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第八話 大きな節目

 第八話 大きな節目


 1


 自分にとって一番大事なものは何か、誰でも一度は考えることじゃないだろうか。

 幼い男の子なら誕生日に買ってもらったおもちゃの飛行機といい、高校でテニス部に所属している女の子なら愛用のテニスラケットだといい、本を読むのが好きな人ならある小説家の作品と答えるかもしれない。

 人にはそれぞれ大事なものがあって、その種類は数え切れないほどあるだろう。

 でも、それ以前に最も基本的な部分から考えると、一番大事なものは自分自身の命じゃないだろうか。死んでしまったら元も子もない。死にたい、などと普段から口にしている人は多いけど、実際に自ら命を絶つ人はほとんどいないだろう。

 誰でも無意識のうちに自分の命が惜しいと思っている。それを非難するつもりはないし、むしろ正しいことだと思う。

 でも、僕は他の人と違う。僕は自覚した上で、自分の命より大切なものがあった。

「その帽子、いつも被ってるけど、そんなに大事なものなの?」

 ある時、仕事を終えた帰り道で花麗(かれい)に聞かれたことがある。以前から彼女が気にしているのは知っていたし、その質問をされたのも彼女が初めてじゃなかった。

 僕は頭に被った灰色のソフトハットを脱いだ。かなり前から使っているけど、毎日欠かさずに手入れをしているおかげで、ほとんど汚れていなかった。仕事柄、どうしても返り血がついてしまうことはあるけれど。

「これは僕にとって二番目に大事なものなんだ」

「二番目? じゃあ、一番は……自分の命とか?」

「ううん、そうじゃないよ」

 僕の答えに花麗は首を傾げる。自分の命よりこの帽子が大事で、更にそれ以上のものがあるなんて、誰でも不思議に思うだろう。

「僕の一番大切なものはね……」

 そのあと僕の言葉を聞いた花麗は驚いて目を見開いた。想像していなかった答えが返ってきたからだろう。他の人に答える時もみんな同じ反応だった。

伊月(いつき)、あなたの気持ちはわかるけど、それは……」

「そうだね。もしかしたら、叶わないことかもしれない。でも、僕はここで活動していることで傍にいてあげることができる。そうすれば、いつか……」

 いつか言葉を交わすことができるかもしれない。あの人に会うことができればきっと……。


 2


 2064 年九月中旬。京都府某所。『アフターケア』施設内。


 アフターケアの建物の地下には、ダルレストの刀人たちが暮らす部屋や訓練する施設が用意されている。正直言って、みんなの生活している部屋は良い場所とは言えない。具体的に例を挙げると、薄汚れていたり、ただでさえ狭い部屋なのに二人ひと組の相部屋だったり、浴室にはシャワーしかないし、壁にひび割れがあるなど、他にも不満な部分がたくさんある。

 僕も施設に来たばかりの頃はそんな部屋で生活していたけど、オリジナルの武器を扱う能力の高い刀人に抜擢されてから、とても優遇されるようになった。それなりの広さのある部屋で寝泊りすることができるし、許可をもらえば本やテレビなどの自分の好きなものを置いておくこともできる。僕の場合は冷蔵庫と期間限定のチーズケーキ味のランニングバーさえあればいいんだけど。

 でも、実際にこの部屋で生活している時間はあまり多くなかった。普段から仕事で地方に出向くことが多いし、今も三重県のほうで彼女たちとの戦いを続けているため、向こうに用意された所で寝泊りしている。

 僕が久しぶりにこの部屋へ戻ってきたのは浜家(はまや)から特別な仕事を受けるためだった。

 特別な仕事。まだ内容を聞いたわけじゃないけど、想像するのは難しくなかった。おそらく八月の終わり、神戸神社(かんべじんじゃ)の境内で吉住(よしずみ)に言われたことだろう。

 いよいよ実行する時が来てしまった。もしかしたら、今回の仕事で二つの組織の戦いに大きな変化が訪れるかもしれない。

「……」

 ベッドの淵に座っていた僕は立ち上がって、手にした灰色のソフトハットを頭に被った。鏡の前に立ち、着ていた服も整える。

「うん、悪くないね」

 一度頷いて、僕は部屋のドアを開けて外に出た。誰かが廊下で待っていた。明かりがついていないせいで薄暗かったけど、その特徴的なシニヨンヘアーを見たらすぐに花麗だとわかった。

「おはよ、伊月」

「おはよう、花麗。今日は早いんだね」

「浜家のおじさんに呼ばれたのよ。あなただってそうでしょ?」

 花麗があくびするのを我慢しながら言った。早起きが苦手なのは前から知っていた。不機嫌そうに見えるのはそのせいだろう。

「今度の仕事のこと、もう知ってるわよね?」

「どうしてそう思うの?」

「この前、呼び出しを受けたんでしょ。あの吉住っておじさんから」

「知ってたんだ」

 僕がそう言うと、花麗はわずかに視線をそらした。

「あの子、創路(そうじ)が私のところに来たのよ。あなたに申し訳ないことをしたって泣きじゃくっていたわ。死体の処理はあっさりやってのけるのに、ああいうところは本当に子供ね」

「ごめんね。花麗にまで迷惑をかけて」

「あなたのせいじゃないでしょ。それにこうなった以上、どうしようもないじゃない」

「そうだね……ありがとう」

 素直にお礼を言った。彼女は普段から何かと僕のことを気遣ってくれている。そんな人はこの施設にほとんどいない。だからこそ、彼女の存在はとても大切だった。

「向こうのリーダーを捕まえにいくらしいな」

 突然、後ろのほうから声が聞こえてきた。振り返ると、廊下の角からパーマのかかった髪に鋭い目をした男が現れた。

桜夢(おうむ)……」

 自分でもわかるくらいに嫌悪感をこめて呟いた。顔を見るのは以前、松阪駅の地下街であった戦闘以来だった。この数週間、脇腹の傷の治療に専念していたんだろう。問題なく身体を動かしているところを見ると、だいぶ回復しているようだった。

「桜夢も来るのかい?」

「万が一の保険らしい。直接行くのは伊月と字倉(あざくら)だ」

 桜夢はそう言うと、僕のほうに視線を向けた。

 この感じは……。

 桜夢の冷たい瞳を見て、直感で悟った。好奇心。桜夢は何かに対してまた強い興味を抱いている。

 確か、来る時に向こうのリーダーを捕まえに行くとか言っていた……秋野(あきの) 希莉絵(きりえ)か。彼女のことを知っている人はダルレストの中でもごく一部だった。桜夢が詳しく知らないのなら、興味を持つのも無理はない。

 でも、桜夢は何も言わずに僕から視線をそらして別のほうを見た。その先に今は誰も使っていない部屋のドアがあった。

「あそこにいたやつともうすぐ会えるような予感がする」

「桜夢、もしかして君は――」

「楽しみだな」

 それだけ言うと桜夢は静かな足取りで、廊下の角へ姿を消した。

 嫌な汗が流れた。桜夢が次に興味を持ったものが僕の予想していたのと大きく異なっていたからだ。

 そういえば、あの部屋を使っていた子と実際に会っているのは僕と花麗だけだった。

「もうすぐ会えるような予感……か」

 偶然なのか、必然なのか。僕も桜夢と同じようにあの子ともうすぐ再会するような気がした。ただ、彼と共感したところで何か嬉しいことがあるわけでもないけど。

「やっぱり変わってるわよね、桜夢」

「そうだね……」

「伊月、字倉(あざくら)

 その時、反対側の廊下から桜夢と同じようにゆっくりとした足取りで浜家が現れた。

 相変わらずの無表情。桜夢と似ているような気がしたけど、なぜか、感情がない理由は違うような気がした。

「三日後、例の作戦を実行する。失敗は許されない。数人、刀人を用意するが、基本的にお前たち二人の仕事だと考えろ」

 威圧するような低い声でそう言うと、浜家は桜夢の見ていたあの部屋に視線を向けて、より一層低い声で言った。

「それとあの部屋にいた刀人が松阪の町で何度か目撃されている」

「本当ですか?」

 隣にいた花麗が言う。声こそ小さかったけど、驚いているのは表情を見ればわかった。

「明日の作戦で接触する可能性もある。用心しておけ」

 浜家はそれだけ言って、廊下の奥へ姿を消した。

「伊月、もしあの子が相手だと、私たちでも……」

 浜家の姿が見えなくなったのを確認してから、花麗が言った。怖がっているのも無理はない。あの子の強さを間近で見たことがある僕たちは特に。

「心配いらないよ、花麗」

 でも、僕は花麗を安心させるために言った。

「人の優しさを知り、自分の本当の気持ちを知ったあの子は力を抑え込んでしまっている。今の僕たちの敵じゃないよ」


 3


 三重県松阪市、堀坂山山中。『アサガオ』本部。


 九月の半ばを過ぎて、蒸し暑い日々にも若干の涼しさが入る季節になっていた。

 白浜(しらはま)の旅行から三週間近く経っていたが、特に大きな仕事はなかった。どういう風の吹き回しか、ダルレストの刀人が松阪の町に現れたという情報は全く入ってこない。俺たちの妨害活動に苦戦して諦めたのか、何か大きな行動を起こすための下準備をしているのか、いずれにしても俺たちのほうからわざわざ出向く必要はなかったため、アサガオ本部では平穏な日々が続いていた。

「ちーちゃん、あいちゃん、縄跳びやろうよ、縄跳び!」

「うん! 行こ、あいちゃん!」

愛佳(あいか)、了承」

 中庭にあるベンチに座っていた俺は少し先で遊んでいる愛佳(あいか)千登勢(ちとせ)を見ていた。二人は他の子供たちと一緒に大縄跳びをしている。旅行から帰ってきた後、愛佳たちは毎日のように遊んでいた。どこにでもいる子供たちの日常と変わりない。みんなと遊んで、笑っている愛佳の表情も普通の女の子だった。

