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第五話 後編 閉ざした心 

 第五話 後編 閉ざした心 


 1


 十一年前。2053年。


 人が刀人の力に覚醒する年齢は五歳か六歳からが始まりで、あとは決まっていない。そのきっかけも何か嫌な経験をした時、何かあって悲しんだ時、何かあって怒った時、命の危険にさらされた時などといった感じで、人によってそれぞれ違う。

 私自身もどんなきっかけがあったのか、よく覚えていない。

 でも、小学校に入る前にこの力を手にしたのは覚えていた。

 自分を捨てた親の顔も覚えていなかった私は孤児として『アサガオ』に引き取られた。

「さ、未国(みくに)ちゃん。ここが、今日からあなたが暮らす新しい家よ」

 私の手をひく女の人が、目の前にある大きな建物を見ながら言った。

「新しい家?」

「そう、ここにはあなたのお友達がたくさんいるのよ。仲良くしてあげてね」

「友達……友達って何?」

「あなたが心の底から信じられる人たちのことよ」

「信じられる人……」

 この場所にどんな子がいるのか、わからない。でも、友達という言葉を聞いただけで、あの時の私は嬉しい気持ちでいっぱいだった。

 ここには友達と呼べる仲間がいる。信じられる人たちがたくさんいる。

 早く仲良くなりたいな……。

 そんな気持ちを胸に私のガードレディとしての生活が始まった。


 2


 一年後。2054年


「ねえねえ、みんなで鬼ごっこやろう、鬼ごっこ! 鶴香(つるか)もやるでしょ!」

「え、えーと、あたしは……」

「待てよ、佐東! 鶴香はまだみんなと遊ぶのに慣れてないんだぞ! ちょっとは考えてやれよ!」

「溝谷、あんたいつも鶴香のこと庇うわねえ。もしかして……」

「へ、変な誤解するなよ、雨森(あめもり)! 別に俺は鶴香のことが好きだから、かばってるんじゃないぞ!」

「おいおい、顔が赤くなってるぞ、文仁(ふみひと)。あと、男でツンデレなのはどうかと思うぞ」

「兄ちゃんまで俺をおちょくらないでくれよぉ!」

 施設に来てから一年後。私は施設で暮らしていた子たちと毎日楽しく遊んだ。明日野(あすの)奈央(なお)だけじゃない。溝谷(みぞたに)俊明(としあき)文仁(ふみひと)の兄弟や鶴香(つるか)にも積極的に自分から誘った。

 あの時の私はとにかくみんなと遊ぶ時間が楽しくて仕方がなかったんだと思う。

 刀人に目覚めたせいで親から捨てられた子、その刀人に家族を殺されて孤児になった子。

 みんな、刀人に関わる辛い過去を持っている。自分と同じ境遇の仲間がこれだけたくさんいることが、私にはとても嬉しかった。

 この嬉しい気持ちをもっとみんなに知ってもらいたい。その思いだけで私は鶴香たちだけでなく、他の子達にも話しかけていた。

 その中に市子(いちこ)もいた。アサガオの施設に来たばかりの市子は暗い性格で、友達と勉強したり、遊んだりすることが苦手だった。だから、いつも一人で中庭や大広間の端で本を読んでいた。

 市子が『自分に話しかけないで欲しい』みたいなオーラを出していたせいか、他の子たちは誰も市子に関わろうとしなかった。そんな中で私は中庭の木陰にしゃがんでいた彼女に話しかけた。

「ねえ、市子。今日は何してるの?」

「……」

 市子はとても驚いていた。他の人が自分に話しかけてくるなんて思ってもみなかったんだろう。

「この場所、涼しいから良いよね。今日は空も綺麗だし」

「……」

 市子はすっと立ち上がると、私が呼び止める暇もなく、寮のほうへ走っていった。

「恥ずかしいのかな?」

 今思えば、市子は私のことが怖くて逃げたんだろう。でも、あの時の私はそういうのに疎かったから、こう思っていた。

 なんだ、ただの恥ずかしがり屋な女の子じゃない。

 それ以来、私は市子を見かけたら必ず話しかけるようにしていた。別に一緒に遊びたいとか、仲良くなりたいと、はっきり言ったわけじゃない。

 私が話すことは「今日は良い天気だね」や「さっきの授業で先生に怒られちゃった」といった感じの些細なことばかりだった。最初、私から逃げていた市子もあきらめたのか、話を聞くようになってくれた。

 そんなアプローチを続けてから一ヶ月後。

「明日、算数のテストやるんだって。嫌だなあ、私……社会のほうが好きなのに」

「……ねえ」

「ん、何?」

 初めて市子の声を聞いたような気がした。思っていたより高い声だった。

「どうして、未国は私にかまうの? 未国は他のみんなとも仲良しだし、あの子たちと遊んでいたらいいじゃない。私と一緒にいても楽しくなんかないでしょ?」

「楽しいよ」

「え?」

 迷わず即答した私に対して、市子は驚いた顔をした。

「それに嬉しい。今はじめて市子から話しかけてくれたよね?」

「そ、それは……ずっと言いたかったけど、言えなかっただけで」

 顔を赤くする市子。彼女の反応がわかりやすく、見ているだけで面白かった。

「もし市子のことが嫌いだったら、私、こんな長い間、一緒にいたりしないよ。それに私、市子がすっごく恥ずかしがり屋だってわかってるから、嫌いになるわけないよ」

「本当に?」

「だって、私たち友達でしょ? 鶴香や明日野たちはわからないけど、私は市子のこと、友達だと思ってるよ」

「……」

「市子?」

 顔をうつむかせた市子を下から覗き見ると、彼女は泣いていた。必死に手でおさえようとしていたけど、涙がどんどん流れ落ちていた。

「私……信じていいの? 未国のこと?」

 それは途切れ途切れで、耳を澄まさないと聞こえないぐらい小さな声だった。でも、私は確かにその声を聞くことができた。

「うん、もちろんだよ」

 それは市子と本当の意味で『友達』になった瞬間だった。

 

 3


 七年後。2061年。


 十四歳になった私はいよいよ外部での活動を本格的に行う歳を迎えた。

 ガードレディの誰もが通る人生の大きな転換地点。パートナーのガードマンが決まり、敵であるダルレストとの戦いが始まる。不安はあるけど、やっと外で活動している仲間の力になれると思うと、嬉しかった。

 私のパートナーが誰になるのか、まだ聞いていない。既に鶴香は溝谷 俊明と組むことになり、市子は山口(やまぐち)という男と組むと聞いている。

 あの二人は同期のメンバーの中で一番早く任務についていた。もう何人かの敵を倒して、活躍していると聞いている。

 鶴香はガードレディの中でとても能力が高かったから、当然だと思っていたけど、市子も山口とうまい連携を取って敵を倒していたと聞いた時には、とても驚いた。

「すごいよ、市子。鶴香たちからも褒められてたよ」

 私は任務から帰ってきた市子にそう言った。すると……。

「ありがとう、未国。でも、未国のおかげだよ。未国のおかげで、私は山口さんのことを信じることが出来たから、戦えたの。私、これからも負けないように頑張る」

「うん、その意気だよ、市子」

「未国も信じてあげてね。パートナーになる人のこと」

「当たり前よ」

 私はすぐに答えた。この場所でずっと生きてきたからわかる。ここにいる人たちはみんな仲間で、家族で、信じることができる。

 根拠はないけど、私の心の中にはそんな確信があった。


 4


 数日後。私は理事長の指示を受けて、寮から大広間に向かった。

『あなたのガードマンと、今後の任務で行動を共にする仲間が集まります』

 理事長のその言葉を聞いて、嬉しさと緊張する思いが込み上げてくる。どんな人が私のパートナーになるんだろうか。そして、一緒に行動する仲間は……。

 大広間の内部は初めて来た頃から変わっていなかった。定間隔に並んだ六本の大きな円柱。左右の壁にあるガラス窓から射し込む太陽の光。中央にあるシャンデリア。私がずっと遊んでいた場所だった。

 その大広間のちょうど真ん中にある円柱。その周りに四人の男女が待っていた。女子のほうは一つ年上の里中(さとなか)さん。もう一人は同い年の朱実(あけみ)だった。朱実とは鶴香たちと同じように何度も遊んだ友達だった。話せる人がいて、とりあえず一安心できた。

 二人の男の人も顔と名前だけ知っていた。確か、江崎(えざき)さん、西垣(にしがき)さんという名前の人だ。

 この二人のどちらかが私のガードマンになる可能性が高いということか……あれ、だとしても、まだ一人足りない?

「え、もしかして未国が同じチーム!?」

 朱実が私に気づいて話しかけてきた。

「うん、そうみたい」

「良かったー!」

 朱実が喜びながら私に抱きついてきた。

「他の人が誰なのかずっと心配だったんだのよ。でも、未国なら本当に安心した。よろしくね!」

「うん。ところで、朱実さ。ここにいる人たち私を入れても五人だけど、一人足りないよね?」

 私がそう聞くと、朱実は少し困ったような表情をした。

「ああ、うん。それがちょっと遅れるらしいの。西垣さんが言ってた」

「遅刻……?」

 アサガオの施設の規則は基本的に厳しい。授業があるときに一分でも遅れたら怒られることなんてしょっちゅうだったし、刀人の訓練をしている時に少しでもミスをしたら何十分も説教されることもあった。

 それだけ、ガードレディやガードマンの仕事は厳しい。命懸けの仕事だから当然といえば当然だし、私自身も納得していた。だからこそ、遅刻なんてする人がいること自体信じられなかった。

「そうそう。授業にはよく遅れるし、ガードマンの訓練もサボりがちなんだけど、成績は本当に優秀ですごい人なんだって」

「へえ、何て人なの?」

「それはね――」

「ああ、すいません、すいません。遅れちゃって」

 朱実が言う前に大広間の正面の扉が開いて男の人が入ってきた。短い焦げ茶色の髪、両耳につけたピアス。少しチャラい人だと思ったけど、格好はガードマンたちの着るスーツだった。

「遅いぞ、沢村(さわむら)。何してたんだ?」

「はは、すいません、すいません。絵を描くのに夢中になってたら、時間が過ぎてました」

 西垣さんが厳しい口調で言うのに対し、沢村と呼ばれた男のほうは何度も頭を下げていた。けど、あまり謝っている気がないように見える。他の人にある真面目さが、この人にはほとんどないような気がした。

 何なんだろう、この人は……。

 これが私と沢村(さわむら) 愛太郎(あいたろう)の初めての出会いだった。

 

 5


 メンバーのリーダーは一番年上のガードマンの西垣さん、そしてガードレディの里中さんになった。二人とも、実戦経験があるベテランで、とても頼りになる。もう一人のガードマンの江崎さんは私のパートナーになった。ガードレディよりも年上の割合が多い中で、数少ない同年代のガードマンだった。とても真面目そうな印象がある。これからの仕事もうまくやっていける気がした。

 ただ、不安なのは私よりも残りのペアのほうだった。

四条(しじょう) 朱実(あけみ)です。よろしくお願いします」

「俺、沢村。よろしく、朱実。あ、朱実って呼んでいいか?」

「え、ええ、構いませんけど」

「サンキュ、女の子を苗字で呼ぶの何か嫌いなんだ」

「そうなんですか?」

「ああ。そうそう、俺のことは出来れば名前で呼ばないでくれ。ここのガキどもにラブ兄、ラブ兄って呼ばれてるんだよ。全く、普通に太郎って名前にしとけばいいのに、何でわざわざ愛ってつけたのか、未だにわからないよ。ま、とりあえず俺のことは沢村でいいから」

