ、干からびちゃうわ」
「そうだね。他のみんなも誘ってみようか」
「よし、そうと決まったら早く行こ!」
ベッドから起き上がった鶴香はほどいていた金髪を二つの紐で左右それぞれに束ね、いつもの髪型にした。私も本を読むのをやめて、身支度する。
その時、ちょうど同じタイミングで部屋のドアを叩く音が鳴った。
「誰?」
「私、愛佳。入っていい?」
ドアの向こうから愛佳ちゃんの声が聞こえてきた。
「入っていいわよ、愛佳」
鶴香がそう言うと、ドアが開いて愛佳ちゃん……ともう一人の姿が見えた。
「未国?」
他でもない愛佳ちゃんと一緒にいたのは未国だった。前の戦いの傷が残っているのか、頬のあたりにテープを貼っている。
「私はべ、別に来たくて来たわけじゃないぞ。こいつがどうしてもっていうから仕方なく……。おい、ちゃんとついてきたんだから、いい加減離せ」
わずかに顔を赤くして未国が愛佳ちゃんの手をはらった。そこでようやく二人が手をつないで (というより、未国が愛佳ちゃんに引っ張られてきた感じ) いたことがわかった。
「とても大事な用事。みんな、必ず行く」
「愛佳ちゃん、何かあったの?」
私がそう聞くと、愛佳ちゃんはこくりと頷いた。
「ちーちゃんが帰ってきた」
11
「千登勢が帰ってくるなんて久しぶりね」
「二年ぶり。早く会いたい」
「ふふ、愛佳は千登勢と仲良しだもんねえ」
先を歩く愛佳と鶴香のあとをついていく感じで、私と未国は女子寮の階段を降りていた。
「未国、怪我は大丈夫?」
「問題ない。たとえ今夜出ろと言われても足手まといにはならない」
素っ気ない感じで答えたけど、以前のような敵意は全く感じなかった。
「それ、沢村に治してもらったの?」
そう聞くと、なぜか未国が顔を赤くした。
「な、なぜ、そんなことを聞くんだ!?」
「え? だって沢村、ケガ治すの得意だったし……」
「な、何!? あいつ、他のやつのも治してるのか!」
未国が詰め寄ってきた。あまりに顔が近かったので私は後ろに引いた。
「え、えーと、貝堂さんたちが普段はやってくれるんだけど、たまに沢村も……」
「く、あいつ、そんなこと一言も……。許さない……」
未国がぐぐっと拳を握る。
これってひょっとして…。
「もしかして未国……妬いてるの?」
「な、何を言い出すんだ!? 妬いてる!? 私はあいつのことなんて何とも――」
「どうしたの、未国? さっきから大声で叫んでるけど」
下の階から鶴香が私たちのほうを見ていた。未国は何かを言おうと口をパクパク動かしたけど、結局顔を赤くしたまま、うつむいてしまった。未国の意外な一面が見れて、私は小さな声で笑ってしまった。
女子寮を抜けて『大広間』のある建物に向かうと、賑やかな声が聞こえてきた。
「ちーちゃん、アメリカはどうだったの?」
「とても楽しかったよ」
「どんなところぉ?」
「えーと日本よりずっと広くて高いビルが……」
「いつ日本に帰ってきたの?」
「三日前くらいかな」
「自由の女神、生で見たの?」
「うーん、残念だけどぉ……」
「こらこら、千登勢はさっき帰ってきたばかりなんだから、少しは休ませてあげな」
大広間で何人もの子供たちが一箇所に集まっているのが見えた。そのちょうど真ん中に桃色の髪の女の子が立っている。たぶん、千登勢だった。そのそばで貝堂さんが質問攻めをする子供たちをなだめている。
「ちーちゃん」
そばにいた愛佳がつぶやく。普通なら聞こえないかもしれないくらい小さな声だった。でも、千登勢は私たちのほうを見た。表情が一気に明るくなる。
「あいちゃん……あいちゃん!」
千登勢が囲んでいた子供たちの合間をくぐり抜けて、そのまま愛佳に抱きついた。愛佳は驚いた表情をしたけど、やがて抱きしめ返した。
「おかえり、ちーちゃん」
「ただいま、あいちゃん! すっごい久しぶりだね!」
