努努
「ひーろくんっ」
隣を歩く美久が僕の耳元でそう言った。
「ん? なん…んっ」
不意に唇を奪われる。美久は所構わずキスをしてくる。唇と、肩に当たるほどよい大きさの胸の感触が心地よい。
「へっへへー。ごっちゃんでーす」
「んだよもう」
「別にいーじゃんっ」
美久は、純真無垢と言う他ない笑顔を僕に向けてくれる。いとおしい。
長い艶のある髪も、薄化粧ながらに大きな瞳を持つその顔も、ふんわりとした服の着こなしも、全てがいとおしい。
街中で歩きながらキスだなんて大人から見れば道徳がないとかマナーがないとか言われるかもしれないが、実際する立場になってみると、もうそんなのどうだって良くなってしまう。
「……ね、ひろくん」
声が少し色っぽさを帯びた。声だけで少し気持ちが高ぶる。
「ん?」
「あそこ、入らない?」
指差す先は『ホテル エリーゼ』。うん。まぁそういうホテルだ。
「んー? なに? どこどこー?」
わざとらしく焦らしてみる。こういう風に美久を焦らすのが好きだったりもする。
「もー、わかってるくせにぃー」
頬を膨らませ、頬を赤らめるその仕草。可愛い。心が満たされている。そう胸を張って言える。
「悪い悪い。じゃあ、行こうか」
突然、本当に突然。目の前に見知らぬおじさんが現れこう叫んだ。
「いやいやいやいやいや、そうはさせる訳ないやないかーい!」
いや、何男爵だよ。
僕たちの前に立ちはだかるこいつ。一目でわかる。間違いなく変態だ。
全裸にコート。テンプレ中のテンプレの変態だ。
「え? え? えええええ?」
取り乱す美久を自分の後ろに隠し、変態を一睨みしてやる。
「お前誰だ!」
「通りすがりの変態だ!」
いや、おい。
「自信ありげに言うな!」
この意味のわからない変態野郎は、コートをバサバサとはためかせあらゆる部位を露出しながら意気揚々としている。変態過ぎる。
「さぁお嬢さん私と楽しいことをしようふふふふふふふふ」
「い、いや…」
僕の肩を掴む美久の手が少し震えていた。俺が守ってやるからな。安心しろ。
「そんなことさせるわけないだろ!」
「君に私が止められるかな…?」
全裸の変態には勝てる気がする。なんせ急所は丸出しだ。
「こいよ」
コートをマントのようにはためかせて駆け出すド変態。僕も同様に、走って迎え撃つ。
右の拳に力を込め、十分に後ろに引き手をとってから…って。
おい、マジかよ。
ナイフはずるいだろ。
「く、くっそ…」
腹に深々と刺さっているナイフ。血は溢れ、文字通り血の気は引き、視界はぼやけ、暗転する。
ちくしょう、こんなの、ダサすぎるだろ…。
「い、いやぁ…。ひろ、ひろくん? ひろくん! う、うぅ…。ねぇ、ひろくーん!!」
そんなに呼ばないで。悲しくなるから。
「…ーん、…ろくーん、ひろくーん、朝よーご飯よー」
あーあ。
夢…か。まぁ、そうだよな。当たり前だよな。こういう夢と現実が繋がっているような、そういう目覚めは嫌いだ。現実を突き付けられている気がするから。
「はーい」
ゆっくりと体を起こしてひとつ大きな伸びをして、階段を下りる。ええと、今日は何曜日だったかな。
そう考える必要性は、リビングから漏れ出す香りによって消え失せた。
今年は月曜日だからみんなにも作ってくるね、と女友達に言っている女子の姿を思い出した。
あぁ、そうか。そうか。今年も来てしまったのか。
「おはよう」
リビングに入ると、キッチンに野苺柄のエプロンをした母さんがいた。
「おはよう、ひろくん」
やはりか…。机の上のラッピングされた箱を見て確信した。父さんはもう出勤したようで、机の上に朝御飯の空の食器だけ残っている。
「はいひろくん。今年のバレンタイン」
母さんが机の上に置いてある箱を手に取り、僕に差し出す。その顔は、少し赤らんでいるようでもあった。
「ん。ありがとう母さん。今年はなに?」
「今年はね、チーズケーキを作ったの。まぁ美味しくできたのよー」
「へぇ、よかったじゃん」
「ひろくん今年は学校でチョコなんて貰っちゃうのかしら? ママ嫉妬しちゃうから貰っても家に着く前にたべちゃいなさいよ。ふふふ」
たとえ冗談だとしても、そんな現実味のない話を、嬉しそうな顔でしないでもらいたい。まぁ、母さんはそう言う人だ。
母さんは知らない。僕が学校でいじめられていることも、いじめの理由に自分が関わっていることも。それどころか、自分の息子が高校生として青春を全うしているものだと勘違いするようなお気楽ぶりだ。
「チョコなんて貰えないよ」
そう、一言だけいった。本当のことを話したって何にもならない。悪くなることはあっても決してよくはならない。
「そんなこといってーもうひろくんったらー」
だからと言って母さんが疎ましいなんて思ったことはない。いつだって感謝している。ただ、今日に限っては家も居心地は良くない。手早く朝食を食べ、まだ少し早いが家を出ることにした。
「じゃあ、行ってきます」
登校後のことを考えてしまい、少し吐き気を催す。だがこれも日常。
さあ。今日も一日、乗りきろう。
僕の登校手段は徒歩。自転車なんておちおち乗っていったらどうなることか。
学校は小高い丘の上にある、近所ではそこそこの進学校、というか『自称』進学校。
制服がかっこよくて良いじゃない。
母さんにそう推され、知らないうちにその高校を受験し、入学していた。
入試は少し苦労したが、そんなものは誰だって同じだ。受ける学校が特に自分の意思で決めた所でなくたって、受験勉強くらいできる。みんなやっているんだから。
入学してからの数ヵ月は、新鮮な生活に思いを馳せながら坂道を登ったものだが、今となれば坂道を登るほどに顔は俯いていく。
