剣を持てば―――
ちょっと凝りました。一応経験者なので。
「お母さん。行ってきます」
「行ってらっしゃい。帰りは電話してくれれば来るから」
「うん」
市立体育館に降ろされた私達は、二人とも剣道着を身に纏い、女子学生には重めな防具袋を背負いつつ、母に別れの言葉を伝えた。別に今生の別れでもないのだから、“別れの言葉”と言う程でもないのだが。……このあと事故とかに遭わなけりゃね。律渦が竹刀袋の先で器用にドアを閉めると、たちまち車は動き出した。テールランプが私達の顔を照らす。母の乗るクラウンは、静かなエンジン音を風に溶かしつつ、夜の道路へと吸い込まれていった。母を見送ると、懐から携帯を取り出す。時刻は午後七時半。稽古開始が七時なので、やや遅刻気味である。
「行こっか」
「うん」
律渦の返事がやや固かったが、敢えて気にしないことにした。貧相なエントランスを抜けて、向かい側にある自動ドアを目指す。途中、右手側にむさ苦しい男達がたむろしたトレーニングルーム(ベンチプレスとかそういうのが詰め込まれた筋トレ部屋)が見えたが、律渦に反対側の柱に貼られたポスターの話題を振ることで回避。次に現れた卓球部屋も、自動販売機のラインナップについての話を振って難なく通り過ぎると、目的(一歩手前)の自動ドアにたどり着いた。
───その瞬間、私の中で一つの試練が終わった。この市立体育館は、公共施設ということもあり様々な人々が利用する。当然、律渦の怖れる男性も多い。パニックを起こされたら正直剣道どころじゃなくなるので、密かに危惧していたのだ。幸いそれも杞憂に終わり、無事、自動ドアをくぐり抜けた。空調の効いていた館内とは違い、自動ドアの向こうは屋外だ。屋根はあるものの壁で覆われてはなく、やや湿り気を帯びた風が頬を撫でていく。足元は凸凹とした小石の埋め込まれた通路で、別館としてここ数年ぐらいの内に建てられた武道場へと繋がっている。一階が剣道場、二回が柔道場で、三階が弓道場……だったか?上の階は行ったことが無いので正確には憶えてない。武道場らしさを演出するためか、木目調に設えられた自動ドアを二枚くぐる。防音がしっかり施されていたのだろう。足を踏み入れた瞬間───バチンッ、ドンッ、というあの独特の音が鼓膜を揺らした。竹刀がかち合う音、面が叩かれる音、小手の打たれる小気味良い音、そして何より───腹を揺さぶる気合。この一階の構造は、流石築数年の公共施設だけあって現代的だ。吹き抜けのような高い天井。出入口は先程通った方以外にももう一つあり(夜なので今は使用不可)、足元は石畳のような黒タイルで綺麗にコーティング(舗装ではないだろう)され、“土足厳禁”と書かれたプラスチックの立て板がちょこんと乗っかったフローリングへと続いている。この別館は一応複合施設なので、道場と館内ロビーは壁で仕切られている。入り口は行儀良く閉ざされていて、壁を一枚挟んでるにもかかわらず伝わる音の振動は、果たしてただ空気が震えてるだけなのか。それとも───
「懐かしいなぁ……」
私が余計な物思いに耽る中、律渦が誘われるように、入口へと向かう。慌てて彼女の足元を見るが、靴は既に、下駄箱へと仕舞われていた。私も急いで靴を仕舞い、あとを小走りで追いかける。打突音が絶え間無く鳴り響く場内は、何処か別世界の様な空気があった。律渦は静かに一礼して中へ入り、見学中の父兄方に自然に挨拶しながら奥へと向かう。男性にも臆した様子は無い。───雰囲気に(良い意味で)呑まれている。そんな感じだ。観覧席を挟んだ向こう側では、既に稽古が始まっている。急がないと自分達がやる時間が無くなる。
「姉さん」