「愛佳の様子はどうですか、嵯峨山(さがやま)?」

 大広間のある建物のほうから声が聞こえ、後ろに振り返ると秋野(あきの)が立っていた。  

 彼女が理事長室からわざわざ出てくるのは珍しいことだった。おそらく千登勢のことが気になるのだろう。

「問題ない。見ろ、元気そのものだろ?」

「ふふ、それは何よりですね」

 秋野は微笑むと、俺の隣に座った。

「千登勢が毎日のように旅行の話をしてくるんです。その時のあの子の表情は楽しそうで……本当に笑うようになりました」

「それを言うなら愛佳のほうがすごいだろ。あんなに楽しんでいる愛佳を見るのは久しぶりだ」

 俺はベンチにもたれて一息ついた。

「改めて礼を言うよ、秋野。俺と愛佳を保護してくれて……お前には感謝している」

「まだ、気にしているようなら問題ありませんよ。私も他の皆さんも納得していることじゃないですか」

「そうだな……。このまま、愛佳が戦わずに済めばいいんだが……」

「ダルレストに目立った動きはありません。この町にも現れなくなりましたし、もしかしたら諦めたかもしれません」

「そうだといいがな……」

「じゃあ、行くよ~。いーち! にぃー! さーん! よーん!」

 中庭では愛佳たちが大縄跳びを始めているところだった。じいさんやばあさんがリハビリで運動している傍ら、子供たちの賑やかな声が響く。

「千登勢のやつ、もうすぐ帰るのか?」

「ええ。ですが、一時的にですよ。二、三ヶ月でまた帰国します。そのあとはずっとここで生活してもらうつもりです」

「そうか」

「空港までの護衛をあなた達と真那(まな)梨折(なしおり)のペアに任せるつもりなので、お願いしますね」

「ああ」

 秋野はベンチから立ち上がると、俺に一度お辞儀して、来た時と同じように静かに戻っていった。

「ふう……」

 大きく息をつく。大縄跳びを楽しむ愛佳は昔とはもう別人だった。

「こんな時間がいつまでも続けばいいな……愛佳」


 4


 七年前。 2057 年。東京都内某所。


 すっかり日の沈んだ時間帯。駅前の裏通りには古くから老舗の屋台が並んでいて人気があり、常連客は多い。中でも『六角(ろっかく)』というラーメン屋台は俺のお気に入りで暇がある時はよく通っていた。

 その日も俺は店主と談笑しながら、名物のとんこつラーメンを食べていた。

「嵯峨山の旦那、一杯どうですかい?」

 店主が気さくな笑みを浮かべながら、ビール瓶を持ち上げる。

「おう、頂くよ」

「今日もお疲れさまっす。仕事は大変でしょうな」

「まあな。だが、俺より辛い仕事をしてるやつは山ほどいるだろ。運が良かったのさ」

「いやいや、それは旦那が必死に努力してたからですよ。厚労省のお偉いさんなんて、そう簡単になれるもんじゃありませんぜ」

「そんなものか?」

「そうですよ。最近、話題になってる介護制度でしたっけ。それの運営も任されてるんでしょう?」

「そんな大それたもんじゃないさ。それに俺は担当外だからあまり詳しい話を知らないんだ」

「いやいや、すごいことですよ。おまけに美人な奥さんと可愛い娘さんがいるなんて、うらやましい限りですぜ」

「そうなのか?」

 俺が聞き返すと、店主はふふっと笑いながらビールの入ったコップを差し出した。それを受け取って、口につけて半分ほど飲んだ。いつ飲んでもここのビールはとてもうまかった。

「あっしもいい年になってきたんで、そろそろ相手を見つけたいんですが、これがなかなか……苦労しますよ」

「そんなことないだろ。お前さんも良い男だと思うぞ。もっと自信を持て」

「ははは、褒めても何も出やしませんぜ、旦那」

「わはは、そうか、そうか。ほら、お前さんも付き合え」

「いいんですか? じゃあ、一杯だけ」

 俺と店主はお互いにビールの入ったコップを手に持って乾杯すると、一息で半分ほど飲んだ。

「娘さん、おいくつになられたんですかい?」

「今年で六歳だ。まだ赤ん坊だと思ってたのに、もう小学校に入ろうとしてるよ」

「へえ、すごいじゃないですか! 今度娘さんも連れてきてくださいよ。旦那とあの綺麗な奥さんのお子さんなら、とても可愛いでしょう」

「わははは、褒めすぎだぞ」

 大声で笑いながら、コップに入っていた残りのビールを飲んだ。

「ああ、そうだ、そうだ。旦那に大事な話がありやした」

「ん、どうした?」

「実はあっし、近いうちに関西のほうへ店を出そうと思ってるんです」

「ほう、いったいどういう風の吹き回しだ? 随分思い切ったな」

 俺は素直に驚いた。店主は苦笑いしながら、テーブルに置いた俺のコップにビールを注いだ。

「あっしの実家が向こうにあるんですが、そこで暮らしているおふくろが重い病を患ってしまいまして、あんまり良くないんです。親父一人におふくろの世話をさせるのも嫌なんで、近場で店を構えたほうが良いと思ったんすよ」

「そうか、ここのラーメン気に入ってんだがな……」

「そう悲観しないでくださいよ。もし、あっちに来ることがあれば、ぜひいらしてください。場所は伝えておきますので」

「ああ、よろしく頼む」

 それからしばらく話していると、夜中の十一時になろうとしていた。

「じゃあ、俺はそろそろ帰るぞ」

「これでお別れになるかもしれませんね」

「まあ、なんだ。向こうでも頑張れよ。何かあったら話ぐらいは聞くぞ」

「へい、ぜひお願いしやす」

 店主は笑顔になって深く頭を下げた。俺はお金をカウンターの上に置いて、店をあとにした。

 

  5


 駅前からバスに乗っておよそ三十分。俺は到着したバス停で降りて、街灯の明かりに照らされた住宅路を歩いた。

「ふぅ……」

 歩いているうちに仕事の疲労が体にきた。夜なのに蒸し暑いせいで頭から汗が流れ落ちてきて気持ち悪い。ポケットに入れていたハンカチで拭くのも面倒だった。

 それでも、俺は途中で立ち止まることもなく、歩き始めた時と変わらない速さで歩き進んだ。

 住宅路を歩くことおよそ二十分。前方に一つの家が見えてきた。一戸建ての青い屋根の家。一見すると何の変哲もない普通の家だが、俺にとってここは心の拠り所になっている場所だった。

 家に着くと、石畳の階段を上って家の玄関のドアを開けた。

「ただいま」

 そう言うと、奥の部屋からドタバタと誰かが走ってくる音が聞こえてきた。部屋から出てきたのは一人の女の子だった。

「お父さん!」

「お、起きてたのか、愛佳!?」

「おかえり!」

 愛佳は嬉しそうに言いながら俺に飛びついてきた。去年から急に身長が大きくなったのもあって、何とか抱き止めたが、少し後ろにのけぞってしまった。

 娘の愛佳はいつも元気で明るい少女だった。半年後に小学校へ行くのが決まっていることもあって、最近は特に機嫌が良かった。

「お父さん、今から遊ぼ!」

「わははは、元気だなあ、愛佳。でも、さすがに今日は遅いだろ。明日は早めに帰れそうだから、我慢してくれないか?」

「ええー! 今日遊びたいよぉ! 我慢できないよぉ!」

「こら、愛佳。お父さんを困らせるんじゃありません!」

 奥の部屋から妻の(あおい)が現れた。呆れたような表情をしていたが、とても美人な女だっため、そういう表情も絵になる。

「ほら、もうこんな時間なんだから、早く寝なさい」

「うう……」

「そんな顔するなよ、愛佳」

 俺は笑いながら愛佳の頭に手を乗せた。

「明日は必ず遊んでやる。それまで我慢しろ」

「……うん、わかった」

「よしよし、良い子だな、お前は」

 そのまま手で頭を撫でてやると、愛佳は「えへへ」と嬉しそうに笑った。

「じゃあ、お父さん、おやすみ!」 

「おう」

 愛佳は手を振ると、自分の部屋のほうへ帰っていった。

「今日もお疲れ様、あなた。お風呂入る?」

「ああ、すぐに入るよ」

 リビングに入って、着ていたスーツの上着を脱いだ。

「愛佳のやつ、ずっと起きていたのか?」

「ええ、今日はお父さんと絶対に遊ぶんだって。何度も寝なさいって言ったんだけど、聞かなくて。本当にしょうがない子ね」

「すまんな。今日は残業で遅くなるってわかってたから、いつものラーメン屋に寄ってたんだ。明日は休みだし、公園にでも連れていってやるさ」

「ごめんなさいね、せっかくの休日なのに」

「気にするな。普段、愛佳のことはお前に任せっきりだからな。たまには俺も面倒を見ないと」

「ふふ、謝ってばかりね、私たち」

「……違いない」

 俺たちはお互いに顔を見合わせて笑った。


 自分の人生が不幸ばかりの最悪なものだったと思ったことは一度もない。有名な国立の大学に進学し、無事に卒業してから安定した仕事に就いたし、幸せな家庭を築くこともできた。もちろん苦労することはたくさんあったが、それでも俺は確かな幸せを手にした人生を歩んできた。

 だが、そんな人生にもいつか転機が訪れてくる。それが良いのか、悪いのか誰にもわからない。でも、それは決して逃れることができないものだった。


 6


 厚生省と労働省が廃止、統合されて誕生した厚生労働省は五十年以上の歴史を経てからも担当する分野は多岐に渡っていた。健康、医療、雇用、子育て、年金。誰もが一度は知ることになるものばかりだ。

 その中で俺は福祉、介護の分野を扱う老健局(ろうけんきょく)という場所で働いていた。

 老健と大きな関わりのある事柄といえば、真っ先に思い浮かぶのはやっぱり高齢化問題だろう。

 半世紀以上前から深刻な事態になっていた高齢化問題。細かく言えば、年金問題、高齢者が高齢者を介護する問題、家族の介護負担の増加、新たな高齢者を受け入れることのできない老人ホームの続出など、例を挙げればキリがない。

 十数年前の老健局は少しでもこの状況を改善しようと各課が躍起になっていたと聞いている。そのために様々な政策が打ち出されたが、具体的な成果を出すことはできなかった。そうこうしているうちに、高齢化問題はますます深刻になっていき、事態の改善は不可能とさえ思われた。

 しかし、そんな状況がある日を境に変わることになる。

 それが今から八年前、 2049 年に制定された高齢者保護法だった。法律が制定されたのと同時に介護保険計画課や高齢者支援課など、老健局にある今までの課とは別に新しく『保護法推進課』というものが作られた。当時の俺はその課の担当じゃなかったから、具体的にどんな活動をしているのかは全く知らなかった。まだ新米で、働いていた部署の仕事内容を覚えるのに精一杯だったせいもある。

 その推進課が現れてから、各地方の高齢者の割合は少しずつ下がり始めた。今まで様々な対策が取られ、ほとんど成果がでなかったこの状況下で、推進課の連中は短期間で目に見える結果を出したのだ。

 いったいどんな政策が取られているのか、俺はとても興味を持つようになった。しかし、推進課の活動はほとんど隠されており、その実態を知ることは難しかった。所属している奴から話を聞こうとしたが、上から他の課のやつに教えてはいけないと厳しく言われているらしく、ちゃんとした話を聞くことはできなかった。ネットで推進課のことを調べてみたこともあったが、せいぜい概要程度の情報しか掲載されておらず、今までどんな政策を行ってきたか、全くわからなかった。