いじめを受けていようと、学校を休む、不登校になる、そんな選択肢は僕には無かった。それは『逃げ』だし、僕だけでなく家族も悲しませてしまう。それは許せない。
校門の前に立ち、俯いていた顔を少しだけ上げて浅く息を吸い込み、僕にとっての地獄へと足を踏み入れる。
玄関は登校する生徒でごった返し、おはようの挨拶やら世間話やらで騒音が響き渡っていた。皆、楽しそうな顔をしている。
ああ、うるさい。うるさい。
階段をゆっくり時間をかけて登り、『2-B』の教室に辿り着いた。
ドアを静かに開ける。
同時に教室のなかの騒音が僕の顔面に平手打ちを浴びせた。机に座って大声でしゃべったり、教壇に上がって騒いだり。言ってしまえばいつも通り。
僕の机は。
まるで当然かのように、そこにはなかった。
一人の生徒の机が不自然にそこに無いにも関わらず、誰一人として見向きもしない。
みんなの笑顔が、僕に対しての嘲笑のように見える。
だが、断言してしまおう。
これすら、いつも通りだ。
教壇に登り友達と楽しげに話をする男子。西山くん。このクラスのヒエラルキーの頂点。彼に逆らう人はいない。
西山くんと目があった。
少し口角を上げた西山くんの目は、子供のようにきらきら輝いていた。
視界の端には美久ちゃんが本を読んでいる姿が映る。後ろ姿だけでも、そのふんわりとした彼女の雰囲気が窺える。届かない崖の上の花。そんなところか。
ああ。なんだか、the つらい現実って感じだ。
教室の後ろの隅にぽつんと立つ自分。
誰も見向きもしない。
この空間に押し潰されて、ミンチになってしまうような気がした。
いじめの発端は二年生の時の授業参観。
高校になり、授業参観は滅多に開催されないし、子供の様子を見に来る保護者も少ない。
あの時の授業は確か、英語だった。
僕は英語は得意な部類だし、観に来ていた母さんにいいとろこを見せれば、喜んでくれると思った。
実際に、僕は積極的に発言をし、母さんを喜ばせることができたと思う。
その授業も無事に終わり、休み時間。
「ひろくーん、凄いじゃなーい!」
母さんの悪いところ。どこでも大声で話すところ。ここで適当に合わせて穏便に済ませれば良かったものなのに。僕は周りの生徒に見られていることによる羞恥心と、母さんに誉められた嬉しさで、致命的なミスを犯した。
「そんなことないよ、ママ」
そう発音した瞬間、冷や汗が噴き出した。やってしまった、と。僕の慎ましく穏やかなこれまでの生活は終わった、と。
あの頃は家ではまだ母さんのことを『ママ』と呼んでいたのだ。ただの幼少期の名残であって、いわゆるマザコンだのなんだのというものではない。
くだらない理由だ、と思うかもしれない。だが、言ってしまえばいじめの理由はいつだってくだらない。そしてその発言は、いじめの理由としては十分すぎた。
それからというもの、教科書や机には『マザコン死ね』の文字。机の引き出しの中には哺乳瓶。そこには『ママのおっぱいでちゅよー』という何とも幼稚な言葉。
彼らはいじめる理由はどうだっていいのだ。いじめる相手が欲しい。いじめる快感を味わいたい。憂さ晴らしをしたい。
そんなくだらない感情の矛先が、一気に僕に向いてしまった。
教師は僕が何も言わないのをいいことに、見て見ぬふりだ。あなたたちは教師としての仕事を穏便に済ませるために、道徳心を失ってしまったのか。そう問いたい。
僕が美久ちゃんに抱く淡い感情だって、自分の中で圧し殺すしかないのだ。ああ、美久ちゃん、今日誰かにチョコをあげるのかな。
バレンタイン? そんなことは関係ないんだ。僕は授業をいつも通りに受ける。ぐちゃぐちゃの教科書を使い、落書きをされた上履きを履いて。
そして今日も長い長い学校が終わり、夕陽に照らされた校舎を後にする。自分の影が、少し揺れている気がした。
家の扉を開くと、いつもの声が聞こえてきた。
「お帰りなさいひろくーん」
「うん、ただいま」
これは誰のせいでもない。だから僕以外の人は苦しむ必要はないのだ。
僕は実験の授業のため、物理実験室に移動していた。
無論一人で。廊下は移動する人で賑わう空間。傍観する分には多少楽しいが、その空間にいざ自分がいるとなれば話は違うのだ。
「ね、ねぇ」
後ろから、透き通った声が聞こえた。それは僕の頭にすっと入り込み、ジンジンとした満足感を僕に与える。
振り返った僕は目を見開いてしまった。
「え、中西…さん?」
美久ちゃんが、なんで僕に向き合って笑顔を向けているんだろう。ただ単にそれが疑問だった。
「内田くん……あ、あの……」
うーん、と。美久ちゃんが顔を赤らめて俯いているぞ。僕を前にして。何が起こっているんだろう。よく見れば、手に紙袋を提げている。
「これ……! 一日遅れちゃったけど……。要らなかったら捨ててもいいから!」
そう言い捨てて、パタパタと走り去っていく美久ちゃん。その後ろ姿をぼうっと眺めることしかできない。
体温は上昇した。気持ちは高ぶっている。ただ何が起こっているのかよくわからない。ただこれだけは言える気がする。
すごく、幸せだ。
中身はなんだろう。すごく気になる。手紙やなんかも入っていたりするのだろうか。次の授業まではあと十分。まだ余裕がある。
怪しまれぬよう辺りを少し見回して、トイレの個室に走り込んだ。
さぁ。なんだろう。
美久ちゃんから僕へのバレンタインのプレゼント。
美久ちゃんも僕のことを……。最高だ。まさかこんな日が来ようとは。笑顔が止まらない。
紙袋に手をかけて中身を取り出し……
ーーーーーーーーぷつん。
あぁ、ちくしょう。
なんだよ夢じゃないか。
チョコレートを期待しすぎてこんな夢を?