千登勢が愛佳から体を離す。その顔が嬉しさと喜びでいっぱいになっている。二人は大の仲良しで、実に二年ぶりの再会だった。。
「あいちゃん、ちょっと髪伸ばした?」
「うん、イメチェン」
「すっごくかわいいよ!」
「ちーちゃんも可愛くなった」
そう言いながら愛佳が千登勢の頬をプニプニとつついた。
「この柔らかいほっぺた……けしからん。うらやましい」
「ちょ、ちょっと、くすぐったいよ、あいちゃん!」
嫌がりつつも千登勢の顔はとても嬉しそうだった。
13
体育館のような造りの広い部屋(ここにいる奴らは大広間と呼んでいるが)で、大勢の子供がガヤガヤと賑わっていた。
その様子を俺は入り口のところで眺めていた。 どうやら、あのちーちゃんと呼ばれている少女は海外から久しぶり帰ってきた仲間らしい。嵯峨山の娘の愛佳が嬉しそうにしているのを初めて見た気がした。
「理事長の娘の千登勢ちゃんです。今朝、アメリカから帰ってきたんです」
隣に立っていた沢村が言った。
「どうしてアメリカに住んでいたんだ?」
「それはまあ色々と理由があるんですけど、向こうで大事な仕事があったんですよ。その休みの合間に戻ってきたんです」
沢村が答えにくそうに言った。何か言いづらい事情でもあるのだろうか。
ただ、仕事があったということはあの子も刀人ということになる。どこからどう見ても普通の子供だった。あの子がシンナのように返り血を浴びた姿になるのを想像できなかった。
「ところで何だ、仕事っていうのは? あの子と関係があるのか?」
「さすが梨折先輩、勘が鋭いですね」
沢村がにっと笑った。
「溝谷がサマーライフを満喫できるとかなんとか言ってたが……」
「ええ、仕事っていうほど大それたものではないんですが、千登勢や他のガードレディたちを連れて旅行に行きます」
「……何?」
あまりに予想していなかった言葉に俺は思わず聞き返してしまった。
「メンバーは先輩と八重坂、橘と溝谷、葉作のおっさんと愛佳ちゃん、俺と未国、それから――」
「ちょ、ちょっと待て。旅行に行くのが仕事なのか?」
「はい」
即答しやがった。
「冗談のつもりか? この状況で呑気に旅行なんてしている余裕が――」
「わははは、こういう状況だからだ!」
大きな声で笑いながら背後から誰かに掴まれる。誰かと言ってもすぐにわかったが……。
「嵯峨山、重たい。あと、暑苦しいからやめろ」
「ははは、すまん、すまん」
嵯峨山が俺の首に回していた腕をといた。
「せっかく千登勢が帰ってきたんだ。愛佳も喜んでいるし、みんなで旅行に行くのは良いアイディアじゃないか!」
「だが……」
「いいじゃん、少し暗い息抜きしても。毎日ピリピリして神経質になるのも嫌でしょ?」
いつの間にか、子供たちの輪から抜け出してきた貝堂が言った。
「せっかくあの子が帰ってきたから楽しいこと思い出を作ってあげたいって理事長から言われたのよ。それで、どうせならみんなで旅行に行こうってことになったわけ」
「奴らのことはどうするんだ?」
そう聞くと、今度は沢村が答えた。
「もちろん、ダルレストの連中のことを放っておくわけじゃありませんよ。けど、せめて二、三日はあいつらに休暇らしい休暇をあげたいんですよ。せっかく未国がみんなと仲良くなることもできましたし」
「……」
「戦いばかりさせてもかわいそうですからね。たまには良いじゃないですか。遊ぶのも大事な仕事です」
貝堂や沢村の言いたいことがようやくわかった。命をかけて戦うあいつらにほんの少しだけでも、普通の人間らしい生活をさせたい。こいつらは前からずっと思っていたんだろう。
俺だって同じだ。潤一の友達だったやつらがどうしてこんな危険な戦いを続けているんだろう。
あいつらだって人間だ。八重坂や他のやつには人並みの幸せを手に入れる権利はあると俺も思っていた。
