第一話 冷たい雨
ガードレディ
第一話 冷たい雨
1
まず最初に言っておこう。
今から僕が話すことは夢でも妄想でも架空の話でもない。これは実際に僕の身に起こった体験談。そう、ノンフィクションな話だ。
他の人が聞いても悪い冗談やただの噂みたいに、到底納得できる話じゃないかもしれない。だけど、話さないとこの長い物語が始まることはない。だから、聞いて欲しい。
僕はまだ十七歳になったばかりの高校生だけど、もう将来のことを考えないといけない年齢になっている。二学期から職業体験実習のシーズンが始まるし、その実習を終えれば、今度は就職先を決めなければならない。最初は地元で働くことができれば、それでいいと思っていた。でも、中途半端な気持ちで、人生の半分以上を捧げることになるかもしれない仕事を決めるのはやっぱり嫌だった。
僕の生きる時代で十七歳や十八歳という年齢は、それだけ重大な決断をしないといけない。そんな人生の大きな分かれ目に差し掛かり、僕の人生に大きな変化が訪れようとした時だった。
僕は死んだ。別に深い意味も別の意味を含めてこう表現したわけじゃない。文字通り、僕は自分自身の命を失ったんだ。
2
「うぐ……」
空から降る雨の冷たさを肌で感じる。季節は夏場なのに、その感触はとても心地よいものとは言えなかった。もちろん、僕にはこれまで雨に濡れた経験が何度もあった。学校に傘を持ってくるのを忘れて、帰りのにわか雨に濡れたことがあったし、別の時には通学の途中で車の跳ねた水しぶきで濡れたこともあった。普段の生活で誰にでも起こりうるケースを僕自身も例外なく経験していた。
でも、今の僕にはこの雨が今まで経験した中で一番冷たく感じている。
雨ってこんなに冷たかったんだ……。
どうして今になって気付いたのだろう。今日の放課後も傘をささずに外へ出ていたから、ずぶ濡れだったはずだ。それなのに、僕はこの雨を冷たいと感じている。
その理由は少し考えればすぐにわかった。
今の僕は道路の真ん中で倒れているからだ。体に力が入らず、立ち上がることも出来ない。それまでずっと考えていたことを考えることも出来ず、ただ、体に雨が降ってきているとしかわからないから、とても冷たい雨だと感じているんだ。
「くっ……」
自分の腹から何かが流れ出す感じがした。それが何か、手で触れることは出来なかったけど、雨水と共にそれが道路の溝へ流れていくのが見えたので、それが何なのかはすぐにわかった。
それは僕自身の血だった。走ってる時にこけた傷で出るようなちょっとの量じゃない、今まで見たこともないほど大量の血が雨水に混ざって流れ出ていた。
おかしいな、さっきも見たはずなのに、もう忘れていた。
自分の記憶力の無さを嘆く。学校の勉強で日本史や英単語を覚えることには自信があったから、そのショックは余計に大きかった。
何かおかしいと僕は思った。自分の血が流れていたら痛いはずなのに、その感覚が全くない。全身が麻痺しているみたいだった。雨は冷たいとわかるのに……。
人は死ぬ時、痛さとか感じないのかな……。
「ごめんね」
ふと、僕の側から誰かの声が聞こえてきた。少年の声だった。とても悲しく、何かに対して謝りたい気持ちが伝わってくる。
「……」
僕は何も言い返すことができなかった。目を開けてもう一度だけ少年の顔を見ようとしたけど、目がかすんでいて何も見えなかった。
おかしいな。さっき顔を見たはずなのにもう思い出せない。
諦めて目を閉じる。もう考える余裕も残されていなかったけど、後悔していることがあった。それを思わず口にする。
「兄さん……真那……」
あの二人と最後にもう一度ぐらい話しておきたかった。もっと色々なことを伝えたかった。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
意識が消える直前、頭の中に僕の記憶が走馬灯のように流れた。
3
「おい、おい梨折!」
授業の終わるチャイムが鳴った直後に目を開けた。すぐ傍から人の気配がして、顔をあげると、日本史の授業を担当している遠上先生が目の前に立って、僕を見下ろしていた。
「梨折、お前は成績が優秀だし、先生も高く評価している。だが、授業中に居眠りをするのは心外だな」
遠上先生が怒っているのか、ただ呆れているのか、どちらとも言えないような複雑な表情をしている。それを見て僕はようやく自分が授業中に居眠りしていたことを知った。
「すいません、遠上先生。もしかして、怒ってます?」
「まったく、今度見つけたら追加で宿題を出すから覚悟しろよ」
「はい、すいませーん」
遠上先生が大きくため息をついて教室を出て行くのを見送り、僕はあくびをしながら背伸びをした。
本当に睡魔って不思議なものだと、つくづく思う。学校で言えば授業中、社会に出たら研修中などと言った、何かと張り詰めた雰囲気がある時……言い換えれば『眠ってはいけない』時に限ってよく来るし、逆に授業が終わって休み時間に入り、『眠ってもかまわない』時になると、途端に跡形もなく消えてしまう。
もしかして睡魔は面倒だと思ったり、どうしても緊張してしまう場から逃れたいという意識を表現しているんじゃないかと思った。
自分で言うのもなんだけど、僕は学校で成績は優秀なほうだった。けれど、勉強が好きか嫌いかと聞かれると「好きじゃない」と答えるタイプだった。だからと言って授業をさぼって外の町で遊び回るようなことは決してしない。僕自身、勉強は嫌いでも根は真面目な性格の人間だと思っている。
「また眠ってたわよ、潤一」
僕の隣の席から声が聞こえてくる。見ると、そこにはストレートの長い黒髪の女の子が座っていた。
僕のクラスの中で一、二位を争う『美少女』と評されている女子高生――八重坂 真那だった。僕のほうを見ることなく、真那は視線を手元の小説に向けたままだった。
「だらしないわね」
「気づいていたなら、起こしてよ、真那」
「自業自得じゃない。自分のことぐらい、自分で何とかしたらいいじゃない?」
そう言いながら、真那は小説のページをめくっていく。確かに彼女は可愛いかもしれない。けど、小さい頃から真那のことを知っている僕にとっては、真那の話で盛り上がる同級生の気持ちが理解できなかった。
「相変わらず冷たいよね、真那は。昔、遊んでた時はもっとこう――」
そのあとの言葉を口に出来なかった。言い終わる前に真那が僕の頭を本で叩いたからだ。
「いてて……」
そこまで痛かったわけじゃなかったけど、頭を押さえてわざと痛がるふりをした。
「その話はしないで。恥ずかしいから……」
それだけ言って真那が再び読書のほうに集中する。わずかに頬を赤く染めているのが見えた。マイペースなのか、ただの恥ずかしがり屋なのか、よくわからない奴だと思った。
「よお、優等生。この前の試験は余裕すぎて居眠りか?」
そう言いながら僕に話しかけてくるやつがいる。顔を見なくても、誰なのかすぐわかった。真那から視線を移してそいつを見る。
案の定、悪友の溝谷文仁が立っていた。僕より少し背が高い。坊主頭に近いのは本人曰く「野球部の活動の名残」らしい。
「優等生じゃないよ。ちゃんと予習、復習をすれば誰でも出来る」
「そういう科白。俺も一度は言ってみてえよ。『悪いな、潤一。俺はエリートだから、そんなことで困らないんだ』って」
「悪いな、文仁。僕はエリートだからそんなことで困らないんだ」
「ちょっ、普通に俺の考えた科白をさらっと言うなよ!」