「わかりました、沢村さん」

「ああ、それじゃあ、親交を深めるために一緒にご飯でも食べに行かないか、朱実?」

 初対面でいきなりナンパしているあの男――沢村が朱実のパートナーになった。

 外見やその態度のせいかもしれないけど、私には彼が他のガードマンと違うように見えた。やる気がなさそう、女癖が悪そう、不真面目……私の抱いた印象はそれほど良くない。

 朱実のパートナーがあんな男で本当に大丈夫かな……

 先行きが不安な状態のまま、パートナーが決まった私たちは実戦に備えて、訓練を始めた。


 6


 二ヶ月後。

 女子寮の地下には私たち刀人が訓練するための施設がある。訓練の基本的な目的は自分の能力の暴走を抑えることと、能力を発動した時に出てしまう特定の感情を抑制するEC剤、それに馴染むことだった。私たちはこの二つを目的にして訓練をしている。それと同時に自分たちの武器を扱う練習も行っている。

 私の武器は長さが二十センチ弱のサバイバルナイフだ。刀や剣と戦うのは不向きだけど、一度懐に入れば、一気に勝負をつけることができる武器だった。いかに相手の動きを止め、間合いを詰めるかが鍵になると思う。その可能性を高めるために私はワイヤーで敵を拘束する練習もしていた。

 ちょうどその日も私は数時間に渡る訓練を終えて、休憩を取っていた。

「佐東、お疲れ」

 ベンチに座っていた私に誰かが話しかけてきた。声の聞こえたほうを見ると、江崎さんだった。ガードマンもガードレディの援護のために銃やスタンバトンの訓練をしているけれど、パートナーの様子を見ることも重要な役目だった。

「これ差し入れ」

「ありがとう、江崎さん」

 江崎さんの差し出した弁当を受け取った。

「今日の調子はどうだ?」

「大丈夫です。問題ありません」

「そうか。それより、タメでいいよ。俺ら、そんな年も変わらないだろ?」

「ええ、そうですね……いや、ごめん、わかった」

 江崎さん……じゃなかった。江崎が私の隣に座った。

 彼の印象は第一印象の時とそれほど差がなかった。真面目で面倒見が良い。私だけでなく、他のメンバーのことも気遣っていて、とても優しい人だった。

「この前の『仕事』はどうだった?」

 江崎の言う『仕事』が少し前にあった任務だということはすぐにわかった。チームが決まってから日は浅いけど、既に私は二回、現場での仕事……実戦を経験している。

「そこまで苦労しなかったわ。相手が二人だったこともあるけど。あれぐらいだったら、訓練のときの方が大変よ」

「さすがだな。西垣さんは結構心配してたんだぜ。里中以外、新人だし、大丈夫かなって。ところが実際は佐東と四条の二人だけで相手を倒すことができた。仕事が終わったとき、あの人、心配して損したって顔してたよ」

「その顔は見てみたかったな……あれ?」

「どうした?」

「ごめん、ちょっと朱実のところに行ってくる」

 異変に気付いた私は別のベンチで休んでいる朱実のところに向かった。

「朱実、大丈夫? 顔色、悪いよ」

「ああ、未国。大丈夫、大丈夫。少し疲れただけだから」

 朱実は笑顔でそう言ったけど、無理をしているようにしか見えなかった。顔色が悪く、息も乱れている。こんな状態になるまで放っておくなんて……。

「朱実が必死になって訓練してるのに、あいつは何をやってるのよ……」

「沢村さんのこと? たぶん、また絵を描いてるんじゃないかな」

「またぁ!?」

 心の底から呆れてしまった。初めての出会いからというもの、あの男に関しては呆れることばかりだった。チームで合同訓練する時は必ずと言っていいほど遅刻して、西垣さんに怒られていたし、朱実が自主練しているのに、顔を出しているのをほとんど見たことない。何をしているか、と様子を見に行ったら、中庭や男子寮の屋上、大広間の端で絵を描いているのがいつものパターンだった。

 あんなサボり常習犯みたいな男が朱実のガードマンであることが今でも信じられなかった。だけど、それ以上に私は沢村に対して腹が立つことがあった。

 この前の実戦で、私と江崎のペアと同じくらいに沢村と朱実も活躍していたことだ。二人の助けがなかったら、敵に追い詰められていたのは間違いないだろう。

 朱実は普段から必死に練習しているから、納得できる。でも、沢村に関しては信じられない気持ちでいっぱいだった。

 どうして、あの男はいつも絵ばかり描いてる癖に優秀なのか。

 人にイライラすることなんてなかった私が、あの男にだけはすごく腹が立っていた。

「もう我慢の限界!」

「どこ行くの、未国?」

「ちょっと文句言ってくる」

「あ、たぶん男子寮の屋上にいるけど、あまり怒らないであげて」

「え、どうして?」

 朱実が沢村をかばうようなことを言ったので思わず聞き返した。

「沢村さんは良い人だよ、すごく」

「……っ!」

 私は何も言わずに訓練所から出た。余計にむしゃくしゃしてきた。

 女子寮を出て、男子寮に向かう。いつもなら入るのに抵抗があるけど、その時は何の躊躇いもなかった。寮の階段を駆け上がって屋上に向かう。女子寮の地下からここに来るまで三分もかからなかった。

 屋上の扉を開けると、空はすっかり夕焼け空になっていた。大きな夕日が堀坂山(ほっさかやま)の後ろに沈み始めている。

 沢村は屋上のベンチに座って、その空を見ながら相変わらず絵を描いていた。その表情がいつもと違ってすごく真剣に見えたから、私は話しかけようとするのに戸惑いを感じた。

「未国か。珍しいな、お前がここに来るなんて。朱実に教えられたのか?」

「!」

 いきなり向こうから話しかけられた。後ろを見ないまま、私が来たことに気づいていたらしい。

「ずいぶん汗をかいてるな。風呂でも入ったらどうだ?」

 そう聞かれて思わず顔に触れる。さっきまで訓練していたのと、ここまで走ってきたことが重なって、汗でべっとりになっていた。

 こっちを見ていないのに、そこまでわかる沢村に私はまた腹が立った。両手を腰にあてながら、強い口調で言った。

「わ、私がどうしてここに来たのかわかっていますか? あと、名前で気安く呼ばないでください。朱実だってあなたの恋人でも何でもないはずです!」

「おいおい、自分が名前で呼ばれることを嫌がるのは勝手だが、朱実のことを何と呼ぼうが俺の勝手だろ。一応、俺はあいつのガードマンだからな」

「それなら聞きますけど、どうして朱実のことを放っているんですか? パートナーの様子を見てあげるのはガードマンの仕事じゃないですか!」

 そう言うと、沢村はため息をついてノートを閉じ、ベンチから立ち上がった。

「あいつが無理してるのはとっくに知ってるよ」

「なら、どうして?」

「ちゃんと俺は言ったよ。いくら佐東に負けたくないからって、無理してると体、壊すぞって」

「え?」

 予想もしていなかった沢村の答えに私は言葉を失った。

「なんだ、それは聞いていなかったのか?」

「どうゆうこと? 朱実がそう言ったんですか?」

「ああ。お前がずっと練習してるのを見て、焦ってたんだろうな。あいつ、体力は限界のはずなのに、毎日無理して練習してるんだ。そして、いつもお前が練習を終わる時間の少しあとにやめて、あとは部屋でぐったり眠ってるんだ。体を壊さないほうがおかしい」

 思い返せば、確かに朱実は私とほぼ同じ時間から練習を始めて、私より長く訓練を続けていた。途中で休憩を取っている時間も短い気がする。

「里中の場合は先輩だからって理由があるだろうけど、お前の場合は違う。同期のガードレディであの橘に並ぶくらい優秀なお前に、何としてでも追いつきたい。朱実はずっと前からそう思っていたんだ。あいつ、見た目に反して結構負けず嫌いなんだよ」

「朱実が……」

「俺がいくら無理するなって言っても聞かないから、とりあえず今月は好きにやらせようと思ったんだ。万が一のことを考えて、練習を終えた時にはいつも様子を見に行ってる。練習してる時のあいつを止めるのは難しいからな。それに加えて、少し前に里中に未国のほうが強いとか何とか言われちゃったらしくてな、最近ますます焦ってる。近いうちに無理でも休ませるつもりだ」

「そこまで朱実のことを見てたんですか……?」

「なんだ、信じられないって顔だな。お前のそういう顔を見るのは珍しい」

「そ、そんなにじろじろ見ないでください! 馬鹿じゃないですか!」

 慌てて沢村から視線をそらす。なぜか、顔が真っ赤になっているような気がした。

「はは、お前、面白いな」

「お前って言うのはやめてください」

「じゃあ、未国」

「だから、名前で呼ばないでください!」

「お前だって、俺のことをあんたって呼んでるじゃないか。お互い様だろ?」

「くっ……」

 沢村の言っていることは間違っていなかった。

 すごく腹が立つ。でも、沢村は沢村なりに朱実のことを気遣ってくれているのはわかった。朱実の今の状態をよく知っているし、どうしたらいいのかもちゃんと考えている。もしかしたら、江崎よりも……。

「お前って呼ぶのはやめてください……沢村さん」

 そう言うと、沢村はふふっと笑った。

「はいよ、佐東ちゃん」

「ちゃん付けもやめてください!」

 こうして私の沢村に対する印象が大きく変わった一日が終わった。

 そして……三ヶ月後。私の……私自身の全てが変わるあの事件が起きる。


 7


『連中は二十分前、対象者数名を拉致して友枝市内に逃げた。西垣、追跡できるか?』

「問題ない。俺たちは目標を追跡する。応援は?」

『もう要請しているが、到着するのに時間がかかる。今のメンバーで何とかしてくれ』

「了解した」

 車の助手席に座っていた西垣さんが仲間との通話を終えて、険しい顔になる。

「応援が来るらしいが、あまり期待しないほうがいい、俺たちだけでやるから、用心しろ」

「人使いが荒いですね。相手が何人かわからないのに」

「文句を言うな、沢村。向こうのチームに負傷者が出てるんだ。仕方ないだろ」

「はいはい、わかりましたよ」

 西垣さんが運転している沢村と話をしているのを、私は一番後ろの席から聞いていた。隣には江崎が座っていて、間の座席に朱実と里中さんがいる。

 体が震える。最初の仕事の時よりだいぶマシになったけど、これから戦うことを考えるとどうしても緊張してしまう。

 相手を殺すか、相手に殺されるか。そんな危険な命のやり取りをするから、緊張しないほうがおかしい。

 でも、それは私の決めた道だ。普通、刀人になった人たちはダルレストに入れられ、暗殺者として育てられる。嫌でも人を殺さないといけなくなるんだ。でも、理事長はそんな非情じゃない。ガードレディとして戦う以外に、普通の生活ができる権利をみんなにくれる。私たちに選ぶことを許してくれているんだ。