 そんな好奇心に駆られていた時期もあったなと、懐かしく思い始めるぐらいに年月が過ぎたある日の出来事だった。

「嵯峨山さん、嵯峨山さん」

 職場で仕事の資料をまとめていると、部下に話しかけられた。何かの用事があると、いつも彼女が声をかけてくる。

「どうした?」

「お客様が二人、嵯峨山さんにお話があると言ってますけど……」

 何かに怯えるように言いながら彼女が視線を後ろのほうに向ける。同じ方向を見ると職場の入口付近に二人の男が立っていた。

 一人は背の低い、やや白髪の混じった初老の男だった。暑そうにうちわを仰ぎながら俺のほうを見ている。別段、何かの違和感を抱いたわけじゃない。ああいう男はこの職場でもよく見かけるタイプだ。

 だが、もう一人の男には何か異様な感じがした。その男は初老の男よりもかなり背が高かった。夏場だというのに、スーツの上着を着たまま、汗の一滴も流さず無表情な顔で俺を見ている。

 何を考えているのか全くわからないが、その冷たい目を見ていると身体が震えるような感じがした。

「……」

 俺は席から立ち上がると、ゆっくりと男たちのほうに歩いた。 すぐ前まで来ると、初老の男が観察するように俺を見てから口を開いた。

「お前が嵯峨山 葉作か。優秀なやつだと聞いていたが……なるほど、人を見た目で判断してはいけないとはよく言ったものだな」

 決して悪口を言われたわけじゃなかったが、初対面にしてはかなり失礼な言い方だった。敬語で対応しようと思っていたが、それが癪に障ったので、俺は口調を厳しくして言った。

「そいつは褒め言葉として受け取っておくべきかな。あんたは?」

「まあ、蔑んではいないから安心しろ。推進課の吉住(よしずみ)だ。名前ぐらいは聞いたことがあるだろ?」

 知らない名前だな、と言ってやりたかったが、聞いたことがある名前だった。

 八年前に制定された高齢者保護法。その制度を推進している幹部の一人がそんな名前だった。

 そうか、こいつが……。

 俺は自然と隣に立つ男に視線を移した。相変わらずの無表情で何も喋らない。自分と同じ人間ではなく、寺や神社にある仏像と向き合っているような感覚をおぼえた。

「こいつは部下の浜家(はまや)だ。見ての通り、あまり喋らないやつだが、こいつの性分でな。まあ、大目に見てくれ」

「そうさせてもらおう。立ち話もなんだ、奥の部屋で話そう」

 俺は職場の奥にある客間に二人を案内した。

 客間は横長のテーブルが中央に置かれていて、それを挟む形でソファ椅子が三つずつ用意されている。吉住と浜家が先に座ったので、俺は反対側の椅子に腰を下ろした。

 そのあと、部下がお茶の入った湯呑を乗せたお盆を持って部屋に入ってきた。外部から客が来る機会が多かったため、彼女は慣れた手つきで湯呑をテーブルに置いていった。だが、あの無表情な男の前だと、湯呑を持った彼女の手が震えているのが見えた。彼女もその男の異様な雰囲気を感じ取ったのだろう。

 部下が客間を出ていくのを見届けてから、俺は口を開いた。

「それでどういう話だ? 申し訳ないが、それほど暇じゃないんだ。できれば手短に済ませてもらいたい」

「そうか。ならさっさと話そう。嵯峨山、高齢者保護法のことはもちろん知っているだろ?」

「担当じゃないから詳しいことはわからないが、概要くらいは把握しているつもりだ。だが、それはあんたたちの専門だろ。わざわざ俺に聞くこともないはずだ」

「今はそれでも充分だ。詳しく知るのは後になってからでも出来る」

 吉住はポケットから煙草を取り出してライターで火をつけた。一度煙を吐くと、話を続けた。

「法律が制定されてから八年が経過し、保護法に基づいた介護制度は順調に進んでいる。すでに京都や大阪、東京などの都市部ではしっかり根付いているし、我々としてはさらにこの制度を地方へ広めようと考えているところだ。だが、残念なことに推進課のメンバーの人員は不足していてな、人を集めるためにこうして老健局内部の他の課はもちろん、それ以外の政府の役員に顔を出しているところだ」

「つまり……スカウトしているのか? どうしてわざわざそんなことをする必要がある? 局内の人事異動ならよくあるだろ。人員が不足しているなら尚更、人が入るようになっているんじゃないのか?」

 実際、同じ職場で働いている同僚のうち、新米の頃から一緒に働いているやつはほとんどいなかった。俺自身はそれなりの功績を出して、高い役職に就いたおかげか、ずっとここで働いている。

「そうしたいのは山々だが、推進課は他の課と違って特殊な場所だ。我々が目星をつけた人材を集めるようにしている」

「特殊な場所……どういう意味だ?」

「詳しくは説明できない。推進課に入るまではな。しかし、我々はただ働いているやつを集めているわけじゃない。優秀な能力を持ち、目を見張るキャリアを積んできたメンバーを入れるようにしている。そうでないと、この課ではとてもやっていけないからな」

 推進課のメンバーは選りすぐりのエリート集団ってわけか。なぜそんなことをする必要があるのか、全く理解できなかった。だが、今の話を聞いたことでこの二人が俺の元を訪ねてきた意図は見えてきた。

「もう察しているかもしれないが、嵯峨山。お前に我々推進課のメンバーになってもらいたい。お前のここでの仕事ぶりは既に知っている。そのおかげで推進課の活動も大いに(はかど)ったものだ。推進課に所属していなくても、我々の力になるその才能を、今度は我々の元で開花してもらいたい」

やはりそうか、と俺は息をついた。だが、二人の目的を察した時点で俺の中の答えは既に決まっていた。

「悪いが承諾できないな。俺は今の仕事に満足している。この仕事に誇りを持っているんだ。余程の理由がない限り、異動するつもりは微塵もない」

きっぱりと言い切った。すると、吉住は「ふっ」と鼻で笑って口から煙草の煙を吐いた。

「随分と強気な言い方だな。自分の親のことと関係しているのか?」

 吉住のその言葉を聞いた瞬間、無意識のうちに自分の顔が強ばるのがわかった。

「さっきも言ったように、俺たちは優秀な人材を求めている。事前にそいつのことを徹底的に調べてな。もちろん、お前も例外じゃない。この仕事でどんな活躍をしてきたのか、そして、そもそもこの仕事を始めるきっかけが何なのか」

 吉住は手にした煙草を灰皿に押しつけた。

「お前の父親と母親、どちらも身体的に重度の障害を負っていたそうだな。にもかかわらず、介護する必要がある認定をもらえなかった。そのせいで、多くの老人ホームに立て続けに受け入れを拒否され、結局二人とも――」

「やめろ!」

 反射的に椅子から立ち上がって大声で言った。自分の心の中にある闇を抉りだされたような不快感をおぼえた。

「その話は絶対にするな……」

 再び椅子に座り、顔を下に向けて小さな声で言ったが、その言葉に俺は今まで以上に怒りや悲しみなどの様々な感情を込めた。

「それがお前のトラウマということか」

 その時、吉住とは違う低い声が聞こえてきた。一瞬誰が喋ったのかわからなかった。だが、すぐにそれは俺でも吉住でもない、この場にいるもう一人の男の声だとわかった。

 その声の主はあの無表情で一言も喋らなかった浜家だった。俺は驚いて顔をあげたが、吉住は特に動揺した様子を見せず、浜家のほうを一瞥(いちべつ)するだけだった。

「お前のことを詮索するつもりはない。だが、今のお前がその過去を引きずっているうちはまだ良いほうだ。お前はその苦難を乗り越えようとし、自分と同じ思いをするに人間が現れないように努力してきた。その結果、お前は自分の目標であるこの仕事に就き、少なからず確かな幸せを手にしている」

 浜家の口調は哀れんでいるわけでも、非難しているわけでもなかった。ただ淡々と事実を述べている感じの話し方だった。

「しかし、これから先、お前は今まで経験したことのないような悲劇を味わうことになる」

「どういうことだ?」

「それが何なのか答えることはできないが、お前はそれに直面しなければならない。避けることは許されない。そして、その後……お前は必ず我々の元へ来ることになる」

 浜家がいったい何を言っているのか、半分も理解できなかった。この男には俺の未来が見えているとでも言うのだろうか。

「くだらない話をしにきたのなら、もう帰ってくれないか。俺はあんたたちのところに行くつもりはない」

 馬鹿馬鹿しくなった俺はもう一度はっきり断った。これ以上、しつこく勧誘してくるようなら、今度は怒鳴り散らす自信があった。

「……わかった」

 だが、吉住はしつこく誘ってくるようなことはせず、素直に椅子から立ち上がって部屋の出口のほうへ向かっていった。浜家も立ち上がってそのあとについていく。

 しかし、その客間の出口の前で浜家は立ち止まり、横目で俺のほうを見てきた。しばらくしても何も言ってこない。

「なんだ?」

 そう聞いても浜家はすぐに答えなかった。じっと俺のほうを見たまま微動だにしない。

 何を見ているんだ、この男は?

 俺を見ているのは間違いない。だが、それは格好や表情などの外見ではなく、もっと内面的な部分を見られているような気がした。

「嵯峨山、お前には無理だ。お前は誰も助けることはできない。自分がどれだけ大切に思っていてもな」

「なに?」

「また会おう」

 それだけ言うと、浜家は客間を出て行った。あとには俺だけが残った。大きくため息をついてソファにもたれた。灰皿から吉住の押しつけた煙草の細い煙が立ちのぼっている。それを呆然と眺めながら、もう一度ため息をついた。

「どういう意味だ……」

 あの時の俺には浜家の言っていることが理解できなかった。だが、なぜか……近いうちに俺はあいつの言うような悲劇を体験することになる。その予感を完全に否定することができなかった。


 7


「浜家、間違いないのか?」

 老健局の建物から出ると、吉住が隣を歩く浜家に聞いた。浜家は一度後ろに建つ局のほうを見てから答えた。

「あの男自身に兆候はありませんが、血縁者には可能性があります」

「血縁者? あいつは確か……なるほど、以前から目をつけていたのはそのためだったのか。相変わらず、考えていることが読めないやつだな、お前は」

「幼少の頃からの性格なので、改善することは難しいと思います」

「構わん。だから、お前に奴らの監視を任せているんだ」

 ふん、と鼻で笑い、吉住はポケットから煙草を取り出してライターで火をつけた。

「奴らは人を殺すことでしか生きられないような連中だ。そんなゴミ共ををうまく活用するためにはより徹底した管理が必要になってくる。都市部を抑えて、地方へ範囲を広げようとしている今の時期は特にな」

