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第九話 本当の言葉

 第九話 本当の言葉


  1


 伊月(いつき)字倉(あざくら)と同じダルレストのオリジナルの刀人だった。施設の内でも外でも関係なく、灰色のソフトハットを被っている。性格はとても穏やかで人あたりが良く、他のやつに比べると感情表現が豊かだった。ここでは珍しい人間くさいところがたくさんある刀人だった。

 だが、俺はこいつから時々強い違和感を抱くことがある。その違和感が何なのか、はっきりと説明するのは難しい。それは何かを強く願う気持ちかもしれないし、何かを認めない強い拒絶かもしれない。とにかく、こいつの心の内が見えない俺はあまり関わらないようにしていた。

「最近、ここに来るようになったね」

 伊月は普段と変わらない穏やかな口調で言った。やつのことを警戒していた俺は目をそらした。

「ちょっと用があってな……」

「あの子に会いに行くんでしょ?」

「!」

 すぐにこの階へ来た目的を見破られた俺は伊月のことを睨みつけた。

 どうして、わかったんだ?

「君は本当に真面目だよね。それは良いことだけど、考えていることが顔に出るのが悪いところだ」

 やつはそんな俺を見て、面白かったんだろう。ふふっと軽く笑うと、廊下の壁にもたれた。

「今、ちょうど起きてるよ。早く行ってあげるといい。彼女も喜ぶ」

「喜ぶ?」

 伊月の言葉が引っかかって聞き返す。

「どうしてわかるんだ?」

「あの子はここにいる他の仲間に比べたら、より感情をあらわさないし、ほとんど話さない。浜家や上の人たちの命令通りに動くだけ。プログラム通りに作業する機械と変わらないかもしれない」

「でもね」と言って伊月は顔をあげて、俺のほうを見た。

「あの子にも心はあるよ。刀人じゃなくて、人としての心が。本当に望んでいることがあるよ。それを見つけてあげられるのは葉作、君しかいない」

「なぜ俺が?」

「その答えはもうわかってるんじゃないかな」

 伊月はまた軽く笑った。壁にもたれるのやめて、俺のほうに向かって歩いていく。

「見つけてあげなよ、あの子の本当の気持ちを」

 すれ違う時にそう言うと、伊月はそのまま歩き去っていった。

「……」

 俺はしばらくその場に立ち尽くした。

 俺自身もずっと考えていたことだった。今のあいつは浜家たちの命令通りに行動して、殺戮を繰り返しているだけだ。それがどれだけ酷いことなのか、理解していないし、人の命を奪うことに罪の意識を感じていないだろう。だからこそ、浜家たちはあいつをオリジナルの刀人のメンバーに入れたんだ。

 だが……俺はあいつに、自分のやっていることの本当の意味に気づいて欲しい。そして、本当の気持ちを知りたい。あいつが本当に願っていることを、思いを、その言葉を聞きたい。それが俺の望みだった。

 伊月にああ言われて、おれははっきりと自覚することが出来た。そのことには感謝しているが、あまり関わらないようにしていた相手なので、あの子や自分のことをそこまで見ていることに驚きを隠せなかった。

「本当の気持ち……か」

 俺は手にした袋をぐっと握って、再び歩き始めた。

 伊月のことを信じたわけじゃない。だが、もしかしたら……。

 薄暗い廊下をしばらく歩くと、あいつの部屋のドアが見えてきた。今まで返事が来たことはなかったが、一応ノックをして、しばらく待ってからドアを開けた。

「入るぞ」

 そこは一人暮らしにはちょうど良い広さの部屋だった。普通の刀人が寝泊りしている場所の二倍はあるだろう。薬の調整を受ける必要がないオリジナルの刀人たちは、許可さえもらえば好きな物を持ち込むことができるらしい。その気になれば、自分好みの部屋を作ることも出来るのだ。

 しかし、そこには円形のテーブルと椅子があるだけで、それ以外のものは最初から設置されていたベッドぐらいしかなかった。人が暮らす場所としてはあまりにも殺風景な部屋だった。

「……」

 あいつは椅子に座ってじっとしていた。視線はテーブルの上に向いていたが、全く別のことを考えているように見えた。

「よう、調子はどうだ?」

「……」

 話しかけると、あいつは俺のほうを見たが、目を合わせるとすぐに視線をテーブルの上に戻した。

「お腹すいただろ? これ、俺の知り合いがラーメン屋をやっててな、そこの店主が勧めてくれたたこ焼きなんだ。本当はあいつのラーメンを食べさせてやりたかったが、さすがにラーメンを持ち帰ることはできなかった。水筒にスープを入れても良かったんだけどな、わははは!」

「……」

「だが、このたこ焼きもうまいぞ。俺なら一ヶ月、これだけでも生活できる自信がある!」

「……」

「まあ、栄養は偏るし、健康を気にするならそんなことしなくてもいいが、それだけ美味しいたこ焼きなんだぞ」

「……」

「なあ……」

 俺は持ち上げたたこ焼きの袋を下に降ろした。

「何か言ってくれ……何でもいい。ただ、俺や浜家の言うことを聞いているだけじゃなくて、お前の言葉を聞かせてくれ。本当のお前の言葉を……俺にだけ教えてくれ」

 思わず自分の本当の気持ちを言葉にしていた。顔を下に向け、目を閉じた。ただ純粋に聞きたかった。こいつの声を、言葉を。

 だけど、そんなことは無理だ。やっぱりこいつには心がない。俺の声なんて届いていないんだ……。

 自分が憂鬱な気分になっていくのがわかった……その時だった。

 ぐうう、と腹の鳴る音が部屋に鳴り響いた。俺の出した音じゃない。すぐに顔をあげた。

 あいつが俺を、いや手に持ったたこ焼きの袋を見ていた。口元からよだれのようなものが垂れている。

「お前、もしかして……お腹が空いたのか?」

 そう聞くと、あいつは顔をあげて俺のほうを見た。喋らなかったが、こくりと頷いた。

「!」

 頷いた……頷いたのだ。

 喜びで胸が高鳴った。あいつが頷いたということは、俺の言葉がちゃんと届いていたんだ。

 それがわかった瞬間、さっきまで落ち込んでいた気持ちが一気に明るくなった。それは何年も何年も探していた大切なものの手がかりを、ようやく掴んだ時と同じような感覚だった。

「そうか、そうか! よぉし、実は十二個入りのやつを三箱も買ったからな。遠慮なく食べていいぞ!」

 俺は椅子に座って、テーブルの上にたこ焼きを並べた。すぐに美味そうな匂いがして食欲をそそられたが、何とか我慢して先に食べるように促した。

「ほら、遠慮なく食べろ」

 そう言うと、それまでとても暗かったあいつの表情が少しだけ、ほんの少しだけ明るくなったように見えた。箱についていた爪楊枝でたこ焼きの一つを取ると、口の中に入れる。

 もごもごと口を動かすと、あいつは目を大きく見開いた。次の瞬間には、二つ、三つと次々たこ焼きを食べ始めた。とても美味しかったのは聞かなくてもわかった。

「む、むぐっ!」

「こらこら、そんなに早く食べるからだ。ほら、お茶も買ってきてるから飲め」

 たこ焼きを勢いよく食べたせいで喉を詰まらせたあいつに、お茶の入ったペットボトルを差し出すと、あいつは素早くそれを受け取って飲んだ。

 その様子を見ていると、何だか懐かしい気がして、自然と顔が笑った。


  2


 あの日以来、俺はなるべくあいつの部屋に行くようにしていた。地方の色々な店を食べ歩くのが好きだった俺はたこ焼きを初めに、駅弁や寿司、回転焼き、饅頭(まんじゅう)、ケーキといったお菓子も含めて、とにかく色々な食べ物をみやげに持っていった。

 おみやげを持ってくるたびに、あいつはそれを喜んで食べてくれた。喜んでいると言っても、言葉で聞いたわけじゃなかったが、顔に出たのですぐにわかった。

 俺はその様子を見るのが楽しみで仕方がなかった、何だか、自分の娘が成長していく様子を見ているような気分だった。久しく感じていなかった幸せがそこには確かにあった。

「そういえば、お前、名前はあるのか?」

 ある時、俺はあいつに聞いてみた。

 その日のおみやげのクッキーを口にしていたあいつは黙ったまま、首を横に振った。

 そういえば、吉住(よしずみ)に名前を考えておけと言われていたんだった。こいつを喜ばせようと必死になっていたせいで、すっかり忘れていた。

「そうか……なら、俺が考えてみよう」

 腕を組み、目を閉じて考える。

 名前か……こいつにふさわしい名前。性格とか詳しくわかれば良いんだが……。

 悩み始めると、(あおい)が出産した時も随分と悩んでいたことを思い出した。 あの時もかなり時間をかけて、いくつか候補の名前を挙げていたが、結局、最初に思い浮かんだ名前に決めたんだった。

 ああ、そうか……。

 俺は目を開けて、あいつのほうを見た。

愛佳(あいか)。今日からお前の名前は愛佳だ」

「……愛佳?」

 とても小さな声で聞き返した。それは俺が初めて聞いたあいつの言葉でもあった。

「ああ、そうだ。みんなから愛され、良い人生を送るって意味だ。いい名前だろ?」

「愛佳。私の名前……愛佳」

「気に入ったか?」

 そう聞くとあいつは、いや、愛佳はこくりと頷いた。

 その時、亡くなった愛佳の顔が思い浮かんだ。悲しみか、喜びか、どちらかわからないような強い気持ちがこみ上げてきて、涙が出そうになった。

 ばかやろう、俺が泣いてどうする?

