独りで出来……ちゃっていいの?
家にいないときの方が落ち着くってどういうこと?
「いってきます」
高校生にとって、学校というものは仕事場のようなものである。だから家よりも休まるなんてこと、少なくとも俺的にはあり得ない。いや、あり得なかった。姉が強姦未遂に遭い、家族である俺や親父でさえ、男というだけで怯えられ、親父が単身赴任を取りつけて逃げ出し、俺は家では女装させられる。その時までは。まぁ理由が理由なだけに、女装に関してはもう折り合いをつけたんだけど。でもねぇ。根本的な問題として、一家の雰囲気が……こう、ね?一見いつも通りなんだけど、それが逆に恐いというか違和感というか。そんなわけで、俺はなんとなく家に居りづらいのであった。
「透明人間になったらどうしたい?」
昼休みである。母特製の味の薄い玉子焼きに顔をしかめていると、横合いからそんな問いが投げ込まれた。
「さっきのリーディングの話か」
「あぁ。そんときにふと思った」
問いに応じたのは、眼鏡をかけた長身の男。名を森高という。ちなみに問いかけたのは西山という、女性の趣味に関して二次元と三次元のディメンションがロストしている奴だ。
「勿論悪用だろう」
森高は声高にそう述べた。下衆だなぁ、などとは思わない。何故なら俺も悪用を第一に考えるからだ。具体的には小学校へ侵入して可愛らしい小学三~四年ぐらいの幼女を快楽の虜に───
「そうだな。まずは小学校へ侵入して可愛らしい小学三~四年ぐらいの幼女を快楽の虜に───」
「何で俺と同じことを!?」
俺は箸を振り上げ、思わずそう突っ込んでいた。一字一句違わないとか、何かしらの作為を感じるぞ。森高は俺の反応は予想通りとばかりに薄笑いを浮かべ、まるで世界の常識を述べるかのように言った。
「何を言うか。それが透明人間の常識だからに決まってるだろう」
透明人間の常識って何だよ。
「俺、間違ってるの?」
呆れる俺を他所に、西山が呟く。どうやらこいつは違うことを考えたらしい。
「俺は一応、自分がおかしいことは自覚しているぞ」
「まだ悟りの境地へは至らぬか……」
こいつは何になりたいのだろう。
「二人揃ってクズだな」
「おい西山。俺とこいつを一緒にするな。俺の方がレベルは上だ」
森高は自慢気にそう言うと、コーンスープをずるずると啜った。馬鹿め。俺達の場合は熟練度的なレベルというより深刻度って感じのフェーズが適当だと思うぞ。
「まぁ俺達のことはもういい。西山が透明人間になったらどう悪用するのかを聞かせてくれ」
ロリコンは無害だし。
「悪用言うなよ。……いや、単に嫌な奴みんな殺すだけだけど」
俺はその言葉を聞いて、呆れからくる溜め息を吐いた。
「奥さん聞きました?この方、殺人が悪事だと認識してないみたいなのよ。ちょっとというかかなり危なくなぁい?」
「口調は気持ち悪いけど言ってることには同意だ」
森高は幾分身体を退きながらそう応えた。何か、女装見られたら吐かれそうだな。
「おいおい。俺の気に入らない奴は大抵生きてる価値無いぞ」
「否定はしない」
森高が弁当箱を片付けながら言った。確かに、こいつの嫌うような奴に生きてる価値は無さそうだ。
「リア充とか馬鹿とか税率上げる政治家とかは皆殺し」
「頑張れテロリスト」
俺は軽くなったランチバックを掴み、自分の席へ戻った。後ろではまだ森高と西山はケラケラと喋っている。俺はポケットから文庫本を取り出し、栞を挟んだページをぱらりと捲った。
☆★
午後の授業を真面目とは言えないまでも普通に受け、無事、何の問題も起こさずに放課後を迎えた。だが俺はすぐに荷物を整えず、自席で数分、帰宅するのを渋った。
「スカート、かぁ……」
同級生の女子達を見て、思わずそんな独り言が漏れてしまう。女装に対しての抵抗は、思ったよりも無い。元から見た目がどうこうとか、他人の目を気にしない質だし。律渦のあの姿を見た後では、女装程度を嫌がるのは失礼だとも思った。だから、自分の処遇に関しては大して思うところは無い。俺が気にしているのは、律渦の“男性恐怖症”のことだ。表面上は普通(俺の格好は除く)に接していられるが、根本的な問題が解決していない。自分の女装はつまり、妥協の顕れだ。まだ道も定かではない進路上に横たわるその問題は、否応も無く憂鬱感を与えてくれた。
☆★
「ただい……ま」
「(キラーン☆)」
俺が玄関で靴を脱いだ瞬間、母は両手をいっぱいに広げて飛びついてきた。
「速っ!」
俺は抵抗する隙なく捕縛され、あっけなく母の部屋に連れ込また。そして二十分経って部屋を出たときには、先日同様のブラウスにロングスカートという清楚スタイル。ウィッグもしっかり被っていて、今日は先日とはちょっと異なり、その長い黒髪を首の後ろで束ねている。まるで小学校の先生みたいだ。
「綺麗だわ~っ。わぁ~っ!」
うわぁ……。むっちゃ興奮してる。子供みたいだな。ちょっとわざとらしいぐらいに……。いや、わざとらしく、大袈裟に振る舞っているのだろう。娘の心を折られた母が、平然としていられる筈が無い。きっと、やり場の無い怒りを抑え込んでいるのだ。……少しぐらいは相手してあげてもいいかな。ふと、昨日観たドラマを思い出した。御母様、なんて呼んであげたらどうかな。この格好に似合いそうだし。
「御母様。本日の御夕飯はどう致しましょう」
試しにやってみた。悪ノリも手伝って声も高めになっている。すると何たることか。御母様が恍惚とした表情を浮かべているではないか。これ、“わざとらしい”を越えてるよね?