 再び煙を吐いて、局の前の通りに停まっているリムジンのほうへ向かう。

「一旦戻るぞ。情報が入り次第、また行く」

「よろしいのですか?」

「いつまでもここに長居するわけにはいかないだろ。ダルレストの施設内の仕事が残っている。例の刀人の容態はどうなっている?」

「運動機能に支障はありません。三年前の傷は完治しています。ただ、戦力として使うにはまだ時間が必要かと」

「まあ、焦ることはない。あれは稀に見る貴重な刀人だ。実験を確実に成功させるためにも、慎重に扱わなければならない」

 リムジンのそばにいた黒いスーツの男が後部座席のドアを開ける。吉住がそこからリムジンに乗って奥の席に座り、浜家がその隣に腰を下ろした。

「より多くの捨て駒が必要になるな。見込みのない奴はどんどん実験に使え。成功すれば良し、失敗すれば改善点を見出すことができる。どうせ早死にする連中だ。問題はない」

「わかりました」

 浜家は表情一つ変えず、淀みない口調で答えた。全く変化のないその態度に呆れたのか、吉住は浜家から視線を外して運転席に座る男のほうを見た。

「出せ。駅までだ。京都へ戻る」

 二人の乗るリムジンは静かに走り出し、老健局をあとにした。

 

 8


『これから先、お前は今まで経験したことのないような悲劇を味わうことになる』

 あれから一ヶ月は過ぎたが、俺の頭の中には未だにあの男の言葉が思い浮かんできた。心の中にある不安、嫌な予感、それらを拭うことが出来なかった。

 なぜだ。あの男の言葉には何の根拠もない。未来を予知する能力を持っているなんて、ただの妄想に過ぎない。現実ではありえないことだ。信じる必要なんてないはずだ。しかし……。

「お父さん? お父さんってば!」

「……ん?」

 ふと我に返ると、目の前に愛佳の顔があった。不安ん気な表情で俺を見ている。

 そこでようやく俺は愛佳と家の近くにある公園へ遊びに来たことを思い出した。休日に愛佳と遊ぶことはかなり前から日課になっていた。仕事がある時はあまり相手にしてやれなかったので、俺の中ではとても大切なことだった。

「ぼうっとして、どうかしたの?」

「ああ、いや何でもない」

「ほら、今度はお父さんの番だよ。早く投げて!」

 そう言われて、俺は視線を下ろした。両手に白いボールを持っていたことも忘れていた。

 まったく何を考えてるんだ、俺は。あの男の言葉を信じる必要はない。俺には葵と愛佳がいるじゃないか。自分のことを大切に思ってくれる家族に囲まれて幸せじゃないか。

 これ以上望むこともない。悲観的になる必要なんてないんだ。

 自分にそう言い聞かせて俺は愛佳のほうを見た。

「よぉし、行くぞ、愛佳」

 右手でボールを掴んで、後ろに振りかぶり投げようとした。

『お前は直面しなければならない』

「!」

 突然、聞こえてきたその言葉に、俺は僅かながらも動揺してしまった。愛佳に向かって投げようとしたボールが横へそれてしまう。

「あっ!」

 愛佳はボールを受け止めようと手を伸ばしたが、届かずに後ろのほうへ転がってしまった。

「もう、お父さん、ちゃんと投げてよぉ」

「あ、ああ、すまん、すまん。今度はちゃんと投げるぞ、わははは!」

 ごまかして大声で笑うと、愛佳もくすっと笑った。

「私が取りに行くね」

「気をつけろよ、そっちは道路――」

『避けることは許されない』

「……!」

 再びあの男の言葉が聞こえてきたのと同時にどこからか、大きなクラクションのような音が鳴り響いた。

 気付いた時には、愛佳が道路の真ん中に転がっていくボールを取りに行こうとしていた。そこへ一台のトラックが走ってくる。愛佳の背が低かったせいで、運転手からその姿は見えていないようだった。ブレーキをかけることもなく、そのまま進んでくる。

「愛佳!」

 大声で叫んだ。愛佳が俺のほうを見てから、向かってくるトラックに気付いたが逃げる余裕はもうなかった。俺も必死に走ったが、間に合う距離じゃない。

 鼓膜を破るような大きな音が鳴り響いた。遅かった……トラックが愛佳に衝突したと思った。

「……な、なんだ?」

 だが、実際はそうじゃなかった。何が起きたのか、理解するのに時間がかかった。

 愛佳に衝突したと思ったトラックは縦に真っ二つになっていた。車体から黒い煙が立ちのぼり、火も出始める。

「おいおい、なんだ、なんだ?」

「事故か?」

「ちょっと火が出てるわよ」

「何があったんだ」

「おい、消防車! 早く消防車を呼んでくれ!」

 周りの家の窓から住人が顔を出し、通り過ぎていたやつも集まって騒ぎ始めている。

「……」

 俺はじっとトラックのほうを見ていた。何かが見えた……あれはいったい?

 目を凝らすと黒い煙の中に立つ小さな人影があった。段々とその姿が見えるようになる。

 愛佳だった。着ていたワンピースはボロボロになって、(すす)だらけになっている。けど、身体には傷を負っていない。あんな大きなトラックがぶつかってきたのに、だ。信じられない光景だったが、それ以上に驚くべきことがあった。

 愛佳が何かを持っている。その手には長くて鋭い刃物が握られていた。包丁というには長すぎる。あれは……剣? 刀?

 どうして愛佳がそんなものを持っている? あんな危ないものを持たせたことなんてあるわけがないのに……。

「まさか……」

 俺はトラックが真っ二つになっていることを思い出した。

 愛佳が……やったのか? あの剣で? そんなことを……愛佳が?

「……」

 愛佳はゆっくりと俺のほうを見た。その顔は普段の明るい笑顔を見せてくれるあいつとは程遠いものだった。怒ってるわけでも、悲しんでいるわけでもない。無表情に、口を閉じたまま、虚ろな目で俺を見ている。いや、俺のことをちゃんと見ているのかどうかもわからなかった。

「おい、君、大丈夫か!? 今、助けるぞ!」

 その時、愛佳に向かって叫ぶ男がいた。たぶん、愛佳が事故に巻き込まれたと思ったのだろう。

 愛佳は俺からその男のほうを見た。手にした剣を構えた。

 まさか……!

「やめろ! 愛佳!」

 咄嗟に叫んだ。だが、愛佳はすでにその場から姿を消していた。男のほうを見ると、目の前で剣を振り上げた愛佳の姿があった。次の瞬間、愛佳は何のためらいもなく、男に向かって剣を振り下ろした。

「ぎゃああああ!」

 男の悲痛な叫び声が聞こえたの同時に、その体から大量の血が噴き出した。愛佳はそれをまともに浴びたが、全く動揺することなく、そのそばにいた別のやつに襲いかかった。

「愛佳!」

 俺は愛佳のほうに向かって走った。

「な、なんだ!?」

「きゃあああ!」

「逃げろおおお!」

 周りにいたやつが悲鳴を上げながら、逃げていく。

 愛佳は手にした剣でその背中を容赦無く斬り裂いていった。全身が血まみれになっても躊躇うことはない。獲物を仕留めようとする肉食動物のように、次々と襲っていく。

「やめろ、愛佳!」

 必死に叫んでも愛佳は剣を振りまわすのをやめない。

 その時、逃げ遅れた子連れの親子が見えた。母親が途中で転んでしまった子供を助け起こそうとしている。

 愛佳はその二人に剣を突き刺そうとした。

「くっ!」

 なぜ、愛佳がこんなことをするのかわからない。けど、子供は、子供だけは殺させるわけにはいかなかった。このままだと、愛佳は引き返すことが出来なくなる。

「愛佳!」

 俺は愛佳の名を叫んで、その体を抱きとめた。愛佳の持った剣が脇腹のあたりを貫いた。激しい痛みがはしったが、俺は歯を食いしばってそれに耐えた。

「ああ! あああ!」

 奇声を発しながら、なおも愛佳は俺を振り払おうとした。腹から血がどくどくと流れ始めたが、俺はしっかりと愛佳の体を掴んだ。

「愛佳、落ち着け。落ち着くんだ。俺だ、お父さんだ」

 落ち着いた声で愛佳に呼びかける。

「ここは公園の近くだ。俺たち、キャッチボールをしに来たんだろ? ほら、こんなことをするために来たんじゃないだろ?」

「あ……あ……」

「これ以上、人を傷つけたらだめだ。そんなこと、お父さんが許さないぞ」

「あ……」

 愛佳の身体から力が抜けていった。その目から涙が溢れ始める。

「お、お父さん……?」

「ああ、そうだ。お父さんだぞ」

 愛佳の顔を正面から見る。返り血を浴びたその表情に本来の明るさがわずかに戻ってきた。愛佳が何かを喋ろうと口を開く。

 だが、その言葉を聞くことは出来なかった。代わりに聞こえてきたのは、大きな銃声だった。

 愛佳は口を開いたままだった。やがて口元から赤い血が流れ落ちていく。いつの間にか、手にしていた剣も煙のように消えていった。何が起こったのかわからなかった。

「愛佳?」

 呼びかけても返事は来ない。愛佳の身体から力が抜け落ちていった。

「おい、愛佳? 愛佳!」

 身体を揺すっても、愛佳は何も言わなかった。息もしていなかった。

 そこでようやくパトカーのサイレンの音がずっと鳴っていることに気付いた。そのそばにいた警官が銃を構えていたことも、愛佳が撃たれたことも。

「……」

 言葉が出なかった。叫ぶことも出来なかった。


 9


 愛佳は死んだ。愛佳に襲われた人の中には死人が出て、他のやつも重傷を負う大惨事になった。

 愛佳を射殺した警官は状況から判断した結果、正当防衛とされ、罪には問われなかった。

 その話を聞かされても、俺はそいつに怒りをぶつける余力はなかった。まだ、愛佳が死んだことすらも信じられずにいた。

 数日後に行われた通夜や葬式の時に親戚から聞かされた慰めの言葉も、その時は聞いていたのかもしれないが、頭には全く入ってこなかった。

 通夜と葬式が終わり、愛佳の遺体が火葬され、自分の家にある仏壇に遺骨が収められた。

 親戚が帰った後も、俺と葵はずっと仏壇の前に座り込んでいた。

「……どうして?」

 いったいどれだけの時間が過ぎていただろう。部屋の窓から夕陽の明かりが差し込んだ頃になって葵が小さな声で呟いた。

「どうして愛佳は死んでしまったの? 普通に健気で明るくて、悪いところなんてどこにもなかったのに……どうして親の私たちより早く死なないといけなかったの?」

「……」

 俺は葵に何て言えばいいのかわからなかった。

 励まして何になる? 慰めてどうする?

 そんな考えばかりが頭に浮かんできて言葉が出なかった。

「人を殺したって本当なの? あの子が? そんなことするはずないでしょ……」

「あ、葵、俺は――」

「あなたのせいよ」

 葵は俺の言葉を遮って、俺のほうを見た。もう涙が枯れるほど泣いたはずなのに、その目には涙が溢れていた。

「あなたが愛佳を守らなかったから、愛佳を助けなかったから、あの子が死んでしまったのよ! 全部あなたが悪いのよ! どうして助けてあげなかったのよ!」

「違う! 俺はあいつを助けようと必死に――」

「じゃあ、どうしてあなたは生きているのよ?」

 葵のその言葉が胸にぐさりと突き刺さった。

 そうだ。俺はなぜ、愛佳と一緒にいたのに生きているんだ?

