第五話 前編 閉ざした心
第五話 前編 閉ざした心
1
2064年八月中旬。
橘 鶴香、溝谷 文仁と椚木の戦闘から数日後。
リムジンの乗り心地は良かったけど、着慣れない服はやっぱり着心地が悪い。見た目も普段の自分じゃないような気がするし、落ち着かない。
この僕がまさかスーツを着ることになるなんて……。
「落ち着かないみたいね」
隣の席から花麗の声が聞こえてくる。彼女の普段の格好と言えば、黒いティシャツにジーパンが思い浮かぶけど……。
窓に映った自分を見るのをやめ、隣の席に座っている花麗に視線を移す。彼女は真っ白なドレスを着ていた。髪につけた銀色の花形の髪飾りが、街灯の明かりに反射して輝いている。
綺麗だ、と純粋にそう思った。花麗にはこういう女性らしい格好のほうが似合っているような気もした。
「どうしたの? ぼうっとして」
「ああ、ごめん。花麗がとても綺麗だったから見とれてた」
素直にそう言うと、花麗の表情が変わった。頬が少し赤くなる。
「ほ、褒めても何も出ないわよ……嬉しいけど」
「ん、何か言った?」
「何でもないわ」
それだけ言うと、花麗はぷいっと反対側の窓のほうに顔を向けてしまった。何かまずいこと言ったかな……まあ、いいか。
次に僕は助手席に座っている浜家を見た。浜家は何も言わずにじっと前を見ている。相変わらずこの男はいつものスーツ姿だ。違和感も何もない。むしろ、スーツ以外の格好をした浜家を見たことがなかった。
リムジンを運転している男は初めて見る顔だったから、名前も知らない。刀人じゃない、普通の人みたいだけど。
「こんな格好をさせるってことは、これから会うのはかなり偉い人みたいだね」
花麗にそう言うと、彼女は相変わらず窓のほうを見たまま答えた。
「そうみたいね。こんなこと今までなかったけど」
「やっぱり椚木が死んだのは大きかったのかな……」
「間違いないと思うわ」
「いったい誰に会うんだろうね……」
そう呟きながら、後ろの席のほうに目がいく。
そこには一人の男が座っていた。パーマのかかった髪に、鋭い目、浜家と同じくらい背が高い。男の僕から見ても、驚くぐらい整った顔をしているのが、かえって不気味に思えた。
男はただじっと目を閉じていた。眠っているのかと思ったけど、何か考え事をしているようにも見えた。
「ねえ、桜夢はどう思うの?」
花麗が聞くと、桜夢と呼ばれた男がゆっくりと目を開けた。とても暗い目をしている。無邪気に遊ぶ子供とは真逆だ。
「伊月の言うとおりだと思う」
それだけ言ってまた目を閉じる。椚木が死んだことも、これから会う人についてもあまり興味がないらしい。
相変わらずだ……。
そう、最初に会った頃と変わらず、桜夢はやはり桜夢だった。
一言でいえば、桜夢はとても空虚な人物だ。いつも落ち着いていて、怒ったり、悲しんだりしない。仲間が死んだ知らせを聞いても「そうか」や「うん」などと言うだけで、いつも素っ気ない態度を取っている。ダルレストの施設にいる時はいつも一人でハーモニカを吹いている姿をよく見るけど、別に楽しんでいるわけでもなく、ただそうしているようにしか見えなかった。
桜夢には楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか、人が持ち合わせているはずの感情がないのかもしれない。
もしかしたら刀人の感情を抑えるEC剤を使わなくてもいいんじゃないか、とさえ思ってしまう。
「……」
正直、椚木よりも苦手だった。この男と話をするのは……。
「着いたぞ。降りろ」
浜家の声が聞こえてきて、前に向き直る。いつの間にか、リムジンがどこかも知らない街の道路脇に停まっていた。桜夢と花麗が先に降りたので、その後に続く。
目の前にレストランが建っていた。店名は初めて見るけど、見た目からしてかなり高級な店だと思う。
リムジンの周りには浜家の警護をしているボディガードが何人もいた。普段よりも人数が多い。かなり厳しい警戒態勢だった。その張り詰めた雰囲気に圧倒されたのか、通り過ぎていく人たちも自然と遠ざかっている。
そんなことを全く気にせず、浜家がレストランに向かって歩いていく。僕や花麗もそのあとに続いた。
レストランの中には従業員しかいなくて、お客さんはほとんどいなかった。いくつも並んだ円形のテーブル席は空席ばかりだ。普段なら大勢の客で賑わっているかもしれないけど、今は貸切状態になっていた。
その中で、ちょうど真ん中のテーブルの席に一人の男が座っていた。男の背後には二人のボディガードが立っている。浜家がその席に向かって男に挨拶する。
「お待たせしました」
男が浜家、次に僕たち三人をそれぞれ見てから、ただ一言「座れ」と言った。
浜家が男のちょうど正面の席に座る。僕はその左隣の席につき、花麗がさらに隣の席に座った。桜夢は浜家の右隣に座る。
改めて男を見る。見た目は四、五十歳ぐらいかな。白髪の交じった髪に、顔にしわがある。どこかで見たことがあるような気がしたけど、名前が思い出せなかった。
「今日呼んだ理由は知ってるな、浜家?」
「もちろん。それを承知の上で来ました、吉住課長」
吉住……そうだ。確か、高齢者保護法を進めている今の首相の田口。その幹部の名前が吉住だった。浜家に色々と指示を出している男だと聞いたことがある。けど、実際に会うのは初めてだった。
料理が運ばれてきて、次々とテーブルの上に置かれていく。お金を使って買うものとしたらコンビニで売っているランニングバーぐらいだから、どれくらいになるか知らないけど、軽く一万円を超えるものばかりだろう。そのうちの大きなステーキを吉住がナイフとフォークで食べ始める。
「ずいぶん手こずっているようだな、浜家。お前の選んだ刀人はただの出来損ないか?」
「椚木が殺されたのは予想外でした。奴らの力は予想以上に強力だと思われます」
浜家がそう言って、目の前に置かれたスープに口をつける。自分もナイフとフォークを手にとってステーキを食べた。うん、とても美味しい。
「優秀なやつの一人だったんだろ。そいつらもか?」
吉住がフォークの先で僕や花麗のほうを指す。
「特に腕の立つ刀人です」
浜家がそう言うと、吉住が僕のほうを見た。それに対して笑みで返すと、ふんと鼻を鳴らした。
「本部の部隊よりも強いと聞いて呆れる。奴らに返り討ちにされたら意味がないだろ」
意味がない? どういうことだろう?
「それにあの馬鹿が白昼堂々と暴れまわったせいで、どれだけ苦労したと思っている? 記憶処理の作業はすぐに終わるもんじゃないんだぞ」
「椚木に行動の自由を許したのは私の責任です。申し訳ありません」
浜家が頭を下げる。これには驚いた。理由が何だろうと、謝る浜家は珍しい。吉住も浜家のその態度を見るのが初めてだったのか、少し驚いたような顔をしていた。でも、すぐ元の表情に戻ってステーキを食べる。
「そもそも、お前たちに生きる術を与えてやったのはどこの誰だ? 衣服は? メシは? 生活する場所を与えた理由は何だと思う? 簡単だ。保護法の対象者のじじい、ばばあ、そしてあの刀人の女狐共を殺すためだ。ダルレストの刀人が生きている意味はそれだけだ。それさえしてくれたら良い、だが、そんなことも出来ないのなら、ただのごみ屑だ。さっさと死んでくれた方が都合がいい」
「……」
僕は自分自身を苛立ちや不快感をある程度抑えられる性格だと思っているけど、この吉住の話を聞いていると、我慢するのは難しい。僕たちを道具のようにしか思っていないのだろう。自分たちの手は一切汚さないまま……。
腹が立つ。テーブルの下で拳を握って何とか我慢した。でも、次に吉住がとんでもないことを言い出した。
「『五人目』を使え、浜家。それで全てが終わる」
がたっと思わず椅子を動かしてしまった。
こいつ……それがどういう意味か、わかって言ってるのか?