 そう自分に言い聞かせて何とかこらえた。

「決まりだな。これからもよろしく頼むぞ、愛佳」

 こうして俺と愛佳の新しい日々が始まった。


 3


「あの子の名前、愛佳って言うんだね」

 その日も愛佳のところへ行こうと地下の廊下を歩いていると、伊月に呼び止められた。

「……」

 何も言わなかったが、心の中ではかなり動揺していた。吉住や浜家に一応報告しておいたが、まだここにいる連中は知らないはずのことだった。それをなぜ?

「なぜ、僕が知っているのかって顔をしているね、葉作」

 灰色のソフトハットを被り直して、伊月はふふっと笑った。

「そんな不思議なことじゃないよ。君が吉住と浜家にあの子の名前をつけたことを報告したあと、すぐに僕や花麗(かれい)にその情報が来たんだ。君が想像する以上にここの情報の伝達が早かっただけ。ただそれだけのことだよ。僕は別に君のしたことを批判するつもりはない。むしろ感謝しているんだ。いつまでも、あの子をあの子って呼ぶのは嫌だし、名前がないのは可哀想だからね。良い名前だと思うよ」

 伊月が本当のことを言っているのかどうか、確信はなかった。しかし、納得できる部分は多かったし、愛佳の名前を知った理由として矛盾しているところもなかった。とりあえず俺はそれで納得することにした。

「そうか。賛成してくれて嬉しいぞ。てっきり反対されるかと思っていたけどな」

「まさか。あの子にかつて愛していた子の姿を重ねている君が、あの子を、いや、愛佳を大切にしていないわけがないでしょ?」

 俺は表情を堅くして、伊月を見た。一瞬だけ、思考が停止する。

 こいつ、今、何て言ったんだ……?

「本人にちゃんと聞いたことはないからわからないけど、今の愛佳はとても幸せだと思うよ。僕は羨ましいよ。誰かに愛されて、喜ばない人なんていないからね」

 もう一度ソフトハットを被り直して、伊月は天井を見上げた。その顔がどこか寂しげに見えた。

「僕の思いも届いていたらいいのにな……」

「伊月、お前はいったい――」

「足止めして悪かったね。早く愛佳のところへ行ってあげなよ」

 俺が聞く前に伊月は廊下の奥へ姿を消した。

「……」

 俺が失ってしまった愛佳と、今の愛佳を重ねている……。

 愛佳とあの子の姿は決して似ているわけじゃない。性格も真反対だし、今まで生きてきた環境も全く違う。

 でも、いつの間にか……俺はあいつを、娘の愛佳と同じように愛していたのか。あいつを大切に思うようになっていたのか。 だから、あいつの本当の言葉を聞きたくて……毎日必死に頑張ってきたのか。

「……」

 俺は自然と足取りを早くして廊下を歩いた。自分の気持ちがわかった瞬間、早く愛佳に会いたいと思った。あいつの部屋の前に着くと、ドアをノックした。

「愛佳、俺だ。葉作だ。入っていいか?」

 そう言って少し待つと、ドアが内側に開いて愛佳が顔を出した。これまでは返事を待たずに部屋の中に入っていたが、今は俺がドアをノックすると、愛佳が開けてくれるようになった。他のやつから見れば些細なことかもしれないが、俺と愛佳にとっては自分たちの関係が大きく変わったことを示す象徴の一つだった。

「昨日はよく眠れたのか?」

 部屋に入ってそう聞くと、愛佳は何も言わずに黙ったままだった。反応が帰ってこないので、不思議に思っていると、その視線が俺の手元に釘付けになっていることに気付いた。

「ああ、これか。前に持ってきたたこ焼きだ。気に入っていただろ?」

 愛佳は何も喋らなかったが、素早く何度も頷いた。言葉に出さないのに、相変わらず考えていることがわかりやすくて、面白かった。

「しかも、今日は特注した巨大サイズだ。トッピングも辛しマヨネーズにしてもらった。普通はしてもらないんだぞ」

 テーブルの上にたこ焼きを置くと、愛佳は素早く椅子に座った。早く食べたいと思っているのがよくわかる。俺は笑いながら対面の席に座った。

「さ、遠慮なく食べろ。俺は食べてきたから、全部食べていいぞ」

 そう言うと、愛佳の表情が明るくなった。爪楊枝を持ってたこ焼きの一つを取り、口の中に入れる。すると、その表情がより幸せそうに明るくなった。最初に会った頃の無表情な愛佳と同じやつだとは到底思えなかった。

「うまいか?」

「……」

 愛佳はいつものように黙ったまま頷いたが、なぜか口をもごもごと動かし始めた。

「どうした?」

 そう聞いても、愛佳はすぐに返事しない。なぜか顔を伏せてしばらくじっとしていた。 

 また勢いよく食べたせいで喉を詰まらせたのだろうか。それとも腹が痛くなったのか……。

「お、おじさん……」

「!」

 久しぶりに……それはあの時、名前をつけた時以来の愛佳の言葉だった。

「愛佳……会ってみたい」

「誰に? 誰に会いたいんだ?」

 思わず椅子から立ち上がって聞いた。とても小さな声だったが、聞き逃すわけにはいかなかった。

 それは愛佳が初めて何かを望んでいる言葉だった。叶えられるなら叶えてあげないといけない。俺はこの時、愛佳の中に人としての心がまだあると信じるようになっていた。

「おじさんにこの美味しいたこ焼きを……教えてくれた人」

 愛佳は俺のほうを見た。

「今度はその人のラーメン……食べてみたい」

「……そうか、そうか! よぉし、俺に任せろ! 今度、必ず連れて行ってやる!」

 自分の胸を叩いてそう言うと、愛佳がちょっと笑ったような気がした。


 4


「外出許可が欲しいだと?」

「ああ、一日だけ愛佳と外へ行きたいんだ」

 ダルレスト本部にある浜家(はまや)の部屋を尋ねた俺は、椅子に座って何かの本を読んでいた浜家に言った。

 もちろん、浜家が刀人の外出許可を出してくれる見込みは少なかった。あいつらを仕事以外で外に出すのはリスクが大きい。だから、この施設の警備は厳重だし、脱走を考えている奴なんていない。無理を承知の上での頼みだった。

「理由は何だ?」

「俺は吉住から愛佳の様子を詳しく記録する役目を任されている。普段と違った時間を過ごすことで、今まで気づかなかったことが見つかるかもしれないだろ。刀人が暴走した事件は過去に何度だってある。もし、愛佳に何らかの支障があったら、お前も不都合だろ?」

 俺は俺なりに考えた理由を浜家に話した。もちろん、それは上辺だけのもので説得力に欠けている。こんな理由で浜家は納得するだろうか……。

「いいだろう」

「……え?」

「あの娘の外出を許可する」

 しかし、俺の予想に反して浜家はあっさりと許可を出した。あまりにあっさりと許してくれたので、驚きを隠せなかった。

「い、いいのか?」

「問題ない。どのみち、外部の活動を一度はするように上から指示を受けていた」

 本を閉じて、浜家は立ち上がり、後ろの窓の外を見た。

「近いうちに言うつもりにしていたから手間が省けた」

「そうか……すまんな、浜家」

「だが、条件がある」

 無表情な顔のままで浜家は俺のほうに振り返った。

「もうひとり、お前以外に同伴者をつける」

「同伴者?」

「万が一、あの娘の力が暴走した場合にそれを抑え込むだけの高い能力を持つ者が必要だ」

「その同伴っていうのは?」

「私のほうが選んでおく。外出する日程と時間を教えろ」

 浜家は最後までただ冷静に言った。俺は愛佳の外出許可をもらった喜びと、同伴してくるやつが誰なのかという不安が入り混じった複雑な心境のまま、浜家に外出する日時を伝えた。


 5


 数日後。外出許可をもらった俺は個人で使っている緑のワゴン車を運転して、町の通りを走っていた。あの店主が営んでいるラーメン屋の通りまでは時間がかかる。やや交通機関の不便なこの町では車の移動は不可欠だった。

「……」

 俺は車を運転しながら助手席に座る愛佳を横目で見た。愛佳はじっと車の窓に手をつけて外の景色を眺めていた。普段、仕事の時は眠っているから町の景色を見るのはこれが初めてなんだろう。好奇心旺盛な普通の子供と変わらなかった。