そう考えると自分の浅はかさが恥ずかしくなった。
あーあ。夢じゃなければな。
夢と、現実、交換できないかな。
目を閉じたまま、夢の余韻に浸る。
ふぅ。今日も寒いし風が強いな。
え。
風? 風が強い? 僕はどこで寝ている? 寝室の窓が開いているのか?
その疑問は、目を開くと同時に解消された。
それは、信じがたい光景。
「え、え、え? なんでだよ…」
僕はまだ丘を登っていないぞ。なんで…。
「なんで学校にいるんだよ!」
「え? えーとえーとこれはなんだ、昨日はちゃんと布団で寝たはずなのになんでだえーと落ち着け落ち着け」
ぐるぐる歩き回りながらぶつぶつと呟き続ける。歩く速度と呟く速度は上昇するも、頭の回転は全くの停止状態。寒いはずなのに少し冷や汗が出ていた。
ここで、新たな情報が視界に入った。
僕はなんで制服を着ているんだ。
シワの無いワイシャツを身に付け、ネクタイも結んで。僕が毎日結んでいるのと同じように少し斜めになっている結び目。上からブレザーを羽織り、ローファーまで履いていた。
そしてもう一つ。校舎に外付けされている時計を見ると、時刻は八時丁度。
おかしい。周りに人が一人も見当たらない。この時間は登校時間真っ只中。それが今はどうだろう。学校の敷地内どころか、遠くを見回しても人が全く見当たらない。
寝て、起きたら学校の前。
徘徊でもしたのか?
制服をわざわざ着て?
全く意味がわからない。
「私がご説明致しましょう」
背後から全身を舐め回すような声が聴こえた。
「だ、誰……」
恐る恐る後ろを見る。誰一人としていないこの空間に突如現れた怪しい人物。そのシチュエーションが恐怖心を倍増させていた。
「私の……名前を訊いているのでしょうかね。私は、城田、と申します。以後お見知りおきを」
全身を黒のスーツで固めたその男は、執事を思わせる挙動で、僕に向かって軽くお辞儀をした。その洗練された動きに圧倒され、僕も思わず軽く会釈する。
「あの……」
この人が何者なのかは後回しで構わない。訊きたいことが他に山ほどある。
「はい」
「ここはどこなんでしょう」
「貴方の通う学校ではありませんか」
両手を広げてやや嘲笑気味に笑う城田。そこはかとなく余裕が漂っていた。
「そうなんですけど……」
「いえ、貴方がそう疑問を持つのはわかります。先に申しました通り、私から説明をさせていただきましょう。そのために参りましたので、私」
説明? この人は僕がこの状態になっている原因を知っているのか? いよいよ意味がわからない。
「おっと、その前にまず……」
混乱する僕の前で、城田は、僕を更に混乱に貶めるような言葉を発した。
「ようこそ。夢の果てへ」
「夢の……果て?」
「はい。夢の果て、で御座います」
夢の果て? なんだそのオカルトチックな単語は。城田と名乗るこの男の言うことが聊か信じられなくなってきた。
「冗談はやめてください」
「いえ、冗談では御座いません。この夢の果て、『努努』を普通の夢の常識で捉えぬようお願い致します」
常に口元は笑顔で話す城田だが、目だけは僕を射抜くように鋭かった。本当のことを言っているか言っていないかはさて置き、訊きたいことがある。
「僕は、なぜここに?」
「貴方がそれを強く望んだからで御座います」
「え? そんなことは全く……」
「直に納得なさるでしょう」
納得? 僕が強く望んだこと……。
「それで、ここに来たのは良いけれど、これから何が起こるんだ。そんな顔をなさっていますね」
それがどんな顔なのか、今鏡で確かめたいところだが、言っていることは間違っていない。何が起こるか、それも大きな疑問だ。ただそれも、ここまでの会話が全て真実なら、の話だ。
「貴方にはここで、夢の続きを存分に楽しんで頂きたく存じます」
「夢の……続き」
「ええ」
なるほど。そう言うことか。確かに強く望んだ。夢の続きを見たい、と。夢の中で生きたい、と。
「いわゆる娯楽と捉えていただいて結構です」
こうなれば話は違う。夢の続きを見ることができる。しかも、今外気を寒いと感じているということは、感覚も備わっているということだろう。望まない訳がない。
俄然城田の話を信じたいと思い始めた。
「どうでしょう、少し興味が沸いてきましたか?」
「あ、はい」
「管理者として嬉しい限りです」
管理者……。この人、城田は一体何者だ? 人の夢の中で何をしている?