「これは予想以上に……イイッ」
あらら、どうやら別の意味で成功しちゃったみたい。無難に『お母さん』にすりゃよかったよ……。
「いいわぁ……」
「お母さ~ん。そろそろ普通に対応してくれないかな~?」
頬をべちべちと叩いて、苛立たしげにそう懇願した。
「神楽。貴女に言わなきゃいけないことがあるの」
「いきなりどうした?」
食卓で優雅なティータイムと洒落こんでいると、母がシリアスな顔つきで正面に陣取った。もう情緒は安定したのかな。
「それがね。一週間ぐらい家に帰れなくなりそうなのよ……」
「そんな、こんなタイミングで?」
普段の調子から意外だと思うかもしれないが、母は検察官だ。今までも、長期の案件からちょこちょこ家に帰らないことはあった。長いときで一ヶ月ぐらい居なかったときもある。
「律渦もまだ安定してないのに……。もしかして、職場にはまだ話してないの?」
しかしそれは、律渦が正常なときの話だ。今、律渦は家に居ない。被害者としての諸々の手続きの為、警察へ出向いているのだ。母も同行しようとしたらしいが、検察官という立場上、付き添うのは遠慮した方がいいと俺が止めた。こちらが被害者側である場合、後ろ楯が無い(と思わせる)方が警察側の同情を誘い易いのだ。だから心苦しいが、律渦には一人で向かってもらった。一応、送迎だけは母がやるらしい。
「話してあるわ。だけど、今回のは断れなかった。ごめん」
律儀に頭を下げる母。俺はそんな母の態度に、溜め息を吐いた。
「全く……。何でなの?」
律渦の容態が安定しない今、短期間とはいえ母が家を空けるというのは好ましくない。それが解っていて、何故引き受けたのか。母は顔を上げた。その目には、仄かに燻る意思の焔が見て取れた。
「私が今回引き受けたのは、県内の“婦女暴行事件”よ」
「……そんなの最近あったっけ?」
「大して大事とは見られてないみたいよ。今は選挙が近いし」
言いつつも、母の目には怒りが漏れて見える。きっとその被害者と律渦を、重ねてしまっているのだろう。多分、容疑者には法の及ぶ限界まで刑を厳しく科されるだろうことが、容易に想像出来る。
「…………はぁ。まぁそういうことなら、わ───俺は頑張れとしか言うことが無いよ」
「そう。ありがとう」
そう言う俺に、母は感謝と謝罪の籠った微笑みを向けた。母は母親たる前に検察官であり、検察官である前に正義感の強い一人の人間だ。俺は正義感を優先する母だからこそ、こうして家出もせずに一緒にいる。……一瞬一人称を見失いかけたのは忘れよう。
「ということで、早急に女装テクを身につけてもらわなきゃいけないんだけど」
「解ってる。解ってるよ……」
母が不在の間、俺の女装は誰が行うのか?決まってる───俺だ。
「身長や顔立ちを考えて大人メイクにしてあるけど。何だったら今時のモテかわメイクとかも試してみる?」
メイク道具を揃えながら、母はそんなことを訊いてくる。
「息子が男にモテるのはどうなんだ?とか考えないのかね」
「…………そうね。息子だったわね。………………失念してたわ」
一発殴ってもいいかな?鏡越しに睨みつけると、母はいやいや、と手を振った。
「あまりにも違和感が無かったから、つい忘れちゃっただけよ、うん。男の子の服着てるときはちゃんと息子だって判ってるし」
必死で弁明するその姿に、俺は呆れてしまった。あぁ、内容についてはそもそも聞いてない。あまりにも違和───の時点で私の心はロックした。次にアンロックするのは心の卵が見つかってからだ。
「まぁ、それはもういいや。俺も割り切るし。何なら女装用に別人格でも作ろうか?」
と、俺が冗談半分にそう言うと、
「そうねぇ。別人格とはいかないまでも、別人を演じるのはいいかもね」
意外にも、そんな賛成意見が返ってきた。ほほう……。“演じる”というのなら、冗談みたいな二重人格よりも現実的だ。だが自分が出来るかどうか……。ちょっと試してみるか。
「じゃあお母さん、早速教えて?私が綺麗になる方法」
『私』は高めの声を意識しつつ、微笑みを添えて言った。
「───え、えぇ。わかったわ。…………もう丸っきり女の子ね」
母の小さな呟きは、しっかりと耳に届いていた。きっと、私の演技が上手かったのだろう。うん。…………もう女でもいっかな……。
「さて。じゃあレッスンスタートォォォ!!」
「お~っ」
母の掛け声に、私は気の無い合いの手を入れた。