 それでも、私はこの道を選んだ。理不尽に殺されていく人たち、何より生活を共にしてきた仲間たちを守るためにも私はガードレディになった。

 怖くないといえば嘘になる。それでも私は信じられる仲間たちと一緒に戦う。この戦いはもう自分のためだけの戦いじゃないから。

「佐東、大丈夫か?」

 江崎が声をかけてきた。

「平気。応援が来ないって聞いたから変に緊張しただけ」

「心配するな。応援が来ないと言っても、相手は追い詰めてるし、こっちは戦い慣れた味方ばかりだ。それに少しくらい俺を信じろ。俺はお前を裏切らないし、見捨てないぜ」

 江崎が頼りがいのある笑顔を見せてくれる。いつの間にか、体の震えが止まっていた。

「うん、ありがとう、江崎」

「敵がフィールドを張った。場所は五キロ先の工場だ」

 西垣さんの言葉でメンバーが口を閉じた。

「沢村、お前は待機しといてくれ。万が一ということもある」

「了解っす」

「里中を先頭に工場内に踏み込む。佐東と四条は里中の援護だ。俺と江崎は工場の出口で待機し、脱出する時のルートを確保する。対象の保護は奴らを全員始末してからだ」

 その場にいる全員が頷く。西垣さんの出した指示は前回も的確だった。今回も信じることができる。

「よし、佐東、四条、お前たち二人はもう新米じゃない。里中の援護をしっかりやってくれ。いいな?」

「はい!」

 私と朱実はほぼ同時に頷いた。

 やがて、沢村の運転する車が道路脇に停まった。周りが広い田畑に覆われた田舎道。その中に建っている工場には明かりがついていなくて、不気味な雰囲気がたちこめていた。

 工場の駐車場の近くに一台の車が停まっている。おそらく敵のものだった。ちゃんと駐車されていないところからして、急いで停めたんだろう。

「江崎、奴らの位置は?」

 西垣さんの質問に対し、スマートフォンの画面を見ながら江崎が答えた。

「あの一番大きな建物に反応があります。数は四つ。そして、その奥に五つ。たぶん、こっちは対象の人たちです」

「よし、速攻で片付けるぞ。里中、行け。佐東と四条も続くんだ」

 両方のドアを開けて、私たちは一斉に車から降りた。里中さんがすぐに建物のほうへ向かう。その後に私と朱実が続き、さらに後ろから西垣さんと江崎がついてきた。

 先頭を走る里中さんが暗い工場の中に踏み込む。すぐあとから私と朱実も中に入った……その直後だった。

「な、なに……」

 何かが聞こえてきた。それはこの状況には決して合わないものだった。

「歌?」

 隣にいた朱実が言う。彼女の言うとおり、それは確かに歌だった。とても綺麗な歌声が工場内に響いている。

 大切な人に届けたい恋のような歌。でも、どこか悲しげで、切ない感情がこもっている。綺麗な女性の声だった。

「どうして歌が……?」

 その時、歌声とは別の女性の大きな叫び声が聞こえてきた。

「い、今の里中さんの声じゃ!?」

「うそ!?」

「おい、何があった!?」

 後ろから入ってきた西垣さんにそう聞かれても答えられなかった。何が起こっているのか、私にもわからなかった。辺りを見回しても薄暗くて、歌っている人はおろか敵の姿も見当たらない。

 その時、奥から誰かが歩いてくる音が聞こえてきた。私は手にしたナイフを構え、もう片方の手で腰に巻きつけたワイヤーの端を掴んだ。

 やがて人影が見えてくる。ゆらゆらと左右に揺れていて、歩き方もぎこちなかった。何か様子がおかしい。

「み、みんな……」

 掠れた声が聞こえたかと思うと、その人が姿を現した。朱実と西垣さん、そして私も言葉が出なかった。

 奥から姿を現したのは里中さんだった。喉のあたりからすごい量の血が出ていて、目から涙も溢れている。

「に、逃げて……今すぐ――」

 今にも消えそうな里中さんの声。それをかき消すようにまた歌声が聞こえてきた。次の瞬間、何かが里中さんの首のあたりを横切った。それと同時に彼女の頭が地面に転がり落ちる。首からまた大量の血が噴き出した。

「きゃあああああああ!」

 朱実が悲鳴をあげた。私はあまりに衝撃的な光景に何も言うことが出来なかった。だけど、周りに積まれたコンテナの影から敵の刀人が現れるのが見えた。

「四条、落ち着け! 敵が来たぞ!」

 西垣さんが必死に叫んだけど、朱実は混乱したままだった。だめだ、私がなんとかしないと!

 正気を保っていた私は朱実に向かってくる敵の懐に入った。相手が刀を振り下ろす前にナイフで喉を切り裂く。次に後ろから襲ってきた敵にワイヤーを投げた。首に巻き付かせて、一気に締め上げる。

「ぐわああああ!」

 その時、西垣さんの叫び声が聞こえた。

「西垣さん!?」

 見ると、西垣さんが手で首を押さえながら苦しんでいた。押さえた手の間から真っ赤な血がにじみ出ている。

「あ、ああ……ああ……」

 西垣さんは口から血を出しながら千鳥足になっていた。その後ろに人影が現れる。彼よりずっと背の低い……私と同じくらいの背しかない影だった。

 その人影が手にした何かを振る。それと同時に西垣さんは背中からも血を出して倒れた。

 一番実戦の経験のあるリーダーの二人が、目の前であっという間に殺されてしまった。

「佐東! 駄目だ! 逃げるぞ!」

 江崎が工場の出口で叫んでいるのが見えた。まだ敵の気配がする。二人が死んで、朱実がこんな状態じゃ戦いにならない。人質を助けるどころか、全滅する可能性も高かった。

 逃げるしかない。

「朱実、しっかりして! 朱実!」

「死にたくない! 死にたくないいいいいい!」

 何度呼びかけても、朱実は悲鳴をあげるだけだった。

 完全に混乱している! 早く、朱実を連れて逃げないと!

 でも、私のほうも二人の敵に阻まれて身動きが取れなかった。江崎も敵と戦っていて、朱実を助けることが出来ない。

「朱実、早く逃げて!」

「いや、いやあああああ!」

 朱実の泣き叫ぶ声に混じって、またあの歌が聞こえてきた。

 だめ、朱実もやられちゃう!

「朱実!」

 私が叫び終わらないうちに朱実の悲鳴は突然止まった。体から血を出しながら膝から崩れ落ちていく。里中さんや西垣さんと同じように朱実も殺されてしまった。

 それに気を取られたせいで目の前にいる敵の刀を避けそこねた。

 しまった!

 足首を斬られてバランスを崩す。咄嗟にワイヤーを投げたけど、もう一人の男に体を押さえつけられた。ナイフで刺そうとしたけど、その手も押さえられる。完全に身動きを封じられた。

「え、江崎! 助けて!」

 咄嗟に江崎に向かって叫んだ。でも、その江崎の姿を見た瞬間、私は目を見開いた。

 江崎は敵を前に尻餅をついて、私を見ていた。目が怯えている。何か怖いものを見るように、その目が恐怖でいっぱいになっている。普段の彼からは全く想像できなかった。

「助けて!」

 もう一度、江崎に向かって叫ぶ。その瞬間……。

「う、うわああああああああ!」

 江崎は後ろに振り返って工場の外へ走っていった。

「え……」

 言葉を失った。江崎は私を見捨てて、一人で逃げた。自分を信じろと言った江崎が一人怯えて逃げ出した。

 う、うそ……? 私、信じていたのに、見捨てられたの?

 信じられなかった。状況が不利だとはいえ、見捨てられるとは思っていなかった。自分のことを絶対に裏切らない、見捨てないと言ってくれた江崎があんなあっさりと……。

 う、うそだったの……?

 私は何も考えられなかった。

 このまま、殺されるの……?

 一瞬、そう思った。でも、このあとに私を待ち受けていたのは死ぬことよりも残酷なことだった。


 8


「ガードレディって言ってもさ、やっぱり女だよなあ」

「へへ、体つきも良いじゃないですか……」

「で、誰からする? 誰からやるんだよ?」

 頭上で聞こえる何人かの男の声。見なくても誰かわかる。さっきまで戦っていたダルレストの刀人だ。私は工場の中で、体を押さえつけられて身動きが取れなかった。

 私を捕まえたこいつらは私をすぐに殺そうとしなかった。誰かがこう言った。

「どうせ殺すんだし、やっちまわね?」

 その瞬間、奴らの表情が変わった。わずかに見えたその顔は嫌な笑みで満たされていた。自分たちの欲望を叶えようとしている。わずか十四歳だった私に対して。 

 江崎に見捨てられたせいで、私はこんな目に……。

 信じられなかった。心を満たしていた希望が絶望になって、何も考えられなかった。

 とても言葉で表現できるものじゃない。今までに感じたこともない恐怖や悲しみで、頭の中がいっぱいになった。まだそんなことを誰かとするなんて、考えたこともなかった私は、恋人でも何でもない奴らに着ていた服を剥ぎ取られていった。

 嫌だ……嫌だ……。

 そう叫びたい。でも、出来ない。叫んでも、誰も助けに来てくれない。里中さんも、西垣さんも、朱実も殺されて、江崎に見捨てられた。誰も私を助けに来てくれない……。

「へへ、俺さ……今、刀人に生まれて良かったって思ったよ」

「さ、さっさとしろよ。浜家さんにバレたらまずいだろ」

「わかってる、わかってる、くく」

 奴らの声が耳元で聞こえてくる。顔にかかる荒い息も、嫌でも感じる体温も、何もかもが私の全てを奪っていった……。

 江崎を、みんなを信じたせいで……。


 9


 現在。2064年八月中旬。


「……っ!」

 目を覚まして体を起こす。そこが自分の部屋だと気づくのに少し時間がかかった。

「またあの夢を……うっ!」

 起き上がったのと同時に激しい吐き気が襲いかかってきた。口を押さえ、部屋のトイレに駆け込む。我慢することも出来ず、私はその日に食べた物を吐き出してしまった。

 トイレの中に嫌な匂いが漂いはじめる。その匂いで、余計に気持ち悪くなる。すぐにそこを出て、洗面所で顔を洗った。

「はぁ、はぁ……」

 ようやく落ち着いた。鏡で自分の顔を見ると、とても疲れた顔をしていた。

 まただ。また、あの夢を見てしまった。決して忘れられない過去。朱実たちを殺され、江崎にも助けてもらえず、奴らの思うがままに体を汚された。

 どうして私だけが助かったのか、詳しいことは覚えていない。

 気がついた時、私はもうこの部屋で眠っていた。江崎は精神が錯乱して、ガードマンの仕事を続けられる状態じゃなくなり、半年後に死んだという話を聞いた。けど、あまり頭に入ってこなかった。

 あの夜に起こったことは現実だった。今までも、そしてこれからも一生私につきまとうトラウマ。人を信じれば、自分が辛い目に遭うことになる。私は身をもって思い知った。

 だから私はあの日以来、誰も信じないようにしてきた。ずっと生活を共にしていた仲間を拒絶してきた。かつての自分の心を閉ざして、独りで戦うと決めた。

 なのに……それなのに……。

『ねえ、未国。私たち、友達だよね?』

 最後に聞いた市子の言葉が胸の奥に響いてくる。閉ざしていた心が開きかけた。

 でも、だめなんだ……。

 私はもう二度とこの心を開いてはいけない。これからも独りで奴らと戦わないといけないんだ。たとえ、どれだけ辛くても、他の人にどれだけ酷い女だと思われようと……。

「う……う……」

 目に涙が溢れてくる。泣いたらだめだ。自分の弱さを出してはいけない。

 私はしばらくの間、しゃがみこんで溢れてくる涙を拭った。


 10


 携帯が鳴り始めたのは再び眠り始めてから一時間後だった。

 深夜三時。この時間帯に来る連絡は仕事以外にない。携帯を開いて画面を見ると、沢村からだった。通話ボタンを押して電話に出る。

『未国、起きてるか? 仕事だ。十五分で用意してくれ』

「ダルレストか?」

『ああ、それも三箇所同時だ。久々に苦労すると思う』

「わかった」

『なあ、未国……』

「なんだ?」

 私がそう聞いても沢村は何も言わなかった。重要なことを言おうとしているのか、息を呑む音が聞こえてくる。でも……。

『……いや、何でもない。急いで来てくれ』

「……わかった」

 沢村が何を言いたかったのか気になったけど、今は考えないようにした。

 吐き気は何とか収まっている。仕事に支障は出ないはず。私はベッドから起き上がってパジャマを脱ぎ、棚にしまっていた制服に着替えた。髪を整え、前髪に髪留めをつける。

「私は……戦う。自分の力だけで、奴らを倒す」

 自分にそう言い聞かせて、目を閉じる。

 市子の泣いている顔、朱実の叫び声、江崎の怯えた顔、奴らの笑い声。それらが頭の中を巡ったけど、全てを消した。

 目を開け、部屋から出る。女子寮の玄関を抜けて、大広間に向かうと渡り廊下の途中で沢村が待っていた。

「準備はいいか?」

「問題ない、いちいち聞くな」

「そうか……行くぞ」

 沢村とともに一度大広間の中に入り、中庭を抜ける。介護施設のロビーを通り越して、ようやく正面玄関に着くと、三台の車が停まっていた。沢村がさっき電話で三箇所同時に敵が動いていたと言っていたから、こっちも三チームに分かれるつもりなんだろう。