「貴方の今回の夢の舞台は学校でした。全くの続きから、というわけにはいきませんが、同じ環境で過ごすことは出来ます」
「それってつまり……」
「夢の世界をそのまま投影しているのです」
「すごい……すごいよ!」
これは心からの言葉だった。
「ありがとうございます」
「ただし」
ここで城田は顔の前で人差し指を立てた。口元には笑みを残して。
「条件が付いてしまいます」
「条件……ですか」
少し息を飲んだ。
ルール
一・活動場所は学校のみ
二・制限時間は七十二時間
三・制限時間は厳守ではないが一分超過するごとに、現実世界における残りの寿命十日をペナルティとして支払う
手渡された紙を見て少したじろいた。
「じ、寿命……?」
「はい。寿命、で御座います」
「ですが、七十二時間以内に帰ってきて頂ければ何ら問題は御座いません」
自分が強烈に望んだ夢の続きが見れるのだから、多少のリスクがあるのは当然ってことか。
「校舎に入ればスタートですか?」
「ええ。玄関から入っていただいたところから夢を超越した空間『努努』の始まり、出ていただくとその時点で終了です」
楽しみだ。僕の今までの人生ではあり得なかった幸せがあそこにはきっとある。そうだ。今まで損ばかりだったじゃないか。たまにはこんなこと、あって然るべきだ。
「なるほど、じゃあ早速……」
「はい。あぁ、最後に」
城田はそう言うと顔を僕に近づけた。
あ。現状とは全く無関係だけど思い出した。この城田の顔。
「時間には、お気をつけて」
前の夢に出てきた露出狂と同じだ。
玄関から中に入り、自分の靴箱へと向かう。
そこで突如。
「うわっ!」
玄関に大量の生徒が『発生』した。そう、発生したという言葉が正しいと思うほどに、何もないところから突然現れたのだ。
ここで、改めてこの『努努』の存在の確かさを思い知らされた。
玄関に発生した大量の生徒は、現実と何ら遜色無い様子で、見渡すだけで知っている顔が沢山あった。僕は特に誰に話しかけるでもかけられるでもなく、速やかに靴を上靴に履き替え、教室へ歩いた。例え夢の続きと言えど、美久ちゃんに好かれているというだけで、いじめがないとは限らないのだ。
そんな余計なことをぐるぐると考えているとまた伏し目がちになってしまう。
だが、教室を開けると、僕の知らない世界がそこにはあった。
「おーっす博文ー」
「おはよー」
「うぃっす、お前宿題やって来た? やってたら見せてくんね?」
「あ、この前言ってたあのバンドさー明日アルバム出るらしいぞー買うだろ?」
僕が左後ろの自席に辿り着くまでに掛けられた言葉だ。
目眩がする。
嬉しい、という感情は確かにあるかもしれないが、それ以前に強烈な驚きが体を支配していた。
それからは、通常通りに授業を受けた。机の横に予め掛かっていた鞄の中には、綺麗な教科書と、一枚の紙切れ、それと恐らく昼のためのパン、そして財布が入っていた。城田が用意したのだろう。パンは要らない気がする。
紙切れを見ると、綺麗な字でこう書いてあった。
『私に連絡を取る際は、放課後、職員室の篠田先生の机にあります電話の受話器をお取りになってください。私に繋がります』
なるほど。学校からは出ることは出来ないのだから、連絡手段は必要だ。
そうして外を眺めているうちに退屈な授業も終わり、昼休みになった。いつもの僕なら人の目を避けるために屋上の端か、トイレで弁当を食べるところだ。しかし今は違うはずだ。期待はあるものの、自分でどうすればいいのかわからない。
「おーい! 内田!」
反射的に体が硬直した。恐怖は身に染み付いてしまうものだ。
教室の入り口へ目をやると、バスケットボールを抱えた西山くんが僕に笑顔を向けていた。
「内田!」
一体何を? 夢の中とはいえ、西山くんとはあまり関わりを持ちたくはない。だが、僕が聞いたのは、あまりにも非日常的な言葉だった。
「バスケ行くぞ! 早く飯食えよ!」
「え……、ぼ、僕?」
きっと今僕はとてつもなく間抜けた面をしているだろう。
「当たり前だろ、毎日行ってじゃんか。早くしねぇとコート取られちまうだろ!」
「そうだぞ内田、早く、早く!」
後ろから西山くんの取り巻きも顔を出し、皆一様に僕に笑顔を向け、僕を歓迎しようとしている。
すごい。なんだこれ。
西山くんと仲が良いとなれば、少なくともこのクラスでの生活は保証されたも同然。こんな都合の良いことがあるとは。さすが僕の夢だ。
「わかった、今いく!」
城田が用意した鞄に入っていたパンを口の中に叩き込み、教室の外へ駆け出した。
ここ、悪くない。
バスケットボールで汗を流し、汗だくになったままで授業を受けた。充実感と疲労感から睡魔に襲われる。これも、初めての経験。きっと心のどこかで、こうしていた西山くん達を羨んでいたんだろう。
うつらうつらとしたまま授業を全て受け終え、放課後になった。
当然僕は帰るところが無いので、皆が教室を後にするのを見守るだけだった。夕焼けを浴びる教室の中で外を眺めてリラックスする。これも僕にとっては非日常。
「あ、あの……」
昼休みに、西山くんの声が聴こえたのと同じところから、今度は心臓が跳ね上がるような声が聴こえた。
「美久ち……中西さん……なんで……。ど、どうしたの?」
儚げで、思慮深いような、人を射抜くような目で僕を見ている美久ちゃん。美久ちゃんが僕を見ている。目を見ている。
魔法にでもかったかのように、僕は動けなくなっていた。
「いいよ、美久で」
「あ、おお、う、うん」
ふらり、と教室の中へ踏み込んで、右の手で机を撫でながら僕に近付いてきた。彼女の仕草は、どこか妖艶さをまとっているようだった。