文仁が悔しがる様子を見て思わず笑ってしまう。本当にいじり甲斐のある男だと思った。
「それにしても文仁、お前の成績、壊滅的だったよ。いくら何でもあの点数はないだろ」
「ふっ、俺の心は今、二次元にあるんだ。勉強なんてしてる暇ないね」
「二次元って、もしかしてあのキャラのこと?」
「あのキャラとは何だ! カンベちゃんと言え!」
途端に文仁が詰め寄ってきて真剣な目で僕を睨んできた。まずい、こいつのスイッチを入れてしまった。
「くぅー、アクセス権さえあれば、お前にカンベちゃんの美声を聞かせてやりたかったぜ。潤一、カンベちゃんがこの町のマスコットキャラになってからいったい何年経ったのか、知ってるのか! もう半世紀も前だぞ! ここまで長続きした二次元のキャラはカンベちゃんをおいて他にいないだろ! あー、俺もカンベちゃんにいじめられたーい!」
それから文仁が完全に自分の世界に入ってしまった姿を見て、僕は呆れた視線を送った。
カンベちゃんと言うのは、半世紀前に誕生した僕の地元で有名なマスコットキャラのことだった。元々、学校の近くにある神戸神社をモチーフにしたキャラクターだったけど、カンベちゃんを考案した同人サークルの活動が劇的な成功を収め、この地域の発展に大きく貢献した。その成果が見込まれて今では地元のマスコットキャラクターとして扱われている。
以前、文仁に勧められて、カンベちゃんが神戸神社を再興するために活躍する小説を読んだことがある。彼女がどんなキャラかと言うと、見た目は神社の巫女さんでかなり可愛いのだが、性格はかなりドSで腹黒い。神社再興のために猫をかぶってバイトを掛け持ちしてお金をためたり、主人公の男子高校生を変態扱いして散々に振り回したりと、とにかくやっていることはめちゃくちゃだった。
そのギャップが良いとか、俺もカンベちゃんに踏まれたいなどと、文仁の熱弁を毎日のように聞かされていたので、興味のなかった僕もさすがにカンベちゃんのことは覚えてしまっていた。
「昨日もカンベちゃんの新刊を朝まで読み込んでだな――」
「はいはい、もうその話を聞き飽きたからまた今度ね」
文仁のカンベちゃんに対する情熱のこもった話は突然中断された。
本当のことを言えば、ずっと話を聞いていて頭が痛くなりそうだったので、助かったと思った。
文仁の耳を引っ張って、彼の熱弁を中断させたのはクラスのもうひとりの「美少女」だった。金髪を二つの紐でツインテールにしている彼女の名前は橘 鶴香。大人しく、控えめな真那と対称的に明るくさっぱりとした女だった。
その見た目と性格が重なって、同じクラスになった男子の八割は鶴香に一目惚れするらしい。僕から見ても鶴香なら、それくらいのことがあっても不思議じゃないと思う。けど、それ以上に不思議なのは学校で噂になり、そう簡単にお近づきになれないこの『美少女』と僕が何ら隔たりなく仲良くなっていることだった。真那は幼馴染だったから納得いくけど、鶴香とはどういった経緯で今の関係になったのか、思い出せなかった。
「潤一と真那って今日何か予定ある?」
「別にないけど、どうしたの?」
僕は鶴香の突然の質問に質問で返した。
「じゃあさ、今日は久しぶりに四人で帰らない? 最近、みんな帰るのばらばらだったしさ。それに……」
鶴香が文仁に呆れるような視線を送る。耳を引っ張られていても、文仁は「カンベちゃん、俺の嫁になってくれ!」とか「俺の生きがいはカンベちゃんの生きる世界にしかないんだああああ!」とかわけのわからないことを言い続けている。
いったんカンベちゃんの話をすると、しばらく現実に帰って来れないのが文仁の良くないところだった。できれば改善してもらいたいと前々から思っている。
「こいつの妄想話を一人で聞くのも疲れっちゃったのよ」
「まあ、その気持ちはわからないわけでもないけど……」
「よし、じゃあ、放課後正門前の桜木に集合ね。真那もよろしく!」
そう言って鶴香が文仁を引っ張りながら自分の席に戻っていった。
「今日はみんなと帰れるのね」
「嬉しそうだな、真那」
そう言うと、真那にまた本で叩かれた。
「いてて……」
今度はちょっと痛かった。
「いちいちそう言うこといわないで」
また、頬を赤くして本を読み始める真那の姿に笑って、僕は視線を反対側に移す。教室の窓から見える町は今日も快晴だった。春の暖かさが消え、季節はすっかり夏だった。
西暦2064年。この席から見える三重県松阪市の風景は僕にとって、いつもと変わらなかった。
4
2064年六月上旬。三重県松阪市。
「潤一、あんたもうコース決めた?」
学校からの帰り道。旧伊勢街道に交差する小さな道を歩いている途中で、僕は鶴香にそう聞かれた。
「コース?」
「職業体験実習のことよ。営業系? 事務系?」
「話し下手な僕が営業に向いてると思う?」
「最初は誰だってそうじゃない。やってみないとわからないわよ」
「鶴香、まだあのバイトやってんの?」
横を歩く文仁が聞く。そういえば鶴香はファーストフードでバイトをしていたんだった。
「さすがにもう辞めたわ。この実習に集中したかったし」
「へえ、色々と大変だなあ」
「人ごとみたいに言ってるけど、あんたも同じでしょ」
「俺はとりあえず出来るだけ多くの種類の実習を受けて考えるさ」
「はあ、あんた、その分だけ研修ノート書かないといけないの、わかってるの?」
鶴香がまた呆れたようにため息をつく。文仁と鶴香のいつものやり取りだった。見ていて飽きることはない。
「それで潤一、どうするの?」
「うん、とりあえず僕は地元で働きたいかな」
「そっか、潤一は……」
鶴香がそれ以上何かを言おうとしたが、途中で辞めて真那のほうを見た。
「ま、真那は? どうするの?」
「図書館司書」
真那がすごいことをさらっと言った。
「まじかよ。お前、そんなに頭良かったか!」
文仁が驚いた声をあげる。
「失礼でしょ、ばか!」
鶴香が手にした鞄で文仁を殴った。
「いてえ、殴ることねえだろ、鶴香!」
「真那は真剣なのよ。入学した時から決めてたんだから」
「鶴香、大丈夫。私、そんなに気にしてないから」
「でも、真那……」
「本当に大丈夫。図書館司書になるの、難しいのは事実だし」
真那が喧嘩になろうとしている二人の仲を冷静に取りなす。
他の都道府県はどんな制度なのか、詳しく知らないけど、僕の通っている松阪高校では高校二年の二学期に入ると、職業体験実習が待っているのは知っていた。
それはある一定の期間、学校と労働協定を結んでいる企業が連携して学生に実際の職場で研修をさせるという、簡単に言えば将来の仕事を決める訓練のようなものだった。事務、営業、製造、建設、運輸、公務員と例を挙げればきりがないが、とにかく色々な種類の職種の研修を受けることができる。
それらの中から僕たちはそれぞれの希望を選んで、研修生として働く。その実習を終えて、適した職種を見つけることができれば、今度は大学でさらに専門的な知識と研修を積んで就職する、というのが僕たちの一般的な進路だった。
普通に考えれば、高校二年の時点で将来のことを考えなければいけないというのは酷な話かもしれない。けれど、それはどうしようもない。僕はそんな時代に生まれてきてしまったのだから。
「そういえばさ、今日居眠りしてて覚えてないんだけど、遠上先生のやっていた授業なんだった?」
ふと思い出して三人に尋ねる。
「どんな内容だったって。潤一、聞いていなかったの?」