「私のことはいいから、愛佳と一緒に死んであげたら良かったのに……あなたはあの子の父親でしょ」

 言い終わると、葵は大きな声で泣いた。俺が何を喋っても、その言葉はもう届かないだろう。

 俺は愛佳にも、葵にも、何もしてあげることが出来なかった。


 10


 それからまた何週間か過ぎた。

 三人で暮らすには少し大きかった家が余計に大きく感じるのはどうしてだろう。

 考えればすぐにわかる。葬式から数日と経たないうちに葵が家を出たからだ。

 最後にあいつを見たとき、何かを言っていたような気がしたが、もう思い出せなかった。

 葵がいなくなってから、俺の生活は(すさ)んだものになっていた。老健局の仕事はままならず、ミスを連発して上から色々と指摘されたが、全く改善することができなかった。

 仕事の成果をしっかり出せず、このまま行けば、降格か退職になりかねない事態にまで陥った。家に帰っても食事が喉を通らず、身体はどんどんと痩せていった。せっかくの休日もうまく活用出来ないまま、眠って過ごす日が多くなってしまった。

「……」

 俺はこれからどうすればいいんだろう?

 愛佳を失い、葵を失い、確かにあった幸せはどこにもない。そんな俺が何を希望に持って生きていけばいいんだろう。

「……」

『じゃあ、どうしてあなたは生きているのよ?』

 ああ、そうだ。

 葵の言葉が頭に響いてきた。

 俺にはもう何もない。希望なんて存在しない。俺は孤独だ。このまま、堕落な日々を過ごし、やがて死んでいくんだ。

「愛佳……」

 家のチャイムが鳴ったのは、仕事の休みの日、リビングにあるテーブルで突っ伏していた時だった。

 ここ最近、俺を訪ねてくるのはどこかの会社のセールスマンだけだった。愛佳が死んだ時は親戚が心配して来てくれていたが、やがてそれも途絶えていた。

 これも何かのセールスだろ。ふざけるな。冗談でも笑えないぞ。

 インターホンのチャイムはそれから二、三度鳴ってから止まった。あきらめて帰ったのだろうと思った。スマホから着信音が聞こえるまでは。

「……」

 机に置いてあったスマホを手にとって画面を見た。知らない電話番号だった。間違い電話かと一瞬思ったが、そうではないような気がした。

「……もしもし?」

 通話ボタンを押して電話に出た。

『久しぶりだな、嵯峨山 葉作』

 電話越しに男の声が聞こえてきた。どこかで聞き覚えがあった。

「誰だ?」

『推進課の吉住(よしずみ)だ。忘れたわけじゃないだろ?』

 その名前を聞いた瞬間、がたっと椅子から立ち上がった。思い出した、あの時、推進課に入るように勧めてきたあの吉住だ。

『今、お前の家の前にいる。話があるから、出てこい』

「……」

 俺は黙ったまま電話を切って、手にしたスマホを見た。どうして奴が俺の番号を知っているのか、気になったが、それ以上になぜあの男が俺のところを訪ねに来たのかがわからなかった。本来ならわざわざ相手にする必要はない。

「……」

 だが、俺はまっすぐ歩いて玄関に向かっていた。決して会いたいと思う相手じゃない。むしろ、嫌いな部類に入るやつだ。けど、あの時の俺は自然と玄関のドアを開けていた。

「ずいぶんと荒れているみたいだな」

 家の戸の前に煙草をくわえた吉住が立っていた。そして、その後ろにはあの無表情な男、浜家もいる。

「……っ!」

 その姿を見た瞬間、ずっと我慢し続けていた怒りや悲しみが一気に溢れ出してきた。俺は勢いよく戸の前まで走って浜家に掴みかかった。

「お前……お前は知っていたんだろ、愛佳があんな化物になることを! 知っていたから、俺にあんなことを言ったんだろ!」

 この男は俺に避けられない悲劇に直面すると言った。まるで俺の未来を見てきたかのように。

「なぜだ! 知っていたなら、なぜ止めてくれなかったんだ! 愛佳が化物になるのをお前が止めていれば、愛佳は……そして葵も!」

「それはお前に力がなかっただけだ」

 掴みかかってきた俺に全く動じず、浜家はただ一言そういった。無表情に、とても冷たい目で俺を見ながら。

「う、うおおおおお!」

 怒りで血がのぼり、俺は右手で拳をつくって浜家に殴りかかった。だが、それはあっさり避けられ、逆に浜家に手首を掴まれて背中に回された。そのまま、地面に押し付けられる。

「離せ! 離せぇぇ!」

 必死にもがいたが、身体はぴくりとも動かなかった。

「ふん、無様だな、嵯峨山。前に会った時と大違いだ」

 そばにいた吉住は口から煙草の煙を吐いて笑った。

「お前の娘は元々、刀人(かたなびと)になる素質を持っていた。浜家に会うことがなくても、娘が化物に覚醒するのは時間の問題だったのさ」

「ぐ……」

「刀人というのは半世紀以上前からその存在が確認されている殺すことしか能がない化物だ。その存在は知られてはいけない決まりになっていてな、あの事件の関係者の記憶は既に書き換えさせてもらっている。もちろん、お前の妻だったあの女も娘がどうやって死んだのか、本当のことはもう覚えていない」

「な……に?」

「お前も例外ではないぞ、嵯峨山。刀人の存在を知った者は全て記憶を書き換えられる。やがて、お前の記憶から娘が刀人だったという事実は消える」

 吉住は煙草を地面に落として踏み消した。

「ただ、俺たちはお前のことをそれなりに高く評価しているんだ。だから、もう一度こうしてやってきた」

「お前……」

「どうだ、嵯峨山。我々推進課に……いや、刀人を管理する組織『ダルレスト』に来ないか。それ以外に方法はないぞ。自分の娘のことを忘れずに済む方法は」

 吉住は鼻で笑いながら地に伏した俺を見下ろしていた。

 俺に……選択の余地はなかった。愛佳のことを、あいつがどんなふうに死んでしまったのか、忘れないためにも、こいつらの言うとおりにする以外に道はなかった。


 こうして俺はダルレストの一員となった。


 11


 2064年九月中旬 アサガオ本部


 夜。日が沈み、あたりがすっかり暗くなったが、アサガオ本部の女子寮にある食堂はとても賑やかになっていた。

「あーあ、千登勢、もう帰っちゃうのぉ。最近仕事がなくて落ち着いてたのにぃ」

「すいません、貝堂(かいどう)さん。向こうで大事な仕事があるんです」

「えー我慢出来ないよう。こんな柔らかい頬っぺたをしばらく触れないなんて。このっ! このっ!」

「か、貝堂さん、やめてください! くすぐったいですよぉ!」

「愛佳、羨ましい。早くやりたい」

 貝堂が千登勢の頬を指でつつているのを、そばで愛佳が指をくわえながら見ていた。

 今日は千登勢のお別れ会だった。出発の日が明日に迫ってきたので、せっかくだからパーティーをしようと貝堂が言い出したことがきっかけだった。

 食堂のテーブルには大きなケーキとたくさんの飲み物やお菓子が並べてあった。

 こういう何かのイベントの準備をする時、ここには行動力のあるやつが多かった。残念ながら、俺自身はそういうのには疎く、ただ指示を受けた通りに準備をしたぐらいだった。   

 パーティの最中も誰かと話をすることもなく、適当に食べ物をつばんで、コップに入ったビールを飲みながら周りの様子を眺めていた。

「ガツガツ、モグモグ、パフパフ! うめえ! ほら、お前も食べろよ、鶴香。このケーキ、秋にしか食べられないレア物だぞ」

「あたしはさっき食べたわよ。というか、その効果音、ケーキを食べてるやつじゃないでしょ。パフパフって何よ。パフパフって?」

 溝谷(みぞたに)がケーキやお菓子をどんどん食べているのを、(たちばな)は呆れた様子で見ていた。似たような光景はこれまでに何度も見た。いつも通り、仲が良い二人だなと思った。

 次に飲み物がたくさん並んでいるテーブルのほうを見た。

「お、おい、沢村(さわむら)。ビールってそんなに旨いのか?」

「ん、なんだ、未国(みくに)。酒に興味あるのか? 一杯飲んでみたらどうだ?」

「ば、馬鹿いうな! 私は未成年だぞ!」

「四捨五入したら二十歳じゃないか。気にするなよ、そんなことくらい。ほら、飲んでみろって」

「う……じゃ、じゃあ一口だけ……」

 沢村と佐東の二人も相変わらずの雰囲気だった。どうやら沢村が佐東にビールを勧めているらしい。佐東はかなり拒んでいるように見えたが、とても興味があるのか、少し迷った末に沢村の持ったビールを受け取っていた。

 由美(ゆみ)みたいに酒癖が悪くないといいが……。

 そう思いつつ、再び視線を中央に戻す。

「真那、このあと、女子を集めてカラオケしない? あたしたちの部屋で」

「え、カラオケ?」

「そうです、そうです。この前、明日野(あすの)姉さんと一緒に出かけたときにカラオケセットを買ったんですよ。店に行かなくても家で歌えるんですよ。千登勢ちゃんも明日帰ってしまいますし、思い出作りにやりましょう」

「でも、私、歌下手だし……」

「大丈夫、大丈夫。気持ちさえあれば、上手いも下手もないって。いざとなったら、シンナに歌わせたらいいじゃない」

「そうだね……じゃあ、やろうかな」

「決まりですね。では、他の皆さんも誘いましょう」

 八重坂(やえさか)はケーキを食べながら雨森(あめもり)渡井(わたらい)と話をしていた(ガードマンとして活動してしばらく経つので、流石にここにいるやつの名前は覚えた)。

 珍しい組み合わせだと思った。八重坂はよく橘と行動しているイメージがあったからだ。けど、お互いに笑い合って話しているその姿を見ていると、本当にここにいるやつらは仲が良いんだなと思った。

『八重坂は仲間を失うの一番恐れているんですよ』

 しばらく前に沢村が言っていたことを思い出した。八重坂は控えめで大人しいやつだが、仲間を思う気持ちは誰よりも強く持っている。失いたくない大切な存在。それを守るために必死になって戦っている姿を俺はそばで見てきた。

「大切なもの……か」

 そうつぶやくと潤一(じゅんいち)やじいさんのことが頭に思い浮かんだ。俺は守れなかった。助けを求めていた二人に何もすることが出来なかった。

 どうすれば二人を助けられたのか、全く考えなかったわけじゃない。あの時、潤一からの電話に出ていれば、何かが変わったかもしれない。俺がもっと早く八重坂たちの戦いを知っていれば、二人を守れたかもしれない。