「そうだな。その通りだ、沢村」
「納得してもらってありがとうございます、梨折先輩」
「ふふ、楽しい旅行になりそうね」
貝堂が楽しそうに笑う。
「それでどこへ行くつもりなんだ?」
「それは当日まで秘密よ」
「何?」
「下準備で今日、みんなで買い物に行くから、その時に考えてみなさいよ」
「買い物?」
「色々と揃えないといけないものがあるのよ」
14
その日の夕方。あたしは真那たちを乗せた車を運転して堀坂山の山道を抜け、松阪の町へ入った。普段、真那たちが車に乗るのは仕事に出かける時ぐらいだけど、今回は純粋に買い物をするためだった。数日後にみんなで旅行へ行く下準備だ。
「貝堂さん、俺たちは先にホームセンターで降りて、色々と小物を買ってきます」
「オーケー、その間に女子組はアレを選んでおくわね」
「貝堂さん、アレっていうのは何ですか?」
助手席に座っていた沢村にそう言うと、後ろの席にいた鶴香が聞いてきた。
「ふふ、それは行ってからのお楽しみよ
「そうだぜ、鶴香。結構期待してるから慎重に選んでくれよ」
「どういう意味よ、文仁?」
「くぅ~、まさか生で見れる日が来るなんてなぁ、当日が楽しみだぜ!」
文仁がまた喜んでいる。こいつにだけ行く場所を先に言ってしまったのはミスだったかもしれない。
やがて車が町の通りにあるホームセンターに到着した。沢村、溝谷、嵯峨山、梨折の男子組が車から降りていく。
「じゃあ、またあとで」
「オッケー!」
四人を見送り、女子だけが残った車を再び運転した。ホームセンターから十分ほどでその目的地に到着した。
「あ、貝堂さん。ここって……」
「行く場所が場所だからね。さ、みんな行くわよ!」
他のみんなを連れてあたしは松阪の町で何年も前から有名になっている服屋に入った。
この店は季節ごとに取り扱っている服が違う。それはどの店でも当たり前なんだけど、ここの特徴は夏場になると、服だけでなく水着も売っていることだった。
そう、あたしたちが旅行に行く予定の場所には綺麗な海がある。もちろん海水浴をするつもりだし、文仁があんなにテンションを上げていたのは女子組の水着姿を見れるだからだろう。顔を見ただけですぐにわかってしまった。
店の中に入ると、思ったとおりたくさんの種類の水着が並んでいた。
「すごいわね」
「こんなにたくさんあるのか……」
「どれも綺麗な色してるね」
「愛佳、感動」
「うん、どれも可愛いね」
鶴香、未国、真那、愛佳、千登勢がそれぞれ感心の声をあげる。
「さ、みんな。どれか一着好きなものを選んで。せっかくの旅行だし、思いっきり泳ぐからね」
五人にそう言うと、それぞれが別れて水着選びを始めた。
「お、おい、こんなの着るやつがいるのか……。ほとんど裸じゃないか」
「未国、それにするの? いいじゃない。沢村、きっと驚くわよ」
「いや、さすがにこれは恥ずかしいだろ。無理だ、無理に決まってる……」
「ふぅん、そんなことないのになぁ」
「そんなことないって……おい、鶴香、まさかそれにするつもりなのか!」
「え? いいかなって思ったんだけど」
「そ、そんな水着を……ほとんど紐じゃないか」
鶴香と未国は一緒に水着を選んでいた。鶴香のかなりギリギリを攻める水着選びに未国はただ驚いている。鶴香なら未国に似合う水着を選べるだろう。
「ちーちゃん、これどう?」
「うん、すっごくいいよ、あいちゃん」
「じゃあ、これは?」
「いい、すごくいい!」
「これはどう?」
「どれもかわいい! かわいいよ、あいちゃん!」
「よし、全部買う」
「そ、それはさすがにだめだよ、あいちゃん!」
千登勢と愛佳は既に試着を始めていた。愛佳がすごい速さで次々に水着を着替えてポーズを決める、それを見る度に千登勢がすごく褒めていた。
「貝堂さん」