今度は真那が呆れたと言わんばかりの視線を送る。文仁が「俺はいつもどおりカンベちゃんの妄想をしながら、居眠りしていた」となぜか胸を張って答えていた。
「えーと確か、近世の歴史の授業よ。高齢者保護法が制定された頃の話だったかしら」
鶴香が授業の内容を思い出すように、視線を上のほうに向けながら答えた。
「なんだよ、それ?」
「あんた、いい加減に覚えなさいよ」
素で聞いてくる文仁に呆れつつ、鶴香が続けて話す。
「今から大体十五年前に制定された法律で、高齢者の介護負担を政府が受け持つ制度のことよ。当時ってほら日本全体の高齢者の割合がすごいことになってたでしょ?」
その話なら僕も覚えていた。二十一世紀に入ってから日本の高齢者の割合が飛躍的にあがり、ついには全人口の半分以上の割合を占めるほどの状況に陥った。
その割合が増えると、それだけ年金問題や高齢者が高齢者を介護する高齢者介護問題など色々な問題が発生する。
そんな深刻な状況の中で制定されたのが、高齢者保護法に基づく介護制度だった。
簡単に説明すれば、政府が直接運営している介護施設に年配の人たちを預けて衣食住を提供し、他の家族の介護負担を減らすというものだった。この制度は思いのほか成功し、その影響もあるせいなのか、年配の人たちの割合は年々減少し始めていた。ただ、その反面、反対意見もあがっている。高齢者を一つの場所に集めて閉じ込めているようだと批判をして、デモ活動が行われたこともあった。
でも、介護制度は今も変わることなく続けられている。
なんだ、結構覚えてるじゃん、と自分のことながら感心した。
「何か笑ってるけど大丈夫、潤一?」
すぐそばから真那に呼びかけられて、はっと我に返った。
「ああ、大丈夫だよ」
「どうせ変な妄想でもしてたんだろ」
「あんたと同類になるなんて世も末ね」
「ん、何か言ったか?」
「別にぃ……」
文仁と鶴香が『いつものやり取り』をしているのを見ていると、あることを思い出した。
「あ、そういえば、じいちゃんももうそんな年齢だったかな」
「え?」
誰がそう聞き返したのか、わからなかったけど、すぐに真那だとわかった。
「潤一のおじいさん、もうそんなお年だったの?」
「うん、この前、エイジスキャンを通った時に65歳って表示されていたから間違いないよ」
そう言うと、真那が何かを考え込むような仕草をした。何か気になることでもあったかな……。真那の反応を意外に思ったし、どうしてそんなことをするのか、まったくわからなかった。
「おーい何してんだよ、置いていくぞー」
「真那、早く来なよー」
先を歩く文仁と鶴香の声が聞こえて、僕は「はいはい」と返事して真那と二人のほうに向かった。
5
「おっと降りなきゃ」
松阪高校の最寄駅である近鉄山田線の東松阪駅。そこから電車に乗って三駅目にあたる伊勢中原駅に到着したアナウンスが聞こえて、僕は電車から降りた。
既に文仁、鶴香と東松阪駅で、真那とは一つ手前の松ヶ崎駅で別れている。
四人の中で僕が一番遠いところから学校に通っていることになるけど、僕自身、このことで不満に思ったことは一度もない。
電車の移動中は割と暇な時間があるため、真那と色々な話が出来るからだ。彼女のほうは読書の邪魔になるから嫌がっているみたいだけど、僕にとっては楽しみな時間でもあった。
伊勢中原駅の改札を抜けると、頭上に設置された機械が電子音を鳴らした。
『Age scanning――通称エイジスキャン』と呼ばれるこの装置も高齢者保護法の制定と同時に実施されたものだった。
何をする機械かと言われると、とても単純でこの装置の下や横を通り過ぎると、その人の年齢がデータとなって、政府の管理している機関に送られる。プライバシーも何もあったものじゃない。電車だけでなくバスやタクシー、コンビニやスーパー、郵便局など色々な場所にこの機会が設置されているため、今の日本で生きる人たちが年齢をごまかすことはまず不可能だった。
僕は別にかまわないけど、年齢を知られたくない人にとっては不愉快な装置だと思う。人の年齢なんて知ってどうするんだろう。意味なんてないと思うけど。
改札を抜けて、田畑の田舎道に沿って歩く。松阪の町が発展したと言っても、このあたりはまだまだ田畑や山々が広がっていた。でも、僕は都会のようなビルばかりが立ち並んでいる場所よりも、こうした自然豊かな場所のほうが好きだった。
「あ、そういえば……」
連なる山の背後に夕日が沈み込んでいく様子を見ていると、僕はあることを思い出して携帯を取り出した。日付を確認してみる。
2064年六月○日。
間違いない、僕にとって今日は月に一度の特別な日だった。
「よし!」
気合いを入れて携帯を閉じ、自宅に向かって走る。およそ二十分ほどで、僕とじいちゃんの住んでいる家が見えてきた。二人で住むにはやや広い二階建ての家だった。そのまま玄関のほうに向かおうとしたけど、その手前で立ち止まった。
「断る! わしは絶対に行かないからな!」
「なぜそこまで言われるのですか? この制度を利用すれば、梨折昭雄さまだけでなく、家族の方の負担も軽くなるのです。いつでも面会可能なのですよ」
「人のことで勝手に口出しするな! もう帰れ!」
玄関のところでじいちゃんが誰かに怒鳴り声をあげていた。あんなに怒っている姿を見るのは久しぶりだった。
その相手を見ると、黒いスーツを着た背の高い男だった。ここ最近何度か見かけたことがある顔だった。
「仕方ありませんね。今日は帰ります。ですが、またじっくり考えてください」
「どれだけ時間をかけようが、わしの意思は変わらん。そんなものお断りだ!」
じいちゃんの態度に男は相当参ったようでそのまま引き返してくる。すれ違ったけど、その人は軽く会釈をしただけで、何も言わずに帰っていった。
その姿を見送った後、僕は家に入ろうとするじいちゃんに声をかけた。
「ただいま、じいちゃん」
「ん、ああ、潤一か。今日は少し遅かったな」
先ほどまでの態度と打って変わってじいちゃんが穏やかな口調で言った。
「さっきの人、いったい誰? 最近、よく見るよね」
「ああ、高齢者の介護制度を勧めてる奴だ。あの男、わしが先日誕生日を迎えた時から来るようになってな。いつも断ってるんだが、何度も来るんじゃ。このあたりの家にも色々と聞きまわっているらしい。ああいう奴はいつの時代でもしつこい」
「へえ、今の人が……」
そう呟いて後ろを振り返ってみる。その人の姿はもうどこにもなかった。
「それより潤一、今日は秀平の奴から連絡が来るんじゃないのか」
「ああ、そうだった!」
じいちゃんにそう言われて僕は急いで家に入った。時間を確認すると夜の六時前になっている。
うん、もうすぐだ。
二階にある自分の部屋に鞄を置いて、僕は一階にある電話機の前に立った。
時刻が六時ちょうどを指したのと同時に、電話機が鳴り響いた。
「もしもし、兄さん?」
すぐに電話に出て相手に呼びかける。
『また時間ちょうどだな、潤一』
受話器の向こうから兄さんの声が聞こえてきた。
「兄さんのほうこそ、いつも時間ぴったりだよ。さすが、時間に厳しい刑事だね」
『大げさに言うな。時間ぐらい守れなくてどうする』
「はは、相変わらずだね」
僕の兄の梨折秀平は東京で働いている刑事だった。兄さんが実家を出てからしばらく経っていたけど、月に一度こうして僕に電話をかけてくれる。
『そっちは元気にしてるか? じいさんの様子は?』