「内田くんはまだ帰らないの?」
「うん。ちょっとね……」
美久ちゃんは窓の外の夕陽を遠い目をして眺めた。夕陽に照らされたその顔は、整っているとは言わないのかもしれないが、僕の鼓動を異常なまでに加速させた。
「そっか……。うん、いや、なんでもないんだ」
そう言うと、僕に少しだけ微笑みかけた。
なんだか、いつもの美久ちゃんと違う気がしたが、これも彼女の一面、僕が知らなかった一面なのかもしれない。そう思うと、今の自分がなんだか誇らしくなってきた。
「う、うん」
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
彼女はくるっと踵を返し、小走りで教室をあとにした。
僕の中では、今までに経験したことのなかった充足感が嬉々として飛び跳ねていた。
窓の外は暗くなり、僕も少し微睡んできた。寝る場所は、と考えたが、すぐに保健室のことが頭に浮かんだ。保健室は校舎の一階。同じく職員室も一階。ふと、城田の言っていたことを思い出した。
『職員室の篠田先生の机にあります電話の受話器をお取りになってください』
電話してみよう。今日一日過ごして、訊きたいこともある。
階段を小走りで駆け下りた。今この校舎には僕ひとり。それがなんだか楽しかった。職員室の扉を恐る恐る開き、電気をつけた。
篠田先生の机は確か奥の方にあったはずだ。ここ数年は担任を持たず、進路関係に携わっている白髪のおじいさん先生。女性からの人気が高く、たしか美久ちゃんとも仲が良かった。
全く羨ましいじいさんだ、昔心の中でそう毒づいたのを覚えている。
その篠田先生の机の上の受話器を取り、耳に当てた。
『もしもし、城田です』
「ああ、城田さん、僕だよ」
『いかがでしたか? 一日目は』
「うん。すごく良かった。最高だよ」
正直な感想だ。予想に見合った素晴らしい空間だった。
『喜んでいただけて何よりです』
「うん……。あのさ」
ここで、今日の授業中、どうしても気になったことを訊いてみる。
『はい、なんで御座いましょうか』
「この学校に誰もいない時間も、ここに居られる制限時間のカウントダウンは進んでるの?」
これは、僕にとってとても大切なこと。これがわからなければ、時間経過が分からなくなってしまう。それはすなわち死に繋がる。大事でないわけがない。
『いえ、そのようなことは御座いません。現在夢の空間――努努は、アップグレードを行っております』
予想外の返答だった。
「アップグレード?」
『はい。どうでしょう、今日一日過ごして、もっとこうして欲しい、もっとこうだったらな、そう思いませんでしたか?』
「あ、うん、まぁ多少は」
確かに今日一日、素晴らしかった。でももっと楽しい生活を送ってみたい。そう思ったのも確かだった。
『努努は貴方のその思考を基に、より理想の、いや、理想を越えた空間を作り出すのです』
「はぁ……」
理解の範疇を越えた非現実的な話に、僕は何となく相槌を打つしかなかった。
『まぁ、明日になればお分かりになります』
ただ、期待は出来る。更に幸せな空間。更なる願いが叶う。そう考えただけで、鼓動が速まり、顔が火照っている気がした。正直、あまり眠れそうではなかった。むしろ目は冴えてしまって、どんな幸せが待っているのか楽しみで仕方がなかった。
「あの……」
『はい』
「今、ここに誰かを呼ぶことは出来ませんか」
何となく、言ってみた。眠れそうもない夜をひとりで過ごすのは寂しいものだ。
『と、言いますと』
「少し話したい人がいるんだ」
『成る程。空間を一部作動させることでそれは可能となります。就寝することも考えて、保健室にだけ作動させましょう』
「よかった、ありがとう」
これで、保健室で一人で眠る必要もなくなった。それに、努努の中で人と対話することが出来る。それだけで嬉しかった。ここの人たちはみんな、僕を認めてくれるから。
『して、そのお名前は』
誰を呼ぶかは、言うまでもない。
「中西……美久」
『承知致しました』
受話器を置き、誰もいない職員室の隅で小さくガッツポーズをした。
僕の学校の保健室は、病人用の真っ白なベッドが二つと養護教諭の机がある、いたって普通の、一般的な保健室だ。僕はベッドに浅く腰掛け、来客を待ち続けていた。心臓の鼓動は、静かな保健室のなかで大きく聞こえた。
僕はベッドに目をやった。うん。まぁ二人くらいなら寝られるかな。ひとつのベッドに。
遠くから、足音が反響して耳に届いた。その音は徐々に大きくなっていき、ふと止まる。保健室の扉の向こうに、人影が確認できた。
来た。
「内田くん?」
「あ、どうぞ」
扉が開き、僕が切望していた女性がそこには立っていた。
「あ、う、いきなり呼び出したりしてごめん……」
美久ちゃんは優しい表情で顔を左右に振った。きれいに靡いた髪の匂いがこちらにまで届いたような気がする。
「ううん、いいの。それより……」
「ん?」
保健室のなかをキョロキョロと見回し、少し頬を赤らめてから言った。
「二人っきりなんだね……」
「あ、うん」
胸のなかでじんじんと音をたてる何かに幸福を感じながら、美久ちゃんの目をまっすぐに見つめてみる。大丈夫。案ずることはない。ここは僕の夢なんだ。
「内田くん……」
視線に気付いたのか、目をあわせた彼女は、少し考えるような顔をしてから、僕の座るベッドのもとへやって来た。
美久ちゃんは僕の目の前へ。目の前で座っている僕を見下ろし、優しく微笑んだ。鼓動が高鳴る。それは彼女の耳に届いてしまわないのか心配になるほどだった。ゆっくりと美久ちゃんは僕の肩に手をかけた。その手は、少しだけ震えていた。