「東京、京都や大阪で保護法の推進を終えた今、障害になっているのはあいつらだけだ。奴らさえ潰せば、全てがうまくいく。その一歩手前まで来ているんだ。選択の余地はないだろ」
吉住が脅すような目で浜家を睨む。まさか、と一瞬思ったけど、浜家は動揺しているように見えなかった。
「それは最後の切り札です。ここにいる三人でまだ充分に対処できる状況にあります。椚木を失ったのは大きな痛手でしたが、奴らが潜伏していた場所を知ることが出来ました。拠点を特定するのも時間の問題です」
「三重県の松阪……都内からずいぶん離れた町を選んだものだな。まあ、その町も昔よりは発展しているようだが」
ステーキを食べ終えた吉住が、口元をふきんで拭いて次の料理を食べ始める。その動作が丁寧で逆にむかついた。
「目星はついているのか?」
「断定は出来ませんが、候補はいくつか」
「ならいい。さっさとそいつらを使って始末しろ。だが、やるべきことは忘れるなよ」
「わかっております」
浜家がそう返すと、吉住は何も言わずに目の前の料理を食べるのに集中し始めた。もう話すつもりはないらしい。
僕たちは口につけた料理を食べ終えて、席から立ち上がった。
「浜家さんは『五人目』を使う事態も想定しているんですか?」
店の出口に向かう途中で、浜家にそう聞いてみた。
「あれを使うのには大きなリスクが伴う。それ相応の状況にならなければ使うことはない」
浜家が視線を前に向けたまま、淡々とした口調で言った。
「椚木が死んだ場所にガードレディが潜んでいたことは明らかだ」
それは僕も知っている。三重県の松阪高校。あの少年が通っていた学校の名前だ。今回の戦いでその学校に彼女たちが通っていることがわかった。もちろん、向こうもそれは知っているだろう。しばらくは学校に姿を見せないはずだ。
「奴らの潜伏先を一つずつ潰していくしかない。手始めに、桜夢に仕事を任せる。お前と字倉にも働いてもらうぞ」
「わかりました」
浜家が店の外へ出ていく。僕は立ち止まってその後ろ姿を見つめた。
五人目以外のメンバーを総動員するなんて随分久しぶりだった。顔には出さないけど、浜家もかなり追い詰められているんだろう。
「また人が死んでいく……」
今度の戦いはかなり深刻なものになるかもしれない。ダルレストとガードレディ、普通の生活から追い出された刀人たちが、使い捨ての道具のように死んでいく。
またこの手を血で染めないといけないのか……そして、あの子も。
僕は自分の手をぐっと握り締めた。
「僕たちはどうして存在しているんだろうね……」
彼女たちに、そしてあの人に僕はそう聞きたかった。
2
自分で言うのもおかしいかもしれないけど、『アサガオ』の施設に住む人たちの私に対する印象やイメージは大体予想がつく。
仮に『佐東 未国についてどう思う?』と質問したら、こんな答えが返ってくると思う。
真那ならこう答える。
「未国は友達をあまり作りたがらないの。どうしてなのかはわからないけど」
貝堂さんだと、たぶんこう。
「未国ね……あの子、昔はそうでもなかったんだけど、今じゃあ敵意剥き出しって感じじゃん。挨拶してもいつも素っ気ないしさ」
溝谷は……こうだろう。
「え、佐東? 何かいつも不機嫌で俺たちのことを嫌ってるみたいだぜ。理由は知らねえけど。二次元でもああいうキャラは珍しいぞ」
愛佳は……。
「未国……いつも冷たい」
葉作なら、こう答える。
「ははは、ちょっと遅れた反抗期かもしれないな。年頃の娘だし」
そして、鶴香は……。
「未国はみんなのことを嫌ってるの。特にあたしを。話しかけてもいつも悪口ばかりだから……。でも何故か放っておけなくて、いつもあたしから絡んじゃうんだけどねえ」
いつも不機嫌。みんなを嫌っている。冷たいやつ。みんなの私に対する印象はこんな感じだ。普通なら良くないことなのかもしれない。けど、私はこれでいいと思っている。
そう、このままのほうがいい。私自身のためにも、みんなのためにも。私は他のみんなから仲間だと思われたくない。仲良くなりたくもない。そうすれば、私は私のまま、これから先、二度と辛い思いをしないまま、死ぬことが出来る。
これは私――佐東未国と、私の相棒である沢村愛太郎の話だ。
3
2064年八月上旬。
橘 鶴香、溝谷 文仁と椚木の戦闘の十日前。
ガードレディ、ガードマンの専門用語として『二十一世紀疎開』という言葉がある。疎開と言えば、百年以上前にあった第二次世界大戦。その時に行われた都市部の空襲の被害を少しでも減らすために、人々を被害の少ない地方に避難させた政策、という意味で使われている。でも、それに二十一世紀という言葉がつくと、意味が変わる。
二十一世紀疎開はダルレストの暗殺から逃れるために、保護法の対象者が奴らの手に及んでいない地方に避難する、という意味で使われる言葉だった。
『アサガオ』の拠点が都市から離れた地方を中心にあるのもそのためだった。でも、ダルレストの活動範囲は年が経つにつれて、少しずつ地方へ広がり始めている。私たちの活動も今までは隣の県や町に行くことが多かったけど、最近はこの松阪の町が中心になってきていた。
「ついにここにも……」
その時、そばに置いてあった時計のアラームが鳴った。見ると時間は朝の五時半だった。ようやく私は深夜から眠らずに勉強していたことに気付いた。
背伸びをして書き続けていたノートを閉じる。歴史で第二次世界大戦や疎開の勉強をしていたら、いつの間にか貝堂さんに教えられたことを思い出してしまったらしい。
もう忘れていたと思っていたけど……。
「ふう……」
一息ついて椅子から立ち上がる。体が少しだるかったけど、問題ない。すぐに朝食を済ませて仮眠を取ろう。そう思って私は一人で使っている相部屋から廊下に出た。
まだみんなが起きているような時間じゃない。でも、食堂は開いているはずだ。早く行けば、人も少ない。つまり、誰とも話をする必要がない。
食堂に行くと、思ったとおり店が開いたばかりで人はいなかった。
「一人前、お願いします」
厨房でご飯の準備をしていたおばさんに今日の献立を注文する。
「……はいよ」
このおばさんは人付き合いが苦手みたいで、そんなに親しく話しかけようとはしない。おばさんは注文を聞いただけで、すぐにご飯を運んできてくれた。私にとってそのほうが都合が良い。
もし、この人が『今日も早いわね、未国ちゃん』、『沢村とはうまくやってる?』などと、どうでもいい話をしてくるようなら、私は意地でも食堂に行かずに自炊していただろう。
いくつか並んでいるテーブルのうち、一番奥の席に座る。今日の献立は白ご飯、味噌汁、卵焼き、サラダだった。それらのご飯を五分弱で食べる。他の人が来ないうちに食べきって、私はすぐに食堂を出た。これがいつもの朝食だ。
さあ、あとはもう寝よう。昼ごはんはもういい。夜はこの前、外で活動していた時にコンビニで買いためたインスタントがある。それで済ませれば良い。
なるべく他の人には会いたくない。そう思った矢先、私は予想していなかった事態に直面した。
「あれ、おはよう、未国。今日もご飯、早いね」
廊下を歩いている途中で声が聞こえて立ち止まる。この声は……。
後ろを振り返ると、ガードレディの市子が立っていた。どうやら、市子は今から食堂に向かおうとしていたらしい。
どうして、市子がこんな早くに……。
舌打ちしたい気分だった。市子とはこの施設に来てから、一番話をしていた友達だった。鶴香や明日野とも仲が良かったけど、それ以上に市子と遊んでいた時間のほうが多かった。
でも、それらは全て昔の話だ。少なくともこの三年近くは会話をしたことがない。顔を合わせたとしても、仕事の時だけだった。
早く帰ろう。
私は前に向き直って自分の部屋に戻ろうとした。
「あ、待って、未国。顔色が悪いよ。大丈夫?」
市子が私の前に回り込んで顔を覗き込んでくる。直接、市子の顔を見たのは久しぶりのような気がした。
「未国、何か昔より大人っぽくなったね……」
急に何を……?