 一台目の車の周りには明日野とそのガードマンの国枝(くにえだ)。奈央とパートナーの藤原(ふじわら)がいた。二台目には愛佳と葉作、真那、そして沢村が梨折(なしおり)先輩と呼んでいた男がいる。

 ということは私は三台目か。一番端に停まっている車を見る。そこには……。

「鶴香……」

 鶴香と文仁がいた。鶴香は頭のあたりに包帯を巻いていたから、まだ前の戦いの傷が治っていないんだろう。確か文仁のほうも腹に怪我を負っているはずだった。

 よく無事に生き延びたと思う。敵はダルレストでも特に強い四人のうちの一人で、市子たちを殺した男だと聞いている。

 鶴香たちが市子の仇を討ったのか……。

 他のみんなは鶴香が生きて帰ってくれたことに感謝し、お見舞いにも顔を出していた。

 もちろん私もそのことを知っていた。でも、鶴香に顔を合わせることができなかった。あんな酷い言葉をいった私を鶴香が許してくれるわけがない。

 市子の仇を討ってくれてありがとう。無事に戻ってきてくれてありがとう。酷いこと言って、ごめん……。

 そう言うべきだった。本当はそう言いたかった。

 でも、それを口に出すことは許されない。言えば、また私は人を信じてしまう。そして裏切られて、またあんな思いをすることになる。

 だめだ……だめなんだ。私は……私は鶴香に何も言ってはいけない。これまでと同じように嫌われ者の佐東 未国として生きていくしかない。

「橘、溝谷、怪我の具合はどうだ?」

 隣にいた沢村が二人に話しかけた。

「まだちょっと腹がいてえけど、車の運転ぐらいは出来そうだ」

「問題ないわ。いつも通り戦える」

「そうか。溝谷はともかく、橘はあまり無理するな。俺と未国で何とかやる。と言っても、俺たちは一番マシなところに行くことになるから、そんな心配する必要はないだろ」

 沢村が私のほうを見る。

「行けるな、未国?」

「……」

 なぜだろう。なぜかこの時に限って沢村がとても頼りがいのある男に見えた。沢村は私が鶴香たちの見舞いに行っていないことや、パートナーの朱実を救うことが出来なかったこと、そして自分が突き放した態度を取っていること……それら全てを知っているはずだ。沢村には私を責める権利がある。でも、沢村は何も聞こうともせず、あの時から変わらない態度で、私に接してくる。

 どうして……? どうして、沢村は私のガードマンなんかに……。

「当たり前だ。問題あるわけがないだろ」

 そう聞きたくても聞けるはずがなく、私はいつもの態度を取ることしかできなかった。

「よし、安心した。さ、さっさと始めよう。葉作のおっさんのところが一番厳しいかもしれないが、頑張ってくれ」

「おいおい沢村、このシンナ様がいるんだぜ。そんな心配はいらねえよ」

 シンナが手にした刀を肩に抱えてにやりと笑う。いつものシンナだった。たぶん、私のことなんて気にもしていないだろう。真那は違うかもしれないけど……。

「そうだったな。悪い悪い。じゃあ、おっさんたち、頼むぞ」

「おう、任せてくれ!」

「愛佳、任された」

 葉作が自分の胸をどんと叩いて、車に乗り込む。愛佳も素早く助手席のほうに向かった。

「よし、行くぜ、おっさん」

「ああ」

「梨折先輩、幸運を!」

「お前のほうもな」

 シンナと梨折が車に乗ると、葉作の運転する車が勢いよく走り出し、あっという間に走り去っていった。

「じゃあ、奈央。あたしたちもさっさと行こ」

「はい!」

 明日野たちも自分たちの車に乗り込んで、すぐに走り去っていく。一瞬、私のほうを見てた気がするけど、私は視線を逸してしまった。

『どうして鶴香の見舞いに顔を出さなかったの?』

『市子のことも、どうしてそこまで頑なに拒むんですか? 悪いのは未国のほうなのに……』

 二人の言葉が頭の中に浮かぶ。もちろん、それは私の想像にすぎない言葉だった。だけど、あの二人は私を軽蔑しているだろう。二人と言葉を交わしたことはこの三年間、ほとんどない。もう私のことを嫌っているに違いない。

 でも、それでいい、それで……いいんだ。

「さて……ちゃっちゃっと終わらせようぜ」

 溝谷と鶴香がそれぞれ運転席と助手席に乗る。私と沢村は後部座席のほうに座った。

「う……」

 車が出発した後、また吐き気が襲いかかってきた。頭の中にあの時の記憶がよぎってくる。でも、私は唇を噛んで必死にこらえた。

「!」

 その時、車のバックミラー越しに鶴香と目が合った。すぐに鶴香から視線を逸らす。

 見ないで……。私は充分に自分のやってきた罪を自覚している。それを償うために心を閉ざして戦うって決めたんだ。誰にも悟られないように。

 だから、もう私を見ないで、鶴香。私、謝らないといけなくなる。でも、それを言えば自分の心を開いてしまう。それはだめなんだ……絶対に。

「溝谷、敵の位置はわかるのか?」

「えーと、能力を発動している刀人の人数は今のところ一人だけだが、さっき三人の反応があった。それ以外にはいないはずだ」

「三人か……まあ、何とかなるだろ」

「けどよお、この刀人の反応を探知するシステム、もっと精度上がらないのか? 前も、人数一人多かっただろ?」

「文句言うな。敵の位置がわかるだけでも便利だろ。他のやつは?」

「もうすぐポイントに到着する。シンナと愛佳ちゃんのとこが一番早くぶつかりそうだ」

「そうか……」

 沢村と溝谷が話をしている間、私は口を閉じて外を見つめた。

 すでに車は掘坂山を降りて、松阪の町に入っていた。明かりも何もついていない。暗い町の通りが続いている。

「鶴香、大丈夫か?」

「ちょっと肩が痛いけど、平気。足は引っ張らないわ」

 溝谷に聞かれた鶴香はいつもの明るい調子で答えた。もうバックミラーを見ずに、車が向かう先しか見ていない。

「よし、もうすぐ接触するぞ。準備しろ」

 溝谷がこれまで以上に真剣な口調で言った。それと同時に沢村が腰に差していたハンドガンを構え、鶴香も刀人の力で剣を出す。私も左手で腰に巻いているワイヤーの先を握り締め、右手でナイフの柄を掴んだ。

 私たちの車が町の通りを進んでいく。信号が赤信号になっていても、溝谷は構うことなく交差点を通り過ぎた。もうダルレストのフィールド内に入っている。人や車の姿はどこにもない。もし、この場所で動いている車があるとしたら、奴らの乗っているものだけだ。

「横の通り道を走ってる。次の曲がり角で接触する」

「わかった」

「奴らはまだじいさんやばあさんの家に向かってる最中だ。先手をうつぞ」

 沢村の呼びかけに溝谷と鶴香が頷く。私は何も言わず、ナイフを握りしめて、窓から外を見た。車が前方の角を曲がる。その数秒後に、前の通りを横切る黒いバンが見えた。

「溝谷、奴らの横につけろ!」

「今すぐか!?」

「ああ!」

「怪我人がやる運転じゃないのに! ああ、わかったよ!」

 沢村の指示を受けて、溝谷が前の通りに入り、黒いバンとほぼ並行で走った。

 窓を開けて、沢村が手にしたハンドガンを相手のタイヤに向ける。敵のほうも私たちに気づいて、進路を変えようとしていた。けれど沢村の射撃のほうが早かった。

 銃声が鳴り響いたのと同時に、バンの後ろのタイヤが破裂して、運転が乱れる。そのまま勢いよく、道路脇のガードレールに衝突した。

「行け!」

 沢村の声と同時に私はドアを開いて外へ飛び出した。鶴香と沢村もすぐ後に続く。身を屈めて、バンに向かって走った。

 バンの後ろのドアが開いて、刀を持った男が二人出てくる。でも、迎え撃つ余裕を与えない。左手に握り締めていたワイヤーを投げて、一人の首に巻きつかせた。男が苦しんでいるうちに飛びかかり、もう片方のナイフを腹に突き刺す。一回では死なない。すぐにナイフを引き抜いて、何度も腹に向かって突き刺した。

 躊躇う必要はない。こいつらは敵。西垣さんや里中さん、朱実を、市子を殺した敵だ。敵は全員殺す。殺さないといけない。

 最初の一人を刺し殺すと、もう一人が刀を振り下ろしてきた。私はすぐにワイヤーを外すと、その男の足に向かって投げた。ワイヤーが絡まって男がバランスを崩して、私のほうに倒れ込んでくる。すばやく死体からナイフを引き抜いて、倒れてきた男の喉を切り裂いた。

 二人目の敵が喉から血を流して倒れていく。反対側のドアから出てきた三人目の敵は鶴香が相手をしていた。一瞬、不安に思ったけど、鶴香は無傷の時と変わらずあっさりと倒した。

 ここまででほんの数分。戦いは一瞬で終わった。

「……」

 顔についた返り血を手で拭く。鉄のような独特の匂い……何度もガードレディの仕事をして、慣れていたはずなのに、この時に限ってまた吐き気が襲ってきた。それでも、必死に我慢する。

 鶴香や溝谷……そして沢村がいる前で弱さを見せるわけにはいかない。

「よくやったな、未国」

 後から追いついてきた沢村が言った。

「これくらい当然だ」

「ああ、それでいい。よし、さっさと戻ろう。他のやつのことも気になる」

「沢村!」

 その時、近くに車を停めていた溝谷が叫んだ。明らかに何か動揺しているような顔だった。

「どうした、溝谷?」

「いきなりもう一つ別のが現れた。六、七人はいるぞ」

 溝谷の報告に沢村は顔色を変えた。

「なんだと!? どうしてわからなかった!」

「知らねえよ。いきなり現れたんだ。すごいスピードで近づいてきてるぞ!」

 敵の増援? 探知できない場所に隠れていたのか?

「未国、橘! 乗れ!」

 沢村の大声を聞いて、私と鶴香はすぐに溝谷の車に乗った。それとほぼ同じタイミングで、別の車のエンジン音が聞こえてくる。はっきりとわからないけど、かなりの速度を出しているようだった。

「相手が六人だろうと、七人だろうと分が悪い! シンナたちは呼べるか?」

「無理だ。向こうもやりあってる最中だ! 雨森たちはもう終わってるけど、遠すぎる!」

 沢村と溝谷が大声で言い合う間にも、後ろから聞こえてくるエンジン音はどんどん大きくなっていた。後ろの窓から様子を見ると、一台の赤い車が近づいてきた。車のヘッドライトの光をまともに見て、視界が眩しくなる。

 目が慣れた時にはもう赤い車は目の前まで来ていた。

「ぶつかってくるぞ! 掴まれ!」

 私はとっさに叫んだ。それと同時にものすごい衝撃が車内に響いて、車が大きく揺れる。端にあるガードレールにぶつかりかけたけど、溝谷がハンドルを必死に回して、かろうじてそれを防いだ。

「ちくしょう! あいつら、ぶつかってきやがった! 沢村、何とかならないのか!?」

「無理だ! 完全に後ろにつかれてる。狙えない!」

 いくら射撃の腕が良い沢村でも、助手席の窓から真後ろに張り付いている車を狙うことは出来ない。だからと言って、私や鶴香もナイフや剣で相手の車を攻撃できるはずがなかった。どうしたら……。

「……!」

 その時、赤い車のヘッドライトが一段と大きく光って、大きなエンジン音が聞こえてくる。

「また、つっこんでくるぞ!」

「ちっ!」

 溝谷が舌打ちして、車を左右に移動させて揺さぶろうとした。けれど、赤い車はぴったりとついてきて、狙いを定めたように一気に突っ込んできた。

 さっきよりも車体が激しく揺れる。窓ガラスが割れて、車の中に破片が飛び散った。コントロールを失った車が今度こそガードレールに激突する。でも、車はそこで止まらずガードレールも突き抜けて、目の前にいるビルに真正面からぶつかった。車がガラスのドアを破って、どこかの壁にぶつかる。その衝撃で前の座席に頭があたり、目の前が真っ暗になってしまった。