「いつもどおり元気にしてるよ。僕のほうはもうすぐ実習が始まるから、ちょっとばたばたしてるかな」
『実習? 職業体験のやつか?』
「うん、そうそう」
『懐かしいな。潤一ももうそんな時期なのか。どうだ、何かやりたい仕事は見つかりそうか?』
「まだ何とも言えないね。この町からあまり離れたくはないと思ってるけど」
『そうか……お前にはいつも苦労させてるな……』
途端に兄さんが申し訳なさそうに言った。
「そんなことないよ。兄さんだって今頑張ってるんでしょ?」
『まあ、俺のほうはいつもと変わらないな』
「でも、兄さん、そろそろ三十路でしょ? もう、相手を探したほうがいいと思うよ」
『なっ、急に何を言い出すんだ、お前!』
兄さんが急に慌て始めた。この手の話題を口にすると、兄さんが動揺することはもう知っている。その反応を聞くのがまた楽しみでもあった。
「やっぱり由美さんとよりを戻したほうがいいんじゃないの?」
『馬鹿。あいつとまた会うなんて、そんなこと……いや、電話ぐらいはしてるが……』
「え、電話してるの?」
『うっ、今のはこっちの話だ。聞き流せ。それより、お前のほうはどうなんだ? あの子とはうまくやってるのか?』
「あの子って真那のこと? こっちは大丈夫だよ。うまくやってる」
『そうか、そいつは良かった……』
兄さんがほっとしたように言った。どうやら、自分のことよりも僕の人間関係を心配しているらしい。強面で人とあまり話したがらない性格だけど、兄さんほど家族のことを大切に思っている人を知らなかった。
『実習に入ったらますます話す機会がなくなる。今のうちに伝えておけ』
「はは、兄さんがそう言っても全然説得力ないよ」
『うっ、何も言い返せん……』
僕と兄さんの話はいつもこんな感じだった。兄さんの仕事が忙しいせいで年に一度会えるかどうかもわからないけど、僕には兄さんがいつも身近にいるような気がした。やっぱり家族だからなのかもしれない。
『よし、そろそろ切るぞ』
「じいちゃんと話さなくてもいい?」
『お前から適当に言っておいてくれ。話してもどうせ由美のことで何か言われるだけだ』
「それもそうだね」
『おい、そこは否定しろ』
兄さんのツッコミに思わず笑ってしまう。やっぱり面白いや。
『じゃあ、ぼちぼち頑張れよ』
「うん、兄さんもね」
『ああ、じゃあな』
「うん、また今度ね」
最後にそう言って僕は受話器を置いて、今月の兄さんとの電話を終えた。
「秀平のやつ、元気にしておったか?」
リビングでテレビを見ていたじいちゃんが顔を出した。
「うん、じいちゃんにもよろしく言っておいてだってさ」
「ふん、全くそろそろ嫁のひとつもらった連絡が欲しいものだ」
兄さんの言っていたとおりだったので、思わず苦笑いしてしまった。
「まあまあ、そう言わないであげてよ。兄さんも悩んでいるし」
「あいつの女への苦手意識は異常すぎる」
じいちゃんがそう言って再びリビングのほうに戻った。テレビで流れている番組は高齢者保護法についての討論会のようだった。
『では吉住さんは高齢者保護法の制度を更に推進するべきだとおっしゃるのですね?』
司会らしき女性のキャスターが数人並んで座っているうちの一人に話しかけている。
名前だけ知っていた。現首相の田口首相の幹部の一人、吉住という男だった。
高齢者保護法の話題には必ずと言っていいほど、彼の名前や写真が出てくる。
『ええ、高齢者保護法が制定されてから約十五年が過ぎておりますが、この制度の実施と共に我が国の高齢者の割合は減少し、介護負担の軽減にも成功しております。とはいえ、まだこの制度は発展途上。都市部だけでなく、地方にもこの制度の迅速な推進が必要なのです。高齢者の方々のためだけではない、その家族、親戚、友人に至るため、関係する人々全員の幸せのためにも高齢者保護法は必要なのです』
「おい、潤一。この男、何て言ったか聞いたか! お互いの幸せのためにこの制度を推進したほうが良いとぬかしておるぞ! ふん、病気でも何でもないのにどうしてあんな施設に閉じ込められないといかんのだ。どいつもこいつも年寄り扱いしおって」
「はいはい、ご飯作るから機嫌直してよ、じいちゃん」
なおも高齢者保護法に対するじいちゃんの不満を聞きつつ、僕は夕食の準備を始めた。
6
僕は生まれも育ちもこの三重県松阪市の町だった。僕が生まれて間もない頃は父方の祖父母、両親、そして兄さんを含む六人家族で暮らしていた。でも、僕が十二歳の時に兄さんが上京して刑事になり、それから一年後に父さんと母さんが瓦礫病と呼ばれる病にかかって亡くなった。
瓦礫病というのは感情の一部が抜け落ちて廃人のような状態となり、やがて死に至る病気のことで十年以上前から日本で流行していた。建物が崩れて形をなくしても、まだその存在を保つ瓦礫に近いという意味でこの名前がつけられている。瓦礫病なんて、うまく表現した言葉だと思う。
その病に二人がかかって亡くなり、ばあちゃんもそれから間もなくして同じ病に倒れてしまい、僕とじいちゃんの二人暮らしが始まったのは今から二年ぐらい前のことだった
未だにはっきりとした治療方法がわかっていない瓦礫病のせいで、僕は家族を次々と失ってしまった。じいちゃんも同じ思いをしていたと思うけど、挫けずに僕の面倒を見てくれた。兄さんも定期的に電話をして、僕のことを気遣ってている。
家庭内暴力や親を殺してしまう事件をテレビで見ていると、僕はまだ恵まれた家庭で育ったと思っていた。
学校での生活も決して辛くなかった。小学校、中学校、そして高校とこの町で普通に進学してきたけど、周りにはいつも友達がいたし、学校での成績も上位にキープしていた。
高校に入ってから出会った鶴香と文仁、そして幼馴染の真那と話していると、いつも面白いし、学校に来るのが嫌だと思ったことはほとんどない。
親を亡くしているという点以外は割と平凡毎日を過ごしているというのが今の僕の生活だった。
けど、そんな僕にも他人にはない特別なことがあった。
7
『逃げて……早く逃げて』
真っ暗で何も見えない場所。僕がそこに立っていると、声が聞こえてきた。一度や二度じゃない。僕は何度もこの場所にいて、そして必ずこの声を聞いていた。
それは女の子の声だった。でも、誰なのかわからない。聞き覚えのあるような、ないような、どちらでもない気がした。
『早く逃げて。あなたも、あの人も……』
女の子の声はひどく小さいものだった。とても弱々しい。どこか具合でも悪いのだろうかと心配に思う声だった。
「どうして逃げないといけないの? 君は誰?」
思い切ってそう聞いてみた。その自分自身の声を聞いて驚く。その声は今の僕の声ではなく、幼い頃の自分の声だった。
『だめ……早く逃げて。でないと……あなたは死ぬ』
死ぬ?
どうして、と聞こうとしたけど、今度は口が開かなかった。
目の前にぼんやりと何かが姿を現す。
ひどく汚れた白いワンピース。腰のあたりまで届く長い髪。さっきまで声を出していた女の子がそこにいた。
知ってる。
その姿を見て直感する。
僕はこの子のことを知っている。でも、どこで知り合ったのか全く思い出せなかった。思い出そうとしたらノイズのような音が邪魔をして耳が痛くなる。
『死んじゃうわ……』
その子がまた悲しそうに言った。
『ごめんね……』
その子の背後から別の声が聞こえてきた。今度はその子の声じゃない。幼い男の子の声だった。
『本当にごめんね』
どうして謝るの?