不意にそんなことを言われたせいか、かなり動揺した。あの時からずっと麻痺していた感情が沸き上がろうとしてくる。
だめ……絶対にだめだ。
それを何とか抑え込んで私は市子の横を通り過ぎた。もう市子のことは無視しようとした。
「!」
市子に……自分の手を掴まれるまでは。
「ねえ、未国。私たち、友達だったよね? いつも一緒だったよね?」
市子の声はとても震えていた。泣いているようにも聞こえた。
「みんなが仲良く遊んでいる時、一人だった私に話しかけてくれたのは未国だった。私ね、あの時すごく嬉しかったの。一人でどうやってみんなに話しかけたらいいかわからなかったから」
やめろ……。
「あの時の未国、本当に優しかった。いつも笑っていたし、私といつも一緒に遊んでくれた」
思い出させるな……。
「でも、今の未国は仕事の時以外、顔を合わせてくれない。誰かと話してもいつも突き放すような態度を取っている。そんなふうになったのは何か理由があるんじゃないの?」
市子が私の手をさらに強く握りしめてくる。
「貝堂さんや鶴香に話せなくても、私じゃだめかな? 私、ずっと未国に聞きたかったの。どうして、未国は私を……みんなを嫌うようになったの? やっぱり三年前のあの時に何か――」
「黙れ」
その一言で市子が何か言いかけるのを遮った。
「友達? いつも一緒? 何を言ってる?」
「未国……?」
その時、私は自分でも驚くくらい笑っていた。とても冷たく、市子を軽蔑するように。
「私はお前とも、他の奴らとも友達ごっこをするのが嫌になった。友情? 絆? 愛情? くだらない。そんなのただの妄想だ。人間なんてどうせ裏では自分のことしか考えていない。自分の得になることしか考えていないんだ!」
「で、でも……未国はずっと私と……」
市子が怯えながら言いかける。
「あの時の私はどうかしてた。ほんの少しでも他のやつのことを信じたバカだった。お前と仲良くなるなんて……本当に最悪。お前なんか早くダルレストの奴らに殺されたらいいんだ!」
いったい私は何を言っているんだろう。自分でもわからなかった。ただ、市子の優しさを拒絶したかった。彼女を受け入れてしまったら、また私はあの時と同じ思いをしなければならない。そんなのは二度と御免だ。
あんな目に遭わないようにするためには、最初から独りでいるのがいい。
「……」
市子は……泣いていた。何かを言うわけじゃなく、ただ泣いていた。その目から涙がポロポロと流れ落ちていた。
「……二度と私に話しかけるな」
市子の手を振り払って、私は自分の部屋に向かった。
私が泣かせたんだな……。
湧き上がる罪悪感。だけど、それを抑え込む。これで良い。私はもう誰にも心を開かないと決めたんだ。
しかし、それから数日と経たないうちに、市子が本当に殺されることになると、私は想像すらしていなかった。
4
「ラブ兄、高い高いしてえ!」
「あーずるい、結衣ちゃん! 次は麻子がラブ兄にしてもらうの!」
「じゃあ、私も!」
「あたしもやってもらうのぉ!」
六本の大きな円柱に支えられ、二階部分まで吹き抜けになっている場所。『大広間』と俺たちが呼んでいるそこで、ガキどもが無邪気にはしゃいでいた。そして、俺は今こいつらの遊び相手をしている。
名前はちゃんと覚えてる。結衣、麻子、美優、奏。どいつもこいつも本当に元気なやつばかりだ。
「おいおい、俺は一人しかいないんだ、順番を守れよ、順番を」
まあ、こんなこと言ったところで、こいつらが落ち着くことはない。むしろ、余計にはしゃぎ始めた。
なんで、こんな元気なんだろうな。俺にも少しわけてほしいぜ……。
「ほら、みんな! もうすぐ授業が始まるわよ! 早く教室に戻りな!」
そう思っていると、大広間の奥の階段から貝堂さんの大きな声が聞こえてきた。さすがのこいつらも貝堂さんには逆らえない。「えー」とか「うー、ラブ兄、次はちゃんと高い高いしてね」などと言いつつ、上の階へ姿を消した。
「沢村があの子たちの相手をするなんて久しぶりね。どういう風の吹き回しなの?」
教室に向かっていく結衣や麻子たちを見届けてから、貝堂さんが言った。
「この前、約束してましたからね。仕事がないうちに遊んでやらないと、可愛そうじゃないですか」
ガードマンとしての仕事柄、俺はダルレストの連中と命懸けの戦いを続けている。最近はほとんど犠牲者が出ていないとはいえ、自分がいつ奴らに殺されるのか、わからない。だから、自分が生きているうちに出来ることはしておいたほうが良い。
「いつ遊び相手が出来なくなるか、わかりませんしね」
「あの子たち、本当に喜んでたよ。あんな楽しい顔を見たの、久しぶりかもしれない」
「こういう毎日が普通なんですよ。あいつらが外で活動する前に、こんな馬鹿げた戦いは終わるべきです」
本音を言えば、結衣や麻子だけじゃない。八重坂や橘、そして未国もガードレディじゃなければ、普通の女子高生だった。それが当たり前じゃないといけない。こんな血みどろの戦いをさせることはないと俺は思っている。
でも、過去や理由、生まれてきた境遇などの色々な要素があいつらをこの戦いに巻き込んでいた。
今、この瞬間にもあいつらは自分たちの大切な何かを守るために、必死になって戦っている……。
特にあいつは自分の心を閉ざして、たった一人で戦おうとしている。でも、俺はあいつを――。
「沢村?」
「え、何ですか?」
「どうしたの? 急にぼうっとして」
貝堂さんに呼ばれて意識が別のほうに集中していたことにようやく気付いた。
「すいません、ちょっと別のことを考えてました」
「そう……あんたも色々大変ね」
貝堂さんが少しため息をつく。どうやら、俺の考えていたことを察してくれたらしい。
それ以上、深くは追及せず、別の話題を出してくれた。
「ところでさ、あの厳つい兄ちゃんはどうなの、最近?」
「梨折先輩のことですか? そうですね……まあ、ぼちぼちじゃないですか。八重坂のほうは複雑に考えているようですけど、今さら先輩が元の生活に戻ることは出来ませんし、そうなってしまった責任は俺たちにありますから」
「やっぱり、沢村が一番苦労してるわねえ」
「自分の性格に合わないのは確かですけどね。井出浦さんの最期の頼みなら、断るわけにはいきませんよ……」
「ほんと、あのおっさんは最後まで自分勝手な人だったわね」
「それが井出浦さんの良いところでしたよ」
「沢村さん」
その時、階段を降りてきた堺さんが話しかけてきた。なぜか、険しい表情をしている。
「どうしたの、絹子。そんな顔して?」
貝堂さんが聞くと、堺さんは表情を堅くしたまま、俺に言った。
「理事長からお話があるそうです。すぐに部屋に来てくれと言っています」