「何見てるんだ?」

「……町の明かり」

 ぼそっとした声で愛佳が呟いた。

「すごく綺麗」

 たったの一言だが、その言葉を聞いただけで愛佳は本当にこの町の景色に感動しているんだということがわかった。自然と笑みがこぼれる。

 その時、ふと車のバックミラーで後部座席に座るやつを見た。灰色のソフトハットを被ったあいつも愛佳と同じように、じっと外の景色を眺めていた。

 これも何かの縁なのか、浜家の推薦した同伴者は伊月だった。しかも伊月のほうもあっさりと同伴することを受け入れたのだ。

「どうして、お前が?」

「浜家はわかっているんだよ。僕が裏切ることの出来ない立場にいるって」

 理由を尋ねると、伊月はどこか寂しげな表情で答えた。

「大丈夫。二人の邪魔はしないから、僕のことは空気が何かだと思っていてよ」

 施設を出る前に伊月はそう言った。その言葉通り、車を走らせてから一時間ぐらい経っているが、伊月は俺と愛佳の話に全く入ってこようとしなかった。

 気を遣っているのは聞かなくてもわかっていた。だが、こいつがどうしてそこまでするのか、その意図が全く見えてこなかった。

 町の通りを進んでいき、駅の近くにある路地裏が見えたところで車を停めた。店主のやってる屋台はこの路地裏にあり、歩いていかないといけない。

「よし、降りるぞ、愛佳」

「うん」

 愛佳の返事を聞いた俺は後ろの席に座っている伊月のほうを見た。

「伊月、お前は――」

「僕は別の店で適当に済ませるよ。じゃ、また後でね」

 それだけ言うと、伊月は車のドアを開けてゆっくりとした足取りで通りを歩いていった。とても落ち着いていて緊張している様子はない。随分と都会慣れしているのがわかった。

 あいつは何度も外へ出ているのか……。

「早く行こ」

「ん、ああ、すまんすまん。行くぞ」 

 愛佳に言われて、伊月のことはとりあえず考えないようにした。道路脇に停めたワゴン車から降りて、俺は愛佳と一緒に路地裏へ入った。

 ラーメン屋『六角』は路地をしばらく歩き進んだところにポツリとあった。表からはわかりにく場所にあるせいで、客の数は少ない。俺と愛佳が来た時も他の客はいなかった。

「よお、店主。また、来たぞ」

「ああ、旦那。いらっしゃい……って。あ……」

 屋台の奥で材料の野菜を刻んでいた店主の手が止まった。その視線の先が俺のとなりにいる愛佳に向かっていることはすぐにわかった。

「旦那、その子……」

「ああ。こいつはな……」

 そこで俺は愛佳のことをどう紹介するか、考えていないことに気付いた。愛佳に出会ってから数年間、ダルレストの関係者以外にこいつのことを紹介する機会なんて一度もなかったからだ。

 どう、紹介したらいいのだろうか……。

 その答えは店主のほうから言ってくれた。

「旦那の娘さんですかい?」

「む、娘? そ、そうだ。俺の娘の愛佳だ。ほら、愛佳、挨拶しろ」

 言葉を詰まらせながらそう言うと、愛佳はやや緊張した様子で黙ってお辞儀した。

「へえ、素直で良い子じゃないですか。ささ、座ってくださいよ」

「ああ」

 店主に勧められて、俺と愛佳はカウンターの席に並んで座った。

「旦那、今日は何にしやすかい?」

「いつものやつで頼む。こいつも同じやつ。あとトッピングで味玉をつけておいてくれ」

「へい、わかりやした!」

 店主はいつもの調子で返事すると、慣れた手つきでラーメンの準備を始めた。

「……」

 愛佳はその様子を興味津々に見守っていた。とんこつスープの良い匂いがすると、お腹の鳴る音も聞こえてきた。

「お腹がすいてきたのかい?」

 店主が楽しそうに笑いながら愛佳に聞いた。

 愛佳は何も言わずに顔を下に向けた。その頬が赤くなっているのが見えて、俺も思わず笑った。

「お前が恥ずかしがるなんて珍しいな」

「やっぱり可愛いですねえ、旦那の娘さん。本当に来てくれてあっしは嬉しいですよ」

 店主も笑顔でどんぶりにラーメンとスープを入れて、刻んだネギやチャーシュー、味玉を綺麗に乗せていった。そして……。

「へい、お待ち。当店名物の六角とんこつラーメンです!」

 店主がカウンターに二つのとんこつラーメンを置いた。出来たてのラーメンからスープの良い匂いが漂ってきて、愛佳がよだれを垂らしているのが見えた。

「ほら、愛佳、よだれが垂れてるぞ。さ、手を合わせて食べよう」

 俺にそう言われて、愛佳はおしぼりで口元を拭いた。俺と同じように手を合わせる。

「いただきます」

 そう言うと、俺より早く愛佳が割り箸でラーメンを取り、さっそく一口食べた。

「どうですかい?」

 店主が身を乗り出して愛佳に聞いた。愛佳はしばらく口をもごもご動かしていたが、やがて……。

「おいしい……」

「あっ!」

 店主が驚いた声をあげた。

「だ、旦那! い、いま喋ってくれましたよ、この子!」

「わはは、ずっと恥ずがしがっていたんだろ、可愛いやつめ」

 そう言いながら、愛佳の頭を撫でた。そういえば、昔も同じようにこうして愛佳のことを撫でていたことを思い出した。あの時は泣いてる愛佳を葵と一緒に慰めていたな。葵が背中をさすって、俺が頭を撫でて……そうしたら、すぐ泣き止んで、笑ってくれていたな。

『かつて愛した子と姿を重ねている君が愛佳のことを大切にしていないわけないでしょ』

 伊月の言葉が脳裏によぎる。あいつの言っていたことは本当だったのかもしれない。

 それから俺と店主は美味いラーメンを食べる愛佳の反応を見て楽しみながら、幸せな時間を過ごした。


 6


「今日もうまかったぞ、ありがとな」

「こちらこそ本当にありがとうございやす!」

 ラーメンを食べ終え、しばらく雑談していると帰る時間が近づいてきたので、俺と愛佳は席を立った。

「ほら、愛佳。お前も礼を言え」

「……あ、ありがとう」

 とても小さな声だったが、愛佳はお礼を言って、ちゃんと頭も下げた。

「どういたしまして。また、来てくださいね。今度は特別トッピングをつけてあげますから」

 店主に手を振って別れると、俺は愛佳と手を繋いで路地の通りを歩き始めた。

「美味かったか?」

「……うん」

「来て良かったか?」

「うん……」

「また行きたいか?」

「うん」

「そうか。なら、また連れて行ってやる」

「ありがとう、おじさん」

 おじさん。そう呼ばれて、以前から考えていたことがあった。それは聞きたくても聞けなかったことだが、何とか愛佳の力になりたいと思って聞いてみることにした。

「愛佳、お前、昔のことは覚えていないのか? どこに住んでいたとか、どんな家族と一緒に暮らしていたとか……」

「……」

「いや、すまん。答えられないなら答えなくていいぞ」

「愛佳、覚えてない」

「え?」

 隣を歩く愛佳を見ると、あいつは顔を下に向けていた。だが、その表情がさっきラーメンを食べていた時と打って変わって暗くなっていた。

「全く覚えていない。お母さんがどんな人だったのか、お父さんがどんな人だったのか、思い出せない。気がついたら、あそこにずっといた……」

「……」

 やはり、そうかと心の中で思った。

 実は愛佳がダルレストに入る以前の記憶がないのは、聞かなくてもわかっていた。浜家に愛佳の世話係を任せられた時に、愛佳に記憶消去の措置をしていることを聞かされていたからだ。

『ダルレストに入る以前の記憶は障害にしかならない。当然の措置だ』

 そんなあっさり人の記憶を消していいのか、と反対した俺に浜家はそう答えた。

 記憶消去の措置はダルレストの活動が、外部に漏れないようにするために大切なことだった。万が一、フィールド内で目撃者が現れた場合、その人物を対象に記憶を一部消去できる機能が、構成員それぞれが持っているスマートフォンに搭載されている。