そばから真那に話しかけられた。見ると、真那は少し暗い顔をしていた。まだ水着を選んでいない。
「どうしたの、真那?」
「あの、その……」
「ごめんね、こんな状況でのんびり旅行へ行こうなんて言っちゃって」
「いえ、そこまでは思ってませんけど……」
真那が遠慮ぎみに否定しようとしていたけど、やっぱり旅行に行くのには抵抗があるらしかった。でも……。
「理事長からのお願いなのよ。千登勢が次に帰って来るのはいつになるかわからないし、一つや二つ楽しい思い出を作ってあげたいから。色々と辛いと思うけど、それはみんなも同じよ。だから少しの間だけ理事長のわがままに付き合って。あたしもあんたたちにすごく楽しんでもらいたいから」
「……わかりました」
真那はそう言うと、控えめに笑った。
「せっかくの旅行を楽しまないと損ですからね」
「真那~、あんたの分も選ぶよ!」
「うん、今行く!」
鶴香たちに呼ばれて真那は走っていった。あたしはその後ろ姿を見送ると、自分の水着を選ぶことにした。
「あんたたちには幸せに生きて欲しいのよ。それがあたしの生きている意味だから。そうでしょ……昇」
15
2039 年七月。
君はもっと自由に生きていいんですよ、伊津美。
町の夜景が見えるあの場所で聞いた言葉が頭の中に響く。あの時のことを思い出しながら、あたしは学校からの帰り道を歩いていた。
昇と出会ってから一ヶ月が経っていた。初めての出会いからも、昇は度々連絡を取ってあたしに会いに来てくれた。あたしも昇ともっと色々な話をしたかったから、あいつに会うのがとても楽しみになっていた。
「明日……やっと会える」
あと一日我慢すれば、また昇に会うことができる。
あたしにはそれだけが希望だった。そのおかげでどれだけ辛い思いをしても、決してくじけることはなかった。ぐっとランドセルを握る手を強めて、あたしは坂道を登って自宅の前まで来た。
異変に気づいたのはその時だった。
「あれ……?」
家の前に停まっていた車から、ちょうどお父さんが降りてくるところだった。
その顔を見て背筋がゾッとする。酷くやつれた顔。それは前からだったけど、今日は一段とひどかった。髪も荒れていて、何か小声でぶつぶつとつぶやいている。目もどこを見ているのかわからなかった。
ふらふらとした足取りでお父さんは家の階段を上がっていった。何度か、壁にぶつかったけど、全く気にしていないようだった。やがて玄関にたどり着くと、ドアノブを回して家の中に入っていった。
いつも暗い台所でしか見たことがなかったけど、お父さんがあんなにやつれた顔をしているなんて思っていなかった。それにあの目や小声で何かをつぶやいている姿は普通とは到底思えなかった。
あたしは少し待ってから家の中へ入ろうと思って、しばらく外にいることにした。
でも、その数分後にガシャンと何かが割れるような音と、人がドタバタ暴れる音が聞こえてきた。
「!」
あたしは嫌な予感がしてすぐに家の階段を登った。ドアを開けて玄関に入る。
家の中は電気も何もついていなかった。閉じていたカーテンからわずかに夕日の光が差し込んでいるだけで、とても薄暗い。
「……」
ごくり、と唾を飲み込んで靴を脱ぎ、家に上がる。いつも最初に通る台所に入った。
「!」
そこは今まで見たことがないぐらい酷いありさまだった。いつもの光景に加えて、棚がテーブルにもたれるように傾いていて、中にあった食器が全部床に散乱していて粉々になっていた。そして、床やテーブル、壁の至る所に鋭い傷がたくさんついていた。
人が引っ掻いたような傷じゃない。その傷を目で追いながら、奥の食器を置く場所を見て動きが止まった。
立てかけていた包丁がなくなっている。
朝出かける前にいつも自分の使った食器は洗っていたから、包丁を乾かしていたことを覚えていた。
でも、それがない……どうして?