先生方の稽古をぼぅっと眺めていた律渦を呼び、適当に防具袋を置くと、結び目を解いて中身を取り出した。表面に乗った埃や髪の毛といったごみをぱっぱと払うと、やや急ぎ気味に防具を身に着けていく。私が垂を結んでいると、隣では既に、胴紐が片方結ばれていた。律渦の防具装着は、私の倍早い。逆に言うと私は律渦の倍遅い。これでも頑張ってるんですけどねぇ。垂の次は胴を着け、面タオル(手拭いのことを何故かそう呼ぶ)を頭に巻く。この時、いつものようにがばっと髪を掻き上げるように巻こうとしたのだが、途中で今、自分がウィッグを装着しているのに気づいた。危ない危ない。下手したら外れてるところだった。私は防具袋のポケットに手を突っ込み、髪留め用の百均ゴムを取り出すと、それで長い髪(偽)を一つに括った。長髪の人は皆、こうして髪を後ろで纏める。何故かというと、面紐を結ぶ時に邪魔なのだ。再び面タオルの装着を再開。床に広げた面タオルを置き、内側へ向けて、長辺と平行に、半分に折る。より細長くなったそれの中心に手を置きその幅を基準に手前にリボンクロスを作るように、両端を手前に向かって畳む。裏表をひっくり返してはみ出た両端を三角に折って形を整えると、そいつを上側にある台形の下辺に突っ込んだ。最初に半分に折った歳に出来た口だ。頭に入るぐらいまで適当に形を整えると、完成。その名も、面タオル『帽子型』。そうして出来た帽子を引っ被って面を着けようと顔を上げると……。律渦がいつの間にか素振りを始めていた。目が合う。
「早くして」
催促までしてくる。やれやれ。最初の一本目は二人でやろうと約束していたので、待たせるわけにはいかない。私も手の動きをより早くなるよう努めて、その後四十秒で面着けを完了した。
「待たせてごめん。行こう」
「うん」
竹刀袋から一番使用頻度の高い重めの竹刀を取り出し、先行く律渦の後に続く。何故重い竹刀を選んだかというと、その方が打突が重くなるからだ。私達の登場に、稽古待ちの数人がこちらをチラリと見てきたが、その視線はすぐに外された。端の方に空いていたスペースを見つけて向かい合う。軽く肩を回して力を抜き、ドンドンとその場で踏み込んで足の調子を確認。いつもとは違い、面と頭の間にもう一つ挟まったウィッグの感触は、面紐を少し痛むぐらいきつめに結んだお陰で、剣を振るのに大した影響は無さそうだ。正面の律渦を見ると、あちらも準備万端といった様子だ。律渦もこちらの準備が終わったと見て、一歩歩を進める。私もそれに合わせて、九歩の間合いで立ち止まる。剣を交える始めと終わりに、必ず行われる行為。これが礼法だ。
「「お願いします」」
双方、礼。三歩前へ、抜刀。流れのままに膝を折り、蹲踞。試合ならここで審判(主審)の「始め!」という号令があるが、これは稽古だ。そんなものはない。双方の気を合わせて、すっ、と立ち上がる。間合いはまだ剣先が触れ合ってさえない。こちらが一歩詰めた。するとそれに呼応して、律渦が竹刀の剣先を僅かに逸らした。これは駆け引きでも何でもない、稽古始めの予定調和だ。剣道では、面を着けて相手と剣を交えて稽古する際、必ずと言っていいほどすることがある。それは“切り返し”というもので、正面打ち→左右面九本→正面打ち。の一纏めの基本技である。切り返しに始まり切り返しに終わると言われる程大切な技であり、初段の段審査の基本技として採用されている。
「ッヤァーッ!」
私は基本通り、気合と共に打ち込んでいく。先程律渦が剣先をずらしたのは、面を空けて打ち込めるようにするためだ。久し振りに竹刀を振るうので、型通りを意識しながら丁寧に切り返していく。最後の面はやや強めに踏み込んで残心をとると、こちらの番は終わった。次は律渦の番。間合いと構えを直し、剣先を中心から僅かにずらす。律渦は忽ち打ち込んできた。
「ィヤァーッ!」
思いの外速く迫る竹刀を面で受け、左右の切り返しを急ぎ気味の足裁きながらも鎬で柔らかく受け止め、最後の面まで一息に打ち切られた。剣速もさることながら、足捌きも素早い。ブランクがあるとは思えない振りである。私は残心が切れたのを見計らって、律渦に近づいた。
「鈍ってないようだな」
「まぁね。身体は忘れないってことでしょ」
自転車の乗り方と同じよ、と言う。
「私もそうなりたいよ。───じゃ、そろそろ地稽古やろっか」
「うん。お願いします」
双方距離をとり、再び蹲踞。そしてすぐに合気で立ち上がる。
「ィヤァーッ!」
律渦の気合が声高と響く。対して私は無声。中段で剣先を相手の突き垂に向けて、正中線から外さない。地稽古とは、ボクシングでいうスパーリング。柔道でいう乱取りのようなものだ。自由に技を繰り出し合い、試合のように打ち合う稽古のことである。つまり今、私達は闘っているのである。