 11


「未国! しっかりしろ、未国!」

 誰かに体を揺らされている。目を開いて、私はようやく自分が気絶していたことを知った。

「くっ……」

 頭を左右に振って周りを見る。目の前に沢村がいて、前の席では鶴香が溝谷の肩を掴んで必死に呼びかけていた。みんな大した怪我はしていないようだった。

「大丈夫か?」

 沢村が顔を覗き込んでくる。あまりに近かったから、私は視線を逸した。

「平気だ。問題ない」

 沢村の手をどけて、後ろの窓を見る。少し遠く離れたところにさっきの赤い車が停まっていた。側面のドアが開いて何人かの男が降りてくる。

「奴らが来る。早く降りろ!」

「ちょっと待って、まだ文仁が気を失ってるの!」

 溝谷の体を揺すっていた鶴香が言う。それもわかっていたけど、敵が近づいてくるのも見えていた。

「すぐそこまで敵が来てる。このままじゃ、間違いなく殺されるぞ!」

「文仁を見捨てろって言うの!? 未国、あんたはそうやっていつも――」

「違う、私は――」

 そういうつもりで言ったんじゃない……と言いかけたけど、言葉が出なかった。

「やめろ、二人とも。言い争うのはあとでいくらでも出来る。今はやめろ」

 そう言って、沢村が私の肩に手を置いた。いつもならその手を振り払っているけど、なぜか今はそれが出来なかった。

「橘、とりあえず溝谷を担いで外に出るぞ。このビルの上へ向かおう」

「わかったわ」

「未国、援護を頼む」

「……ああ」

 沢村が先に降りて、運転席のドアを開くと、鶴香と二人で気絶している溝谷の肩を首にまわして車から降ろした。私もそのあとに続く。

 鶴香と沢村が溝谷を担ぎながら、一階ロビーの奥にある階段へ進む。そのまま、三階まで上がることが出来たけど、沢村のほうが息を切らしてしまった。

「はあ、悪い……最近トレーニングさぼってたツケが来たみたいだ」

「本当に重いわね、こいつ。ほら、文仁! 早く目を覚まして!」

 鶴香が愚痴を言いながら、溝谷の頬を叩く。顔には出していないけど、前の戦いの傷のせいでもかなり体力を消耗しているようだった。無理に戦わせないほうが良い……となると、奴らを足止めできるのは私しかいない。

「……」

 いったい何を考えてるんだ、私は……。

 鶴香の心配するなんて……許されないことなのに。

『ねえ、未国。私たち……友達だよね?』

 市子……今の私にはそう呼ばれる資格がない。鶴香や真那、明日野や奈央にも……死んだ人たちにも、誰にも許されるはずがない。

 下の階から何人かの歩く音が聞こえてくる。さっきの敵だろう。応援が来るまで逃げるのが一番だけど、今の状況だと困難だった。

 だとしたら……。

「私が足止めする。その間にどこかに隠れろ」

「み、未国……あんた、一人で戦うつもりなの!? だったら、あたしも……」

「最初から怪我人は足でまといだったんだ……私が何とかする」

 また鶴香を邪魔者扱いするようなことを言ってしまった……と一瞬思ったけど、鶴香は突っかかってこなかった。

「敵はたくさんいるわ。一人で戦うなんて無理よ。あたしもいく」

 驚きのあまり言葉を失った。あれだけ酷い態度を取ったのに、鶴香は私の心配をしていた。

 どうして? もし私が鶴香なら、こんな嫌な女すぐに見放すのに……。

「鶴香の言うとおりだ、未国。お前一人でどうこうできる状況じゃない」

 息を落ち着かせながら沢村が言った。

「二人で行け。俺も溝谷をさっさと起こしてすぐに行く」

「わかった、文仁のことは任せるわ、沢村。じゃあ、未国、行くよ」

「……私に指図するな」

 突き放すようなことを言っても、鶴香はもう何も言わなかった。

 そのまま二階のほうに降りていく。

 鶴香を一人で行かせるわけにはいかない。でも、仲間だからじゃない。鶴香が死んだら、奴らとの戦いが不利になる。それだけ……そう、そういう理由で私は鶴香のあとをついて行くんだ。

 二階に降りても、敵の姿はなかった。まだ一階のロビーで私たちを探しているんだろう。この不利な状況から切り返すには、不意打ちをしてなるべく人数を減らすしかない。奴らが私たちの居場所を知らないうちに……。

「う……」

 ちょうど二階の廊下についたところで、先を歩いていた鶴香がよろめいた。無意識のうちに倒れそうになったところを掴もうとしたけど、その前に鶴香本人が廊下の窓枠を掴んでいた。

「はあ、はあ……」

 やっぱり前の戦いの傷が……。

 本当に大丈夫か?

 ただ一言そう言えばいいのに、私は何も言えなかった。言ったところで「だからお前は足でまといなんだ」と悪態をつく言葉しか出ないだろう。だから、何も言わないほうがいい。

「未国!」

 突然、鶴香が叫んだ。その直後、私に向かって飛びかかってくる。私と鶴香が廊下に倒れ込んだのと同時に窓ガラスが割れて、体にガラスの破片が飛び散った。

 目を開けると、割れた窓ガラスから刀を持った男が入ってきていた。さっきの赤い車に乗っていた一人だろう。男が刀を私たちに向かって振り下ろしてくる。

「くっ!」

 私は鶴香の体を抱えながら、後ろへ跳んでその攻撃を避けた。階段の下からも誰かが駆け上がってくるのが聞こえてくる。

「未国、また来るわ!」

「わかってる!」

 目の前にいる男が再び刀を振り下ろしてくる。それを避けてベルトに巻いたワイヤーを投げて、男の首に巻き付かせた。ナイフで殺そうとしたけど、階段から別の三人が現れるのが見えた。

「未国!」

 男がワイヤーに構わず、刀を横に振ってくる。ナイフでそれを受け止めて、ワイヤーを強く引っ張った。それと同時に別の敵が襲ってくる。私は倒れた男を踏み台にしてその場で大きくジャンプし、男たちの背後に着地した。それと同時に一番近くにいた男の首にナイフを突き刺す。

 だけど、別の一人が鶴香と戦っている間に、もう一人がすぐに斬りかかってくる。私はナイフを引き抜いて、その男の腹に突き刺そうとした。けれど、その前に刀でナイフを弾かれて、逆に男が刀を突いてくる。咄嗟に避けて男の手首を掴み、今度こそ男の腹にナイフを突き刺した。でも、その勢いのまま、男と一緒に後ろにあった階段から転がり落ちてしまった。

「未国!」

 鶴香の叫んでいる声と刀同士が交わる金属音が聞こえたけど、それがどんどん遠ざかっていく。途中で踏み止まることも出来ず、私はその敵と一緒に下まで落ちてしまった。


 12


「くっ……」

 それほど長い時間、気を失っていたわけではないと思う。目を開けて、今の自分の状況を確認してみる。階段から一緒に落ちた男はそばで死んでいた。床にまともにぶつかったのか、ナイフで刺した腹部以外からも血を流していた。

 私のほうは奇跡的に無傷だった。けど、落下した衝撃で全身を打ったらしい。体中がズキズキ痛む。

「う……」

 何とか起き上がって二階のほうを見る。まだ金属音が響いている。鶴香が残りの敵と戦っているんだろう。早く応援に行かないと……。

「すごいな。あんな戦い方をする奴は初めて見た」

 どうしてその気配に気づかなかったんだろう。すぐ後ろから別の男の声が聞こえてきた。

「くっ!」

 反射的にナイフを後ろに向かって振る。でも、男はそれを難なく避けて、後ろに下がった。男と私の間に数メートルの距離が開く。

「……」

 改めて男を見る。パーマのかかった髪、冷たく光る瞳を持った背の高い男だった。

 でも、何故だろう……その男に私は奇妙な印象を抱いた。

敵意や殺意がない?

 さっきまで戦っていた敵からは強い殺意を感じた。何度も戦ったことがあるからこそ、それを感じ取るのは慣れていたし、敵同士だからそういった感情を抱くのは当たり前だと思っていた。でも、この男にはそれが全くない。その代わりに男から感じ取れるものはこの状況だとありえないものだった。

 これは……好奇心? 

「ワイヤーを使って相手の動きを止め、その隙にナイフで仕留める戦い方か。少なくとも俺のいるところじゃ、見られない。そうやって相手を殺す方法もあるのか……面白いな」

 男の瞳に強い光がこもる。

「もっと見せてくれ」

「!」

 身の危険を感じて私はそこからさらに後ろへ下がり、ナイフを構えた。

 まずい……何かがまずい。この男は今まで戦ってきた奴とは違う。

 男が両手を横に振った。その先に何かが現れる。鋭く尖った三本の金属の爪だった。

 鉤爪(かぎづめ)……!? 刀じゃない!

「くっ!」

 先手を打つために私はワイヤーを投げた。でも、男はそれを避けて、接近してくる。

速い!

 男が右手の爪を突き出してくる。それを避けたけど、すぐに左手の爪を横に振ってきた。ナイフでそれを受け止め、男の腹に向かって蹴りを出す。うまく決まったと思ったその一撃は男の右手の爪に防がれていた。次に男が足で私の足を払ってバランスを崩してくる。 

 一瞬宙に浮いた私に向かって男が両手の爪を同時に突き出してきた。私にはナイフでそれを防ぐことしか出来なかった。そのまま、後ろに吹き飛ばされ階段に激突した。

「うっ!」

 全身に痛みが走る。でも、男は私に起き上がる余裕をくれなかった。目の前まで接近してきて、左手の爪を顔面に向かって突き出してくる。私はすぐ横に転がってそれを避けた。男の左手の爪が階段にあたって鈍い音をあげる。

 私はナイフを持ち替えて、男の首筋に突き刺そうとした。うまくいく……と思ったのも束の間、男の首にナイフが刺さる前に手首を掴まれた。すぐに男がもう片方の手で私の首を掴んでくる。呼吸が出来なくなり、声を出せなかった。そのまま、男に体を持ち上げられて、壁に叩きつけられる。

「ぐっ!」

 また全身に衝撃がはしった。そのまま、投げ飛ばされてロビーの床に体を打ちつけられた。

「やっぱり面白い。面白いな、お前」

 男が軽く笑う声が聞こえてくる。早く起き上がらないとまずい!