 それと同じ機能がダルレスト内部でも使われている証拠がここにあったのだ。

「愛佳に……家族はいない。愛佳はずっと一人……」

「馬鹿なことを言うな」

 俺は愛佳の手を少し強く握った。

「お前は一人じゃない。その証拠に俺が一緒にいるだろ」

「え……」

「俺は愛佳を一人にはさせない。寂しい思いをさせない。これからも愛佳のために美味い食べ物を持ってくるし、楽しい場所にも連れて行ってやる。なぜなら俺は……」

 そこまで言うと、自然と言葉にすることができた。

「愛佳の父親だからだ」

 ああ、そうだ。自分で言葉にして、納得できた。

 俺はこいつにかつて死なせた愛佳の姿を重ねていた。実の娘のように大切に思っていた。そこに偽りなんてない。俺はこの子の……愛佳のお父さんになりたいと思っていたんだ。

「お、おじさん……」

「おじさんじゃない。お父さんだ。これから、俺のことはお父さんって呼ぶんだ。もし呼ばなかったら、もうあのラーメン屋に連れて行かないぞ」

「それは……嫌」

「じゃあ、お父さんって呼べ。これから俺は愛佳のお父さんだ」

「……わかった」

 俺のほうを見上げていた愛佳は少し間をあけ、意を決したように言った。

「お父さん」

「よぅし、よく出来たな。偉いぞ、愛佳」

 俺はこみ上げてくる喜びを感じながら、愛佳の頭を撫でた。

 嬉しかった。こんな世界に飛び込んでしまった俺でも、再び幸せを手に入れることができたことに……。


7


  2064年九月中旬。大阪、泉佐野市。りんくうタウン。


 世間では休日ということもあって、泉佐野市のりんくうタウンは大勢の客で賑わっていた。ショッピングモールの通りは人が絶え間なく行き来していて、家族連れも多い。

「暑いな……」

 俺はその様子を通りにある喫茶店のオープンテラスの席から見ていた。

 九月に入ったと言っても、残暑が続いているせいで、歩くとすぐに身体が疲れてくる。流れてくる汗を手で拭っても、どんどん流れ落ちてきて気持ち悪かった。

「わははは、相変わらず暑苦しそうな顔をしているな、梨折!」

 大きな笑い声が聞こえたかと思うと、両手にアイスコーヒーの入ったコップを持った嵯峨山がやってきた。

 暑苦しいのはお前だろと思ったが、言い返す元気もなかった。

「ほら、早く飲んだほうがいいぞ」

「ああ、助かる」

 俺は嵯峨山の差し出したコップを受け取って、口につけた。充分に冷えたコーヒーは普段よりも美味しく感じて、一口で半分ほど飲んでしまった。

「豪快な飲みっぷりだな! いいぞ、いいぞー!」

 嵯峨山は笑いながら、俺の対面の席に座ると、テンションが高いまま、手にしたアイスコーヒーを飲んだ。

「ぷはぁ! うまいなぁ! 最高だぁ!」

 まるで酒でも飲んでいるかのような科白だった。本人は気にしていないだろうが、周りの視線が気になる。

「お前。白浜でビールを飲んでた時もそんな感じだったな」

「わははは、本当はビールを飲みたいところだったが、飲酒運転するわけにはいかんからな。あいつらをちゃんと送り届けるまでは飲まんさ」

 そう言いながら、嵯峨山がちょうど反対側の通りにある雑貨屋のほうを見た。

「あいちゃん、どれをあげたら、うたちゃん喜ぶかな?」

「ちーちゃんの好みでいい。うたちゃん、ちーちゃんの選んだものならすごく喜ぶはず」

「そうかな。じゃあ、このカエルのとかどう?」

「千登勢ちゃん、それはちょっとリアルすぎるかもしれないね……。もっと可愛らしいもののほうが……」

「え、これ可愛くないですか、真那姉さん?」

「愛佳、不覚。ちーちゃんの可愛いものを選ぶセンスあまりなかったの、忘れてた」

「ふええ!? これ可愛くないのぉ!?」

 雑貨屋の中で八重坂、愛佳、千登勢の三人がアクセサリーを選んでいた。どうやらアメリカにいる知り合いへのみやげ物を買い揃えているようだった。

 松阪の町を出発した俺たちは千登勢を関西国際空港へ送り届けるために、彼女の警護をしながらりんくうタウンまで来ていた。

 ここまでの道のりで渋滞や目立った遅れはほとんどなかった。おかげで予定時間より早く着いてしまい、このりんくうタウンのショッピングモールに寄って時間を潰すことにしたのだ。

 しばらく八重坂たちの様子を見ていたが、あることを思い出した。それはアサガオの施設で働いている誰かには絶対に聞いておかなければならないことだった。

「嵯峨山、前から聞きたいと思っていたことがあるんだが、いいか?」

「何だ、改まって?」

「俺がガードマンになる以前から、お前たちがダルレストの行動を妨害していたことは知っている。だが、それだけだといつか限界が来るんじゃないのか? 言い換えれば、相手は日本政府そのものだろ。こっちは NPO 団体の一つにすぎない。八重坂たちが強いことはこの目で見てきたから、よく知っているつもりだが、ダルレストそのものを壊滅させることは不可能なんじゃないか?」

「ほう、なかなか良い着眼点じゃないか」

 嵯峨山はとても感心したのか、何度か頷きながら手にしたアイスコーヒーのコップをテーブルに置いた。

「ちょうどいい。今回の仕事のこともあるし、話しておいてやろう」

 椅子に座り直した嵯峨山はいつもの笑顔から、真剣な表情になった。

「俺もガードマンになってまだそこまで年月が経っていないから、他のやつから聞いた話も含むが、俺たちもこんな妨害活動を続けているだけじゃキリがないのは重々承知している。だから、これまで色々な対策が取られてきたのさ」

 嵯峨山は右手の人差し指だけをあげた。

「最初に考えられた方法は、俺たちとダルレストの戦いを世間に公表することだ。公表すれば、ダルレストが今までやってきたことも暴露されるし、組織も解散するしかないだろう」

「ああ。俺もその方法があるんじゃないかと思っていた。だが、その言い方だと上手くいかなかったようだな」

 俺がそう言うと、嵯峨山は「まあな」と言って肩をすくめた。

「これには大きな問題がある。まずこの戦いが人を仮眠状態にするフィールドの中で行われているということだ。俺たちのようにフィールドの電波を遮断するパッチを持っているやつや、梨折のようなフィールドに耐性のあるやつは良いが、普通の人間がこの戦いを目にすることはまずない。だから、目撃者なんているわけがないし、マスコミ関係の連中にもばれずに済んでいるのさ」

 次に嵯峨山は右手の中指をあげた。

「なら、二つ目の方法。八重坂たちの戦っている姿をビデオカメラか何かで撮影するのはどうだ? 刀人が実際に能力を使っているのをマスコミ関係のところへ持ち込むというのはどうだと思う?」

「良い方法だとは思うが、それも駄目なようだな」

「ああ、残念ながらな。この方法はわかりやすく言えば、ゾンビや吸血鬼が実在しているんだって訴えるようなもんなのさ。そんなの誰が信じると思う? 仮に戦っているところをビデオか何かで録画しても、それを本物だと証明するのは難しいだろ。半世紀以上前から動画の捏造なんてものは素人でも出来ることだ。実際にその目で見ない限りは信じないだろう」

「じゃあ、アサガオにいるやつらを――」

「その手もあるけどな、梨折。それは一番だめな方法だ」

 言い終わらないうちに嵯峨山が言った。その口調が今までよりも明らかに厳しくなった。

「仮に八重坂がマスコミの連中の前で刀人の能力を使ったとしよう。それで刀人の存在は証明されるかもしれないが、八重坂はどうなる? 人ならざる力を手にした少女、とか何かで大げさに記事にされて全国の注目の的にされるぞ。あいつの私生活にマスコミのやつらは容赦無く介入し、あいつが答えたくもない質問を浴びせ続けるだろう。そんな毎日が繰り返されることにあいつが耐えられると思うか?」

「それは……」

「八重坂に限ったことじゃない。橘や佐東、愛佳だってみんな同じだ。そいつの人生が俺たちのせいで無茶苦茶になってしまうんだぞ。全てが嫌になって、最悪の場合、自殺にまで追いやってしまうかもしれない」

「……」

「この戦いを公表するのは難しい。少なくとも俺には出来ない。誰かを犠牲にして勝ち得た自由は、本当の自由なんかじゃないんだ」

 嵯峨山の言っていることは正しかった。

 この戦いを終わらせる方法として刀人のことを公表する。

 まだ、ガートマンとして働くようになって間もない俺でも思いついた方法を、秋野たちが考えつかないわけがない。

 八重坂たち刀人の未来を守るためにも、それは決して出来ないことなのか……。

「すまん、八重坂たちの立場で考えなかった俺が軽率だった」

「わははは、そんなに気にすることじゃない。誰だって考えることだ」

 嵯峨山はいつもの調子で笑いながらアイスコーヒーを飲んだ。

「それじゃあ、嵯峨山。お前たちはどうしようと思っているんだ? この争いを(おおやけ)にすることが出来ない以上、他に方法なんてあるのか?」

「難しいところだが、方法が全くないわけじゃない。秋野は別の線でこの戦いを終わらせようとしている。それが千登勢の話にも関係するんだ」

「あの子の?」

「まあ、順を追って説明する」

 嵯峨山は手にしていたコーヒーをテーブルの上に置いた。また長い話が始まりそうだが、これからのためにも聞いておかなければならなかった。

「実はな、ダルレストの刀人たちも全員好きこのんであんなことをしているわけじゃない。奴らに指示を出している上の連中は刀人のことをただの道具としか考えていない。死んでも替え玉なんていくらでもいるからな。そんな奴らの命令をずっと聞いていれば、不満なこともあるだろう。あいつらも人の子だ。感情はちゃんとある。反発しようとしているやつもいるに違いない」

「じゃあ、なぜ奴らは上の指示に従って人を殺すんだ?」

「実はダルレストには同盟を結んでいる別の組織が存在している。そいつらが大きな抑止力になっているって話だ」

「別の組織?」

「上の連中に逆らったダルレストの刀人を処罰するグループだ。簡単に言えば、ダルレストの刀人専門の警察みたいなもんだな。そいつらに散々な目に遭った刀人が大勢いるらしい。それはもう悪夢のようなことを平然とやってのけるそうだ。そいつらのせいで、ダルレストの刀人たちは上に逆らわずに従っているのさ。あいつらも生き延びようと必死なんだろうな」