女性の悲鳴が聞こえてきたのはその直後だった。突然の悲鳴にあたしはビクッと体を震わせて、声の聞こえたほうを見た。廊下の奥。お母さんの眠っている寝室のほうだった。
「ま、まさか……」
あたしは震える体を手で押さえながら台所を出た。廊下の奥からもう悲鳴は聞こえてこない。いつも通っている廊下なのに、今は奥に行くのが怖くて仕方なかった。
「怖がるな、あたし……」
自分にそう言い聞かせて、薄暗い廊下をゆっくりと歩いていく。息を殺して、何も喋らないようにしていたため、あたしが歩くたびに木製の床のきしむ小さな音だけが聞こえてきた。
静かに歩き進んで奥の部屋のドアにたどり着いた。微かに誰かの荒い息が聞こえてくる。
それを聞いただけで、心臓の鼓動が恐怖でドクンドクンと早くなった。震える手でドアノブを握り、あたしはゆっくりとドアを開けた。
「……!」
目の前に映る光景があまりに現実離れしていて言葉を失った。
薄暗い寝室。かつて家族三人で仲良く寝ていた面影は微塵もなかった。部屋中に飛び散った赤い血、鉄のような臭いが充満していて、鼻がおかしくなりそうだった。
その血が出ている場所はベッドで眠っていたお母さんだった。お母さんは体中の至るところに刺し傷があって、両目と口を開いたまま死んでいた。さっき聞こえてきた悲鳴は間違いなくお母さんだったんだろう。
そして、その傍で死んだお母さんになおも包丁を突き刺している人がいる。荒い息をしていたのはこの人だった。
「お、お父さん……?」
震えた口から小さな声でそう聞いた。その人の手の動きが止まって、ゆっくりあたしのほうに振り返る。さっき帰ってきたお父さんだった。お父さんは全身が血まみれになっていた。目から涙を流し、口からは唾液が垂れ落ちていた。
「い、伊津美、おかえり。今日は早かったんだね」
この状況からは到底考えられないくらい穏やかな口調だった。お父さんは手にした包丁を握り締めたまま、あたしに向かって笑った。
「ごめんな、伊津美。パパ、お仕事がクビになったんだ。次の仕事を探す気力もない。もうおしまいだ。だから……」
それはほんの一瞬だった。お父さんがあっという間にあたしとの距離を詰めた。ガンとすぐそばで何かの音が鳴る。お父さんがあたしのすぐ横の壁に包丁を突き立てたとわかるのに数秒かかった。
「だから、もう死のう?」
「……!」
その瞬間、あたしはようやく自分の身の危険を感じた。
殺される。このままだと間違いなく、あたしもお母さんと同じように包丁で刺されて殺される。
「きゃあああ!」
あたしは絶叫し、お父さんを押しのけて部屋を出た。廊下を走って、家の外へ出ようとする。
「待て、待てよ……伊津美!」
背後からお父さんの声が聞こえたと思うと、ブンと風を切るような音が聞こえてきた。それと同時に背中に痛みがはしる。驚いて後ろを見ると、お父さんが包丁を振り回していた。その先端に真っ赤な血がついている。あたしの血だ。背中を斬られた……本気なんだ。本気であたしを殺そうとしてるんだ。
「逃げるなよ、伊津美!」
お父さんがもう一度包丁を振ってくる。あたしはそれを避けようとして後ろに尻餅をついてしまった。お父さんの握る包丁が部屋のドアの淵に食い込む。
「くっ! くっ!」
お父さんが包丁を引き抜こうとしている間にあたしは再び走った。家の外に出ることもできたけど、その前に追いつかれる可能性のほうが高かった。どこか逃げる場所は……。