僕はそう聞こうとしたけど、やっぱり声には出せなかった。
8
「おい、潤一。潤一!」
「!」
誰かにそう呼ばれて僕は顔をあげた。それと同時に頭に何かがぶつかる。
「いたっ!」
「いてえ!」
目を開くと、文仁が顎を押さえながら立っていた。
「お前、急に顔あげるなよ! めちゃくちゃ痛いぞ」
「ご、ごめん、ごめん」
ぶつけた頭を押さえながら周りを見る。僕がいたのは学校の図書室だった。
ようやく思い出した。兄さんと電話した次の日、いつも通りに学校に来た僕は放課後からずっと図書室で本を読んでいた。けど、そのうちに眠くなって机に突っ伏していたらしい。夕日が山の背後に沈みかかっているのを見ると、相当長い時間眠っていたようだった。
「というか潤一が図書室で読書なんて珍しいな。八重坂の影響か?」
「今日、真那は部活だから、それが終わるまでの暇つぶしだよ。それより、文仁こそどうしてここに?」
「たまたま通りかかったらお前の姿が見えたんだよ。俺も今から鶴香を迎えに行くところだ」
「文仁はいつも鶴香を待っているよね」
そう言うと、文仁が鞄を背負い直して息をついた。
「あいつ、生意気だけど、見てくれは良いからな。一人で帰らせると色々と危ないだろうが」
「文仁、何だかんだで鶴香のこと好きだよね」
「はあ!? 急に何を言い出すんだ、お前! そ、そんなわけないだろ! 俺の嫁は世界でただ一人、カンベちゃんだけだ!」
文仁が必死に顔を赤くして否定していたが、それは認めているのと同じだった。
本当にわかりやすくて、面白いやつだ。
「はいはい。早く行こう」
「おい、誤解するなよ、潤一!」
「はいはい」
なおも言い訳をしようとする文仁を適当に流しつつ、僕は図書室を出た。
9
松阪高校の体育館は二階建てになっている。二階は始業式や卒業式、バスケットボールやバレーボール部が使ういわゆる誰もがイメージする体育館の構造になっている。その一方で一階は柔道部や剣道部が使う道場だった。その道場のそばに僕たちの下駄箱があるため、そこを通る時はいつも大きな掛け声が聞こえてくる。僕と文仁が放課後に来たときもやはりそうだった。
「ほうほう、いつもながらはりきってやってるねえ」
文仁が感心したように道場の中を覗き込む。僕もその後ろから中の様子を覗いた。
真那の趣味が読書であることは間違いない。以前、真那が読んでいる本の数を計算したことがあったが、真那は月に十冊ぐらいのペースで恋愛、ミステリー、ホラー、ファンタジー、ラノベといった様々なジャンルの本を読んでいた。僕自身も本を読むことは割と好きだったので、帰りの電車で真那と話す内容も本に関することが多かった。
僕が真那と知り合ったのも小学校の図書室で、彼女が本を読んでいた時のことだった。
もし、僕が読書を嫌っていたら、真那と出会うことはなかったかもしれない。
逆に真那の苦手なことを挙げろと言われても、なかなか思い浮かばなかった。あえて言うなら、基本的に大人しいやつなので、人付き合いはあまり得意じゃないかもしれない。学校で真那がよく話す人と言えば、僕の知る限り、自分と文仁、鶴香の三人ぐらいだった。
それに人付き合いが苦手といっても、真那はこの学校で鶴香と並んで二大美少女と呼ばれている。そのため、男子生徒からの人気はかなり高かった。告白されたことだって、これまでに何度もあるし、実際にその現場を目撃したこともあった。
「私、人付き合い苦手だから、あなたの気持ちには答えられない」
でも、真那が男子の告白に対する返事はいつもこれだった。もしかしたら他に好きなやつがいるのかもしれない。
ただ、小学生の頃から彼女のことを知っている僕でも、未だにわからないことが二つある。
一つ目、僕は真那の家庭事情を全く知らない。彼女の両親がどうしているのか、兄弟姉妹はいるのか、そもそもどこに住んでいるのか、幼馴染なら当然知っているであろう知識を僕は全く持ち合わせていなかった。本人に直接聞いてみたことは何度かあったけど、ちゃんとした話を聞くことは出来なかった。もしかしたら話したくないほど辛い過去があったのかもしれない。そう思った僕はこの話を真那にはしないようにしていた。
そして、二つ目。一つ目はともかく、この謎を解く自信が僕にはなかった。
「どうして真那って剣道をしている時はあんなにはりきってるのかな?」
ちょうど鶴香と剣道の稽古をしている真那の様子を見て、思わず二つ目の疑問を口にした。そばにいた文仁も首をかしげる。
「何でだろうな。俺からしてみれば、そもそもどうしてあの二人が剣道部に入っているかどうか疑問なんだが」
「確かにそうだけど……」
そう呟きながら再び真那のほうに視線を移す。面具を被り、竹刀を握ったその姿は普段の真那からは想像できなかった。その後の彼女の動作や竹刀を振る姿を見れば尚更だった。掛け声も他の部員よりかなり大きく聞こえる。
二つ目の疑問は真那の部活についてだった。小学校の時は部活に入っていなかったけど、中学からいきなり剣道部に入部をしたと聞いた時は自分の耳を疑った。
内気でどうみてもインドアな真那がまさか剣道を始めるなんて、思ってもみなかった。でも、部活内ではかなり優秀で、地方大会で上位に入ったこともあるらしい。
体育館で行われた学校の始業式で何度か壇上にのぼって、校長先生から賞状をもらっている姿を今でも覚えている。そして、真那は高校でも続けて剣道部に入っていた。
「あっちのほうはここんところ精が出てるな……」
「ん、何か言った?」
真那と鶴香の様子を見ているのに集中していたから、文仁が言ったことをうまく聞き取れなかった。
「な、なんでもねえよ。ほら、もう部活終わったぞ。正門前で待っておこうぜ」
「あ、ああ……」
何を言ったのか、気になったけど、とりあえず流しておくことにした。
下駄箱のほうに歩き出す文仁を見てから、もう一度道場のほうに視線を移し、そこで立ち止まった。
僕の見ている先にいるのは面具を外した真那だった。真那も自分のほうを見ていた。
でも、その時の真那は何かが変だった。目の奥から感じる鋭い光、肉食動物が小さい草食動物を狙っている時のような目をしていた。普段の真那とはまるで別人のように思える。
でも、それも一瞬だった。真那が僕から視線を外して、鶴香と一緒に更衣室のほうに向かって歩いて行った時には、もう真那は僕の知っている真那だった。
「今の……」
気のせいだったのかな。それとも……。
「潤一、何してんだ!」
「ごめん、いま行く!」
文仁にそう返事をして、僕は下駄箱のほうに向かった。
10
「どうしたの? さっきからじっと見てるけど」
近鉄山田線の電車の中で真那が本を読むのをやめてそう言った。
東松阪駅で文仁と鶴香と別れたあと、僕はいつものように真那と二人で電車に乗って帰っていた。でも、彼女は僕の不審な行動に違和感を感じたらしい。
確かに電車に乗ってから何も言わずに人のことをじっと見ていたら怪しいと思うだろう。でも、僕はちゃんとした理由でこの行動を取っている。
やっぱり真那だよな……。
あの時の、道場で竹刀を振っている真那の姿と、今、目の前にいる彼女が同一人物に見えなかった。
「聞こえてる、潤一?」
「……」
真那が剣道か……。
「ねえ」
「……」
未だに信じられないな……。
「ちょっと……」
「……」
どうして真那があんなにはりきって剣道を……。
「……」
ばん、と頭に衝撃がはしった。痛みがはしって手で押さえる。
「いたた!」
「さっきから黙って睨んでくるなんて、ただの変態に見えるわよ」
真那が本を読み始める。どうやら、また頭を叩かれたらしい。
「今日の潤一、何か変」
「前から言いたかったけど、真那こそ変だよ。剣道してる時――」
「真剣にしないと顧問の先生に怒られるからよ」
本から目を離さないまま、真那が答えた。その理由がとても投げやりに聞こえてきたので、僕は納得できなかった。