「あまり良くない話みたいですね」
堺さんは黙ったまま、こくりと頷いた。
やれやれ、あまり聞きたくないが、仕方ないな。
5
貝堂さんたちと別れて、俺は四階にある理事長の部屋に向かった。
「理事長、沢村です」
扉を叩いてからそう言うと、中から「入ってください」と声が聞こえてきた。
「失礼します」
扉を開けて部屋の中に入る。相変わらず周りの棚にたくさんのぬいぐるみが置かれている。けど、理事長はいつもみたいにぬいぐるみを抱きかかえず、奥の椅子に座って、紅茶を飲んでいた。
「飲みますか? さっき作ったばかりですが」
「熱いのは苦手なんですけどね……頂きます」
テーブルに置かれたティーカップを手に取り、そこに紅茶を注ぐ。良い香りがした。
中央のソファに座って、カップに口につける。熱かったけど、全く飲めないわけじゃない。一口飲んでカップを置き、早速本題に入ることにした。
「理事長、お話というのは何ですか?」
理事長は紅茶を一口飲んでから、静かに言った。
「市子と山口のペアは知っていますよね?」
「ええ、もちろん」
即答した。アサガオ本部で働いている中でその二人を知らないやつはいない。ガードレディの坂上とガードマンの山口。『アサガオ』の中でも特に優れた連携を見せるペアだった。二人のおかげで窮地を救われた仲間や対象のじいさん、ばあさんの人数は多い。
特に山口とはプライベートでも飲み仲間として付き合いがあって、居酒屋で夜明けまで飲むことなんてしょっちゅうだった。
だからこそ、次に聞いた理事長の言葉がとても信じられなかった。
「今朝、二人とも死体で発見されたそうです。保護する予定だった人たちと一緒に」
「……本当ですか?」
「創路からの連絡です。間違いありません」
ソファに座り直してため息をつく。まさか、あの二人がやられるなんて……。
「二人を殺したのは恐らくダルレストの四人のうちの誰かと思います」
「……」
理事長の言っている意味はすぐわかった。噂程度なら耳にしたことがある。ダルレストの四人。普通の下っ端と違って、元々の能力が極めて高いオリジナルの刀人のグループ。実際に会ったことはないが、他の地方の拠点でそいつらに殺された仲間の数は少なくなかった。
そいつらの誰かがこの町に来て、山口たちを殺したっていうのか。冗談きついな……。
「二人が死んだことを他の子に伝えてもらっていいですか?」
「わかりました」
「ごめんなさい。真那や鶴香はともかく、あの子の面倒を見るのも大変なはずなのに……」
理事長が誰のことを言っているのか、すぐにわかった。
「あいつの苦しみを知っているのは俺だけですから、当然の役目を果たしているだけですよ。気にしないでください」
「……数日後には石碑が立つと思います。その間に梨折さんと現場の調査をお願いできますか?」
「了解です」
ソファから立ち上がる。理事長はまだ申し訳なさそうな顔をしていた。
まったく、気にしなくていいのに……。
「いつもより美味しかったですよ、理事長の紅茶」
「いつもより、は余計ですよ」
「失礼します」
理事長が笑ったのを見届けて、部屋を出た。さて、梨折先輩と現場を調べに行く準備をしつつ、溝谷たちにも伝えないとな。
「……」
それと……未国にも。
「あいつ、久しぶりに落ち込むだろうな」
6
思っている以上に自分の足取りが重かった。
体を動かすことなんて、この仕事をしていればよくある。その時は自分の体を軽く、そして自由に動かすことができた。でも、今はこれから向かう先のことを考えただけで、気が重い。一歩一歩を踏み出すにつれて、胸が締めつけられるような気がした。
それでも、だからこそ……私は行かないといけないんだろう。
暗い廊下を歩き、目の前にある大きな扉を開ける。大広間の地下にある墓地。私がここに来た理由はもちろん、市子と山口の墓参りをするためだった。
二人が死んだことは数日前に沢村から聞いた。
信じられなかったけど、沢村は二人の死体の写真を持っていると言った。
「見ないほうがいいと思うぜ」
事前にそう言われたけど、自分の目で確かめたかった。
「……見せろ」
沢村が差し出した写真を受け取り、それを見る。自然と身体が震えた。あまりに酷い二人の姿に、何も言葉が出なかった。
「今から梨折先輩と現場に行くけど、どうする?」
しばらくしてからそう聞かれたけど、その時は「私には関係ない!」と言って沢村を突き放した。心の中で動揺していた自分を押し隠すのでせいいっぱいだった。
市子が死んだ……。
どうして? 市子と山口はとても強かったはずだ。あの二人が簡単に負けるはずがない。それなのに、二人は殺された……。
「……」
部屋に立ち並ぶ小さな石碑。その中に新しい物が二つある。二人の石碑を見つけるのは難しくなかった。
手にした花を市子と山口の石碑の前に置く。手を合わせて目を閉じたけど、何を考えればいいのかわからなかった。
「……」
目を開けても、市子たちの石碑が目の前にあるだけだった。
どうして市子は殺されたんだろう。
考え直してもやはり信じられない。市子と山口は上手な連携の取れるペアだった。悔しいけど、私よりも遥かに強い。今、ガードレディの中で最も強いシンナに匹敵すると言っても、言いすぎではないだろう。
それでも二人はあんな殺され方をした。
どうして?
どちらかがミスをしたから? 相手が悪かったから?
それとも……。
「私のせい……なのか?」
あの時の市子の泣いている顔が思い浮かぶ。私が傷つけたのは間違いない。そのショックが大きくて、まともに戦える状態じゃなかったとしても、不思議ではないだろう。
「……」
市子は何も悪いことをしていない。他人を避けるようになった私のことを、ずっと心配してくれて、勇気を出して自分の思いを伝えてくれた。
それなのに、私は市子の思いやりを拒絶して、突き放した。自分勝手に、一方的に傷つけた。ちゃんとした別れも言うことが出来ないまま……。
『二度と私に話しかけるな』
そんな言葉が市子と交わした最後の言葉だった……。
「バカだな、私は……」
思わず笑ってしまう。たぶん、それは自虐的なものだろう。
市子に最低な女と思われても仕方ない。でも、これが私の決めた生き方だ。かつての自分が大切にしていた心を閉ざして、独りで生きていくと決めたんだ。
今の私に出来ることは奴らと戦うこと。自分だけの力でこの戦いを終わらせることだ。それが市子にできるせめてもの償いだろう。
「……」
だから死んだ彼女に謝罪も何もしない。言葉も口にしない。死んだ者を弔うために最低限なことだけをして、私は部屋の出口へ向かった。それとほぼ同じタイミングで扉が開く音が聞こえてくる。
沢村?