 けど、それは全部過ぎ去ってしまったことだった。考えても、残るのは後悔しかない。それよりもこれからどうするかを考えるべきだ。そのためには……。

「わっ!」

 突然、背後から誰かに肩を掴まれた。びくっと身体が震えて、手に持っていたコップを落としそうになった。後ろを見ると、にやにや笑っている嵯峨山がいた。

「驚かすな、嵯峨山!」

「わははは、すまん、すまん。あまりに考え込んだ顔をしていたからな。気になったんだ」

 嵯峨山はまた笑って手にしたビールを豪快に飲んだ。

「ぷはぁ、うまい、うまい。やはりビールは最高だな! これがあるだけで生まれてきて良かったと思うぞ」

「相変わらず美味そうに飲むやつだな、お前は。落ち込むことなんてあるのか?」

 半ば呆れてそう言った。ほんの軽い気持ちで口にしただけだった。

 だが、嵯峨山は急に笑うのをやめた。手にしたコップをテーブルに置く。

「どうした?」

「ん、ああ、何でもない。ちょっと飲みすぎただけだ」

 と言いつつ、ビール瓶を手にとって自分のコップに注ぎ始める。言ってることとやってることが矛盾していた。何かに動揺しているように見えたのは気のせいだろうか。

「すまん、何か気に障ること言ったか?」

「気にするな、本当に酔っただけだ」

 とてもそんなふうに見えなかった。

 嵯峨山はテーブルのそばにある椅子に座って、窓の外のほうを見た。

すでに辺りは真っ暗になっていて何も見えないはずだった。しかし、嵯峨山の目はどこか遠くの何かを眺めているようだった。

「いや、やっぱり言っておくべきか」

「どうした?」

 俺がそう聞くと、嵯峨山はどこか寂しそうに笑って、ビールを飲んだ。

「梨折、俺にだって色々とあったさ。落ち込むことだって何度もあった。でもな、今の俺がこうしているのはあいつのおかげだ」

 そう言って嵯峨山が窓から視線を外して別のほうを見た。その先には千登勢と喋っている愛佳の姿があった。

「あいつがいなければ、今ごろどうなっていたかわからん。進む道を見失って、ずっと暗い世界を歩いていたかもしれない。あいつと出会って本当に良かったと思ってる」

「大切にしてるんだな」

「ああ、愛佳は俺の大切な娘だ。あいつがどんな姿になったとしても、その気持ちは絶対に変わらない」

 俺には嵯峨山のその言葉が理解出来なかったが、何かとても強い意志が伝わってきた。

 こいつと愛佳にも、他のやつらと同じように複雑な過去があったということか。

 気にはなったが、聞くようなことは出来なかった。あまり詮索しないほうがいいと沢村に言われていたこともある。

「梨折、明日は俺たちが千登勢の護衛をして、空港まで送り届ける。頼りにしてるぞ」

「力の足しになるかわからんが、頑張るさ」

『大丈夫だよ、おじさん。私もいるから』

 不意に弥生(やよい)の声が聞こえてきて、反射的に後ろに振り返った。当然、そこに彼女はいなかったが。

『会える気がする。もう少し、もう少しで……』

 とても小さな声でそうつぶやくと、俺が何かを言う前に弥生の声は聞こえなくなった。

 会える? いったい誰に?

 その問いかけに弥生はもちろん、誰も答えてくれなかった。やがて千登勢の別れを惜しむパーティーは終わりへと向かっていった。


 12


 人生の中で大きな節目というのは必ずある。

 志望していた学校に合格した時、自分のやりたい仕事に就職できた時、宝くじにあたった時、旅行で運命の相手と出会った時、自分のことをずっと育ててくれた親が亡くなった時など、それは人によって違う。まさに十人十色だ。

 そして俺もあの時、大きな節目を迎えた。愛佳を失い、葵も姿を消し、地の底に堕ちていった俺の元へ来た二人の男。

 奴らに出会って人生を救われたわけじゃない。だが、俺はこの目で見てきたことを忘れないために、奴らの誘いを受け入れ、全く知らない世界へと踏み込んでいた。


 四年前、2060年。京都某所。


「旦那? 旦那?」

 ふと、誰かに呼ばれていることに気がついた俺は顔を上げた。見ると、目の前に三年前と変わらない顔の店主がいた。

「ん、何だ?」

「どうしたんですかい。急に呆然として、悩み事ですか?」

「いやいや、ちょっとぼうっとしてただけだ」

 俺は軽く笑って、手元に置いてあるとんこつラーメンを食べた。相変わらず、この店のラーメンは美味い。

「それにしても驚きましたよ。まさか旦那も東京からこっちに引っ越していたなんて」

「あのあと、色々あって仕事を変えたんだ。人生というの思い通りにいかないものだな」

「だからこそ、面白い時もありますよ。ささ、どうぞ」

 店主がビール瓶を手に持った。

「ああ、すまん」

 俺はコップを持って前に差し出した。店主がそこにビールをついでくれる。

「それでどうだ、おふくろさんの様子は?」

「かなり元気ですよ。あれはまだ十年生きると思います。一昨年まで入院していたとは思えません」

「そうか……良かったな」

「へい。ところで旦那は……」

「ん、どうした?」

 店主が何か言いかけたが、途中で話すのをやめた。

「あ、いえいえ、何でもありやせん」

 慌ててそう言うと、手にしたビール瓶をテーブルの上に置いて、包丁でネギやチャーシューなどのラーメンの具材を切り始めた。

「……」

 やれやれ、店主にまで気を遣わせるなんてな……。

 俺の家庭環境が大きく変化したことを雰囲気から察してくれたんだろう。店主はあまり深いところまでは聞いてこなかった。その気遣いが俺にはとてもありがたかった。

 その時、店の暖簾(のれん)がめくれる音が僅かに聞こえてきた。店主が「あ、らっしゃい」と声をかける。だが、めくったやつは何も言わなかった。

「嵯峨山」

 決して大きな声ではない。だが、妙にドスのきいたその低い声を聞くと、背中に寒気を感じた。誰なのかすぐにわかった。

 後ろを振り向くと、髪を短く刈り込んだ黒いスーツの男が立っていた。

「よう、浜家(はまや)。お前も食べに来たのか?」

「食事は既に済ませてある。お前を探していたのだ」

 浜家は無表情なまま、俺を見下ろしていた。本当に感情の欠片もない男だなと思った。初めて会った頃から何一つ変わっていない。

「仕事か?」

「外で待っている。早く済ませろ」

 浜家はそれだけ言うと、屋台の暖簾を戻して外へ出て行った。

 まあ、そうだろうなと思っていた。あの男は基本的に仕事の話しかしてこない。

「今の旦那のお知り合いですかい? あまり見かけない顔ですが」

「ああ。新しい職場の同僚だよ」

 俺は笑いながら席から立ち上がり、小銭を置いた。

「ごちそうさん。今日も美味かったぞ」

「毎度あり。また来てくださいよ、旦那」

「ああ」

 俺はそう言うと、屋台を出た。

通りの外へ行くと、道路脇に真っ黒なリムジンが停まっていた。後部座席のドアを開けると、奥の席に浜家が座っていたから、俺はその隣のシートに腰を下ろした。

「出せ」

 浜家が運転手にそう言うと、リムジンは夜の街の通りを走り始めた。

「二時間後から始める。今日はこの三件だ。目を通しておけ」

 浜家が俺のほうを見ることなく、手にした書類を差し出した。

 受け取って目を通すと、そこには近くの町の住民の情報が書かれていた。住所、家族構成、年齢など仕事の時に必要な情報が記載されている。

「最近、ずいぶんとペースが早いな。何をそんなに急いでいるんだ?」

 一通り目を通すと、浜家に書類を返した。浜家はまた俺のほうを見ることなく、その書類を受け取った。

「上から命令があった。京都の都市部一帯を改めて掃除することになっている。我々の活動の拠点であるこの地域の基盤を固め、早急に地方へ活動範囲を広げる必要があるからだ」

「ガードレディとガードマンって言ったか。そいつらのせいか? また何かあったのか?」

「それほど騒ぎ立てるほどのことではない。だが、和歌山、三重へ派遣したチームが手こずっているようだ。強力な刀人の育成を一刻も早く進めなければならない」

 表情一つ変えずに浜家は説明を続ける。

「能力の調整に少し時間はかかるが、既に何人かは選出している。それにあの娘も」

 あの娘。その一言を聞いて、俺は無意識のうちに浜家のほうを見た。

「また使うつもりなのか?」

「特に能力の高い刀人だ。最初の頃より精神も安定している。戦力としては申し分ない」

「と言ってもな、浜家、あの子はまだ子供だぞ。ほかのやつもガキといえばガキだろうが、あの子は異常だ。使うにしても、もう少し時期をあけてから――」

「なぜそこまで肩入れする必要がある?」

 そこで浜家が初めて俺のほうを見た。目だけが冷たく光っていて、寒気を感じた。

「刀人に情が湧いたのか? 奴らは人の範疇(はんちゅう)逸脱(いつだつ)した力を持ち、様々な事件を引き起こした連中だということを忘れたのか? なぜ、我々の組織が存在するのか。なぜ、刀人が政府に管理されるようになったのか、忘れたわけではないはずだ」

「それはもちろんわかっている。だが、あいつらは生きている。俺たちと同じように泣いたり、笑ったりすることができる。あいつらは特別な力を持っているが、人とそこまで差があるわけじゃないだろ。ただの道具のように扱うのは間違っているぞ。むろん、上の連中がそうした方針を取っているから仕方ないことだと思うが、せめて俺たちだけでも人としてあいつらに接してもいいんじゃないのか?」

()(ごと)を……お前は甘いな、嵯峨山」

 珍しく浜家が感情を出した。でも、それは相手を見下すような感じに近いものだった。

「人と差がないだと? なぜ、人が感情を殺して他人を殺せる? なぜ、人が何もない場所から刀や剣を出すことができる? なぜ、人が異常な身体能力を持つことができる? それはもう人ではない。刀人と呼ばれる別の存在だ」

「……」

「一度、刀人になれば定期的に能力を使わなければならない。何かを斬ったり、物を壊す必要がある。でなければ、暴走し、最悪の場合は命を落とす。それが普通の人間と同じだというのか?」

「お前の言いたいことはわかるさ。でも、それでも俺は……」

「なぜ我々がお前をダルレストの幹部として抜擢したのか、忘れたわけではないだろ?」

 浜家のその言葉に俺は口をつぐんだ。痛いところを突かれた時には誰でもこういった反応をするのだろうか。

「元々老健局の関係者だったお前が身近で刀人に関する事件に巻き込まれた。刀人の秘密を知った者は記憶を書き換えられる。だが、我々の組織の人数不足が深刻だったのも事実。だから、お前を雇った。それはお前にとってもメリットだったはずだ。過去の記憶を失わずに済むからな。ましてや、自分の子供が――」