どうしてだろう、小さい頃から真那のことを知っているはずなのに、今の真那が僕には全然わからなくなっていた。
子供の頃の思い出はとても曖昧になっている。
僕の場合、五、六歳の時にどんなことをしていたのか、具体的に説明しろと言われても考え込んでしまうかもしれない。それどころか、二日前に作った夕食の献立が何だったのか思い出すことも難しい。
でも、僕は真那と子供の頃から遊んでいたことはしっかり覚えていた。どんな性格でどんなことが好きなのかも知っている。彼女のことなら大体のことは理解しているつもりだった。
でも、どうしてだろう……僕は真那の大切な何かを知らないような気がしてならなかった。
「潤一のお兄さん、元気にしてるの?」
「え、う、うん、元気にやってるだって」
真那から急に兄さんのことを聞かれて、僕は言葉を詰まらせながら答えた。
「そう、良かった……」
真那がなぜかほっと息をついたような表情をした。また、僕は彼女の考えていることが理解できなかった。
やがて真那の降りる松ヶ崎駅に電車が到着した。本を鞄の中に入れて彼女が駅のホームに降りる。
「じゃあ、また明日」
「うん……ねえ、潤一」
「ん、なに?」
真那は何かを言おうと躊躇しているようだった。けど、意を決したように口を開いた。
「知りたくても知ろうとしないで。潤一だけはそのままでいて」
「え、どうゆうこと?」
「潤一だけは私たちと――」
真那が何か言いかけたが、その直前に電車の扉が閉まった。やがて、電車が次の駅に向かって走り始める。
車両の窓からホームを見ると、真那がまだ降りた場所に立っていた。軽く手を振ると、向こうも控えめに笑って手を振ってくれた。
さっき、何を言いかけたんだろう。
最初だけ聞き取れたのに、僕はもう思い出すことが出来なかった。
11
真那と別れ、伊勢中原駅で降りた僕は自宅に向かって歩いていた。
日は沈んで辺りはすっかり暗い夜になっている。風で木が揺れる音とキリギリスと思われる虫の鳴き声だけが聞こえていた。
そのはずなのに、なぜだろう。
『逃げて……』
頭にまたあの女の子の声が聞こえてきた。ここ最近になってから、眠っている時だけでなく、こうして起きている時にも何の前触れもなく、あの子の声が聞こえるようになっていた。。
『早く逃げないと……あの人たちが来る……』
あの人たち? それはいったい誰のこと? 君はいったい……。
心の中で問いかけても、女の子は何も答えてくれなかった。
気がつけば、また木の揺れる音と虫の鳴き声だけが響いてくる。
「本当に気のせいなのか……」
頭を手で押さえながら自宅に向かって歩く。家の玄関のすぐそばまで来た時、僕は不審なことに気付いた。
変だ、明かりがついていない。
まだ、じいちゃんが寝るような時間じゃないし、夕食も済ませていなかった。ここまで来ると、じいちゃんがいつも見ているテレビの音が聞こえてくるはずなのに、それすらも聞こえてこない。
僕は急いで家の中に入った。外にいた時と同様に明かりも何もついていない。何年も暮らしてきた自分の家なのに、今日は全く別の場所にいるような気がした。
「じいちゃん?」
呼びかけてみたけど返事はない。そのまま、廊下を歩いてリビングに向かう。
何かの匂いがしたのはその時だった。
つんと鼻につくような鉄の匂い。子供の頃に何度も怪我をした経験があったおかげか、僕はこの匂いを知っていた。
「この匂いって、まさか……」
血?
リビングのドアを開けて立ち止まった。
最初に僕の目に飛び込んできたのは真っ赤な血だった。軽い怪我をしただけではありえない量の血が部屋中に飛び散っている。
いったいどうしてこんなに……。
その出処を目で追っていく。見てはいけないのに、僕は自然とその行動を取っていた。
思わず息を呑む。目でたどった先にうつ伏せに倒れている人がいた。体の至るところに切り刻まれた傷、必死に何かを叫んだような顔をしたその人を僕はよく知っていた。間違いなくじいちゃんだった。
その次に視界に入ってきたのは、じいちゃんのそばに立つ暗い影だった。ひとつ、いやふたつ。その影が窓から入る月明かりに照らされる。
どちらも人だった。初めて見る男が二人。男たちはこの部屋と同じように全身が血で濡れていた。
そして、最後に僕の目に入ったのは男たちが持っているもの。それが月明かりに反射して光っているように見える。でも、それが金属の刀だとわかった瞬間、足がすくんでしまった。
「おい、この子供は誰だ、誰なんだ? ガードマンか。そうなのか?」
「違う。ここに住んでいる子供だ。対象の関係者の写真にあった」
「見られた、見られたぞ。フィールドを張っていなかったのか、いや張っていたはずだ」
「手違いで数分前に消失したらしい」
「面倒だ、面倒だな」
男たちが僕に気づいてよくわからない話を始める。
逃げなきゃ。早く逃げないと僕も殺される。
頭の中でそう考えたけど、体が言うことを聞かなかった。目の前の光景に唖然して、身動き一つ取ることもできない。
「今すぐ、殺したほうがいいだろ、そうだ、殺したほうがいいはずだ」
「だめだ、浜家さんの許可がないと許されない。例の処理を行う」
「面倒だ。やっぱり面倒だ」
男たちが話を終えて近づいてくる。それでも、僕の体は動かなかった。まるで金縛りにあったようだった。
そのうちの一人の男がポケットから何かを取り出す。今ではほとんど見ることの少なくなったスマートフォンだった。その画面を僕に向ける。
「お前は何も見ていない、そうだ、何も聞いていない。梨折昭雄は失踪した。そう、失踪したんだ。それだけ……ああ、それだけだ」
スマートフォンの画面からノイズのような音が響く。その直後、僕の意識は急速に落ちていった。
12
「突然消えたって、本当なのか!?」
「うん、別にどこへ出かけるとも言っていなかったし、そもそもじいちゃんはあまり外へ出かけることがなかったよ」
「そんなことがあったなんて……」
「……」
今日は朝から珍しく雨が降っていた。休日明けの学校の教室。その休み時間、僕たち四人が集まって、その時の話題にしていたのはじいちゃんが失踪したことだった。
僕は三人に事情を話した。先日いつものように目を覚ました僕はじいちゃんを起こすために部屋に向かった。でも、そこには誰もいなかった。家中を探し回ってみたけど、最初からじいちゃんがそこにいなかったように、姿を消してしまった。
じいちゃんが外へ出かけることなんてこれまで滅多になかったから、僕はすぐに変だと思った。そして警察に連絡して、じいちゃんの捜索を頼んだのが昨日のことだ。でも、丸一日過ぎた今日になっても、じいちゃんは見つかっていない。
「でも、お前のじいさんが外へ出かけたとしても。お前に何も言わずに出かけるなんてことねえだろ。急に消えるなんて……」
僕の前の席で驚きを隠せていない文仁。
「そうね、もしかしたら何かの事件に巻き込まれたかもしれないわ」
何かを考える仕草を見せる鶴香。
「……」
そして隣の席に座る真那は何も言わずに複雑な表情をしている。
「家の中は何もなかったの? どこか変わったところとかは?」
鶴香が質問してくる。僕はじいちゃんの失踪した時のことを思い出しながら答えた。
「特に何もなかったよ。じいちゃん、いつもリビングでテレビ見てるんだけど、部屋を荒らされていなかった。本当にじいちゃんだけがあの家から消えたみたいなんだ」
「おいおい、それってもしかして神隠しか……冗談きついぞ。そんなの二次元の世界だけの話だろ」
文仁がガタガタと体を震わせている。そういえばこいつはオカルトや幽霊といった類の話を苦手にしていたんだった。
「でも、何か変な感じがするんだ……」
「変な感じって?」
鶴香が聞いてくる。
「うん、なんて言ったらいいのかな……」
僕は先日から感じていた違和感を口にした。