一瞬、そう思ったけど違った。
「未国?」
すぐに鶴香の声だとわかった。出口の扉の近くに彼女と溝谷がいた。手に花束を持っている。二人も市子たちの墓参りに来たんだろう。
ここで鉢合わせするなんて、タイミングが悪い。うまく言い訳する自信もなかった。
とにかく、早くここから出よう。
「佐東、どうしてお前が?」
「……」
溝谷が聞いてきたけど、私は無視して二人の横を通り過ぎ、出口に向かおうとした。
「ちょっと無視しないでよ、未国」
でも、鶴香の声を聞いた瞬間、私は無意識のうちに立ち止まっていた。溝谷は無視できたのに、なぜか鶴香のことは無視してはいけないと思ってしまった。
「ここに来たってことは、あんたも市子の墓参りをしにきたんでしょ?」
「!」
鶴香にはバレていた。でも落ち着いて考えたら、この部屋に来た理由はそれしかありえない。たぶん、溝谷にもそれがわかっていたはずだ。私が墓参りに来たのが意外で、驚いていただけかもしれない。
「あたし、誤解してたかも。あんた、あまり他の子のことを気にしてないように見えてたから。勝手に勘違いしてごめん」
「……」
鶴香が私に謝ることなんてほとんどなかった。だからこそ、私は驚いて、何も言えなかった。
鶴香……おそらく溝谷も気づいていたのかもしれない。表面では他人を拒絶しても、本当はそうでなかったことに、この二人は勘づいていたのかもしれない。
あとは私が素直になればいい。だけど……。
「あんな役に立たないガードレディなんて必要ない」
出来るわけがない。あんな思いをしないために、私はこう言うしかない。
「え?」
鶴香が驚いた顔をして聞き返す。私は市子の時と同じように冷たく笑った。
「間抜けな奴だ。私が代わりにいたら助かったかもしれないのに。奴らに殺されるなんて……」
「ちょっと未国。いくらなんでもそれは言い過ぎじゃないの? 市子は私たちの仲間でしょ?」
仲間……自分の信じる人間を表現するうまい言葉だと思った。でも、今の私には自分自身を苦しめる言葉でしかない。
「仲間? いつ私がお前の仲間になった?」
苛立つ。頭に来る。身勝手なのは私なのに。
「ただ同じガードレディということだけだろ。友情だの、愛だの、絆だの、そんな綺麗事の中に私を入れるのをやめろ。虫唾がはしる」
自分の本当の気持ちは全く言えないのに、酷い言葉はどんどんと口に出すことができた。
「……」
それまで驚いていた鶴香の表情が変わった。そこからはっきりとした怒りが感じ取れる。鶴香が私に歩み寄ってくる。それと同時に自分の頬に強い衝撃がはしった。鶴香が私の頬を叩いたんだ。あまりに一瞬のことで身構えることも出来なかった。
痛くて、勝手に目に涙が溜まった。
「未国、あんたがあたしのことを嫌いなのはわかってるわ……前からそうだったもんね。理由があるんだろうけど、この際、あんたがあたしのことを軽蔑しようと、悪口を言おうとかまわない。でも、死んだ仲間を侮辱することは許さないわ!」
鶴香が私の胸ぐらのあたりを掴んでくる。振りほどくことはできたけど、鶴香の勢いに負けて何もできなかった。
「あんた、仲間を何だと思ってるの! 一緒にここで暮らした仲間でしょ! 死んでいった人たちはみんな創路に跡形もなく消されてしまうのよ! そうなったら、死んだみんなのことは生きているあたしたちの思い出にしかないのよ! あんたがそんなふうに言っちゃったら、死んだ人たちがかわいそうじゃない!」
鶴香の言葉は深い意味も、何か含みのあるものでもなかった。単純に我慢していた思いを吐き出している感じだった。だからこそ、私の心が揺らぐ。
「おい、鶴香!」
後ろから溝谷が止めようとしてるけど、鶴香はやめなかった。
「あんた、死んだ人のこと何とも思わないの?」
そんなことは……ない。そうじゃないと、市子の墓参りに来るわけがない。
「自分だけが生きていればそれでいいと思ってるの?」
違う。私はただあんな苦しみを二度と味あわないために……。
「一人だけで今まで生きていくことが出来たの? 他の仲間が一緒に戦ってくれたから、ここまで生き延びることが出来たんでしょ!」
そう……鶴香の言うとおりだ。私も一人で生き延びてきたと思っていない……だけど。
「何とか言いなさいよ! いつもみたいにあたしに悪口言いなさいよ! さあ、早く!」
「……」
言葉が出なかった。鶴香の誤解を解くためには自分の本心を打ち明けないといけないが、何も言えなかった。もし言ってしまったら、私は……またあの時と同じ目に遭う。
「鶴香!」
溝谷が大きな声を出して鶴香の両肩を掴んだ。そこでようやく鶴香が私の胸ぐらを離す。
私はすぐ後ろに振り返って、出口に向かった。鶴香に叩かれた頬の痛みはずっと続いていた。
目に溜まっていた涙が流れ落ちていく。
これでいい。私は誰にも好かれない最低な女、佐東未国として生きていけばいい。
私は墓地をあとにして廊下を走った。
7
2064年八月中旬。
橘 鶴香、溝谷 文仁と椚木の戦闘の直前。
ガードマンとガードレディの寮は一応許可をもらわなくても、行き来することが出来る。本当は理事長の許可が必要らしいが、仕事の連絡をする時や同じ学校に通学する時のように、何かの用事でお互いの寮に行く機会が多かったため、効率を重視した結果だった。
まあ、訪問する時間帯は決められているし、事前に連絡を取らないといけないこともあるから、実際その辺りの境界は結構曖昧だったりするけど。
坂上と山口の二人が殺されてから数日後。射撃の訓練を終えた梨折先輩を連れて、俺は女子寮の八重坂の部屋に向かった。
橘や溝谷は今朝から学校に行っている。だが、八重坂は少し前から体調を崩して寝込んでいると聞いていた。
そこで俺が八重坂の様子を気にしていた先輩を連れてきたというわけだ。
「寮の構造は男子寮と同じらしいな」
梨折先輩が辺りを見回しながらつぶやく。
「基本的には同じですよ。ただ、地下が刀人専用の訓練所になっています。あいつらにとって射撃訓練はそこまで重要じゃないですから。あと、ガードマンに比べてやや人数が多いので、全室が相部屋になっています。ちなみに八重坂と部屋を共用しているのは橘ですよ」
「そうか。じゃあ、あの子は誰と暮らしているんだ?」
「あの子?」
先輩が誰のことを言っているのか、わからなかった。
「佐東……と言ったか、お前の相棒だ」
「気になるんですか?」
そう聞くと、先輩はやや躊躇った感じで答えた。
「言いづらいが、俺の印象だと、あの子は他人との関わりを避けたがっている気がする。そんな子と一緒に暮らしている仲間がいたら、大変なんじゃないかと思ったんだ」
「……」
「すまん。不快に思ったのなら答えなくていい」
「あ、いや、そうじゃありません。先輩の未国に対する印象があながち間違っていなかったので驚いただけです」
苦笑いをしながら廊下を歩き進む。
「じゃあ、やはり……」
「ええ、先輩の考えている通り、あいつは仕事の時以外はほとんど一人で暮らしています。当然、相部屋も一人で使っていますよ」
「どうしてそこまで他のやつを毛嫌いするんだ? 相棒のお前に対してもかなり厳しいように見えたが」
「……」
「ああ、すまん。ここの人間のことを詮索するのは良くないと言ったのはお前だったな」
どうやら先輩はこの前、食堂で俺が言ったことを覚えていたらしい。そういう細かいところはすぐに気づくのに、なぜか不器用なのが先輩の不思議なところだ。それがこの人の面白い部分でもあるが。
「ま、今のあいつがああいう性格になった理由は、過去に何かあったから、とだけ言っておきますよ」
「お前は知っているのか?」
「そうじゃないと、あいつの相棒なんてしてませんよ」
そう、あいつがどれだけ他人を嫌っていても、ガードレディである以上、相棒のガードマンが必要になる。そして、その役目は俺にしか出来ない。