「やめろ! それ以上言うな!」

 たまらず大声をあげた。それ以上聞くのは耐えられなかった。浜家は視線を俺から外して、リムジンの向かう先を見つめた。

「なら文句を言わずに仕事に集中しろ。説教する時間も惜しい」

「……」

 俺は口を閉じて後ろの座席のほうに視線を移した。そこで横たわる少女はまだ幼い……幼すぎる。たぶん、小学生になったばかりだろう。その子は目を閉じて静かに眠っていた。

「どいつもこいつも若すぎる……これから先、たくさんの可能性のある未来が待っているはずなのに、どうしてこんな簡単に殺し合わせることができるんだ」

 そう呟いたが浜家はもう聞いていなかった。視線の先にいる子も寝返りをうつだけだった。


 13


 リムジンの窓から見える住宅街。深夜の一時を過ぎてから、ほぼ全ての民家の明かりが消えていた。大抵のやつなら既に眠っているかもしれないが、それでも目に映る全ての家が真っ暗なこの状況は異常だと言えるだろう。

 だが、ダルレストにとってはこれが日常の光景だ。フィールドを張り、対象者を含む一帯の住民全てを仮眠状態にする。そのあとに『仕事』を始めるのだ。

 リムジンが道路脇に停車した。前方に今夜の対象者の住む民家が見えた。ドアを開けてリムジンから降りると、雲一つない夜空にたくさんの星が輝いているのが見えた。大気汚染で空が曇り、いつか星が見えなくなってしまうという話を子供の頃に聞いた時は、不安に思っていたが、そんな事態に直面したことは一度もなかった。

 俺の後ろからすっと誰かが降りてくる気配がした。

 あの子が立っていた。浜家と同じように表情一つ変えない。俺のほうを見ているわけじゃなく、まっすぐ前に建つ家を見ている。とても静かな表情で、何を考えているのか、わからなかった。

「対象者が在宅中なのは判明している」

 反対側のドアから浜家が現れた。

「この子だけにやらせるつもりか?」

「そうだ」

 そう言うと、浜家が少女のほうを見て、顎で民家のほうを指した。彼女は返事も頷くこともなかったが、ゆっくりと歩き始めた。あとについて行こうとしたが、浜家に「作業を終えたあとでいい」と止められた。

「巻き添えに遭う危険がある」

「巻き添えって、安定したんじゃなかったのか?」

「一応な。だが、万全とは言えない。少なくとも私はそう見ている」

「……」

 俺はその場から動かず、対象者の家に向かうあの子の背中を見ていることしか出来なかった。

 時間で言えば三十分ほどしか経っていないだろう。道路脇の壁にもたれていると、浜家が右腕につけた腕時計を確認した。

「もういいだろう。嵯峨山」

「……わかった」

 壁から離れて俺は一人で民家のほうに向かって歩いた。遠くから見ていた時と同じようにその家は暗いままだった。だが、なぜかそこから感じ取れる雰囲気はあの子の姿が見えなくなる前よりも重苦しく感じた。

 玄関のドアを開けて中に入ると血なまぐさい匂いが漂ってきた。この仕事を始めて以来、何度も嗅いだことのある匂いだが、全く慣れず、気が狂いそうになった。何とかこらえて靴を履いたまま、近くのリビングに向かうと匂いはよりきつくなった。

「……」

 その部屋のちょうど真ん中にあいつは立っていた。あいつの手には片腕で持てるとは思えないほど大きな斧があって、真っ赤な血で濡れていた。その斧と同じようにあいつは全身に返り血を浴びて、わずかに視線を落としていた。その先にはここで住んでいたであろう対象者の死体が二つ転がっていた。どちらも肩から斜めに切り裂かれている。即死のようだった。

 それらの死体を見ているあいつの目はとても暗く、虚ろだった。快楽や罪悪感を味わっているわけではない。何も感じてなどいなかった。あいつにとってこういった仕事をするのはただの作業に過ぎなかったのだ。

「帰るぞ」

 そう言うと、あいつは俺のほうを見た。黙ったまま頷くと、手にした斧をふっと消して俺を横切ってそのまま玄関のほうへ歩いていった。

「……」

 あいつが気づく日は来るのだろうか。自分のしていることがいかに酷いことなのか。どうして、自分がこんなことをしているのか、疑問に思う日が来るだろうか。

 気づいて欲しいと願う反面、それを考えた瞬間、あいつはどうなってしまうのか、そんな不安も入り混じる複雑な心境のまま、俺はあいつのあとについていった。


 14

 

 人と刀人は違う存在。それは正しいことなのかもしれない。浜家の言っていることに間違いはなく、理解することもできた。

 確かに刀人は世間一般から見れば危険な存在だった。実際にあいつらによって引き起こされた事件も少なくない。だから、上の連中は何十年も前から刀人を管理し、その存在を有効的に活用しようと考えた。  

 その結果、作られた組織がダルレストだ。ダルはスペイン語で『与える』。レストは英語で『安らぎ、安息』の意味を含む。どうしてそんな名前がついたのか、最初は理解できなかったが、幹部の仕事をしているうちに嫌でもわかってしまった。

 上の連中は前々から深刻になっていた高齢化問題解決のために、刀人を使って最も単純かつ最悪な方法を実行していたのだ。

 高齢者に該当するじいさんやばあさんを密かに抹殺し、その人数を減らしていく。単純な答えだ。だが、恐ろしい。

 俺がこの事実を知った時には驚きを隠せなかった。本当にそんなことが政府公認で行われているなんて、誰が信じるだろうか。実際にこの目で見てきたから信じるしかないのだが……。

 当然、ダルレストの活動は世間では隠蔽されているため、真実を知る者はとても少ない。しかし、それでも何らかの方法で真相を知り、ダルレストの動向に反発する組織が現れた。

 それがガードレディと呼ばれる刀人の少女たちと、そのサポートをするガードマンという男たちだ。奴らはダルレストの行動を妨害し、対象のじいさんやばあさんを保護する活動を行っている。

 ダルレストはこのガードレディとガードマンを殲滅することも活動の中に加えるようになり、交渉することもないまま、二つの組織は社会の裏で終わりのない戦いを繰り広げることになった。

 高齢化問題の最悪な解決法を進めたことが、泥沼化した殺し合いに発展してしまったというわけだ。

「……」

 次の日の朝。太陽が登り始めてまだ間もない時間帯。俺は視線を少し下に向けたまま、京都にあるダルレストの施設へ向かっていた。

 高齢者保護法に規定されたアフターケアと呼ばれる施設。地上四階建ての建物で、表向きには大勢の高齢者が生活を送っている。そう、表向きには。

 実際、この施設の実態は地下にある。そこは社会から隔離された刀人たちが暮らす場所になっていた。毎日を地下深く、独房のような部屋で生活し、厳しい戦闘訓練を受け、真夜中になると外へ狩りに出かける。そんな日々を死ぬまで繰り返すのだ。

 俺が浜家と共に刀人たちの監視を行う仕事に就いてから三年が経っていた。当然、この実態を知った時には反感を抱いたが、自分の記憶を失わないで済む方法がほかにない状況ではどうすることも出来なかった。今日も、明日も、これからも、俺は刀人たちが人の命を奪い、そして死んでいく姿を黙って見届けるしかない。もちろん、あの子も決して例外ではなかった。

「やれやれ……」

 先のことを考えていると少し(うつ)になった。駄目だ。自分の性格に相反している。俺はこんなやつじゃなかったはずだ。ポジティブに考えて、心配事なんて笑い飛ばす。本来はそんな性格だったはずだ。

 いつから、変わってしまったんだろうな……。

「久しぶりだな、嵯峨山」

 アフターケアの施設の正門を通り過ぎた直後に、背後から声が聞こえてきた。反射的に素早く後ろを振り返った。

吉住(よしずみ)……」

「あの時よりはマシになったみたいだな」

 吉住は口にくわえていた煙草を手に持った。

「仕事のほうもそつなくこなしていると浜家から聞いている。あいつがそう言うんだ。途中で投げ出すことなく、頑張っているそうだな」

「今さら褒めても何も出ないぞ」

「ふん、そこは素直に喜んでおけ」

 吉住が煙草を踏み消して、二本目の煙草を口にくわえた。

「じゃあな、これから浜家と少し話があるんでな」

「ちょっと待ってくれ、吉住」

 先にアフターケアの施設へ向かおうとした吉住を呼び止めた。

「なんだ?」

「あの子……最近、仕事をさせている子をどうするつもりなんだ?」

「答える必要があるのか? ここにいる奴らがどうなってきたか、見てきたはずだろ?」

 やっぱり、そうなのかと思った。

ダルレストの刀人たちは年齢層が大体決まっていて、十代から二十代がほとんどだった。そして基本的に短命で若くして死んでいくやつが多い。

 最初に来た頃、その理由を知らなかったが、活動を続けていくうちに理解した。

 まず、ここにいる刀人たちは戦闘に最も適した武器――ここでは刀や剣にする。刀人の得物は覚醒するきっかけになった感情で決まるが、その根源となる感情をコントロールする薬物を長期に渡って、体内に注入し続けることで武器が特定のものになるのだ。

 だが、この薬物はただでそういった効果を発揮するわけじゃない。当然、副作用があり、薬を受けた者の寿命を著しく削ってしまうのだ。

 だから、仮に戦いで生き延びた刀人がいたとしても、その命が長く続くことはない。せいぜい三十代ぐらいまでが限界だろう。

「あの娘とて例外ではない。元々の能力が極めて高かったから普通の刀人よりは長く生きるだろうが、大差はないな」

「どうしてそう言い切れるんだ?」

「わからないのか?」

 そう聞いたあとに吉住は鼻で笑って、二本目の煙草を踏み消した。

「仮にガードレディやガードマンどもとの戦いに生き延びたとしても、自分の今までやってきたことを自覚した瞬間どうなると思う? 自分の手で何人も何人も殺してきたやつがまともに生きていけるはずがないだろ。精神崩壊を起こして死ぬのがおちだ。この建物がいつまでも満員にならないのはそのせいだ。もっとも、そのほうが管理している我々にとっては好都合だけどな」

 吉住のその言い方に激しい怒りをおぼえた。何とかこらえたものの、聞かずにはいられなかった。

「吉住、お前は……お前は本気でそう思っているのか? あいつらに同情や哀れみも、何も感じないのか?」

「当然だ。あいつらクズどもにはお似合いの生き方だ。飯を食わせてるだけ、ありがたいと思ってもらわないと困る」

 吉住は俺の質問に即答した。一切迷いはない。この男も浜家と同じくらい、いやそれ以上に刀人の存在を疎ましく思っているんだろう。

「例の娘、そろそろ名前を考えとけ。一応、世話役はお前だからな。いつまでも娘、娘と呼ぶのも面倒だ」

「……わかった」

 吉住は三本目の煙草を取り出して火をつけた。それを口にくわえると、まっすぐアフターケアの中へ入っていった。

「名前か……」

 そういえば考えていなかったな……。

 