周りを見回すと、家のトイレが目に止まった。急いでその中に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。
「逃げないと……早く逃げないと!」
便器の蓋を閉じてその上に登り、窓から逃げようとした。でも、窓はかなりきつく閉まっていて、なかなか開けることが出来なかった。
「いづみぃぃぃ!」
背後から雄叫びのような声が聞こえ、ザクッと何かの突き刺さる音が聞こえた。見ると、トイレのドアの向こうから包丁の先端が貫いているのが見えた。
「いや、いや……!」
あたしは必死に窓を開けようとした。でも、ビクともしない。
「いづみぃ! いづみぃ!」
ドアの向こうから狂った声が聞こえる度にドアの向こうから包丁の先が現れ、消えてはまた別の場所から現れた。やがて開いた穴から血まみれの手が出てきて、あたしを捕まえようとしてくる。
「いや、誰か助けて! 助けて!」
窓の外に向かって叫ぶ。こういう時に限って外の通りには誰もいなかった。いくら叫んでも、誰かが来てくれる気配はない。
「いづみぃ、早くママのところへ行こう、なあ? パパたちがこの世界で生きていることにもう意味なんてないんだからさぁ。三人で仲良くあの世で暮らせばいいじゃないかぁ? なあ、いづみぃ……いづみぃ!」
お父さんが雄叫びをあげる。そして、とうとうトイレのドアが完全に壊れてしまった。全身が真っ赤な血で濡れたお父さんの姿が目の前に現れる。それは狂った鬼と何ら変わりのない化物だった。かつての面影なんて欠片も残っていない。
「いづみぃ!」
お父さんが顔を歪めて包丁を振りかぶる。あたしは傷つくのを覚悟でお父さんの懐に潜り込んだ。包丁が音を立てて便器の蓋に突き刺さる。その隙にあたしはお父さんの脇の下をくぐり抜けて廊下に出た。
今なら、逃げられる!
「いづみぃ!」
けど、わずかに生まれた希望が次の瞬間には砕かれてしまった。足首のあたりに激痛がはしり、床に倒れた。立ち上がろうとしても足が動かない。
「うっ!」
見ると、左の足首のあたりにまっすぐ横に傷が入っていて、血がドクドクと流れ出していた。お父さんが持っていた包丁で切ったのは見なくてもわかった。
「くく、いづみ、いづみぃ!」
お父さんが笑いながら包丁を投げ捨てて、あたしの体に馬乗りしてくる。逃げるまもなく、お父さんの両手があたしの首を掴んでくる。
「う……」
あたしはお父さんの手を掴んでふりほどこうとしたけど、大の大人の力と小学生の女の子とでは、その差は歴然だった。あたしはまったく抵抗できず、どんどん締め上げられていった。視界がどんどん暗くなって、ぼやけてくる。
「いづみぃ、一緒に死のう。ママが一人ぼっちだって向こうで泣いてるよ。パパたちがここで生きていても意味なんてないんだよ。早く向こうに行こう。そうしたら、また三人で笑って暮らせる。そうだろ? お前もそう思うだろ、伊津美!」
お父さんが涙を流しながら大声で叫ぶ。その言葉があたしの耳に嫌でも聞こえてくる。
狂ってる。この人は狂ってしまった。普通の家族だったのに、とても仲の良かった三人だったのに……どうしてこんなことになってしまったの?
嫌だ……。
手に力がこもる。不思議と手の甲も熱くなってきた。
死にたくない。
日頃からあたしが病気だと思っているあの火傷のような熱さが帯びてくる。
生きている意味なんてまだあたしにはわからないけど……あたしはまだ死にたくない!