 一息ついて嵯峨山は椅子に座り直した。

「ただ、そこまでわかった以上、俺たちにこの戦いの逆転の糸口が見つかったということだ。そのダルレストの抑止力になっている組織を壊滅させる。そうすればダルレストにいる刀人たちも黙っていないだろう。内部から崩壊させることができる」

 言い終わると、嵯峨山が八重坂や愛佳と買い物を続けている千登勢のほうを見た。

「で、その組織のことを調べているのが千登勢たち海外組ってわけだ」

「海外組? あの子が?」

「今のところ、その組織のことでわかっているのはアメリカに拠点を置いているということと、数十人で構成されている小規模なグループだということだ。それを調べているのが海外組。当然、ダルレストと手を組んでいるぐらいだから、かなり危険な連中だ。海外組にはリスクの大きな仕事をさせているが、その働き次第でこの戦いが早く終わるか、長引くか決まる。とても重要な仕事を任された奴らだ。千登勢は今、そいつらから訓練を受けている新米ってところだな」

「なるほどな……。しかし、随分詳しいんだな。ダルレストのことや同盟を結んでいる組織のこととか、そんな情報どうやって手に入れたんだ?」

「まあ、何年か前に向こうへ潜り込んでいた時期があってな、その時に調べていたのさ」

「つまり、スパイっていうことか。すごいな、お前」

 心の底から感心したが、嵯峨山はたいして喜ばずに肩をすくめるだけだった。

「俺は全然すごいやつじゃないさ。結局、あいつに何もしてやれていない」

 そう言いながら、嵯峨山が買い物をしている愛佳のことを見つめた。

「ずっとああいう毎日を送らせてやりたいんだけどな……」

「……」

「梨折、お前は後悔するようなことをするんじゃないぞ。大切な友達を失い、相棒だった井出浦(いでうら)もいない今、八重坂を支えてやれるのはお前とシンナしかいない。自分のやらなければいけないことを見失うな。俺も……これから先どんなことがあっても愛佳を守ってみせる」

「嵯峨山……」

 何があったのか、聞いてはいけないのはこのメンバーの中で暗黙の了解だった。それぞれがみんな後ろ暗い過去を持っている。それを掘り起こすような真似をするな、と沢村から強く言われたのを今でも覚えている。

 だが、今の嵯峨山の言い方が遺言のように聞こえてしまった俺は、聞いておかなければいけないと思った。

「嵯峨山、お前……!」

 その時、誰かの視線を感じた。行き交う人ごみを見ていたら、何人かと目が合うのは当然だったが、そうじゃない。ずっと俺のことを誰かが見ているような感じがした。

 いったい誰が……。

『会いたかった……』

 ふと頭の中に弥生(やよい)の声が聞こえてきた。

『会いたかったよ……』

 弥生?

 心の中で呼びかけてみたが返事はない。独り言か? 

 弥生が独り言を呟くのは珍しいことじゃない。だが、今の声は何か深くて大きな思いに浸っているような気がした。俺の声なんて届いていないような……。

 その時、視線の先、喫茶店の対面にある店の前に誰かが立っていた。まだ若い……潤一(じゅんいち)と同じくらいの少年だろうか。深緑のカッターシャツ、紺色のズボン。そして、頭に被った灰色のソフトハット。そのせいで顔は見えないが、他のやつとは違う雰囲気が感じ取れた。

 少年が僅かにソフトハットを上にあげる。その顔が笑っているように見えた。

「僕も会いたかったよ」

 声は聞こえなかったが、そう呟いたような気がした。

「梨折、どうかしたのか?」

 そばから嵯峨山に呼びかけられて、一瞬だけ少年から目を離した。

「いや、ちょっとな……」

 すぐに視線を元に戻した。だが、そこにはもう少年の姿はなかった。辺りを見回しても見つからない。

「今のは……」

 幻覚……だったのか。

「嵯峨山、梨折、お待たせしました」

 まだ少年のいたほうを見ていると、秋野(あきの)が話しかけてきた。そのそばには彼女のボディガードをしている松藤(まつとう)という女もいる。

「おう、秋野、海外組と連絡が取れたのか?」

「ええ、迎えに行く準備は出来ているようです。と言っても、向こうに到着するのは十時間以上かかりますけど」

「そうかそうか」

「さ、出発しましょう。嵯峨山、千登勢たちを呼んできてください」

「おう」

 秋野に言われて、嵯峨山が八重坂たちのところへ向かっていく。それがわかっていても、俺はまだ呆然としていた。

「梨折、どうかしましたか?」

「ん? ああ、いや、何でもない。ちょっとぼうっとしていただけだ」

「しっかりしてくださいよ。私たちの警護をしてもらっているんですから」

「ああ、すまん」

 俺はさっき見た少年のことはとりあえず頭の隅に置いといた。

「空港へ行くまでの方法はここまで来たのと同じでいいのか? 俺と八重坂が先に向かう形で?」

「ええ、私たちは嵯峨山たちと一緒にあとから梨折たちの車について行きます。空港までは連絡橋を渡るだけです。千登勢たちが戻ってきたら、すぐに出発しましょう」

「わかった」

 俺は残りのコーヒーを飲み干して、席から立ち上がった。


  8


 りんくうタウンをあとにした俺たちは泉佐野市と関西国際空港をつなぐ連絡橋を渡り始めた。

 俺の運転している車は夏に白浜へ旅行に行った時と同じ白いバンだった。あの時、ほぼ満席に近かった車内には助手席に座る八重坂以外に人はいない。バックミラー越しに後ろを見ると、あとを追うように嵯峨山たちが乗っている同じ車種のバンが走っていた。

 そういえば、空港に行くのなんて初めてなんじゃないかと思った。海外旅行の経験が一度もないのが関係しているだろう。中学、高校の時の修学旅行は国内でそれも京都や滋賀県と言った近畿圏内だったし、社会人になっても国外へ出かけるほど金を使う余裕がなかった。もし、由美(ゆみ)との付き合いが続いていれば、ヨーロッパあたりにでも出かけていたかもしれないが…… 。

「……」

 電話しなくなってからもうすぐ二ヶ月か……。

 時々、由美の顔を思い出すと、ため息が出るのと同時にその声が聞きたくなった。愚痴でも何でもいい。理由はわからないが、時々、あいつと話したい気持ちになる。

 今頃、あいつは何をしているだろう。

 寝不足であくびをしながら黙々と仕事をしているのだろうか。

 ストレスを溜めて、たばこを吸いすぎていないだろうか。

 俺のように働きすぎで、倒れていなければいいが……。

「はあ……」

 やっぱりため息が出てきた。あいつのことを考えると疲れが出る。

「おい、おっさん」

「ん?」

 助手席から声が聞こえてきたので、横目で見ると、長い髪を紐で一つに結んだ八重坂がいた。いや……。

「何、ため息ついてんだよ。疲れてんのか?」

 その乱暴な口調は紛れもなく、八重坂の別人格のシンナだった。いつの間に入れ替わったんだろうか。

「いや、ちょっと考え事をしてただけだ」

「なんだよ、悩み事か? あたしで良かったら、愚痴ぐらい聞いてやるぜ」

「そこまで深刻なことじゃない。心配するな」

「そうか? おっさん、結構溜め込みそうな顔してるからなあ。たまにはストレス発散しないといけねえぞ」

「ストレス発散……か。何か良いアイディアがあるのか?」

「そりゃあ、ストレス発散と言えばあれしかねえだろ、おっさん」

「何だ?」

「女だよ。女」

 予想外の答えが来て、かなり動揺した。

「おい、急に何を言い出すんだ!?」

「何だよ、そんなに驚くことか? おっさんぐらいの年なら一人や二人、経験あるだろ。まさか……童貞って言うんじゃないだろうな?」

 半笑いで話すシンナに俺は動揺しっぱなしだった。男同士でこういう話をするならわかるが、お前は女だぞ、女。

「そういうお前はどうなんだ?」

「あたし? あるわけないだろ。あたしがそう簡単に股開くと思ってんのかよ? 最も真那がそんなことさせるはずねえけどな」

 普通の女の子なら顔を赤らめるようなことを平然と言うシンナに対して、俺のほうが恥ずかしくなってきた。

「女遊びでストレス発散するのはどうかと思うぞ。俺ならもっと別のことをやる」

「けっ、つまんねえな」

 呆れたように言うと、シンナは助手席のシートにもたれた。

「悪かったな、つまらない男で」

 俺は前に向き直って運転を続けながら言った。

「昔、付き合ってたやつにもよく言われたよ。あんたは本当につまらない。もっと楽しそうにしろってな。何をするのにも真剣になってしまうのはガキの頃からの癖でな、そう簡単に治せるようなものじゃない。沢村のように仕事の時は真剣で、休暇の時はのんびり出来るようになれたら良いんだがな。どうも、俺は視野が狭くなってしまう人間のようだ」