「あ、え? え?」
唇に、僕の知らない感触。女の子の唇。やわらかいな。それが最初の感想だった。ゆっくりと顔を離した美久ちゃん。それでも、僕と美久ちゃんの鼻は触れあっていた。今僕は、キスをしたのか。そう認識するのに僅かながら時間を必要とした。美久ちゃんは、僕の肩にかけていた手を首に回し、天使のような微笑みを浮かべ僕に言った。
「へへ……、ごっちゃんです」
夜は、長い。
-四日目-
空間作動時間
52時間22分16秒
「ひろくーん、会いたかったよー」
昼休み前の授業が終わり、さっきまでは鬱屈とした表情で先生の話を聞いていた奴らが水を得た魚のようにはしゃぎ出すなか、美久が駆け寄ってきた。
「会いたかったって、朝も会ってるだろ」
美久はその大きな瞳で俺を見つめ、少し頬を膨らませた。
「だって授業中は席離ればなれじゃん? すごく寂しかったんだよ?」
少し照れくさそうに微笑む天使を見ながら、こんな幸福を『日常』にしてくれたこの空間への感謝を今一度噛みしめた。
「ねぇ」
俺の隣の机に腰掛けながら彼女が言った。短いスカートから覗く程良い太さの太股が、俺の鼓動を早めさせた。
「西山君の話、聞いた?」
「ああ、聞いたよ」
言うまでもなく学年中に広まっているだろう話題。『西山がいじめられている』。クラスのヒエラルキーの頂点に君臨していたあの西山が、だ。その理由は、帝王が陥落するにしてはあまりに下らなさすぎた。
「まあ高校生にもなってお母さんと手繋いでたりしたらそりゃいじめられるよねー…」
言いながら彼女が振り返った先には、体育館にバスケットボールをしにいくでも無く、教壇ではしゃぐでもなく、ただ自分の席で弁当を食べる西山。その丸まった背中を見て、口角が上がるのをこらえることができなかった。
そして同時に思った。
人間ってほんとくだらねぇ。
だってそうだろう。どんなに頑張って世の中に順応しようとしていたって、たった一度のミスですべてがひっくり返ってしまう、そんな理不尽なことが多すぎる。そんな中でも人間は、人に嫌われないように、疎まれないように、恙無く暮らせるように、気を張らなければならないのだ。誰もが他人の視線で編まれた網の中で、小さくなって生きている。
西山だってその人間の悪しき風習の犠牲者なのかもしれない。
ま、今の俺には全く関係のないことなのだが。
折角何でも思い通りになるんだ。思う存分に楽しまないと、勿体ないよな。西山にも、同じ思いをさせないと。人間がより賢くなるためには、辛い思いをしなければならない。恐怖を知らなければならない。身を持ってそれを味わったとき初めて、人は今までの自分を悔いるんだ。
「ひろくん?」
美久が顔をのぞき込んでいた。深く考えるあまり、視界がそれとして機能していなかったようだ。
「いや…なんでもないよ。ただ美久の綺麗な脚に見とれていただけだよ」
「へんたーい」
そう言う彼女はどこか嬉しそうでもあった。
「さ、ご飯買いにいこうよ」
俺は、右の腕に美久の体温を感じながら、教室を後にした。
-五日目-
空間作動時間
64時間02分33秒
幸せとは? そう考える時間が増えていた。余りに幸せすぎるからだろうか。感覚が麻痺してしまったのか。真美を抱きしめても、西山がいじめられている姿を見ても、何の感動も、ない。ここは何でも思い通り。例外なんてあり得ない。俺はここでの絶対的権力者。そんな『常識』に浸りすぎたのだろうか。
保健室のベッドに寝ころび続きを思考しようとするが、視界に映ったものによってそれはあえなく遮られた。
「美久、早く服着なよ」
生まれたままの姿の上にブラウス羽織っただけの格好で、美久は俺に背を向けベッドの端に腰掛けていた。その陶磁器のように美しい肌を見つめるが、事後なためか高まるものはなく、綺麗な花でも眺めているような気分だった。
「うん……」
その声は、どこか元気がないようにも聞こえた。
「どうした? 気分悪いのか?」
「ううん……、あのね」
声のトーンが少し変わった気がした。ただそれはほん僅かな変化で、確証は無かった。
美久は両手を太股の間で合わせ、ちらちらとこちらを窺っていた。何かを言おうとしている、と言うよりは何か俺に気づいて欲しい、そんな顔だ。
「なに?」
後ろから美久の顔をのぞき込むようにして言った。彼女の顔は少し火照っているようだった。
「あのね、あの…」
その表情に、俺は気持ちが高まるのを感じた。
「もう一回…したいの」
あぁ。だめだこれ。辛抱ならない。
「わかったよ」
そう短く答え、後ろから美久を抱き寄せた。腕の中から俺を上目遣いに見つめる美久を見ながら思う。あの頃の俺は何だったんだろう。あの頃の、美久を見るだけで幸福感を得ていた俺は何だったんだろう。美久と言葉を交わすたび体を硬直させ、体温を上げていた俺は何だったんだろう。
また、こうも考えた。ここから、もとのろくでもない現実に戻った時、俺はどうなってしまうのだろう。果たして俺は、正気を保っていられるのだろうか。こんな『日常』に染まってしまった俺は、『現実』を受け入れられるのだろうか。恐らく答は『NO』だろう。
この俺がいじめに遭って、クラスに居場所がなくて、美久ともまともに話せなくて。なんだその馬鹿げた現実は。俺はそんなくだらない人生を送るために生まれてきたんじゃない。俺は、ここで、この世界で、美久と一緒に愛を育み、クラスの奴らから敬われ、自分のありとあらゆる欲を満たして生きていきたい。