 私は痛みをこらえながら起き上がろうとした。でも、その前に男にまた首を掴まれて、床に押しつけられる。

「他にどんな戦い方が出来るんだ? こんな状況だとどうやって切り抜ける? やってみてくれ」

「くっ……」

 男の手を掴んで振りほどこうとしたけど、ビクともしなかった。その間にどんどん締め上げられて、視界が悪くなっていく。

 その時、正面玄関のほうから誰かが走ってくる音が聞こえてきた。

桜夢(おうむ)さん、何やってるんですか!? 命令があったでしょ!」

 別の男の声が反響して聞こえる。少なくとも味方の声じゃない。

「……そうか、そういえばそうだった。忘れてた」

「忘れてた、じゃありませんよ。せっかく生きたまま捕まえたんですから、移動しましょう」

「……わかった」

 桜夢と呼ばれた男が私を見下ろして、さらに強く首を締め上げてくる。もう抵抗することも出来ず。私の意識はそこで途絶えてしまった。


 13


「おい、溝谷。しっかりしろ!」

「う、うう……」

 未国と橘が下の階に降りてからしばらくして、気を失っていた溝谷がようやく意識を取り戻した。

「ん、あれ? 沢村か。何してるんだ?」

「何してるんだじゃないだろ、お前は。今まで気を失ってたくせに」

「ああ、悪い悪い。打ちどころが悪かったみたいだ」

 溝谷が頭を押さえながら起き上がる。頭を打ったらしいが、そこまで大した怪我じゃなかった。

「未国と橘が下で戦ってる。早く行くぞ!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ、沢村!」

「もう大丈夫だろ。早く来い!」

 溝谷にそう言って、俺は階段を駆け下りた。さっきまで聞こえていた金属音はパタリと止んでいる。ということは戦闘がもう終わったことになる。問題はどちらが生き残っているか、だ。

「……」

 二階に降りるとあたりに血の匂いが漂っていた。廊下の窓ガラスが一つ割れていて、外から風が吹いている。

 その廊下のあちこちに何人かの死体が転がっていた。全員、ダルレストの刀人だった。その死体のそばで橘が壁にもたれてしゃがみこんでいるのが見えた。

「鶴香、大丈夫か!?」

 溝谷が橘のそばに駆け寄る。あとから来たのに俺より早く彼女に気づいたらしい。

「あたしは平気。でも、一階で未国が……助けに行きたかったけど、こいつらが手強くて」

「未国が?」

「ごめん、沢村」

謝る橘に何か言う前に、俺は一階のロビーに向かっていた。

「無事か、未国!」

 大声で叫んだが、返事はなかった。ロビーに着いても、そこには誰もいなかった。だけど、周りの床や壁に争った形跡が残っていた。三本のまっすぐな縦線と小さな刺し傷。刺し傷のほうは未国のナイフだとして、もう一つの傷は刀によるものじゃなかった。

「この傷は……」

 頭の中で坂上と山口の遺体を思い出す。あの時も刀の傷じゃなかった。橘と溝谷がかろうじて倒すことが出来た相手……四人の一人。もしかして、その仲間が……。

「沢村、佐東は!?」

 上の階段から橘の肩を担ぎながら溝谷が降りてきた。

「争った跡はあるが、どこにもいない」

「殺されたのか?」

「それなら死体があるだろ。わざわざ持ち帰ってどうする? 創路(そうじ)が回収に来るんだぞ」

「だとしたらいったい……」

「ごめん、あたしがしっかりしていなかったから……」

「お前のせいじゃないよ、橘」

「でも……」

「そんなに心配しているのか、未国のこと」

「え?」

 橘が意外そうな顔で俺のほうを見る。むしろそんな反応をするこいつのほうが俺には意外だった。

「お前、未国にかなり酷いこと言われてきたじゃないか。そのことは何とも思っていないのか?」

「思ってるわ、もちろん。未国は市子や死んだ人達を侮辱したから……。それより前もあたしや他の子のことを突き放していたし」

「じゃあ、どうして?」

 そう聞くと、橘は言いづらそうに顔を下に向けた。

「隠していても何となくわかるから……。未国が無理して今の自分を作っていることが。どうしてかは知らないけど、未国をあのまま一人にさせていたら良くないと思ったから。ごめん……何か変なこと言ってるわね、あたし」

「いや、それで良いんだ、橘」

「え?」

 ほら、見ろよ、未国。本当のお前をわかってくれてる奴がすぐそばにいたぞ。

「とりあえずその話はあとだ。今はあいつのことを探そう」

「探すって言っても、どこに行ったかわからないだろ? どうするんだ?」

 そう聞く溝谷に俺はスマートフォンの画面を見せた。

「こんな時のためにあいつに発信機をつけといた」

「何だって!? いつの間に!」

「いつも一人でいたがるからな。あいつの面倒見る方法がこれくらいしかなかったんだ」 

 スマートフォンの画面で松阪市のマップを映し出す。その中に小さな赤い点が表示された。かなりのスピードで松阪駅のほうに向かって移動している。

「このスピードだと車だな。すぐに行くぞ」

 俺は溝谷と一緒に鶴香の両肩を担いでビルの外に出た。さっきの赤い車はもう消えている。奴らはあの車で未国を連れ去ったんだろう。

 俺たちの乗ってきた車は前が大きくへこんでいたが、完全には壊れていなかった。鶴香を後部座席に座らせて、運転席に乗る。溝谷が助手席に乗ったのを確認してすぐに車を出した。

「沢村、さっきのはどういう意味?」

 後ろの席に座っていた橘が聞いてきた。

「言葉通りだ。未国が昔、みんなと仲良くしていた普通のやつだっていうのは知ってるだろ?」

「そういえばあいつ、結構みんなと遊びたがってたよな。俺や鶴香だけじゃなくて、坂上たちにも話しかけてたし」

「だけど三年前のある任務で、あいつはダルレストの連中の待ち伏せにあったんだ。その結果、仲間は全滅、当時あいつの相棒だったガードマンはあいつを見捨てて、一人で逃げた」

「え……?」

 鶴香が驚いた声をあげる。

「そのあと、あいつは今までで一番辛い思いをした。それこそ、死にたくなるほど辛いことを奴らにされたんだ。それ以来、あいつは変わってしまった。他人を信じれば、またあの時と同じ思いをすることになる。だから、自分の心を閉ざしてしまったのさ。だけど、坂上が死んでからまたあいつは壊れ始めている。もう限界が近づいているんだよ」

「ちょ、ちょっと待て。なら、どうしてあいつは三年前、助かったんだ? そんな状態でも、一人で切り抜けたっていうのか?」

「いや、違う。その時、あいつを助けたのは……」

 そのあと、二人に話したことは理事長と俺しか知らない内容だった。だけど、こんな状況になった以上、何よりあいつのことを考えてくれている橘には話さないといけなかった。

「……」

「……」

 事実を聞いた二人は少しの間、何も言わなかった。

「黙ってて悪かった。理事長から口止めされてたんだけどな」

「じゃあ、沢村が未国と組んだ理由って……」

「ああ、そういうことだ」

 俺の話を聞き終えた溝谷と橘が再び何も言わなくなった。松阪駅まではあと十分ほどの距離だった。発信機の赤いシグナルは駅で止まっている。

「沢村」

 後部座席から橘が身を乗り出して、俺のほうを見つめた。

「あたし、必ず未国を助ける。だから、あんたはそのことを絶対に未国に伝えてあげて。絶対に、よ」

「怒ってないのか? 今まで俺が黙ってたこと」

「怒ってるわよ。あんたがそのことを早く言っていたら、こんなことにならなかったかもしれないのに」

「悪い。それについては言い訳出来ないな」

「だから、これから言うのよ。今の未国の支えになれる人はあんたしかいないわ」

「何だか俺が未国の恋人になれって言ってるみたいだな」

 冗談のつもりでそう言ったが、橘は全く笑わなかった。溝谷も真剣な表情のまま、俺のほうを見ている。

「……まじか?」

「本当よ」

「ああ」

 二人同時に頷きやがった。

 やれやれと言った具合に頭を掻く。

「いや、大体、あいつが俺のことを好きだという証拠がないだろ。俺のほうも好きかどうかなんてわからないし――」

「さっきの話を聞いた限りだと、脈はあるだろ? なあ、鶴香」

「そうよ、間違いないわ」

「何かさっきまでとキャラが変わってないか、お前ら?」

「ほら、もう駅が見えてきたわ。早く行くわよ!」

 橘が前方の駅を指差す。明かりも何もついていない。周りにある車も全て停まっている。ここにまでフィールドが届いている証拠だった。

 松阪駅には工事中の地下街がある。奴らと未国がこの中に入ったのはさっきの発信機から見て間違いなかった。

「未国、死ぬなよ……」

 ポケットから取り出したハンドガンをしっかり握り締め、俺は橘、溝谷と共に地下街に向かった。


 14


 頬に何度も衝撃がはしる。顔が赤く腫れ、唇も切れて、口の中に血の味がしてからどれくらいの時間が経ったんだろう。もう目を開けても、視界が霞んでいてよく見えなかった。

 どこかの駅にある工事中の地下街。そこに連れて行かれた私は両手を縛られて、目の前にいる男たちに何度も殴られていた。

 奴らが聞いてきたのは『お前らの本部はどこにある?』だった。

 もちろん答えるつもりはない。もしそれを答えたら、こいつらは大勢の人数を連れてあの場所を地獄に変えるだろう。全員、皆殺しにされてしまう。

 そんなことはさせない。私一人だけのせいで……そんなことは絶対にさせてはいけない。ここで私だけが死ねばいい。それでいい。それで……いいんだ。

「おら、とっとと喋れよ! このアマ!」

「ぐっ!」

 また顔を強く殴られる。左右の壁に私の吐いた血がべっとりとついていた。もう痛いかどうかもよくわからない。

 目の前にいる二人の男。そのほかにもう一人が私たちの降りてきた階段のほうを見張っている。そして、もう一人……あの男はそばのベンチに腰掛けて、ハーモニカを吹いていた。私のほうを見向きもしない。

「駄目です、桜夢さん。こいつ、何も喋りません」

「そうか……」

 私を殴っていた男がそう言うと、桜夢と呼ばれた男は素っ気なく返事した。戦った時とは別人のように見えた。まるでそんなものに興味がないように。

「じゃあ、殺せば?」

「それは出来ませんよ。せっかく捕まえたんでしょ? 浜家(はまや)さんから居所を聞き出せって命令もあったじゃないですか?」

「殺したらだめなのか。殴ってもだめ……あ、そうか。なら……」

 突然、ハーモニカを吹くのをやめて、男がベンチから立ち上がった。ゆっくりとこっちに向かって歩いてきて、目の前にいる二人の男の肩に手を乗せた。

「二人でこいつを犯してみてよ」

 ……え?

 ちょっと待って。こいつ、今何て言ったの?

「お、桜夢さん? どうしたんですか、急に?」

「言ってる意味わかってるんですか?」

「意味がわからないか? じゃあ、説明するよ。犯すっていうのは女に対して肉体関係を強制するって意味で――」

「いえいえ、その意味はわかります。どうして急にそんなことを言うのかってことですよ」

 男が首を傾げて二人の仲間を交互に見る。

「ふむ。どうしてかって聞かれると難しいな。単純に女の体を見てみたくなった。字倉は見せてくれないからな」

「いや、そりゃあそうでしょ」

「じゃあ、いいだろ。こいつで見てみたい。お前たちも興味ぐらいあるだろ?」

「そ、それはもちろん。そんなことしたことないですし」

「それじゃあ、決まりだ。さっさとやれ」

 男が二人の男を私のほうに押し出す。それまで表情を堅くしていた二人の男がにやりと笑った。息が少し荒く聞こえる。

「ま、まあ、桜夢さんがそう言うなら遠慮なく……」

 う、嘘……こんなの嘘だ。これじゃあ、あの時と何も変わっていない!

 人を信じたらあんな目に遭うってわかって……誰も信じないと心に決めて、今まで生きてきたのに……どうして、あの時と同じ思いをしなくちゃいけないの?

 男が刀を出して、上に着ていた私の学生服を胸元から切り裂いていく。

「い、いやっ! やめて! やめっ――」

「おっと喋るなよ」

 もう一人の男に強引に口を押さえられる。必死に叫ぼうとしたけど、声が出なかった。その間にも上の服を剥ぎ取られ、次に下に履いていたスカートも腰からすそにかけて切り裂かれていく。

 違う……あの時は途中で気絶していてわからなかった。でも、今は意識がはっきりしていて、これから起こることを見てしまう。目を閉じていても体で感じ取ってしまう。もし、ここから生き残ることが出来ても一生忘れることができなくなる。それは死ぬことよりも辛いことだった。

 いやだ……いやだ……。

 誰か助けて!