「はっきりとは思い出せないんだけど、じいちゃんがどうしていなくなったのか、わかる気がするんだ。でも、どうしてわかるのかどうか、それ自体わからない……。でも、何でかな。じいちゃんがいなくなった時に僕も……そこにいたような気がするんだ」
何だか自分の話している内容があまりに曖昧で、軽く自己嫌悪した。こんなことを話してもみんなにわかるはずがない。
でも、三人の反応は明らかに違った。鶴香は驚いた表情をして文仁と顔を見合わせ、それまで僕たちの話を聞くだけだった真那もガタッと席を動かした。
「え、どうしたの? 僕、よくわからないこと言ったと思うけど……」
「あ、ああ、そうだな。潤一の言っていることはよくわからなかったぜ。なあ、鶴香?」
「え? ええ、そうね……あたしもよくわからなかったわ」
二人の態度はどう見ても変だった。僕にはわざと話を合わしているように見えたけど、どうしてそんな態度を取るのか、理由がわからなかった。
ふと、真那のほうに視線を移すと、僕の抱いていた違和感はますます深まることになった。
真那はそれまで浮かべていた複雑な表情から変わって、じっと僕のことを見ていた。口元を引き結び、膝の上に置いていた手を強く握りしめている。何かを伝えたいような感じがした。
「真那、もしかして――」
何か知ってるのか? と聞こうとしたけど、タイミング悪く授業開始のチャイムが鳴ってしまった。
鶴香と文仁が自分の席に戻り、真那もいつもの表情になって筆箱や教科書を机に出し始める。
放課後、聞いてみるしかない。
心の中でそう決意して僕は次の授業にのぞんだ。
13
「真那、待ってくれ!」
放課後、僕は鶴香と文仁に四人で一緒に帰ろうと提案したが、二人は別の用事で寄るところがあると言ってすぐに帰ってしまった。
そして、真那にも一緒に帰ろうと言おうとすると、既に彼女も教室からいなくなっていた。咄嗟に教室の窓から正門を抜けようとする姿を見て、僕は慌ててあとを追いかけた。
三人が自分を避けているのは何となくわかっていた。あの時の三人の驚いた表情。じいちゃんの失踪のことで何か知っているのは間違いない。鶴香と文仁を見失った以上、もう真那に聞くしかないと思った。
外に出ると朝から降っていた雨はさらに激しくなっていた。傘をささずに走っているせいで全身がすぶ濡れになったけど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
真那が予想以上に歩くのが速いのに驚いたけど、何とか学校の近くにある神戸神社で追いつくことが出来た。
「真那、いいかげんにしろよ。さっきからずっと呼んでいるのわかって逃げてるだろ!」
思わず苛立ちをぶつけると、真那が神社の前でぴたっと立ち止まった。傘をさした彼女の表情を見ることができない。
「真那、聞きたいことがある。もしかして……僕がじいちゃんの失踪について知っていることと、実際に起こったこと……。この二つには食い違いがあるんじゃないのか?」
真那が何も言わずに立ちつくしている。
「鶴香と文仁もそうだ。あの二人の態度も明らかに変だった。みんな、何か僕に隠していることがあるんじゃないのか?」
そう聞いても真那は何も答えなかった。ついに僕の苛立ちが限界に達した。
「黙ってないで答えろよ!」
そう言って真那の肩に手を置く。でも、真那がすぐにその手をはらって僕のほうに振り向いた。信じられない速さに驚く。
「やめときな」
その言葉は。
「これ以上知ろうとしないほうがいいぜ」
僕の知っている今までの幼馴染じゃなかった。
「知ろうとすればあんたの命に関わる」
この雰囲気を知っている。部活で剣道をしている時の真那。あの時の鋭い目で睨んでいた時の真那と同じだった。
「そのまま、知らないままでいろ。この子のためにもな」
「お前……真那なのか?」
僕がそう聞いても、真那であって真那ではない幼馴染は何も答えてくれなかった。そのまま、後ろに振り返って歩いていく。駅とは違う方向だったけど、どこへ行くのかわからなかった。
追いかけられるはずなのに、僕の足は一歩も動かなかった。
でも。僕は知りたい。
雨に濡れながらも拳を強く握り締める。
どうしても知りたいんだ。本当のことを。じいちゃんがどうしていなくなったのか。
自分の家……今からもう一度戻れば何かわかるかもしれない。
そんな予感がした、すぐに後ろへ振り返り、駅に向かって走り始めた。
14
電車に乗り、伊勢中原駅に降りても雨は止んでいなかった。僕はようやくここで折りたたみ傘を出して、自宅に向かって歩いた。
雨のせいもあって、辺りはすでに暗くなり始めていた。特に外灯の少ないこの地域は他の場所よりもそれが早い。
「急がないと……」
足を早めて自分の家にたどり着く。明かりはもちろんついていなかった。折りたたみ傘を畳んで家の中に入る。
「ただいま」
僕がそう言えば、いつもリビングのほうから「おう、お帰り、潤一」とじいちゃんの声が聞こえてくるはずだった。でも、今は雨の音しか聞こえてこない。
じいちゃんはいつもテレビを見ていたけど、僕が帰ってきたことに気づかなかったことはほとんどなかった。父さんと母さんが瓦礫病で亡くなり、そのあとを追うようにばあちゃんが死んだのに、じいちゃんは落ち込むことなく、昔と変わらず僕のことを気遣ってくれていた。
僕が夕食を作って、それを二人で食べて、色々な話をする。そんな平凡な日常がとても楽しかったのかもしれない。
でも、もうじいちゃんの声を聞くことはできない。いつも、リビングでテレビを見ている姿はどこにもなかった。
「じいちゃん……」
じいちゃんが一人で外へ出かけることはほとんどない。百歩譲って外に出たとしても、僕に何の連絡もないなんてことはあり得なかった。
消去法で考えていくと、僕が考えた可能性は一つしかなかった。
「じいちゃんは一人で出て行ったんじゃない。誰かに連れて行かれたか、もしくは……」
でも、どうやって……。
心の中に学校の教室で感じていた違和感が再びこみ上げてきた。
僕はじいちゃんがどうやっていなくなったのか、知っている。なぜかはわからないけど、そんな気がする。でも、それはひどく曖昧で思い出したくても思い出せなかった。まるで、その部分だけが、頭の中からきれいに抜きとられているような気がしていた。
「だめだ、思い出せない……」
どうして、忘れてしまったんだ。
「じいちゃん……」
『思い出して』
本当に頭がおかしくなったのかもしれない。
覚えているはずのことを忘れているだけじゃなくて、幻聴まで聞こえるなんて……。
『早く思い出して』
「え……?」
それは幻聴じゃなかった。どこかで聞いたことがある女の子の声。真那でも鶴香の声でもないその子の声を聞いた瞬間、僕の目の前でフラッシュバックが起こった。
今、僕がいるリビング。そこと全く同じ場所。明かりがついていないリビング。部屋中に飛び散った真っ赤な血。そして、ちょうど部屋の中央に倒れている人……それは間違いなくじいちゃんだった。体中を切り刻まれ、苦しんだ顔をしている。
そして、その近くにいた男たち。その手には刀が……。
「……そうだ!」
思わず声をあげた。どうして今まで忘れていたんだろう。
じいちゃんは行方不明になったんじゃない。刀を持った二人の男に殺されたんだ。
そして、そこにいた僕は全く動くことができなくて、男にスマホの画面を見させられて、それから……。
あの時の光景が蘇って、僕はリビングを見回した。当然、そこにはじいちゃんの姿も、血のあともなかった。
でも、間違いない。
「じいちゃんは……ここで死んだ」
じゃあ、どうして警察は何も気づかなかったんだろう。
「……」
考えている場合じゃなかった。僕はすぐに携帯を取り出して警察に電話しようとした。でも、その前に手が止まる。
「いや、警察に電話するよりも……」