先日、坂上と山口の墓参りに行った時のことを思い出す。
偶然……そう偶然、俺は山口たちの墓参りをするために大広間の地下の廊下を歩いていると、前方の墓地の部屋から未国が走って出てくるのが見えた。
「未国?」
呼びかけてみたが、あいつは俺に気づかず、そのまま横を通り過ぎて走っていった。いつものように無視されただけならわかる。でも、俺はすれ違う時にあいつの目から涙が流れ落ちていくのが見えた。
墓地には坂上と山口の石碑の前で立ち尽くしている橘と溝谷の姿……何があったのか、だいたい予想がつく。
あいつはまだ心を閉ざしきれていない。自分の弱さを必死に抑え込んでいるが、それでも、あの時は心が開いて、自分の弱さを見せてしまったんだろう。
そろそろまずいかもしれないな……。
そう思いながら歩いていると、いつの間にか八重坂と橘の部屋の前に到着した。
8
「八重坂。沢村だ。見舞いに来たぞ」
沢村が先にドアを叩きながら言う。
「あいてる……」
「梨折先輩も一緒だけど、いいか?」
「いいぜ」
「ん?」
部屋の向こうから聞こえてきた返事に若干違和感を抱いたが、沢村は気にしないまま、ドアを開けた。そのあとに続いて俺も部屋の中に入る。部屋の造りは俺が寝泊りしている男子寮とそこまで差はなかった。だが、やや広い気がする。その代わりに両端にベッドが置かれていて、中央にテーブル、奥に服を入れるタンスがあった。沢村の言うとおり、確かに相部屋らしい。
八重坂は部屋の入口から見て右側のベッドにいた。半身を起こして窓の外を見ている。体調を崩していると聞いていたが、そこまで弱っているようには見えなかった。
「思ったより元気そうだな」
「んなわけねえだろ、おっさん。熱が出てるんだ。これでも、頭がぼうっとしてるんだぜ。体もだりいしよお……」
素直な感想を言うと、八重坂がぶっきらぼうに返事した。それを聞いてようやく俺の抱いていた違和感が確信に変わった。
「やはり、お前……シンナか」
「仕方ねえだろ。真那のやつ、かなりしんどそうだったからよ。ったく、夏風邪なんてあたしには縁のない病気だと思ってたけどな……」
「風邪をひいても、おまえのほうは元気そうだな、シンナ」
沢村が笑いながら手に持っていた栄養ドリンクをシンナに差し出した。
「当たり前だ。あたしが体調を崩すことなんか、一度でもあったかよ」
シンナがそれを受け取って、ドリンクの蓋を開け、一気に半分ほど飲んでしまった。本当に八重坂とは正反対だ。男らしい女というか、豪快というか、こういう女を見ているとなぜか由美のことが思い浮かんだ。
「ま、ゆっくり休んで早く体調を戻してくれ」
「何とか二、三日で治るように頑張るさ。どうしてもやばい時は呼んでくれ」
「わかった。じゃ、先輩、俺はこれで失礼するんであとはお願いします」
「しかし、お前……」
「色々と聞きたいことがあるでしょ? じゃ、お願いしますよ」
沢村は笑いながらそう言うと、すぐに部屋を出ていった。
よくわからんが気を利かしてくれたのか……。
「沢村のことが気になるのか? おっさん、そっち系の人間かよ。あたしでもひくぞ……」
「妙な誤解をするな。俺はホモじゃない」
「ああ、じゃあ、ロリコンだな」
「……なんでそうなる?」
「なんだ、違うのかよ」
「お前には俺がどう見えているんだ……?」
ため息が出る。やはり由美のことを思い出してしまうな……。
『おじさん……ロリコンなの?』
突然、弥生の声が聞こえてきた。声しか聞こえていないが、少し怯えている。ドン引きされているようだ。
「お前まで誤解するな……」
「ん、何か言ったか?」
「はあ……何でもない」
気持ちを切り替えよう。そう思って少し頭を左右に振った。
「体調が悪いと聞いていたが、よくあるのか?」
そばにあった椅子に座ってシンナに聞く。
「んなわけねえよ。あたしを誰だと思ってる? 刀を持たせたら天下無双のシンナ様だぜ。このあたしが体調崩してたまるか。今回はたまたまだよ、たまたま」
シンナは手にしたドリンクを再び飲んで、そばにあるテーブルに置いた。
「ま、よっぽどショックだったんだよ。真那は他の仲間が死ぬのを誰よりも恐れている。こいつにとってここにいる奴らはみんな家族みたいなもんなのさ。おっさんのこともずいぶん心配してたんだぜ。あたしが気にするこたあねえって何度言っても、真那は聞かなかった。変なところが頑固なんだよ、こいつ」
「八重坂はどうしてるんだ?」
「今は寝てる。交代しとけば、体のだるさや疲れはあたしにかかるから、楽になれるんだよ」
「お前は大丈夫なのか?」
「だから平気だって、こんぐらいでへこたれてたら奴らと戦うことなんか出来ねえよ」
相変わらずシンナはぶっきらぼうに答えたが、俺と話をするのは嫌ではないらしい。そのあと、いくつか質問しても、ちゃんと答えてくれた。
「……」
やがて俺の考えていた質問を出し尽くすと、シンナはテーブルに置いていたドリンクを手にとって、一気に飲み干した。
「あたしもおっさんに聞きてえことがある」
「なんだ?」
シンナが俺を睨みつけてくる。獲物を狙うような目に少し怯んだ。容姿は八重坂真那そのものなのに、中身が違うだけでここまで雰囲気が変わるものなのか。
「おっさんはどうしてガードマンになったんだ? こんなことをやっていても、待っているのは奴らとの命の奪い合いだ。いつ終わるのか、誰にもわかんねえ。好きでやる奴なんざ一人もいねえだろ。それにおっさんがガードマンになろうが、なるまいが、あたしと真那が戦いをやめることはない。あたしたちには戦う理由がある。今さら引き下がるわけにはいかねえんだ。それなのに、どうしてだ?」
「そういえば、お前にはちゃんと話していなかったな」
思い返せば、シンナと話をしたのもこれで三度目だった。だが、今まではじっくり話をする状況じゃなかった。ちゃんと顔を合わせて話すのは初めてかもしれない。
「事件の真相を知り、奴らに狙われた時点で俺はもう元の生活に戻れなくなった。だが、ここでじっと暮らしているのは性に合わん。それが理由のひとつだ」
「ひとつ?」
「ああ、他にも理由がある。俺はここで、ガードマンの仕事をして、自分の知らなかったことを知ることができるかもしれない」
八重坂たちと奴らの戦い、刀人という能力者、時々見るあの夢、そして弥生。今まで知らなかった真実と新たに出てきた謎。根拠も何もないが、ここで活動していると全てがわかる気がした。
「それに潤一のためでもある」
「あいつの?」
「潤一はお前を……いや、八重坂真那を大切に思っていた。それは間違いない。あいつがどんな死に方をしたのか、わからないが、俺よりもやりたいことがたくさんあったはずだ。俺よりも可能性のある将来がたくさんあったはずだ。なのに、あいつは死んでしまった。色々な思いを残して……だから、俺は、あいつの代わりに八重坂とお前の戦いを見届ける。最後まで付き合うさ」
「……へっ」
俺がガードマンになった理由を言ったあと、シンナは鼻で軽く笑った。だが、俺のことを馬鹿にしたような感じじゃなかった。
「おっさん、あんた面白いな。ここには変わった奴がたくさんいるけど、おっさんも大概だ」
「お互い様だろ」
俺がそう言うと、シンナは笑いながら右手を差し出してきた。
「今さらだけど、ほどほどによろしくな、おっさん」
俺はその手を握った。思ったより小さな手だったが、力は強かった。
「ああ、だが、おっさん呼ばわりするのやめてくれないか。これでも三十歳手前なんだぞ」
「あたしたちから見たら、充分おっさんだよ」
「やれやれ、ちょっと傷つくぞ」
この日、ようやく俺たちはちゃんとした挨拶を交わした。
だが、あの時……どうして疑問に思わなかったのだろう。
俺は八重坂真那のことは知っている。だが、こいつの……シンナのことはほとんど知らない。
お前はいったい誰なんだ?