ただ、やはり気になるのはこの空間、努努のルール。空間が作動する時間が七十二時間を超えると、寿命が減る。この寿命は、現実世界の寿命のことで間違いはない。今は恐らく六十時間くらい作動しているだろう。ということは残り十時間程度。とはいえ現実に帰るなんて、死刑に処せられるような絶望感を味わうに違いない。
一つ、思い続けていることがあった。それは他でもない、『努努に残る』というものだ。恐らくここでの超過時間が寿命分を超えた時、俺は死ぬのだろう。だが、それは覚悟の上だ。死んでしまおうがなんだろうが構わない。むしろ好都合だ。あの忌まわしい現実に帰らずに済む。
そして、さっきの美久の一言で決意した。俺はここに残り、残りの人生を全うする。やりたいことをやりたいだけやって、笑顔で死んでやる。幸福が約束された世界で、俺は全てを見下し悦に浸りながら死んでやる。
俺の幸福は、邪魔させない。
抱きしめていた手を解き、肩にかかるブラウスをそっと脱がせた。その火照った身体をベッドに押し倒し、上から覆いかぶさるようにキスをした。
-八日目-
空間作動時間
105時間12分59秒
昨日、城田から校内アナウンスで呼び出された。『とても大事なことを忘れていました、至急連絡を取らせてください』そういった内容だった。
恐らく俺がいつまで経っても出てこないことに焦り、適当な理由を付けて俺を説得しようとしたのだろう。早く出てこないと死んでしまいますよ、と。
当然あいつの呼び出しには応じなかった。もう話すことは無いのだ。俺はじきに訪れる死を受け入れるのみなのだ。
「博文さん」
教室の自席に座る俺の後ろから声がした。西山だ。すっかりやせ細ったその顔に、無理矢理作った笑顔を貼り付けて俺の前に立った。
「博文さん」
「何度も呼ぶな、聞こえてんだよ」
「す、すみません。あの、次は誰にしますか?」
完全に萎縮しきっている西山を一瞥し、頭の中で選択を始める。
嫌いな奴はあらかた西山にやらせた。こいつの腕力は『処罰』には持ってこいだった。いじめられていた西山は、俺のおかげで昔同様の皆に恐れられる存在となった。
昔の威厳を取り戻すために俺に頭を下げる西山、そしてその西山に罰せられる愚かな奴らを眺めるのが、とても気持ちよかった。
「うーん…じゃあどうするかなぁ…」
ふと、一つの名案が浮かんだ。
「西山」
「は、はい…」
「有田にしよう」
「え…」
非常に愉快な顔だ。
有田早希。このジャイアンもどきが思いを寄せる女生徒だ。小柄でおしとやか、誰とでも調和できる優しい性格の、西山とは全く逆の人物だ。二人並べれば、さながら美女と野獣といったところだろう。
「有田を、襲ってこいよ」
深い意味なんてない。今まで散々俺をこけにしてきたこの男の、この上なく歪んだ顔が見たかっただけ。
「そ、それは…」
「これで最後にしてやるからさ。今から三十分後、体育館の倉庫に有田を呼び出しておくからな」
「で、ですが…」
「あぁっ、うざってぇなっ。早く行けっつってんだろっ!」
「ひぃっ」
小さく叫んで、西山は教室を飛び出して行った。なんだかんだ言ったって、結局あいつは体育館の倉庫を訪れ、有田を襲う。手の届かない憧れの子に触れられる最初で最後のチャンスだ。それを無下に出来るはずがない。人間は、そういうくだらない生き物だから。
俺には時間がない。さっさとやってもらわないと。このあとの予定だってあるのだ。
「美久」
教室の隅で談笑していた美久が、俺の声に気づき嬉しそうな顔をした。そのスカートから伸びる脚も、小さく膨らんだ胸も、柔らかい唇も、全ては自分のものだと考えると、自然と笑みがこぼれた。
「なぁにひろくん」
そう言いながら駆け寄り、ごく自然に俺の膝の上に座った美久。俺はその耳元で囁いた。
「今日の放課後、保健室で会おう」
こそばゆそうな顔をした美久は頬を赤らめて、承認の意を込めてだろうか、俺の頬に軽くキスをした。
そして、美久も同様に俺の耳元で囁くようにこう言った。
「内田博文様。もうお終いで御座います」
「えっ」
反射的に美久を突き飛ばし、立ち上がっていた。
なんだ。なにが起こった。
混乱する頭。それでもその言葉の主は容易に想像がついた。
「城田か?」
平静を装い、少し語気を強めて美久の姿をした『何か』にそう言った。
しかし、その問いに答える言葉は無く、たくさんの生徒がいる教室の中に異様な沈黙が鎮座していた。
そして、俺の最後はやってきた。
「うっ」
瞬間、身体を激しい痛みが貫いた。その痛みは短い間隔で俺を貫き続け、俺はその痛みに耐えかねて膝を付いた。
「みなさん。帰宅の時間です」
美久の姿をした『何か』が、まわりの生徒にそう声をかけた。生徒たちはその指令をさも当たり前のように受け取り、訓練を受けた軍隊のように、一切の表情を排し綺麗な隊列を作って教室を後にした。
その最後尾を歩く美久の後ろ姿を見て、思った。
寂しい。
痛みに悶絶し、冷や汗を滝のように流しながら立ち上がり、玄関を目指し歩き始めた。そうすることに意味はない。ただ、誰もいないあの教室で一人で死ぬのが嫌だった。
一歩一歩に激しい痛みを伴い、何度も意識を連れて行かれそうになったが、何とか玄関まで辿り着いた。
俺の選択は間違ってはいない。好きなだけ幸せを味わい、青春を取り戻せた。こんなの一生かかっても出来ることじゃない。
そして俺は、幸せだった日々を思い出しながら、頬にそっと笑みを浮かべながら死ぬのだ。
玄関のドアに内側から張り付いて外を眺める。
自分の終わりを確信し、そっと目を閉じようとした時。
あの男が現れた。
「お久しぶりです、というべきでしょうか」
玄関越しに作られた笑顔を俺に向けるその男、城田。開けっ放しだったドアを通り、俺の隣までやってきた。