 そう叫びたかった。でも、私にその資格はない。他の仲間を突き放して、市子を死なせてしまった私にそんな権利はない。誰もこんな私を助けに来てくれない。

 こんな辛い思いをしても……私が、私さえ耐えれば……。

「よ、よし……次は下着を取ろうぜ。早くしろよ」

「あ、焦るなよ……こういうのはじっくりやるんだ」

「……むぐっ! むぐぐっ!」

 必死に叫ぼうとする。でも、声が出ない。目の前にいる二人の男が私の身につけているものを全て奪い去ろうとする。

 もう……だめだ。

 その時だった。カランと空き缶が落ちるような音が聞こえてきた。私と男たちの間に何かが転がってくる。

「ん、何だ?」

「!」

 視界の端に映る小さな黒い塊。それが何なのか私にはすぐわかった。

「せ、閃光弾!?」

 男が言い終わる前にその黒い塊から眩しい光が一気に放たれた。光が暗い地下街を覆い尽くしていく。

 その間に、誰かの腕に抱きかかえられる感覚がした。そばで声が聞こえたけど、誰の声かわからない。でも、私は前にもどこかでこの腕に抱きかかえられたような気がした。


 15


 しばらくしても視界がぼんやりしていて状況がわからなかった。

「溝谷! 橘! 聞こえたら返事しろ! くそ……連絡が取れないな」

 聞き覚えのある声が傍から聞こえてくる。その方向を見て私は驚いた。

「沢村……?」

 スーツの上着を脱いだ沢村がスマートフォンで誰かに連絡を取ろうとしていた。そのスーツの上着は私が着ている。その中を見ると、下着しかつけていなかった。

 やっぱりあれは現実だったんだ。じゃあ、どうして沢村がここに……?

「お、未国。気がついたか?」

「沢村……どうして?」

「溝谷たちと手分けして探してたんだ。見つかって良かった。それより顔が傷だらけじゃないか。女の顔に傷つけるなんて、あいつら最低だな」

 沢村がポケットからハンカチを取り出して私の顔を拭く。そのハンカチに血がついても、沢村は気にすることなく、最後まで拭いてくれた。

「どうしてここが…?」

「悪い、お前には黙ってたけど、この髪留めに発信機をつけといたんだ」

 そう言って沢村が私の髪留めを指差す。

「い、いつ?」

「お前とペアを組んでから一年後」

「え?」

「おいおい、もう忘れたのか? その髪留め、あげたの誰だと思ってるんだよ?」

 そう言われてようやく思い出した。二年前、あの事件以来、他人を遠ざけていた私に沢村が包みに入った何かを差し出したことがあった。

『なんだ、これは?』と聞くと、沢村は『一周年記念。俺たちがペアになってから』と笑って答えた。

『いらない』

『いいじゃん』

『こんなもの必要ない』

『まあまあそう言わずに』

『必要ないって言ってるだろ!』

『受け取らないと俺、お前のガードマン辞めるぞ。そしたら、外での任務も出来なくなるなー。ずっとここから出られなくなるかも』

 私がいくら拒んでも沢村は全く引き下がらなかった。結局、私のほうが折れてプレゼントを受け取った。中を開けると、この髪留めが入っていた。

『前髪、少し鬱陶しいだろ? これぐらいつけとけよ』

『それなら髪を切ればいいだろ」

『いや、そうしたら俺のイメージが……まあ、そう言わずにほら、つけてみろ』

『……』

 しぶしぶ前髪に髪留めをつけた。その時、沢村は笑ってこう言った。

『うん、そのほうがかわいいな、未国』

「……」

 すっかり忘れていた。結局今まで、捨てることが出来ないまま、ずっとこの髪留めをつけていた。大切にしていたつもりはない。沢村の言うとおり前髪が鬱陶しかったのは本当だったし、髪留めをわざわざ買いに行くのも面倒だったからだ。そのはずだったのに……。

「一応、誤解しないでほしいが、お前のことをストーカーしてたつもりはないぞ。こういう状況に陥った時のための保険だ」

「だ、だが、私がもしこれを捨てていたら、どうするつもりだったんだ!?」

「いや、お前なら何となく捨てないと思ってたよ」

「どうして!?」

「俺は本当のお前のことを知っているから」

「え……?」

 それはいったいどういうこと……?

 沢村が私のほうを見る。いつにもましてその表情は真剣だった。

「三年前のあの時、お前を助けたのは俺だよ。逃げてきた江崎に一発殴って、お前を助けに行った。二人とも無事に切り抜けられたのは奇跡だな。今じゃ、考えられない」

「……え?」

 あの時、私を助けてくれたのが……沢村?

 沢村が天井を見上げる。

「俺はあの時、一人だけで待機していた。でも、江崎がこっちに逃げてきたのが見えて、あいつを捕まえた。何を聞いても、あいつは混乱しているだけで何も言わなかった。すぐにあいつが他のやつを見捨ててきたってわかったよ。俺は一人であの工場へ向かった。でも、みんな死んでいた。西垣さんも、里中も、そして朱実も……」

 沢村がぐっと拳を握りしめる。でも、その後に笑って私のほうを見た。

「けど……けどな、お前だけは無事だった。まだ生きていてくれた。そこからは無我夢中だった。お前を助けることができたのは奇跡だな。あの時、お前がどんな目にあっていたのか、知っている。だから、他人を信じなくなったお前を支えるために、俺はお前のガードマンになったんだ。お前の苦しみを知っている唯一の男として」

「う、うそ……」

「ま、理事長や他のやつにはお前のパートナーになることを結構注意されてたけどな、俺の意思は変わらなかったよ。とにかく、お前が無事で良かった」

 沢村がそう言うと、自然と私の目から涙が溢れてきた。

 今まで……あの時からずっと、ずっと我慢していた気持ちが表に出てきた。こらえていた思いがどんどんこみ上げてくる。

 私が間違っていた。あの時、沢村はたった一人で助けに来てくれたんだ。敵の刀人がいたのに、他のみんなが死んでしまったのに、私を助けてくれたんだ。そして、その後も心を閉ざした私をずっとそばで見守ってくれていたんだ。

 私の苦しみや悲しみを全部知った上で、私がどんな酷い言葉を浴びせても、笑ってくれていたんだ。

「う……う……」

「おい、泣くなよ。お前のキャラじゃないだろ」

 沢村が子供をなだめるように私の頭を撫でた。いつもならすぐにその手を払いのけるけど、彼の優しさを実感して……嬉しくて、とてもそんなことは出来なかった。

「やっぱりかわいいな、未国」

「う、うるさい……」

 その時、私たちがしゃがみこんでいた通りの端から誰かが走ってくる音が聞こえてきた。一人じゃない。何人かが集団で走っている音だった。

「溝谷たちだといいが、たぶん奴らだな」

「どうする?」

 そう聞くと、沢村はポケットから何かを取り出し、私に差し出した。さっき捕まった時に奪われたものと同じワイヤーの束だった。

「これがないと本領発揮できないだろ。服のほうは……その、勘弁してくれ」

 沢村が気まずそうに視線をそらす。そういえば、今の私の格好は沢村のスーツを来ているだけで、あとは下着だけだった……!

「お前……み、見たな!」

「わ、悪い悪い。しかし、未国もやっぱり女の子なんだな。ずいぶん可愛らしいものを……い、痛い痛い!」

 言い終わる前に私は沢村の足を何度も踏んづけた。今さら恥ずかしさがこみ上げてきて、体が熱くなる。

「ちょっ、まじで痛いって! 未国、こんなことしてる場合じゃ――」

「いたぞ!」

 その時、地下街の通りの向こうから三人の男たちが現れた。さっき私を殴っていた奴らだ。全員、刀を持っている。

「沢村、援護頼む!」

「ああ、任せろ!」

 私は先に走ってナイフを構えた。一番前にいた敵が刀を振り下ろしてくる。それをかわして首にナイフを突き刺した。

「このっ!」

 残りの二人が私に攻撃しようとしたけど、沢村がハンドガンを発砲してそれを妨げた。すかさず、ワイヤーを投げてもう一人の男の首に巻きつけて、一気に引き寄せた。

 私のほうにきた敵の腹に向かってナイフを突き刺す。男の身体から力が抜けて、手に持っていた刀が音を立てて地面に落ち、煙のように消えた。

「てめえ!」

 その時、三人目の男が私の後ろから襲ってきた。まだ死体からナイフを引き抜いていない。

 やられる、と一瞬思ったけど、男が「ぐっ!」と声を出して動きを止めた。

 見ると、男の後ろにいた沢村がスタンバトンで動きを封じていた。その隙に私はナイフを引き抜いて、男の喉を切り裂いた。男は首から血を流しながら、地面に倒れた。

「ふう、何とか片付けたな」

「いや、まだだ」

 沢村にそう言って私は男たちが来た方向を見た。

 パーマをかけた長身の男が店の閉じたシャッターの前にもたれていた。確か他の奴に桜夢と呼ばれていた男……。

「未国、あいつは?」

「気をつけろ。あの男はおそらく四人の一人だ」

 それだけで沢村も理解したらしい。彼が息をのむ音が聞こえてきた。

 男はゆっくりと目を開けて、私と沢村のほうを見た。シャッターから離れて、ちょうど通りの真ん中に立つ。

 束の間の静けさが訪れ、お互いに何も言わずに睨み合う。

 先に動いたのは私と沢村だった。男との間合いを一気に詰めてナイフの先を突き出す。男は右手に出した鉤爪であっさりそれを弾いて左手の爪を向けてくる。でも、私は焦らなかった。最初から防がれるのは見越していた。

 私はもう片方の手に握っていたワイヤーを投げた。ワイヤーが男の左腕に絡まり、鉤爪の攻撃が一瞬止まる。

 その隙に再びナイフを突き刺そうとした。けれど、いきなり男がその場で回転して回し蹴りをしてきた。予想していなかった攻撃でかわす余裕もなく、蹴り飛ばされる。そのまま、店のシャッターに激突した。

「くっ!」

 目を開けると、男が鉤爪でワイヤーを切ってこっちに向かってきていた。

 まずい、次の一撃が来る。

「未国!」

 その時、私の名を叫ぶ声と共に銃の発砲する音が響き渡った。沢村が男に向かって撃ったんだ。男がそれを避けて、後ろにひく。

 沢村は銃からスタンバトンに切り替え、男に向かって振り下ろした。それも受け止められたけど、スタンバトンの電撃が鉤爪を伝って男の全身に流れた。男が「ぐっ」と小さな声を漏らす。

「やれ、未国!」

 沢村が叫ぶ。言われなくても、私はもう行動に移していた。ナイフを構え、男に向かって突き出す。

 ナイフの先端が男の脇腹に突き刺さった。だけど、男は何も言わずに後ろへ下がった。

「……」

 私たちと男の間に距離が生まれる。脇腹から血が流れ出ていたけど、男は表情一つ変えなかった。何も言わずに手で傷口に触れる。血のついた手をじっと見つめた。

「刺されたらこんなに痛いのか……知らなかった。傷をつけられることなんて初めてだったから」

 男が赤く染まった自分の手から、私のほうに視線を向ける。やっぱり敵意も殺意も感じ取れなかった。

「お前の目……変わったな」

「え?」

「さっきまで死んだ人間のような目をしていた。生きる希望を見失ったような……だが、今は違う。その瞳の光は何だ? 何がお前を変えた? そいつが原因なのか? そいつがお前を変えたのか?」

 男がそう言いながら、沢村のほうを見る。沢村はスタンバトンを構えたまま言った。

「お前が何を言いたいのか、何となくわかる。それを知りたかったら、お前も彼女か何か作ってみろ。そしたら、こいつの気持ちも少しはわかると思うぜ。ああ、こいつはだめだぜ。未国は俺の女だ。ほかをあたるんだな」

「さ、沢村、お前……お、俺の女って、どういう……」

 そう言っても、沢村は私に笑顔を向けるだけだった。胸が高鳴り、体が勝手に熱くなった。鏡で見たら、たぶん自分の顔が真っ赤になっているだろう。

 照れてる? 私が?