9
2064年八月中旬。
橘 鶴香、溝谷 文仁と椚木の戦闘から十日後。
夜。昼間の暑さが嘘のように、外は風が吹いて涼しくなっている。こんな夜は久しぶりのような気がした。空を見上げると、たくさんの星が輝いている。昔、薄暗い牢獄のような場所で暮らしていた時には想像できなかっただろう。外で活動してて良かったと思える数少ないことの一つだ。
「……」
でも、それ以上に外で活動してて良くないことはたくさんある。
後ろにある家に振り返る。さっきまで僕がいた民家だ。明かりはついていないけど、ここの家の人たちが眠っているせいじゃない。
ついさっき、僕がここの人たちを殺したせいだ。
「今日は三人か……」
今夜の仕事で殺した人たちの顔を思い出す。一人暮らしをしていたおじいさんはとても疲れた顔をしていた。部屋にあった仏壇には、奥さんだと思うおばあさんの写真が置かれていた。
大切な人を失って、心に深い傷を負っていたんだ。その苦しみから解放するために殺した、と納得することも出来たけど、そんなのはただの自己満足だ。
次にこの家で暮らしていたのは一組の夫婦だった。二人は同じ布団で眠っていた。仲が良かったんだと思う。これから先も幸せに暮らすことが出来たはずなのに、この手で終わらせてしまった。
「ごめんね」
自分の手にかけた人たちに謝る。これが僕にできる償いだ。どんな理由があるにしろ、人を殺すことは決して許されることじゃない。
忘れちゃいけないんだ、この罪を……。
今まで何人の人間を殺してきたのか、もう数えるのは難しい。それにくわえて、だんだん人を殺すことに慣れて、躊躇いを感じなくなる時がある。そうならないように僕はこうして殺してきた人たちに謝罪している。殺した人たちだけじゃない。残された家族や友達にもだ。
もちろん、大切な彼を失ったあの人も含まれている……。
「……」
帽子を被りなおして、外の道路に出る。ほぼ同じタイミングで向こうのほうから見慣れたバンが近づいてくるのが見えた。
「お疲れ様、伊月。迎えに来たわよ」
バンが僕の近くに停まり、運転席の窓が開いて、花麗が顔を見せる。
「花麗もご苦労さま」
助手席のドアを開けてバンに乗り込んだ。
「創路に連絡しといてくれた?」
「あとで来るらしいわ。今は桜夢たちの始末した遺体の回収をしてる」
花麗が車を出す。僕たちのチームの運転は日高がしていたけど、彼が殺されてからは花麗が運転するようになっていた。
「桜夢も今日仕事だったんだ」
「あの吉住っていうおじさんと話した翌日から始めていたわよ。浜家のおじさんから色々と指示を受けてるみたい」
「ふぅん、でも桜夢ってあまり言われたことをやりたがらないよね」
普段の桜夢の姿を思い浮かべる。
僕や仲間が集まって話している時、桜夢はいつも一人でハーモニカを吹いていた。「音楽が好きなの?」って一度聞いたことがあるけど、『好きかどうかはわからないけど、吹いてみたい気分なんだ』と言った。
また刀人同士の実戦の訓練で、桜夢だけ何もせずに傍観していた時がある。仲間が挑発したり、ちょっかいを出したりしてもお構いなしだった。けど、訓練の終盤に突然参加して、一瞬のうちに彼を見下していた仲間を全員殺してしまった。訓練を終えたあとに「すごいね」と素直に褒めると、桜夢は……。
『あいつらを殺してみたくなっただけだ』
感情も何もこめずにそう答えた桜夢の顔は今でも印象に残っている。
何と言えばいいのか、とてもマイペースな男だ。相手が浜家とはいえ、桜夢がその指示にちゃんと従って行動している姿はあまり想像できない。
『浜家の指示通りに動いてみたくなっただけだ』なんてドMキャラのような発言をされたら、納得するかもしれないけど。
「伊月とは違った意味で、縛られるのが好きじゃないから」
「桜夢はもうどれくらい始末してるの?」
「詳しいことは聞いていないけど、もう七、八件の始末は終えているらしいわ」
「本当に……?」
驚いて言葉を失う。わずか十日間でその数は異常だった。いくら深夜でフィールドを張った状態でも、ガードレディやガードマンと遭遇する危険は充分にある。それなのに、桜夢はほとんど戦うこともなく、浜家の命令をうまく実行していることになる。
向こうの動きを予測して動いている……?
