今更
「よいしょっと」
いつもより重たい手荷物を提げて帰ってきた俺は、習慣である女装を済ませると、隣にある姉の部屋へ向かった。頼まれていた品を渡すためだ。両手で抱え持つそれは、男の“俺”にとっても結構な重量だ。何故か着替えてからは、より重く感じる。ただの疲れだろうか。注文内容はレポート用紙五十枚だったが、丁度五十枚入りのものが無かったため、百枚入りのものを買ってきた。十枚入りのもあったのだが、単価が高かったためこちらにした。別に足りないよりはいいよね。扉の前に立つ。私は手首を使って、コンコン、と高い音でノックした。この音を出すのにもコツが要るのだ。
「姉さん。頼まれてたレポート用紙、持ってきたわ」
ずり落ちかけた荷物を持ち直しつつ、応答を待つ。
「……………………」
………………ん?
「姉さん?」
さっきよりも大きめの声で再度呼び掛けてみる。しかし───
「……………………」
応答、無し!ちなみにここで、安易に『返事が無い。ただの屍のようだ』なんて使うのは時代遅れだ。さて、では律渦が屍でないとしたらどうして返事が無いのだろう。トイレかな。居間には人の気配は無かったし……。私は再び閉じられた扉に目を向けた。……もしかして、寝てるのかな?レポートに没頭してる間に寝落ちしたとか?だったら起こしてあげないといけない。
「………………」
そう思うものの、身体は棒立ちのまま動かない。私は今更ながら、躊躇っていた。自分が律渦の部屋───プライベートな空間に、断りも無く踏み入れることを。鍵はそもそも付いてないから、開けるのに物理的な抵抗は無い。……だが精神的な部分で、抵抗を覚えている。と、そう自己分析したところで不意に───脳内に声が響いた。
“何を言っている”
“お前は神楽だぞ?”
“律渦からこの上無く愛されている、神楽だぞ?”
苛立たしげなその声は、私の背中を確実に押してくれた。
「………………ふぅっ」
私は先程の自分を一喝した。それは単なる一方的な遠慮だ。思い出せ。ここ一ヶ月の律渦を見ていれば解る。私がこんなことで、拒まれる筈が無い。裏付けを思い出した後は、それを適用させるだけ。すっ、と。吐き出した溜め息を吸い込むと───私は自分の意識を造り変えた。遠慮はもう無い。荷物を片手に持ち直してから、ドアノブを静かに捻る。手前に引っ張ると、僅かな軋み音と共に壁が隙間を広げた。───扉が開き切る。それと同時に、私は足を踏み入れた。内装に気を向けることもなく、真っ先に律渦の姿を捉える。色褪せた文机に背中を丸めて突っ伏している人影。頭にはヘッドホンが乗っかっていて、脇に置かれたウォークマンの液晶は、黒く光を反射していて、それなりの時間操作されていないことが窺える。用紙束を置きがてらボタンを適当に押してみると、電池切れを告げる、横転した凸印に斜線が重ねられた記号が表示された。予想通り寝落ちしたようで、ノックの音にも起きなかったのは、今や耳栓代わりとなっているこのヘッドホンが原因だろう。恨めしげに取り去ってやろうかと思ったが、他人に身につけたものを外されるのはあまり気分の良いものではないだろうと思い直し、触覚に訴えることにした。
「姉さん。起きて」
肩と背中に手を置き、優しく揺する。零れた髪が指を擽った。
「姉さん」
中々起きないので、少しずつ揺れを大きくしていく。するとようやく、「んぅ……」という呻き声が返ってきた。揺らす手を今度は撫でる手にして背中をさする。律渦が気分良く起きられるように。やがてその頭がゆっくりと持ち上がり、数度瞬きした後ようやくこちらを向いた。
「…………神楽?」
眠気眼を袖口で擦りながら、こちらを見上げる。幼子のようなその仕草が、思わぬ微笑みを誘ってくる。そんな衝動を堪えつつ、私は自分の側頭部をつつくように指差して、ヘッドホンを外すよう示した。すると律渦は一瞬不思議そうにこちらを見上げてから、ハッとしたようにヘッドホンを外した。寝惚けて頭に引っかかるものの存在を忘れていたらしい。私は再び笑みを堪えつつ、一歩下がると、自分の胸に手を添え、慇懃無礼に腰を折った。
「改めまして───おはようございます。眠り姫様」
「えっ?あ、ん~~~ご苦労!」
私の突然の振る舞いに戸惑った末ゆ絞り出した言葉は、英国紳士風の所作に対して実に不似合いなものだった。それ十四~五世紀頃の日本風や。
「ふふっ。それでは大名様みたいじゃない」
「そっちが変なこと言うんだもん!」
私の笑いを含んだ言及に対して、律渦が少々いじけ気味に抗言してきた。確かにふざけたのはこちらだが。
「そうね。ごめんなさい」
「うぅぅ……」