「あぁ。そう、だな」
痛みに耐え、苦悶の表情をする俺をよそに、後ろ手に組み俺の周りを歩いていた。
「なぜ、あの時の呼びかけに応じてくれなかったのですか。応じていればまだ間に合う可能性だって御座いましたものを」
あの時、というのは、校内アナウンスを指しているのだろう。
「ふん、いいんだ。俺はここで死ぬことを選んだんだ。何か問題でもあるのか?」
「はあ…。あなたも結局そうなんですか」
「は?」
聞き捨てならなかった。まるで俺がそこいらの奴らと同様の陳腐な考え方をしている、とでも言いたげな口調だったからだ。
「二つ、あなたに言わねばならないことが御座います」
そんな俺に構うことなく話を続ける城田。城田との会話が人生最後の会話となるとはな。全くもって不愉快だ。
「一つ目、私はあなたに一つだけルールをお教えするのを忘れておりました。そのことをご容赦ください」
寝耳に水。まさにそう言い表すのが適当であった。
「はぁ? おいそれは」
「二つ目」
俺の言葉を遮る城田の声には、威圧感が内包されているように感じた。腰を折り、悶絶しながら見上げる俺に、城田はあの作られた笑顔を向けて言った。
「時間には、お気をつけて」
その言葉を聞くや否や、俺の視界は暗転し、同時に意識を手放していた。
暗闇の中に、光が差し込んでいる。ぼんやりとそんな気がした。
ここはどこだろう。
死後の世界というものがあるのなら、そこにいるのだろうか。
閉じたままの目を、ゆっくりと開く。今までの夢の世界を出てしまった虚脱感を全身に感じる。
俺の思考は、
強制的に終了させられた。
「え…」
ここは…。
俺の部屋だ。
その事実に気がついた瞬間飛び起き、周りをキョロキョロと見回した。そして一つの可能性に行き着く。
夢。
今までの全ては夢。ただ夢を見ていただけで、実際に寿命なんか減っちゃいないし、俺の現実も何も変わっちゃいない。そう考えるのが当然だった。
「マジかよ…」
全身から力が抜け、起こした上半身を再びベッドに沈めた。身体がやけに重い。
また、悪夢のような日常が始まってしまうのか。美久は俺のものじゃないのか。俺は西山にいじめられなければならないのか。そう考えると、涙が堰を切ったように溢れ、止まらなかった。
その溢れる涙を右の手の甲で拭うとした時。
今流した全ての涙の存在は否定された。
なぜ。
どうして。
どうして。
手が。
俺はろくな言葉も発することができず、ずり落ちるようにベッドを降り、部屋にある全身鏡に向き合った。
「あ、あああ…」
誰だよ、この爺さん。
鏡に映ったのは、髪が抜け落ち、全身にくまなく皺が刻まれ、疲れきった老人だった。直感的に思う。
これは、俺だ。
「なんで? なんで? なんで?」
そう呟きながら、これもまた夢であることを切に願いながら、ただひたすらに涙を流し続けた。
なんで死んでないんだ。なんで俺はこんなみじめな姿で泣かなければならないんだ。こんなのは嫌だ。嫌だよ。
「ひろくーん、ご飯よー」
そう言いながら扉を開けた母さん。こんなのは嫌だよ。
「きゃあっ! だ、誰なの! なんでひろくんのパジャマ着てるのよ!」
母さんと目を合わせてみた。
「ひっ」
ああ。
「ひ、ひろくんをどこに、どこにやったのよ!」
そんなヒステリックな声を出されても、俺なんだから。ここにいるじゃないか。
母さんは、なんともつかない奇声を上げながらリビングへ駆け下りて行った。
「も、もしもし、警察ですかっ! 家、家の中、に変質者が! 子供がいないんです! 早く、早く来て! お願い早く!」
その言葉の一つ一つが、俺の心を砕いて、かき混ぜて、消し去ってしまった。
あぁ、もう、駄目だ。
三日後。
俺は、誘拐犯とし警察に逮捕され、拘置所内で生活していた。
だがこの現象は、誰にも理解されることは無いだろう。このまま誘拐犯として適当に片付けられて終わりだ。
なぜ、あの時殺してくれなかったのだろう。そんなことばかり考えていた。城田は一体俺にどうして欲しいのだろう。
この三日間、俺は生きていなかった。
そんなことを考えていると、扉が開かれ、拘置所の警備員に呼び出された。またどうせ拉致があかない取り調べでもされるのだろう。『博文君はどこだ』とか。馬鹿馬鹿しい。
想像どおり、ひとしきり無意味な質問をされた。
「いいかげん本当のことを言ったらどうなんだ? え?」
俺に凄んで見せるおじさんは、面倒なことに巻き込まれたと、辟易しているようだった。不意に彼は上着のポケットから何かを取り出し俺に見せた。
「博文君のベッドからこんなものが見つかった。お前これに見覚えは?」
それは、袋に入れられた紙切れだった。激しい老眼のため、いくら目を凝らしてもその文字を読むことができなかった。
それに気づいたのか、おっさんはわざとらしくため息をつき、読み上げ始めた。
その文面は。
俺の顔面を青くするには十分すぎるほどの、衝撃的な内容だった。
「はぁ、はぁ…う、うぇっ、はぁ…」
「なんだ、どうした! おい!」
視界が渦を巻く。回転は速度を増していき、まわる、まわる。
ちくしょう。ちくしょう。
夢なんて、夢なんて。
見るだけでよかったのに。
このままなんて嫌だ。
こんなくだらない最期があってたまるかよ。
戻りたい。
いじめられてたっていい。
もう一度、自分で、自分の力で生きるチャンスが欲しい。
お願いだ、城田。
やっぱり俺。
俺。
死にたくねぇよ。
目の前から光が消え、遠くから叫び声が聞こえた。
ルール
四・もし寿命の支払い上限まで支払いをした場合、現実世界に強制送還される。その際ペナルティとして、寿命七十二時間が与えられる。