だから、由美にも別れを告げられた。井出浦(いでうら)さんに恩を返すことも出来なかった。潤一(じゅんいち)やじいさんのことも救えなかった。

「俺は……だめな男だよ」

「いや……違うな。それはおっさんの良いところだと思うぜ」

「どうゆうことだ?」

 シンナの言っていることがわからず、俺は聞き返した。

「おっさんとあたしは全然違うってことさ。あたしはこう何だ、いい加減なところが多いからよぉ。おっさんのように細かいことは気にしないし、めんどくさいことはすぐにやめるし……。おっさんはそういうところがしっかりしてると思うぜ。だから、不器用だけど他のやつを気遣うことができるし、あたしらともすぐに打ち解けることができた。神経質なのは欠点かもしれねえけど、同時に良いところでもあるのさ。まあ、そう自分を下に見るなよ」

「……」 

 あいた口が塞がらなかった。まさかシンナにそんなことを言われるとは想像もしていなかった。

 性格もそうだが、シンナはたぶん八重坂と同い年で、俺の十歳ぐらい年下の女だ。そいつがそこまで俺のことを見ていたことに驚いてしまった。

「そう褒められると……何か、照れるな。だが……ありがとう」

「な……」

 素直に礼を言うと、なぜかシンナは目を見開いた。一瞬だけ顔を赤くする。

「あ、ありがたく思っとけよ。珍しいからな、あたしが他人を褒めるなんて」

「ああ。だから、礼を言ったんだが?」

「……ふん」

 なぜか反対側の窓のほうに身体を向けて、それ以上話をしてこなかった。

 その様子を見て、思わず笑ってしまいそうになった。

 人を褒めるのも珍しいが、恥ずかしがっているシンナも新鮮に思えた。乱暴な口ぶりがたまに傷だが、八重坂や俺のことを気遣ってくれているのは前から知っていた。根は真面目で良いやつなのかもしれない。

「……」

 そういえば、シンナに聞きたいことがあったんだ。それは俺にとって重要なことだった。

「なあ、シンナ」

「ん、どうした?」

「前から聞きたかったかんだが、お前は八重坂の――」

『来る……』

 シンナに聞こうとしたが、その直前に弥生の声で遮られた。

『もうすぐ来る』

 来る? 何が来るって言うんだ、弥生?

 心の中で聞いたが、返事は帰って来なかった。

「おい、おっさん」

 シンナが普段よりもやや低い声で言った。

「どうした?」

「何かおかしくねえか? この橋を渡ってからだいぶ経つのに……」

 シンナは周りをみまわしてから言った。

「あたしら以外に車がない」

「!」

 俺は驚いてシンナと同じように辺りを見回した。後方には嵯峨山の運転している車以外に後から続く車はない。

 対向車線のほうにも目を移したが、車が来る気配はなかった。

「どうゆうことだ……?」

「おっさん、奴らだ。奴らの気配がする」

「奴ら? ダルレストか!?」

「こいつは……車じゃねえな。何だ……?」

 俺とシンナはもう一度辺りを見回した。やはり近づいてくる車の姿はない。あと聞こえてくるのはプロペラの回るような音だけだが……。

 プロペラ?

「!」

 目を見開いて、海岸線沿いのほうを見た。快晴の青空の中に浮かぶ黒くて大きな点が近づいてくる。やがてその点の正体がわかった。

 ヘリだ。それもただの民間用のヘリじゃない。よくニュースで見るような自衛隊の使っている軍事用のヘリだった。

「シンナ、ヘリだ! 奴らが乗っているぞ!」

「やべえぞ、おっさん……一機だけじゃねえ。反対側からも来てるぞ!」

 シンナの言葉に驚いて反対側を見ると、同じ機体のヘリが近づいてくるのが見えた。

「ダルレストのくそ野郎どもだ。あんなものまで用意してやがるとは……」

「待ち伏せていたのか? なぜ、俺たちがここを通るのを知っていたんだ!?」

「そんなこと、あたしが知るかよ! 今はこの状況を切り抜けるほうが先だ!」

 やがて二つのヘリが橋の両側にまで近づいてきた。俺たちの車は完全に挟まれてしまった。

「おっさん、今さら戻るのは無理だ! さっさと橋を渡り終えるしかねえぜ!」

「言われなくてもわかってる!」

 アクセルペダルを踏み込んで車のスピードを上げた。バックミラーで嵯峨山たちの車も後ろからついてくるのが見えた。向こうも橋を渡り切るのが一番良いと思ったのだろう。連絡をせずに済んだのは大きかった。

 しかし、車の速度をいくらあげても、ダルレストのヘリを振り切ることは全く出来なかった。むしろ、ヘリのほうが速度を抑えて自分たちのスピードに合わせているようにさえ見える。左右を挟まれたままの状態が続くだけだった。

 なぜだ? どうして奴らは襲ってこない?

 この状況がしばらく続いてから疑問に思っていた。刀人ならヘリから飛び降りて襲ってきても不思議じゃない。それなのに、奴らは俺たちの車を挟んだまま、様子を見ている。

 これの意図するところは……。

「なっ……!」

 その時、道路の先に何かあるのが見えた。それを見てようやく連中の意図がわかった。

黒い大型のバンだった。バンが四台、横一列に並んで道を塞いでいる。

舌打ちしたい気分だった。事前に道路を封鎖して、動きを止めたところを襲撃するつもりなんだろう。

「くそ、道が塞がれてるぞ!」

「とまるなよ、おっさん! 突っ切るしかねえ!」

「くっ!」

 俺はアクセル全開で車を進めた。横一列に並んでいるとはいえ、車と車の間に隙間が出来ていた。そこへ車体が傷つくのを覚悟で突っ込むしかない。もし、連中が襲ってきたらシンナに対処してもらうしかない。

 やがて車の速度が最高にまで達し、俺たちの車はバンの列に向かって勢いよく突っ込んだ。鼓膜に響くくらい大きな音と衝撃が体にはしる。車のサイドミラーが吹き飛び、フロントガラスにヒビが入ったが、目は閉じなかった。ずっとアクセルを踏んだまま、俺たちの車は道を塞いでいたバンの列をくぐり抜けた。

「よし、抜けたぞ! ナイスだ、おっさん!」

「嵯峨山たちは!?」

 俺は嵯峨山たちの車があとについてきているのか、確認しようと後ろを振り返った。その直後だった。

 さっきバンの列に突っ込んだ時よりも大きな音が鳴った。視界全部が真っ赤な炎で覆われる。音が大きすぎて一瞬何も聞こえなくなった。何が起きたのか、全く理解できなかった。

「おっさん! しっかりしろ、おっさん!」

 シンナの声が二重、三重に重なって聞こえてきた。耳がおかしくなったのか。

「おっさん、早く止めろ! 車が爆発したぞ!」

「な……に?」

 かろうじて聞こえたシンナの声に従って車のブレーキを踏んだ。

 最高速度から急にブレーキを踏んだので、タイヤと道路の擦れる音が鳴り響いた。車は十数メートルほど道路を滑るように進んでようやく止まった。

「葉作のおっさんの車が来てねえ。おっさん、急いで戻るぞ!」

「わ、わかった!」

 まだ耳がおかしくなっていたが、それに構わず急いで車から降りた。道路の後ろのほうを見ると、道を塞いでいた数台のバンが全て赤い炎で包まれていた。黒い煙が空へ立ち上っていく。そのせいで向こう側にいる嵯峨山たちが無事なのかどうかわからなかった。

「戻るぞ!」

「ああ!」

 俺たちは急いで走ろうとした。だが、その前にプロペラの回る大きな音が聞こえてきた。驚いて上を見上げる。

 さっきのダルレストのヘリの一機だった。そのまま、燃え上がるバンの列と俺たちの間の道路に着地した。

「ようやくお出ましかよ……くそ野郎ども」

 シンナがにやりと笑って手に刀を出す。やがて、ヘリのハッチが開いた。また、今まで俺たちを襲ってきたような男たちがぞろぞろと出てくるのかと思った。

 だが、違った。ヘリから現れたのは一人の女だった。青いジーパンに袖なしの黒いティシャツ。特徴的な黒のシニヨンヘアーをした若い女だ。

「お、女!? 女の刀人かよ!」

「初めましてって言うべきかしらね、ガードレディのお嬢さん」

 驚くシンナに対して女は表情変えずにただ冷静に言った。

「悪いけど、あなたたちに邪魔をさせるわけにはいかないの。そちらのリーダーさんを捕まえるまでは、私が相手をしてあげるわ」

「けっ、理事長を捕まえることが目的だったのかよ。そう簡単に行くと思ってんのか? このシンナ様を相手によお」

「シンナ? そう、あなたが例の……」

 女はそう呟くと、右手を横に振った。まるで手品でもしたかのように、女の手に黒くて長い棒が現れた。

 あれは何だ? 少なくとも刀なんかじゃない。西遊記か、何かで見たことがあるような……もしかして、如意棒ってやつか?