あまり長続きするのも何なので、早いとこ納めようと謝ったものの。律渦は不満そうにこちらを見上げたままだ。どうやらレポートに追われた疲れと、起き抜けの不安定な精神状態の時に茶化したもんだから、すっかり拗ねてしまったようだ。私が苦笑を浮かべつつ、宥めるように向けた両手に向かって、猫じゃらしにじゃれつく猫のようなパンチ(本物の猫パンチには威力がある)をぺちぺち繰り出している。痛いとかは無く、寧ろ可愛らしいぐらいなのだが、こうしてぶつけてくるのは余程溜まっていたからだろうか。不足単位溜めたのは自分だろうに。
「姉さん。とりあえず、気分転換にお茶でも飲みません?」
責めるにしろ責められるにしろ、とにかく現状を変えなければと、そう提案する。するとじゃれパンチの雨は止まり、律渦はこくりと頷いた。
「はぁ~~~っ」
薫り立つジャスミンティーから口を離すと、律渦が脱力するように深く息を吐いた。
「どう?落ち着いた?」
「不本意ながらね」
先程までの遣り取りを思い出したのか、彼女は眉根を寄せつつ答えた。その物言いに、彼女が軽く鬱状態になっているのでは?と思った。心配なので、フォローしておこう。
「色々と溜まっていたのでしょうか、仕方無いのじゃない?」
ただでさえ引きこもり気味なのに、そこに追い討ちをかけるようなレポートフィーバー。ここ二日は自分の部屋に籠りっぱなしだ。
「そういえば、レポートっていつ提出することになってるの?」
ふと思い当たったので訊いてみた。
「一番早いやつは来週の日曜日」
「確か、出されたのって今週だったわよね。それは終わってるの?」
「うん、なんとかね」
手首をぷるぷる振ってそう言う。腱鞘炎にならないか心配だ。
「他のも終わりそう?」
「う~ん……ちょっと判んない」
自信無げに言うので、私は本気で心配になってきた。自分も手伝ってあげれればいいのだけど……。何分、高校生の私では手がつかないし、そもそもそういうことは本人が処理しないといけないと思っている。律渦にしてあげられるのは、レポート用紙の御使いだったり、お茶を一緒に飲んだりといった気分転換ぐらい。最近は引き籠ってもいるから、何とか外に出してあげたい。
「となると……」
「ドナルド?」
私はある場所───特定の何処かではなく、“あること”をするための場所───が、頭に浮かんだ。あぁ、さっきのは反応しちゃいけないやつね。
「ねぇ、姉さん」
「ん?」
私は頭に浮かんだそこを、そのまま一言の単語で表した。
「久し振りに、道場へ行ってみないかしら」
律渦が一瞬、きょとんとしてこちらを見た。完全に予想外だったのだろう。だが律渦はすぐに立ち直り、こちらに問うてきた。
「道場……って、何処の?」
何で?とは言わないのが面白い。私は通ったことのある道場の名を思い浮かべた。
「何処でもいいわよ。至誠館でも明麟でも。あと市剣連の合同稽古もあったわね」
他にも知ってるところはあるが、そこは稽古に行ったことが無い。
「いやそうじゃなくて!」
律渦が身を乗り出して、私の思考を遮った。
「何処と訊いたのは姉さんじゃない」
突っ込むと、律渦はうっ……、と言葉を詰まらせた。
「と、とにかく!何でいきなり剣道なんて出てくるの?」
律渦の問いは当然だった。この課題尽くしの時期に、どうして道場───正確には剣道場、に誘ってくるのか。ただ行こうと言われただけでは、理解が出来ないだろう。だが私の中では、ちゃんとした経緯と目的が用意されている。私は律渦のカップにおかわりを注ぎつつ、口を開いた。
「大した理由じゃ無いわ。最近外出してなさそうだし、それにストレスも溜まってるようだから。運動でもしたらすっきりするんじゃないかな、と思って」
それを聞いて疑問が氷解したようだ。納得という表情が浮かんだが、その直後に、ストレスを言及されたことに対する複雑な表情に変わった。
「何か、私のこと本っ当お見通しだよね。神楽って」
「血の繋がりの成せる技です」
姉としてのプライド(そんなのまだあったんだ……)が傷ついたらしく、私の返しにも苦笑を浮かべるだけだった。
「で、どうするの?」
律渦がカップを置くのを待ってから、私は改めて訊いた。
「う~ん……。私も行きたいんだけど……」
律渦はその続きを、目で訴えてきた。
「ご心配無く。稽古中は面を被ってるのだから、男性や女性というのはあまり気にならないでしょう。それにあの雰囲気では、怖がってなんていられないでしょうし」
実際に試したわけではないけれど、現に私が女装という手段で触れ合えているのだ。視覚や雰囲気をどうにかしてしまえば、発作は起こりにくいだろう。それにリハビリにもなる。そこまで考えての発案だった。律渦は暫し悩んだ末、
「うん……。そう、だね。解った」
まるで試合出場を決心した時のような、一歩進んだ笑顔を浮かべた。
疲れてます。下手な文ですいません。