「うわああああああ!」
あたしは叫んだ。それと同時に親指以外の指と手の甲を何かが覆う。それが何かはよく見えなかったけど、あたしは力任せにお父さんの顔を殴った。
「ぐっ!」
グシャッと変な音と共にお父さんが何か叫んだ。あたしの首を掴んでいた手から急に力が抜け、息ができるようになる。
「ぐっ、げほっ! げほっ!」
咳き込みながらその場から起き上がる。そして、目の前の光景を見て愕然とした。
お父さんの顔は信じられないくらいに歪んでいた。何かに殴られたように左のほおが大きくへこんでいて、鼻が折れていた。口や耳、鼻など顔にある全ての部分から血がドクドクと流れていた。
それがあたしに殴られて出来た傷なのはわかる。でも、幼いあたしが本気をだしてもこんな酷い傷をつけられるわけがない。どう考えてもあり得なかった。
あたしの手を何かが覆っているとわかるまでは……。
「これ……何?」
テレビでいつか見た覚えがある。世間で言うメリケンと呼ばれる近接戦闘用の武器だった。もちろん、あたしはそんなものを一度も使ったことがない。それでも、その武器は私の手にぴったりとはまっていた。
手が熱い。このメリケンがあの謎の高熱を出す病気の正体だった。
「いづみ……いづみぃ!」
くぐもった声が聞こえて、驚いて前を見る。あんな傷を負っていても、お父さんはまだあたしのことを見ていた。その姿が化物に見えて、また襲ってくる気がした。
「いや……」
だから、あたしは……。
「見ないで、見ないでぇ!」
大声で叫んで、メリケンで力任せにお父さんを殴った。またグシャッと嫌な音が聞こえる。それでも、あたしはお父さんの声が聞こえたような気がして、もう一度殴った。後ろに倒れたお父さんに今度はあたしのほうが馬乗りになって、その顔を殴り続けた。
「いづみぃ、いづみぃ……」
お父さんの声が聞こえてきたから、何度も何度も無我夢中で殴り続けた。聞きたくない。もう、お父さんの声を二度と聞きたくなかった。
「伊津美!」
後ろからドアの開く音と、誰かが叫ぶ声が聞こえた気がしたけど、気のせいだと思った。とにかく、あたしはずっと殴り続けた。
「やめなさい、伊津美! もう死んでいます!」
死んでる? 誰が? そんなわけがない。
拳に力を入れてまた殴る。
「やめろ、伊津美!」
「……あ」
その言葉を聞いた瞬間、麻痺していた思考が元に戻って、あたしは殴るのを止めていた。
誰かがあたしの肩を掴んでいる。後ろを見ると、ずっとあたしが会うのを楽しみにしていたあいつがいた。
「昇……?」
「……」
昇は何も言わずにあたしを見ていた。けど、いつもの笑顔じゃなくて、口元を引き結び、眉間にしわを寄せた真剣な表情だった。それはあたしが初めて見た笑顔以外の昇の顔だった。
そして、再び前に向き直る。
「え……」
目の前にあるのは血の塊だった。まるでスイカを割ったあとのように床の周りに何かの破片が飛び散っていて、赤い血の海が広がっていた。
お父さんの顔があった場所には何もなくて、顎から下の部分しか残っていなかった。
何、これ……? 誰がこんなことを? あたしが? あたしがやったの? こんな酷いことを?
頭の中に様々な疑問が思い浮かぶ。今の状況がその全ての疑問を肯定していた。あたしがお父さんを殺した、と。
「いや……」
あたしは頭を抱えた。両手も血でべっとり濡れていて、顔に血がつく。
「いやああああああああああああ!」
今までにないくらい、大きな声で叫んで……何もわからなくなった。
16
血まみれになって、気を失った少女を男は抱きかかえた。すでに原型の留めていない死体を一瞥する。その死体を見ても、男の表情は全く変わらなかった。
「刀人の力を抑えることはできませんでしたか。出来れば、あなたには自分の夢を追い続ける普通の女の子として、生きて欲しかった……」
そうつぶやくと、男は少女を抱き上げて、静かにその場をあとにした。
第六話 生きる意味 終
次回へ続く。
キャラ紹介
・貝堂 伊津美
NPO団体「アサガオ」で働く女性。孤児となった子供たちの世話役をしている。彼女自身も元ガードレディで刀人だった。