「刀じゃねえ……。てめえ、オリジナルか?」

「ああ、そういえば、自己紹介をしていなかったわね。字倉(あざくら) 花麗(かれい)よ。初めまして。と言っても、あなたたち二人はここで死んでしまうかもしれないけど」

「へ、言ってくれるじゃねえか。あたしを舐めんなよ」

「舐めてなんかいないわ。特にあなたは上から要注意って言われているしね」

「なに?」

「いけない、少し口が滑ったわ。それよりこんな無駄話を続けてていいの? 後ろの人たち、危ないかもしれないわよ」

「ちっ、さっさとケリをつけるしかねえ。おっさん、援護してくれ」

「ああ……!」

『会いたかった……』

 拳銃を取り出そうとする前に、弥生の声が聞こえてきた。その直後に頭にずきっと強い痛みがはしった。

「う……」

 頭を抑えたが段々痛みが強くなっていく。

 なんだ、こんな時に……。

「ん、おっさん、どうした!?」

「よそ見してて……いいのかしら?」

 すぐ傍からさっきの女の声が聞こえてきた。上を見上げると、女がいつの間にか距離を詰めて、両手に持った棒を振り上げていた。

「ちっ!」

 腹のあたりに強い衝撃がはしった。シンナが俺を後ろへ突き飛ばしたのだ。それと同時に女が振り下ろしてきた棒を刀で防いだ。

「くっ……」

 痛みがどんどん激しくなっていく。立つことすらままならなくなってきた。

『ずっとずっと……弥生も会いたかったよ』

 弥生の声が聞こえる。誰にその言葉を投げかけているのがわからなかったが、俺に話しかけているようには思えなかった。

『会いたかった……お兄ちゃん』

 その言葉を最後に弥生の声は消えていった。だが、頭の痛みは全くひかなかった。身体のバランスを保てなくなり、地面に膝をつく。視界も朦朧としてきた。

「シンナ……」

 

  9


 ものすごい衝撃が体にはしってきた。何とか攻撃を防いだものの、女が手にした棒でじりじりと押し込んでくる。

「こいつ……」

 見た目以上に強い力だった。今まで戦った相手とまるで違う。これがオリジナルの刀人。鶴姉や未国はこんなやつらと戦ったのか……。

 おもしれえ……。

 普段戦っている奴らじゃ物足りねえと思っていた。あたしの溜まっていた鬱憤を晴らすには全く足りない。もっと満足できる相手を求めていた。

「うらあ!」

 危機感よりも高揚感が勝り、あたしは刀を握った両手に力を込めて、女の攻撃を押し返した。女が軽やかに後ろのほうへ着地したのとほぼ同時に、あたしは地面を踏み込んで女に接近した。

 あの棒は刀よりリーチが長い。懐に潜り込めば……!

 刀を構えて、女の脇腹に向かって突き出す。しかし、女はそれをあっさり避けて、振り向きざまに手にした棒をあたしの首あたりを狙って横に振ってくる。態勢を低くしてそれを避けたが、今度は顔面に向かって棒の反対側の先が向かってきた。

「ちっ!」

 刀を前に構えてそれを防いだが、女のほうが力が強いことは最初の攻撃でわかっていた。まともに防げば、後ろへ弾き飛ばされるのは容易に想像できる。

 あたしは、刀身を少し横に向けて女の攻撃を受け流した。そのまま、刀を向き直して、女に斬りかかる。完璧に捉えたはずだった。

 だが、女の姿はそこになかった。気づけば、あたしは体ごと横へ突き飛ばされていた。斬りかかってきたあたしをあの女は棒で身体ごと突き飛ばしたのだ。

 何て馬鹿力だ。本当に女かよ!

 舌打ちしたい気分だったが、そんな余裕はなかった。地面に倒れたあたしに向かって女が棒の先を突き出してくる。

「くっ!」

 横に転がってその攻撃を避けることが出来たのは奇跡だったかもしれない。棒の先が勢いよくアスファルトの道路に食い込む。それぐらい早くて恐ろしい一擊だった。

 だが、あたしはとにかくそれを避けることができた。急いで身体を起こして女に向かって再び斬りかかる。あんなに道路へ棒を食い込ませれば、すぐには抜けないはずだ。完全に隙を突いた。

「ふっ」

「!?」

 笑った? こいつ、今笑いやがったのか?

 女の笑みに驚くの束の間、女は食い込んだ棒を抜き出した。その勢いでアスファルトの道路に亀裂が入る。

 ぶん、という空気の唸る音と共に女が棒を横に振ってきた。ものすごい速さだった。咄嗟に刀で防いだ。直撃はまぬがれたが、その勢いまで抑えることは出来なかった。そのまま、横に吹き飛ばされ、道路の端に身体をぶつけた。

「さすが最強のガードレディ。そう簡単には死なないわね」

「ちっ……」

 余裕ぶりやがって。こっちはギリギリだっていうのによぉ……。だが……。

「くく……」

 だが、面白い。これぐらい強いやつじゃないと張り合いがねえ。こういったやつを倒すぐらい強くならないと、あたしは真那の中で存在している意味がない。真那のために、そしてあたし自身のために、あたしは戦う。

 身体をぶつけたせいで背中が痛んだが、全く気にならなかった。これぐらいの傷はもう慣れている。

 あたしは再び刀を構えて、女に向かって斬りかかった。おっさんのことや理事長のことはあまり考えていなかった。


  10


「いったい何が起きたんだ……」

 車の運転席から見える光景に唖然として、開いた口がふさがらなかった。前方の道が真っ赤な炎に覆われて道を塞ぎ、雲一つない青空に黒い煙が立ち上っている。

 一旦、落ち着いてこの状況に至った経緯を思い出す。

 連絡橋を渡っていると、持っているスマートフォンが刀人の反応を探知し、海岸線の向こうから黒くて大きなヘリが現れた。

 幹部として働いていたこともあって、それがダルレストのものであることはすぐにわかった。だが、それが使われているところを見るのは初めてだった。その驚きと、なぜ俺たちがここを通るのを知っていたのかという戸惑いをおぼえつつ、車の速度をあげた梨折のあとについていった。

 梨折たちも状況を把握して、すぐにこの橋を渡り終えようとしているのは連絡しなくても察することができた。しかし、橋の反対側からもダルレストのヘリが現れ、俺たちは両側を挟まれる状態になった。そして、前方の道路を数台のバンが塞いでいるのが見えた。      

 梨折たちはそれに構わずに突っ込んで、道を開いてくれたが、その直後にそれらのバンが全て爆発したんだった。

「……」

 思い出すのに時間がかかってしまった。いや、それよりも……。

 俺は助手席のほうを見た。

「愛佳、怪我はしていないか!?」

「愛佳、平気」

 助手席にいた愛佳は無傷だった。

「他のみんなは!?」

「大丈夫です」

「私も問題ありません」

 後部座席に座っていた秋野、松藤も無事だった。

「ちーちゃん、平気?」

「うん、ちょっと打っただけ。大丈夫だよ、あいちゃん」

 千登勢は腕のあたりを打撲していたようだが、怪我はしていないようだった。

「よし、とりあえずみんな無事だな」

「嵯峨山、梨折たちは?」

 秋野にそう聞かれて前方を見る。燃え盛る炎のせいで向こう側を確認することはできなかったが、車が爆発する前に梨折たちの車が突破したのはしっかり見ていた。

「おそらく無事だ」

「あとで連絡してください。それよりもあのヘリは……」

「ああ、ダルレストだ。なぜかは知らんが、待ち伏せされていたらしいな。とにかく引き返すぞ。梨折たちが無事なのを祈るしかない!」

 車のハンドルを切り返し、車を反対方向にむけた時だった。

「!」

 いつの間にか、ダルレストのヘリの一機が後ろの道路に降り立って道を塞いでいた。ハッチが開いて男たちが降りてくる。その全員が手に刀を持っていた。

「ちっ……」

 思わず舌打ちしてしまった。後ろは燃え盛る火の海に包まれている。梨折たちのように突破する手もあるが、秋野や千登勢を守ることを考えると、それは無謀だった。だからといって、前からやってくるダルレストの刀人とやりあうのは……。

 俺は車内にいるメンバーを見回した。松藤は秋野が外へ出かける時に付き従う優秀なボディガードだが、刀人を相手にするのは分が悪すぎる。千登勢は腕を打撲しているようだし、無理をさせたくはない。じゃあ、あとは……。

「お父さん、愛佳が戦う」

 俺は助手席のほうに視線を移した。愛佳は真剣な目でこっちを見ていた。

「だが、愛佳。お前は……」

「大丈夫。愛佳はもう昔とは違う。愛佳がちーちゃんを、みんなを守る」

「あいちゃん、無茶だよ。わ、私も……」

「だめ」

 小さな声で言う千登勢に愛佳は厳しい口調で言った。

「ちーちゃんは戦ったらだめ。絶対に。うたちゃんと約束した」

「あいちゃん……」

 愛佳は助手席のドアに手をかけた。その手がわずかに震えているのを見逃さなかった。

「待て、愛佳。俺も行く。お前を一人で戦わせない」

「……」

「約束しただろ?」

「……うん。お願い、お父さん」

 愛佳は俺に後ろを向けたまま、小さな声でそう言った。

「葉作、愛佳」

 秋野が千登勢を抱きしめながら呼びかけてきた。思えばその時、初めて秋野に名前で呼ばれた気がした。

「あなたたちは死んではいけませんよ。こんなところで死んではいけません」

 念を押すように言う秋野に対して、俺はにやりと笑った。

「言われなくても、そのつもりだ、秋野。お前への恩、まだ返しきれてないからな」

「葉作……」

 俺は親指を上に突き立ててまた笑うと、愛佳と共に車から降りた。

 ダルレストの刀人が四人、刀を持ったまま近づいてくる。どれも知らない顔だった。もっとも、幹部として働いていた時に見知ったやつのほとんどは死んでしまっていると思うが……。