 15

 

 推進課、もといダルレストの関係者しか出入りできない地下は刀人たちの生活の場所だった。数百人に及ぶ人数が二人一組ずつ、一つの狭い部屋に収容され、訓練や仕事の時以外、外に出ることは禁止されている。

 刀人が施設から脱出する可能性はないのか。ここで働くことになったやつなら誰でも一度は考えることだが、その答えは、ほぼ不可能だ。

 各部屋の扉や廊下にある鉄格子は刀人の力では壊すことの出来ない特殊金属で作られている。また一見無防備と思える施設の周囲には無数の監視カメラが設置されてあり、その全てを掻い潜るのは困難だった。それに、これは話を聞いただけで実際にこの目で見たことはないが、対刀人用に訓練された特殊部隊が存在していて、逃げ出したやつはそいつらの執拗な追跡を受けるらしい。これまでに何度か活動した経歴はあったそうだが、そいつらの追跡を逃れた者は誰一人いないということだ。

 それだけでも、脱出する可能性はないと言ってもいいが、そもそもここから出ようとする刀人がいないことも事実だった。あいつらが外の世界で生きる術はほとんどない。毎日毎日、自分を追跡してくる連中に怯え、身分を偽って生活していかなければならない。それに比べたらダルレストのメンバーとして活動しているほうが何倍もマシだろう。

 あいつらもそこまで馬鹿じゃない。自分の生きていく方法がこれしかないと悟っているからこそ、浜家や吉住を始めとした上からの命令に従っているんだ。それが自分の正しい生き方だと思って……。

「……」

 俺はビニール袋に入れたあるものを持ち直して、正面玄関からアフターケアの施設に入った。入ってすぐ左手側に訪問者の受付をしている女がいたが、俺のほうを見ることなく、手元に視線を落として何かの作業をしていた。

 俺もそいつに挨拶せずに、そのままロビーの奥へ進んだ。その先に一つの扉があった。扉の前で指紋認証と網膜スキャンを行うと、ロックが外れて中に入れるようになった。その先に地下へ続く階段がある。普段、あいつらが生活している場所へ続く階段だ。

 階段を降りながら、俺はさっき吉住が言っていたことを思い出した。

 国民全体にたいして刀人の割合は微々たるものかもしれないが、その人数は決して少なくない。今、この瞬間にも人から刀人になった者もいるだろう。いくらこの施設が大勢の人数を収容できるとはいえ、本来ならすぐ満員になるだろう。そう、本来なら。

 ここで働くようになって数年が経過していたが、少なくとも俺はこの施設が満員になった光景を見たことがなかった。

 その理由を突き詰めていくと、まず刀人の武器を戦闘に適したものにする薬。その副作用で、あいつらの寿命が著しく縮んでいることやガードレディやガードマンとの戦いで命を落とすことが理由になってくる。だが、それだけだと刀人の数はなかなか減らない。ダルレストではもっと効率良く人数の調整ができる訓練をさせている。

 それはより能力の高い刀人の精鋭部隊を作るために行われている決闘訓練というものだった。

 決闘。文字通り、自分自身の命をかけた殺し合いだ。地下三階に専用の闘技場が用意されていて、どちらかが死ぬまで戦い続ける。

 その訓練で一定数以上勝ち抜いた刀人だけが精鋭部隊に入ることになっている。精鋭部隊にいる連中は普通の刀人より優遇され、その能力は極めて高かった。ガードレディやガードマンたちが強いと言っても、精鋭部隊が相手だとその差は歴然だろう。

 俺はその部隊にいる連中の顔ぶれを見たことがある。どいつもこいつも暗い目をしていた。相手を殺すことに一切の躊躇いがない。誰もが経験するはずの青春の日々を、ただ人の命を奪うためだけに費やしてきた若いやつばかりだった。とても、俺と同じ人間とは思えなかった。

 やはり間違っていると思う。こんなことをするためにこいつらは生まれてきたわけじゃない。先のわからない、だからこそ面白い未来に希望を持ち、幸せを見つけるために人は生まれてくるんだ。ただ刀人になったというだけで、こんなことをさせるのは間違っている。もちろん、あの子だって……。

 そんなことを考えながら地下三階まで降りると、近くのスピーカーから大きな音が鳴った。決闘訓練が終わるのを報せる音だった。今この瞬間に、誰かが命を落とし、誰かが罪を重ねたのだろう。

 俺は階段を降りて、暗い廊下をまっすぐ進み、決闘訓練が行われている場所へ入った。

 そこはまさにコロシアムと呼ぶのにふさわしかった。かつての古代ローマで言う闘技場、現代で言うとスペインの闘牛場に近い形をしている。

 円形の足場から広がる観客席には何人もの刀人が座っていた。表情一つ変えないまま、中央の広場をただじっと見ているやつがいれば、隣に座る者同士で雑談しているやつもいた。

 観客席を一通り見渡したあと、俺は中央にある闘技場に視線を移した。

 ちょうど広場の中央に二人の人間がいた。片方は仰向けに倒れている男だったが、まだ高校生にもなっていないぐらいの少年だった。手に刀を持ったまま、血まみれになっている。もう死んでいるのは誰が見ても明らかだった。

 よく見ると、その少年の傷は刀に斬られたものではなかった。身体中の至る所に何かで打ちつけられたような痕がある。頭に受けたのが致命傷になったんだろう。酷く変形していて、元の顔を想像するのが難しかった。

 刀じゃない武器か……珍しいな。

 そう思いながらもう一人のほうを見て、俺は目を丸くした。

 女の子だった。一瞬、見間違いかと思ったがそうではなかった。だが、俺のよく知っているあの子じゃない。

「はあ、はあ……」

 髪を団子状に束ねた髪形をした少女は疲れているのか、肩で息をしていた。すでに武器を消している時点で勝敗はついたんだろう。

(さかき)の死亡を確認。字倉(あざくら)、戻れ』

 スピーカーから放送が流れると、字倉と呼ばれた少女は顔についた返り血を手で拭って広場から出た。観客席の間にある階段を登っていくと、近くにいた刀人たちが何やら話をしていたようだが、字倉は全く気にせず、闘技場をあとにした。

 あれが字倉(あざくら) 花麗(かれい)か。

 刀人の中では珍しい女で、なおかつ薬の調整を必要としないオリジナルの刀人だった。  

 既に外での仕事を始め、ガードマンやガードレディも多く倒していると聞いている。名前だけ聞いていて、実際にその姿を見るのは初めてだった。

「まだ中学生ぐらいじゃないのか……」

 普通に可愛い少女だった。返り血を浴びてさえいなければ、街中で友達と一緒に遊んでいる中学生の少女と何一つ違いはなかった。本来はそんな生活をしているはずなのに……。

「あの子の様子を見に行かないとな……」

 字倉に対して複雑な気持ちを抱きながら、俺は闘技場をあとにして廊下を歩いた。


 16


 一年ほど前、あの少女のことを初めて知った時、驚きの連続だったことは今でもはっきり覚えている。

 ある仕事で精鋭部隊に所属する三人のダルレストの刀人が、民家に住む対象のじいさんとばあさんを殺害した。これに関しては特に驚くことはない。普段からそうした仕事をしているせいで慣れてしまったかもしれないが。

 だが、その三人が仕事から帰ってこなかったと聞いた時は言葉を失った。三人とも、その家に住んでいた孫娘の少女に殺されたというのだ。

 少女はじいさんとばあさんが殺された場面を目撃し、そのショックで刀人へ覚醒した。しかも、普通の刀人よりも遥かに強い力を持つ刀人として。覚醒したばかりの刀人が三人の敵を倒してしまったのだ。

 保護されたその少女は文句なしで精鋭部隊より能力の高いオリジナルの刀人のグループに割り当てられた。

 それからの活躍ぶりは驚きの連続だった。対象者の人数が多く、数週間は費やす仕事をわずか数日が済ませたり、ガードレディやガードマンたちに妨害されても、それら全てを一瞬で始末していった。

 その容赦の無さや残酷さ、冷酷さは上の連中に軽蔑されるどころか、むしろ高く評価された。だから、あの子は他の刀人よりも丁重に扱われ、わざわざ幹部の一人である俺に世話役を任せたのだ。

 しかし、そばであの子をずっと見てきた俺にはわかる。それはどうしても無視できず、ずっと頭の中で引っかかっていることだった。

 あの子は自分のやっていることを自覚していない。確かに自分の行為が罪だと感じているやつは少ない。人を殺すことでしか生きる術のない刀人たちはそうしないといけなかった。だから、感情を殺し、情けもかけることはない。

 けれど、あの子には自分が何をやっているのか、それすらも自覚していないように見えた。思考を停止し、ただ浜家や上からの命令を受けて、それを実行する、いわば作業する機械と変わりなかった。

 あの子には僅かにでも人としての心があるだろうか。自分の考えや夢を持っているだろうか。俺はそれが気がかりで仕方がなかった。

 闘技場をあとにして、更に地下へ降りて、薄暗い廊下を歩いた。地下四階まで来ると、そこはオリジナルの刀人たちが暮らす地区になっていた。あいつらは普通の刀人と違って、一人ずつ自分の部屋があって、許可されているものなら、自分の好きな家具や服、雑誌などを持ち込むことができる。そのメンバーの中には条件を満たせば、自由に外出できる者たちもいた。

 ただ覚醒した段階で能力の高い刀人が見つかるのは極めて稀だった。だから、その数は精鋭部隊よりも圧倒的に少なく、ダルレストの本部であるここでさえ、数人しかいなかった。

「やあ、葉作」

 廊下の進む先から声が聞こえてきた。顔をあげると、壁にもたれて俺を見ている少年がいた。そんなに身体が大きいわけではない。せいぜい中学生がそのあたりの年だろう。けど、その周囲から感じ取れる独特な雰囲気にとても嫌な感じがした。

「ここに来るなんて久しぶりだね。元気そうでなによりだよ」

 まるで友達のように話しかけてくるそいつの名を、俺は複雑な気持ちを抱きながらつぶやいた。

「お前こそ元気そうだな……伊月(いつき)


 第八話 大きな節目 終

 次回へ続く


キャラクター紹介

嵯峨山(さがやま) 葉作(ようさく)

愛佳のガードマン。大柄な体格と豪快な笑いが特徴的でメンバーの雰囲気を明るくする役を担っている。娘の愛佳との間に複雑な過去がある。


嵯峨山(さがやま) 愛佳(あいか)

葉作の相棒のガードレディであり、彼の娘でもある少女。マイペースで無表情だが、親友である千登勢(ちとせ)のことを大切に思っている。


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