律渦が相手の中心を崩そうと、小手面で突っ込んできた。打突はやや軽めだが、速さの乗った打ちで避けるのは難しい。だが神楽はそれを竹刀を擦り上げるようにしてこれを受け流し、体を返して鍔迫り合いにせずに抜けさせる。律渦はそれに敢えて乗り、身体を瞬時に反転させて打ち込もうとする。だがそれは読まれていた。神楽は情け容赦無い突きを繰り出し、出鼻を狙う。咄嗟に上体を傾けてこれを避け、わざとらしい体当たりで距離をとる。双方、一旦構えを解き、再度気を入れ直して構える。神楽はピタリと動かない。“彼女”のその徹底した受身の態度(この場合は後の先を狙う態度と表現出来よう)に戸惑いながらも、律渦が少しずつ間合いを詰めていく。じりじりと間合いを縮めていく。そして剣先が触れ合うかどうかというところまで近づいたとき、律渦が仕掛けた。その場でダンッ、と踏み込み、相手を威嚇したのだ。神楽の手元が、律渦から見て左側に浮く。竹刀は打突をいなす為に傾いている。律渦はそのことを確認もせずに斬り込んでいった。
「ダァッー!」
竹刀を時計回りにくるりと振り、勢いをつけて袈裟懸けに斬り下ろす。踏み込み見せかけからの───逆胴。視認も難しい速度で放たれたその技は、神楽の左胴にパァァァン、という快音を響かせた。
「イャハッ!」
───同時に鳴った、パァァン、という面の音と共に。神楽は嵌められたと理解した瞬間、その浮いた手元を絞り込み、防御から面へと切り替えたのだ。逆胴を打ち据えられながらも、体当たりで残心をとろうとする。律渦も打突の勢いそのままにぶつかってきた。───衝突。神楽は女性と見紛う容姿だが、小柄というわけではない。体力的には一般男性のそれである。男女の差は、この体当たりの瞬間に表れた。力は勢いで凌ぐも体格差で押し込まれ、律渦がややよろける。神楽はそのまま突っ切ろうと左足を蹴り出すが、律渦も負けてない。咄嗟に左足を引き、相手の左胴側に回り込むと、右足を引いて踏み込んだ。放たれるは引き面。神楽の側頭部に竹刀がパァァァン、と叩き込まれ、右足の踏み込みによって律渦の身体が後ろに弾き出される。剣先を天に突き上げ後退し、風切り音と共に中段に戻し、残心をとった。
「───一本」
律渦が得意気な表情で呟く。神楽はそれを受けても、ただ構え直すだけだった。聞こえてないからかもしれないが。律渦も歩み足で間合いを詰めつつ構え直す。
「ィヤァーッ!」
「………………」
律渦の気合だけが双方の間を通り過ぎる。律渦は胸中で首を傾げた。先程もそうだったが……相対したときの気合が無い。それに前と攻め方が全く違う。記憶通りなら、以前の神楽はもっと打ち込んできたはずだ。攻撃は面が主体で、応じ技だったり引き技だったりでボコボコに出来るような単純さがあった。しかし今目の前にいる彼女からは、正面を一向に譲らないその攻めが、不気味な雰囲気を醸し出している。律渦はその不安を断ち切るべく、面、小手を使った攻め技で打ち込んでいった。神楽は受け流すか、応じ技を思い出したように繰り出すだけで、自分から打ってこうとはしなかった。何合が打ち合った後、再び間合いを切った。そして両者ともなく近づく。剣先同士が触れ合う。律渦も相手の中心を奪おうと、僅かに押し込んだり鎬を叩いたりとしてみるが、中々崩れない。神楽が思い切って一本踏み出す。律渦はすぐに後退した。再び踏み出す。今度は神楽の方が、相手の反応を確認せずに打突を繰り出した。
「ッテェェィヤッ!」
相手の竹刀の下をくぐり、右小手へと手首を鞭のように突き出す。さっきまで応じ一辺倒だっただけに意表を突かれた律渦は、為す術無く小手を斬られた。神楽はその脇を抜けていき、二足分程後ろで振り向くと、音も無く残心をとった。
「小手あり」
神楽は不敵な笑みを浮かべ、小さく呟いた。
その後何合か打ち合い、身体の連続稼働にそろそろ限界が近づいてきた頃。どちらともなく構えを解き、蹲踞の末に稽古を終えた。
「強くなったわね」
律渦が顔を寄せて言ってきた。その言葉には裏表は見当たらない。純粋に、中学時代の“神楽”と較べての感想だろう。だが私は素直に頷けなかった。
「ううん、そうでもないよ。私の剣道は、ただ狡いだけ」
巧いとか強いとかじゃなく、狡い。律渦はそれをどう受け取ったのか、面の中に表情を隠しているので判らない。やがて顔を上げると、先程よりもやや大きな声で言う。