 腰に差していた拳銃を取り出そうとすると、愛佳が前のほうに出た。

「お父さんは後ろで援護して。愛佳が全部やる」

「愛佳、それは……」

「平気」

 愛佳は表情変えずに、その容姿に決して合わないぐらい大きな斧を出した。それを片手で握り締める。

「すぐ片付けるから」

 言い終わるのと同時に愛佳の姿が消えた。その直後に男の叫び声が聞こえる。

 ダルレストの刀人の一人が肩から切り裂かれて倒れていくのが見えた。そのそばに返り血を浴びた愛佳の姿が見える。ほとんど目で追いきれない速さだった。

「なんだ、こいつ!」

 別の刀人が愛佳に向かって斬りかかる。愛佳はそれを避けようとせずに手にした斧を下から振り上げた。同じ刀人とはいえ、愛佳はまだ中学生ぐらいの子供だった。力の差がある。だが、愛佳は刀人の男の攻撃を防ぐだけでなく、その手に持っていた刀まで弾き飛ばした。大きな隙を見せた男に向かって斧を振り下ろす。男は悲鳴をあげるまもなく、血を噴き出しながら倒れていった。

 そこに躊躇いはない。容赦も、情けもない。それは昔と変わらないかもしれない。だが、今の愛佳は明確な理由を持った上で戦っている。後ろにいる大切な……大切な友達を守るために戦っている。

 愛佳、お前はもう……。

 やがて、残りの刀人も反撃するまもなく愛佳に倒された。俺が援護する必要は全くなかった。

「……」

 愛佳は顔についた血を手で拭って俺のほうに向かって歩き始めた。

「愛佳……」

 俺は何て声をかければいいだろう。一瞬、考える。言うべきかどうか迷ったが、言葉にしないといけない気がした。

「よくやったな……」

 さすがは俺の娘だ、と言いかけた……その時だった。

「へえ、こんなところで会うなんて、奇遇だね。愛佳、葉作」

 その声を聞いた瞬間、背中に寒気がはしった。嫌な汗が流れていく。こっちに向かって歩いていた愛佳の表情も変わったのがわかった。

 愛佳の後ろに着陸していたヘリ。そこから降りてくるやつがいた。そんなに体が大きいわけじゃない。だが、その姿を見た瞬間、俺は言葉を失った。

 深緑のカッターシャツ、紺色のズボン。そして、灰色のソフトハット。

 あのソフトハットを被っている刀人を、俺は一人しか知らなかった。

「い、伊月……なのか?」

「久しぶりだね、愛佳、葉作」

 ソフトハットを少しあげたから、その顔が見えた。間違いない、ダルレストの幹部として働いていた時にもいた、あの伊月だった。

「伊月……」

 愛佳も伊月のことがわかったんだろう。再び後ろに振り返って、斧を強く握り締めるのが見えた。

「……」

 伊月は何も言わずに視線を愛佳からそばで倒れている死体のほうに移した。

「浜家が選んだから、それなりに強かったと思うけど、こんなあっさり倒すなんて……さすがだね、愛佳。でも……」

 伊月は笑顔のまま、愛佳と俺のほうを見た。

「僕との約束を破ったね」

 顔は笑っていたが、その言葉にはっきりとした怒りが込められていた。言い終わったの同時に伊月がソフトハットを被りなおす。やつの周囲から感じ取れる雰囲気は昔とは段違いだった。

 まずい。今のこいつと戦ってはいけない!

 その時、愛佳の握り締める斧が僅かに動いたのが見えた。

「愛佳、やめろ!」

 俺の言葉が終わるか終わらないうちに愛佳は伊月のほうに向かって走っていた。

「うああああああ!」

 大声で叫びながら伊月に向かって斧を振り下ろす。

「相変わらず、君の戦いは直線的すぎるね」

 しかし、愛佳の持つ斧が伊月のすぐ手前でピタリと止まった。

「うっ!」

 うめき声をあげると、なぜか愛佳は斧をその場で消して後ろへ下がった。

「愛佳?」

 何が起こったのかわからなかった。だが、その直後、愛佳が左頬のあたりを抑えて片膝をついた。その押さえた手の指と指の間から赤い血が流れ落ちていくのが見えた。

「愛佳!」

 俺は急いで愛佳の元へ駆け寄ろうとした。けど、身体が動かなかった。両手、両足が全く前に出ない。

「な、なんだ!?」

 力を込めて、腕を動かそうとした。その瞬間、関節のあたりに強い痛みがはしり、声をあげそうになった。今まで感じたこともないくらいの激痛だった。

「動かないほうが良いよ、葉作」

 伊月は右手を広げて俺のほうに向けた。

「そういえば、君にはまだ教えていなかったね。僕の刀人として扱う得物のこと。これだよ」

 伊月の右手が太陽の光に反射して光った。いや、正確には伊月の指のあたりに絡まった細い糸のようなものが輝いていた。その糸がまっすぐ俺の両手、両足の関節と首に絡まっている。

「こ、これは……」

「僕が本気を出せば君たちの身体を切り刻むことなんて簡単だよ」

 よく見ると、伊月の左手にも糸が絡んでいた。その先が愛佳の身体を覆うようにしている。

「さ、みんな一緒に来てもらうよ。大人しくついて来てくれたら、無駄な死人を出さずに済む。誰も悲しまないでいい」

「渡さない……」

「あ、愛佳?」

 片膝をついていた愛佳が身体を震わせていたが、もう一度強い口調で言った。

「ちーちゃんは……渡さない!」

 大声で叫ぶと、愛佳は再び斧を出して、周りを覆っていた糸を切断した。その時に身体の何箇所かに傷を負ったが、構わず伊月のほうに向かっていく。

「うあああああ!」

「無駄だよ、愛佳」

 向かってくる愛佳に対して、伊月は目を閉じて言った。

「人の愛情を知り、自分の本当の気持ちに気付いた今の君は僕に勝てない」

 再び目を開けた瞬間、伊月が左手を再び動かした。太陽の光に反射した糸が愛佳の身体に巻き付いていく。

「くっ!」

 愛佳は斧を振り回して再び切断しようとしたが、それ以上の速さで糸が愛佳の身体を何重にも巻きついて完全に動きをとめた。愛佳はそのまま、伊月の手前で倒れた。もう身体を起こすことは出来ないようだった。

「あ、愛佳……」

 大声で叫びたかったが、首に巻き付いた糸のせいで声が出なかった。

「残念だよ、二人とも」

 伊月が悲しそうな声でそう言うと、次の瞬間には目を鋭くして俺のほうを見た。右手の指が僅かに動く。それと同時に首に巻きついていた糸の力が強くなり、呼吸が難しくなった。視界も段々とぼやけていく。

「愛佳……」

 倒れている愛佳と俺のほうをじっと見ている伊月の姿を最後に俺の意識は途絶えてしまった。


  11


 四年前。 2060 年。


「愛佳! 愛佳!」

 どこかの家。俺は明かりがついていなくて、窓から差し込む月の光が照らす薄暗い廊下を走っていた。

 おかしな胸騒ぎがする。あの日からだ。愛佳の様子が今までと違っていたのは。

 どうして、俺は愛佳にこんなことをさせているんだ?

 何のために、あいつに自分のやっていることが間違いだと教えたんだ?

 何のために……。

「愛佳!」

 廊下の一番奥の部屋。そこから僅かに人の声が聞こえてきた。俺は急いでそのドアを開けた。

「……っ!」

 それは何度も見てきた光景のはずなのに……もう見慣れていた光景のはずなのに、俺は言葉を失った。

 床一面が真っ赤な血で濡れ、その上で倒れている二つの死体。二人とも肩からまっすぐ切り裂かれている。そのそばに立っている愛佳の手にはまだ大きな斧が握られていた。そして、その奥には……。

「た、助けて。誰か……誰か……」

 愛佳と同じくらいの年の女の子がパジャマを着たまま、涙目になって愛佳のほうを見ていた。

「愛佳……」

「お父さん」

 呼びかけた俺に対する愛佳の言葉は悲しみをおびていた。愛佳がゆっくりと俺のほうに視線を向ける。その目に涙が溢れているのが見えた。

「愛佳、本当は……本当はね、こんなことしたくなかった……」

 それは俺が聞きたかった、でも、聞いてはいけなかった……愛佳の本当の言葉だった。


 第九話 本当の言葉 終

 次回へ続く。





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