一瞬そう思ったけど、なぜか『気分が乗っているだけだ』とさらっと答える桜夢の姿が思い浮かんだ。
「着いたわ。あそこよ」
花麗がそう言って前を指差す。見ると、住宅路の右側に二階建てのアパートがあった。道路の脇には白いトラックが停まっている。創路のトラックだった。
「桜夢たちもまだいるようね」
トラックの少し前に赤い車が見えた。桜夢のグループが使っているSUVと呼ばれる車だった。
花麗がアパートの近くにバンを停める。車から降りると、ちょうど二階の部屋から誰かが出てくるのが見えた。
「ああ、そこゆっくり運んでくださいな。匂いがすごいですけど、それぐらい我慢しないと駄目ですよお。弱音吐いたらなんちゃって罰金もらっちゃうよねえ」
聞きなれた独特の口調と麦わら帽子。間違いなく創路だった。先導して階段を下りる彼女の後ろから、青い作業服を着た人たちがシーツで覆った遺体を運びおろしてくる。遺体の数は三つだった。
「お疲れ、創路」
呼びかけると、創路が僕のほうを見る。それとほぼ同時に彼女の顔が一瞬で真っ赤になった。
「い、いいいいいい伊月さん!? きゃ、きゃあ!」
そのせいで彼女が階段から足を踏み外す。
「危ない!」
僕はとっさに走って、階段から落ちてきた彼女を抱きとめた。
「大丈夫?」
「あ、ありがとうございます……ふぇ?」
創路が顔をあげて僕を見る。なぜか余計に顔を赤くした。
「うわわわわわ! 伊月さん、近いです! 近いです!」
慌てて創路が離れようとする。
「本当に大丈夫? 怪我とかは?」
「だ、大丈夫ですから! 大丈夫ですから!」
何故か暴れ始めたけど、離すわけにはいかない。足を挫いているかもしれない。
「足、挫いてない? ほら、見せて」
「何もなっていません! うちは大丈夫ですからぁ! やめてくださーい!」
「でも、足を踏み外してたよ。もしも何かあったら――」
「伊月、大丈夫って言ってるから離してあげなさいよ」
後ろから花麗に肩を掴まれた。
「いや、でも――」
「大丈夫、って言ってるのよ」
妙に刺のある声で花麗が言った。後ろを振り返ってみる。花麗は笑っていたけど、頬が引きつっていた。
「……」
怒ってる。なぜかわからないけど、とりあえず花麗が今すごく怒っているのはわかった。
「……わかったよ」
その雰囲気に圧倒されて、創路を離す。
「ふぅ……ドキドキした。でも、もうちょっと抱きしめてほしかったかなぁ……」
「ん、何か言った? 創路?」
創路が小声で何かつぶやいていたけど、よく聞こえなかった。
「い、いえいえ、何でもないですよぉ。ふふふ……」
「……」
なぜか嬉しそうにしている創路と僕の後ろで彼女をすごく睨んでいる花麗。
いったいどうしたんだろう……この二人。
そうしているうちに、創路の後ろから三つの遺体が運び下ろされてきた。最初の二つは体格からして大人だ。創路に許可をもらってシーツをめくり、顔を見てみる。年老いた夫婦の遺体だった。刀で肩から腰にかけてまっすぐ斬られている。
「……ありがとう、もういいよ」
作業員の人にそう言うと、二つの遺体がトラックに運ばれていく。そして、三つ目の遺体が階段から降りてくる。それを見た瞬間、大きな違和感を感じた。
「ごめん、それも見せてもらえる?」
作業員を呼び止めて、シーツをめくる。子供の遺体だった。まだ小学生ぐらいの女の子だ。でも、女の子の遺体はさっきの二人よりも酷かった。三つの縦筋の傷がいくつもつけられている。刀で斬られた傷じゃなかった。
「創路、桜夢はまだ部屋にいるの?」
「ええ、さっき手続きをしてもらったので、まだいてはりますよ」
「……」
「伊月さん?」
「ありがとう。またね」
創路に別れを言って、アパートの階段をあがる。後ろで彼女が手を振っているのが見えたけど、それに対応している余裕はなかった。
「どうしたの、伊月?」
花麗が聞いてきたけど、それも無視する。今の僕はさっき抱いた違和感のことで頭がいっぱいになっていた。
創路たちの出てきた部屋に入る。靴を脱いで、廊下を歩き、リビングと思われる奥の部屋へ向かった。
リビングの中は電気がついていなくて薄暗かった。けど、窓のカーテンが開いていて、月の光が差し込んでいたから、部屋の様子はわかる。
桜夢はその窓枠に座ってじっと外を見ていた。仕事を終えて、リラックスしているのかな。でも、何となく僕が来たことには気づいているように見えた。
「おじいさんとおばあさんは殺さなかったんだね、桜夢」
創路に見せてもらった遺体。そのうちの二人の傷は刀で斬られた傷だった。桜夢の部下がやったんだろう。
でも……。
「あの女の子はどうして自分で殺したの?」
「……」
桜夢が僕のほうに視線を移す。憎しみや哀れみといった感情が伝わってこない。まるで死んだ人のような目だった。
「人は生きることを必死に望む生き物らしい。自分が助かるためなら他の人を犠牲にするって話を聞いたことがあるし、頭半分を失っても奇跡的に生き延びた人がいるって話も耳にしたことがある。だから、ちょっと試したくなった」
桜夢は少し笑って自分の左腕を指さした。
「まず左腕に傷をつけてみた。子供は仮眠していた状態から起きて、泣き始めた。今度は反対側の腕に傷をつけて、えぐってみた。子供はまだ泣いていた。それだけの力が残っていたんだ。そのあとは両足、腰、腹、顔の順番に傷をつけてみた。それでも『死にたくない』『助けて、神様』と泣き続けていた。すごいな、まだ生きたいと願う力が残っていたんだ」
淡々と話す桜夢の言葉に罪の意識は微塵もなかった。いや、かわいそうだとか、楽しいとか、そんな感情の欠片も感じ取れない。
「そのあと、さっきよりも深く同じ箇所に傷をつけてみた。そして腹に傷を入れた時に、子供は泣くのをやめた。見ると、息をしていない。死んだんだ。生きたいと望む力を失った。俺は最初、右腕をえぐったところで何も言わないと思っていたんだけど、あの子供は――」
「もういい、わかったよ」
桜夢の説明を途中で遮る。それ以上聞きたくなかった。あの子はとても苦しんで死んだんだろう。もし、この町にいなかったら、きっと穏やかな毎日を過ごして、幸せな未来を手にしていただろう。それをこんな男に奪われてしまった。
ある意味で人を殺すことを『楽しむ』椚木は人間らしいと言えば納得がいく、彼には感情があった。でも、桜夢にはそれがない。
この男にあるものはわかりやすく言えば、『異常な好奇心』だ。自分の興味のないものには何もしないけど、あることに興味を持ったとたんにそれを徹底的に追及しようとする。
もちろん、邪魔をする人がいたら躊躇いなく殺すだろう。
今は浜家の指示をおとなしく聞いているけど、もし『浜家に逆らったらどうなるんだろう』なんて考えたらどんな行動を取るかわからない。こんな恐ろしい男が刀人の能力を持っていることが怖かった。
「次は罠を仕掛ける。そろそろ、向こうと接触がある頃だ」
「向こう? ガードレディたちのこと?」
「ああ」
桜夢は窓枠から降りて、部屋を出ようとする。
「桜夢、さっき君は、人は生きることを必死に望む生き物だって言ったよね?」
僕がそう言うと、桜夢はちょうど僕の背後で立ち止まった。
「なら聞くけど、君は死ぬのが怖くないのかい?」
「俺にはわからないよ」
でも、と言って桜夢が横目で僕を見る。
「興味はあるね。人は死ぬ直前に何を考えるのか」
第五話 前編 閉ざした心 終
後編へ続く。
キャラ紹介
・佐東 未国
ガードレディと呼ばれる刀人の少女。ぶっきらぼうな性格で、相棒の沢村に対しても冷たい態度を取る。
ワイヤーとサバイバルナイフを併用して戦う。
・沢村 愛太郎
未国の相棒のガードマン。ノリの軽い部分はあるが、面倒見がよく、主要メンバーのまとめ役を引き受けている。絵を描くことが好きでスケッチブックをよく持ち歩いている。