「彼女……か」

 男が一瞬笑ったような気がした。でも、すぐに元の表情に戻る。

「良いところだけど、邪魔が来たようだ」

 男が鉤爪を消してそう言った。すると、私と沢村の背後から誰かが走ってくる音が聞こえてくる。

「続きは今度にしよう」

 言い終わると、男は後ろに振り返り、ゆっくりとした足取りで歩いていく。私の刺した傷口から血が流れ出していても、男は苦しそう声を一切出さずに通りの角へ姿を消した。

 私と沢村は男の姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 追いかけようと思えば、追いかけることはできた。けど、本部の場所を言わせようと何度も殴られたせいか、体力は既に限界だった。少し気を緩めただけで足がよろめいてしまう。

「おっと」

 バランスを崩した私を沢村が抱きとめてくれた。

「大丈夫だ。一人で立てる……」

「強がんなよ。もうヘトヘトなんだろ?」

「沢村! 未国!」

「無事だったか!」

 後ろの通りの角から鶴香と溝谷が走ってくるのが見えた。二人とも汗を流している。必死になって探してくれたんだろう。

「あ……」

 お礼を言いたかったけど、もう意識がだんだんと薄れてきた。思うように言葉が出ない。

「無理するな、未国。今はゆっくり休め」

 そばにいた沢村がそう言って、私の体をしっかりと支えてくれる。

「……うん」

 私は沢村の優しさに安心して、そのまま気を失った。


 16


 松阪駅の地下街に通じる階段。工事中のフェンスで塞がれたその入口の手前で、僕はじっと空を見ていた。

 浜家の指示を受けて、応援に来たのはいいけど、どうやら戦いはもう終わったらしい。

「……」

 階段の下から桜夢が一人で上がってきた。僕の存在に気づいたようだけど、何も言わずにそばに停まっている赤い車に歩いていく。

「油断したのかい、桜夢? 君が彼らを前に逃げるなんて」

「逃げる? ああ、そうだな。これは負けを認めて逃げたっていうべきだな」

 桜夢が立ち止まって、僕のほうを見ずに言う。嫌味を込めて言ったけど、桜夢は怒っているように見えなかった。

伊月(いつき)

「ん?」

「人間って他人に支えられると強くなるものなのか? 一人じゃ、何も出来ないのに特定の人間と一緒にいれば、想像することもできない力を発揮する。そういうものなのか? それを友達や恋人っていうらしいが」

 桜夢が僕に質問するなんて珍しい。何があったのか知らないけど、地下で桜夢にとって大きな衝撃を受けることがあったらしい。

「さあ、僕にもよくわからないね。けど、そういう人の存在が自分の生きている意味につながる可能性はあるかもしれないよ。刀人がどうして存在するのか、その疑問に答えてくれるかもしれない。少なくとも、僕はそうだから」

「……そうか」

 桜夢はただ一言そう呟いて再び歩き始めた。腹の辺りから血がボタボタと流れ落ちていたけど、気にしていないようだった。もっとも、彼にとって怪我すること自体、興味の対象なのかもしれない。

「人間は他人に支えられると強くなるもの……か。そう、そのとおりだよ、桜夢。僕にも支えとしている人がいる。決して手の届かないところにいるけどね……」

 僕は地下街へ降りる階段を少し見て、松阪の町のほうへ歩いた。

「もうすぐ会えるかもしれないね……」


 17


 数日後。私は一人で『大広間』の地下にある墓地に来ていた。前に来た時と変わらず、市子の石碑はあって、私の置いた花もそのままだった。

 見た目は何も変わっていない。でも、私の気持ちはあの時と全く違っていた。

『私、信じていいの? 未国のこと?』

 もちろん。誰も信じるなって言ってないから。

『未国も信じてあげてね。あなたのガードマンになる人のこと』

 うん。あの時は出来なかったけど、今度こそ信じてみる……沢村のことを。

『ねえ、未国。私たち、友達だったよね? いつも一緒だったよね?』

 うん……友達どころか、私たち、親友だったよ。市子、私がいないと何も出来ないし、恥ずかしがり屋だし……いつも一緒にいてあげないといけなかったから……。

 目に涙が溢れてきたけど、私は必死にこらえた。

 その言葉は全部言うべきだった。市子にそう言ってあげないといけなかった。

 とても後悔する……そして、最後に市子を拒絶した罪。これはずっと消えることはない。私が死ぬまで償わないといけないものだ。

 でも、それでいい。あの子を傷つけて、死なせた罪は私にある。私が背負うべきものだ。

 私は市子の石碑を見つめた。

「市子、今さら私が何を言っても、あなたは許してくれないかもしれない。でも、これだけは言わないといけない……だから、言う」

 自己満足になるかもしれないけど、あの子に伝えないといけない。

「市子……ごめん。そして、ありがとう。私のこと、ずっと大切に思っていてくれて……。市子は……私の一番の親友だった」

 目を閉じて、手を合わせる。市子との思い出が頭に浮かんで……やがて消えていった。

「……」

 目を開けて、私は墓地の出口に向かった。

「もういいのか?」

 出口の近くで待っていた沢村が声をかけてきた。

「これでいい……」

「そうか」

 沢村はそれ以上何も聞いてこなかった。気を利かしてくれている。たぶん、今までもずっとそうだったんだろう。どうして私は今まで気づかなったんだろう。馬鹿な自分に少し嫌悪する。

「よし、じゃあ、行くぞ」

 沢村が私の手を掴んで歩き始めた。

「ど、どこへ行くつもりだ?」

「もう待ってるはずだ。早く行くぞ」

 待ってる?

「誰が?」

 そう聞いても沢村は答えなかった。ただ、にっと笑っているだけだった。


 18


 沢村に手を引かれて、私は女子寮に入った。そのまま、廊下を歩いていく。向かってる先は食堂のようだった。

「ほら、未国もっと早く歩けよ」

「おい、そんなに引っ張るな!」

 手を引っ張られたまま、沢村と一緒に食堂へ入った。

 その瞬間、大きな音が部屋中に鳴り響いた。どうやらクラッカーの音みたいだった。

 クラッカー?

 私は周りを見回して驚いた。

「未国、誕生日おめでとう!」

 食堂のテーブルが端に寄せられ、中央にある円形のテーブルに大きなケーキが置かれていた。その周りを覆うようにみんなが立っている。明日野や奈央、貝堂さん、愛佳、葉作、真那、梨折、溝谷、そして鶴香もいた。

「た、誕生日?」

「忘れちまったのか? まあ、全然やってなかったから仕方ないか」

 沢村が苦笑いを浮かべて言う。それでようやく自分の誕生日が今日であることを思い出した。そんなこと、すっかり忘れていた。あの時以来、ずっと独りだったから、誰かにお祝いしてもらうことなんてなかったから。

「はい、これプレゼント」

 明日野が前に来て、私に包みの入った大きな箱を差し出す。中に入っているのはクマのぬいぐるみのようだった。

「実はね、未国に何をプレゼントして良かったのか、わからなかったから、とりあえず女の子が喜びそうなものにしたの。ごめんね」

 明日野が舌をペロッと出して謝る。彼女が子供の頃によくしていた仕草だった。すっかり忘れていた……というより、遊ぶことが少なくなったせいだろう。

「あ、ありがとう……」

「じゃ、私からはこれを」

 次に奈央がくれたものは水玉模様の入った青いワンピースだった。

「佐東さんのイメージカラーに合いそうなものを明日野と相談して買ってきました。似合うといいですけど……もし海に出かけることがあったら使ってください」

 他人から服をもらうなんて初めてのような気がした。普段は学生服で生活しているから、私服なんて買いに行ったことがほとんどなかった……。

「ありがとう……」

「未国、これ、あげる」

 奈央と入れ替わりに愛佳と葉作が私の前に来た。愛佳の差し出したのはお菓子の入っている箱だった。

「これ、クッキー。愛佳、一生懸命作った」

「わっはっはっは! 大丈夫だ! 俺がそばできっちり指導したからな。絶対においしいぞ!」

 豪快に笑いながら葉作が言った。愛佳に手作りクッキーを教える彼の姿があまり想像出来なかった。

「ありがとう……」

「はいはーい、次、あたしね」

 今度は貝堂さんが前に来て、私に差し出した物は今までもらったものより小さいものだった。

「これは?」

「中に入ってるのはペンケースよ。未国の勉強する時に役立つと思って」

 貝堂さんがにっと笑う。この三年間、ずっと避けてたのに貝堂さんは私にずっと優しかった。

「ありがとうございます……」

「うんうん、やっぱり素直な未国は可愛いねえ」

「未国、誕生日おめでとう」

 うっとりしている貝堂さんの隣に真那が立つ。彼女が私にくれたものは貝堂さんのプレゼントと同じぐらいの大きさだった。

「私、他の子にプレゼントするの初めてだったから、どうしたら良いかわからなかったけど……」

 中を見ると、真っ白な猫の柄の入った財布が入っていた。私には似合わないと思うくらい……かわいい財布だった。

「あ、ありがとう……」

 そして最後に……。

「未国」

 鶴香が私の前に来た。思わず顔を下に向けてしまう。

 あの男との戦いの後に鶴香と溝谷は助けにきてくれた。でも、私はお礼も謝罪も何も言えないまま、今日まで来てしまった。市子との件もある。気まずさと申し訳ない気持ちが大きくなって、私は鶴香のことを見れなかった。

「これ……」

 鶴香にプレゼントをもらえるまでは。

「え?」

 それは白色のリボンのついた麦わら帽子だった。

「未国に何が似合うのかなって一晩中考えてたら、この帽子を被ってるあんたが思い浮かんでね。昨日、文仁と一緒に買いに行ったの。似合うといいけど」

 今度は鶴香のほうが私から視線をそらした。

「ごめんね、未国。あたし、やっぱりバカだから、あんたのこと勘違いしてた。あんたがあたしたちを嫌っていた理由がわからなくて、イライラしていた」

「ち、違う! 鶴香は悪くない!」

 謝ろうとする鶴香を私は止めた。

「悪いのは私だ。私が自分勝手に、みんなを……鶴香のことを嫌っていたから」

「でも、どうして未国がそんな態度をとるのか、気づくことが出来なかったのはあたしのほうだから」

 鶴香が私の方を見た。

「未国、ごめん。でも、あんたが無事で良かった。ちゃんと謝ることが出来て良かった」

 その瞬間、目に涙が溢れて、止めるまもなくそれが流れ落ちていった。

「ち、違う……謝るのは私のほう……。謝らないといけないのは私……なのに……」

 ダメだ。涙がどんどん流れきてうまく言葉にできない。

 私、独りじゃなかったんだ。みんなを突き放していたのに、私みたいなやつのことをお祝いしてくれる人がこんなたくさんいたんだ。

「ありがとう……鶴香。ごめん……みんな」

 小さな声だけど……私はずっとみんなに言わないといけなかったことを、ようやく言葉にすることが出来た。

「ようし、気分を変えて、みんなで乾杯しようぜ!」

 溝谷が大きな声を出して言う。貝堂さんがみんなにジュースの入ったグラスを配っていく。私は涙を拭いてそれを受け取った。

 隣でグラスを持った沢村がにっと笑って私のほうを見ていた。普段はやる気がなさそうなのに、今の私には心から信じられる人になっていた。

 私の苦しみや辛さを知っていてくれて、ずっと見守ってくれていて……支えになってくれて。ありがとう……沢村。私、生きてみせる。死んだ仲間たちのために、市子のために、背負った罪を償うために。

 その言葉がまるで聞こえていたかのように、沢村が何も言わずに小さく頷いた。

「はい、みんなグラスを掲げろー!」

 溝谷の声と共にみんながグラスを上にあげる。私もみんなと同じようにグラスを持ち上げた。

「せーのっ、かんぱーい!」


 19

 

「みんな、楽しそう……」

 真っ暗な部屋の中で少女がつぶやいた。彼女の目に一つの丸いテーブルを覆って楽しく会話をしている複数の男女の姿が見える。正確に言えば、少女はその中の一人の視点からその様子を見ていた。

「本当に楽しそうだね。こんな時間がずっと続いたら、いいのに……」

 少女がしゃがみこんでその場にうつむく。長い髪も垂れ下がって、まるで少女の姿を隠すようになった。

「また会えるといいね……お兄ちゃん」

 誰にも聞こえないくらい小さな声で、少女はそうつぶやいた。


 第五話 後編 閉ざした心 終


 次回へ続く。


キャラクター紹介

篠暮(しのぐれ) 桜夢(おうむ)

ダルレストに所属するオリジナルの刀人の一人。滅多に感情を表に出さないが、好奇心が異常に強く、わからないことはどんな手段を使っても答えを求めようとする。刀人としての得物は鉤爪(かぎづめ)


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