すぐに警察に電話をするのをやめ、僕は兄さんの電話番号を打ち込んだ。兄さんならじいちゃんを殺した二人の男のことをすぐに調べてくれるかもしれない。
番号を打ち終わり、僕は通話ボタンを押した。
その直後、携帯からテレビのノイズ音のようなものが聞こえてきた。同時に強い眠気がくる。
あれ、急に力が……。
自分の体を支えることが出来なくなり、僕はリビングのソファに倒れた。咄嗟に手でソファを押さえたけど、そのままうつぶせになってしまう。
何だか……眠い。もう目も開けていられない……。眠い……眠い……。
意識が急に落ちていく。瞼も少しずつ閉じていった。
『だめ!』
あの子の大きな声がすぐそばから聞こえた気がして、急速に沈んでいた意識は一気に戻った。
「あれ?」
体中にきた眠気が嘘のように消え、ソファから立ち上がる。
どうして急に眠くなったんだろう。まだ、そんなに時間も遅くないのに……。
「いや、そんなことよりも!」
再び携帯を開けて、兄さんの電話番号を打ち込もうとした。けど、携帯の画面は真っ暗になっていて、電源も入っていなかった。電源をつけようとボタンを押しても何の反応もない。
「あれ、どうしたんだ?」
高校に入ってからずっと使っていた携帯だけど、壊れたことなんて今まで一度もなかった。けれど、いくら動かしても携帯の電源がつくことはない。
「仕方ないな……」
携帯を使うのをあきらめて、今度はリビングにある受話器のほうを手にとってみた。でも、こっちの電話も全く相手にかからなかった。それどころか電話を切ったあとになるピーという音も、相手の携帯に電源が入っていないことを知らせる音すら鳴らない。
「どうしてこんな時に……」
その時だった。がたがたと震える音が聞こえてきた。
「……」
僕は自然と息を潜めていた。音がしたのは家の玄関のほうからだった。リビングから出て玄関のほうを見ると、家の戸ががたがたと音を立てて震えている。一瞬、激しい雨と風のせいだと思ったけど、誰かが向こう側から叩いているようにも見えた。
誰だろう。用があるなら呼び鈴を鳴らせばいいのに。
ゆっくりと玄関に向かって歩いていく。戸が震える音はまだ鳴っていた。そして、戸の前に着き、取っ手に手を伸ばそうとした時だった。
『伏せて!』
あの子の声が頭に響き、僕は反射的に身を屈めた。次の瞬間、戸の向こう側から何かが突き出してくる。
間一髪だった。それは僕のちょうど首のあたりの高さだった。
恐る恐る顔を上げて、それを見る。鈍い光を放つ金属。先端は鋭く尖っている。それはさっきのフラッシュバックで見たものと同じだった。
「か、刀……?」
「こいつ、フィールド内で動いているぞ、間違いない、動いてる」
「まずい、早く片付けろ!」
戸の向こうから二人の男の声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だった。
間違いない。切り刻まれて血まみれになっていたじいちゃん。そのそばにいたあの二人の男の声だ。
突き出していた刀が向こう側に引っ込む。次に何が起こるか察知して、僕は戸から離れた。直後、戸が縦に真っ二つに切り裂かれる。二つにわかれた戸が大きな音を立てて倒れた。
戸の向こう側からあの時見た二人の男が現れた。二人ともその手に鋭く尖った刀を持っている。
偽物じゃない、正真正銘、本物の刀だった。
「こいつの記憶は消したはずだろ、確かに消したはずだ」
「どうでもいい。早く殺せ!」
まずい!
どうして殺されるのかわからないかったけど、僕は本能的に身の危険を感じた。後ろに振り返って家の廊下を走る。
「追え! 逃がすな!」
「わかった、わかってる」
男たちの声と追いかけてくる足音が聞こえてくる。
このままじゃすぐに追いつかれる。どうしたら……!
その時、僕の目にとまったのは廊下の隅に置いていた消火器だった。少し前に学校の授業で防火訓練をしたこともあって、使い方は知っていた。迷っている場合じゃない。
僕は消火器を手に取り、安全ピンを抜いて後ろに振り向いた。男の一人がもう目の前に来て、刀を振り上げている。咄嗟に男の顔面に消火器の口を向け、レバーを強く握り締める。
大きな音をあげて消火器から大量の白い煙が噴き出した。それを顔面にくらった男が悲鳴をあげる。
今のうちに……!
再び走ろうとする前に驚いて目を見開いた。白い煙の中からもうひとりの男が現れる。
「油断したな、お前、油断した」
風を切る音が聞こえてくる。僕は咄嗟に後ろに倒れ込んだ。
廊下の壁に血が飛び散る。同時に右の手の平に痛みがはしり、血が流れ始めた。
避けきれなかった。斬られたんだ……。
今までに感じたどんな傷よりも痛かった。でも、このまま倒れている場合じゃない。また次の攻撃が来る。
はっきりと見ていないけど、そこまで深い傷じゃない気がした。左手で傷口を押さえて、裏口のほうに向かって走る。
走れ。もっと早く走れ。走らないと殺される。早くここから出て助けを求めるんだ!
僕は心の中で何度も自分に言い聞かせた。何とか裏口までたどり着くと、後ろからまた走ってくる音が聞こえてくる。
すぐに逃げないと、また追いつかれる。
もう消火器も何もない。あとは逃げるしかなかった。
15
僕は裏口から家を出て、裸足のままで住宅路へ出た。
空から降る雨は相変わらず激しかったけど、そのおかげで視界も悪かった。何とか逃げられるかもしれない。それまでなかった生きる希望が見えてきた。
このまま走ろう。この辺りの道は大体覚えているから絶対に逃げられる。
ここから逃げて、兄さんと真那にこのことを!
僕は右手の傷を抑えたまま走ろうとした。でも、それは出来なかった。
「やあ」
僕が走ろうとした先から男の声が聞こえてくる。雨の降る音が激しいはずなのに、その声ははっきりと聞こえてきた。
雨の中から男が姿を現す。男と言っても、身長は僕と同じくらいだった。顔も幼い。そこに立っていたのは僕と同い年ぐらいの少年だった。
少年が僕を見て笑みを浮かべる。灰色のソフトハットを被り、深緑のカッターシャツに青いズボンを履いている。その姿が、なぜかこの場所には不釣り合いに見えた。
「また会えたね」
その声に聞き覚えがあった。
どこだろう。どこかで聞いたことがある……あ、そうだ。
すぐに思い出す。
「もしかして君はあの夢の中の――」
「ごめんね」
少年が謝った瞬間、今まで見たこともない大量の血が僕の腹から噴き出した。
「え……」
そのまま、力を入れることもできず、道の中央に倒れこむ。腹から出た血が雨水に混じって道を赤く染めていった。
「どう……して……」
「本当にごめんね」
少年の声がぼんやりと聞こえてくる。僕は体を動かすことも目を開けることすら、難しくなっていた
『ごめんなさい……』
頭の中からもあの子の声が聞こえてくる。
ああ、そうか。二人がずっと謝っていたのはこういうことだったんだ……。
意識が沈んでいく。もう考えることすら出来なくなってきていた。でも、頭の中に二人の姿が浮かび上がってくる。
「兄さん……」
せめて兄さんにはじいちゃんがどんなふうに死んだのか、伝えたかった。その思いが込み上げてくる。そして、そのあとに。
「真那……」
彼女にはもっと色々なことを伝えたかった。
いつもおちょくってばかりでごめん。
あの時、ちゃんと警告してくれたのに聞かなくてごめん。
ちゃんと僕の気持ちを伝えなくてごめん……。
本当に……ごめん。
二人への後悔を最後に僕の意識は完全に途絶えた。
16
以上で僕の話は終わりだ。
信じられない話だよね。でも、僕はただ自分の身に起こったことをありのままに話しただけだよ。
この先の物語に僕はいない。
あとは……。
第一話 冷たい雨 終
次回に続く。
キャラ紹介
・梨折 潤一
第一話の語り手。三重県の松阪高校に通う少年。幼馴染の真那や悪友の文仁、鶴香と共に平穏な学校生活を送っている。祖父の昭雄と二人暮らし。東京に十歳離れた兄がいる。