「とにかく時間無いし、他の先生とも稽古してこようか」
「うん。じゃあ私は山口先生のところ行くから」
「うん」
私は踵を返し、宣言通り山口先生(この合同稽古の幹事をやっている、この辺の剣道家の間では顔が広い人だ)の元へと向かった。
「正面に、礼ッ」
正座した状態から頭を下げ、土下座のような姿勢になる。見た目はあまり良くないが、これもちゃんとした礼法だ。頭を上げ、今度は身体を直角反転させて、居並ぶ熟練剣士の方々に向かい合う。
「先生方に、礼ッ」
「「「ありがとうございました」」」
号令と共に、自分の横にずらりと並んだ子供達や数人の大人達が一斉に頭を下げた。律渦にとっては一年ぶり、私にとっても二ヶ月ぶりとなる今日の稽古が終わった。正座したまま首を巡らせると、各々立ち上がり、今日相手をしてもらった先生のところに行って口頭指導を貰っている。律渦は早々に片づけに入っているが、私自身には特に急ぐ理由も無い。私も周囲の子供達同様、先程相手をしていただいた山口先生のところに向かうことにした。
「ありがとうございました」
「あぁ、こちらこそありがとうございました」
深く礼をすると、山口先生も深く丁寧に礼を返した。
「良かったですよ。こちらを崩そうというのがよく伝わってきて、あまり油断出来ませんでした。でも慎重すぎる気がします。私よりも上背があるんですから、上から思い切ったパァァァンという面打ちが出ると、もっと良いと思います」
「ありがとうございます。以後、気をつけます」
自分なりの哲学の上に成り立っている剣風に口を出されるのはあまり気分の良いものではないが……私は彼の人柄もあってか、その総評を素直に受け止めた。
「そういえば」
さて挨拶して片づけよう───と頭を下げかけたところで突然、山口先生は話題転換の定型句を呟いた。
「先程は律渦さんと一緒にいましたが、ご姉妹……じゃあないですよね。あそこは姉と弟だけでしたから」
私はなるべく平静を装い、少し色をつけた微笑を浮かべて、
「従妹なんです。らんか、っていいます」
事前に決めた設定を騙った。
「そうですか。神楽君と間合いの取り方とかが似てましたが……もしかして、一緒に稽古したことあるんですか?」
ぴくり。私は自分の頬が少しばかり引き攣るのを感じた。
「……似てました?」
「えぇ。それなりに」
ば、バレてないよね……?と、少々不安になった後、ふとあることに気づき、数瞬前とは打って変わって、胸に嬉しさが込み上げた。
(似てるって……“神楽”のこと、憶えててくれたのか……っ!)
影が薄いだなんだと言われまくっていただけに、その喜びは案外大きかった。まぁそれでも表情は崩さないのだが。
「兄さんとは稽古を共にしたことはありません。助言も受けたことは無いですし……。でも、性格は似てると言われますね」
剣道には人が出る。中学生の頃に散々言われた言葉だ。“自分勝手で相手に無頓着な剣道だ”と言われた時は流石に考えた。山口先生は疑うような素振りも見せず、鷹楊に頷いて見せた。
「そうですか。───では、次もよろしくお願いします」
「はい。ありがとうございました」
私は三指を突き深く礼をすると、そそくさと自分の面の置いてある場所まで急いだ。
「あれ?」
しかしそこには何も無い。周囲を回し見るも、私の安っぽい防具袋は見当たらない。首を傾げながら視線をきょろきょろしていると、出入口付近に律渦の姿を見つけた。あちらもこちらの視線に気づいたのか、振り向いて立ち止まる。いつの間にか私の防具も抱えて、剣道場を出ようとしていた。いや、急ぐのはいいけど……。まだ私の胴と垂、仕舞ってないから。
どうでしたか?剣道のシーンは映像として浮かんできたでしょうか。全然だめだなぁと思う方は感想やレビューにて教えてください。
実は今回作中で描いた描写は、実際に行って書いた―――わけではないんです。まぁ不可能な動きとかは入れてませんが。むしろその程度余裕だろ?と、とある経験者様から言われちゃいそうな感じにしましたが。
まぁ自分のモットーって、人間業しか書きません。なんで。不満とかあっても仕方ないよね。みんな主人公最強大好きだし。私は嫌いですが。