自分に足りないのは……(下)
彼というか彼女に足りないのは、果たして何なのでしょう?
食材を手に帰宅すると、まずは邪魔な食材を玄関に放置して自室へ向かう。律渦と顔を合わせる前に着替えるためだ。
「ふぅ……」
制服をベッドの上に脱ぎ捨てると、身体が楽になると同時に、自我が薄れていくような酩酊感を覚えた。
同時に襲い来た脱力感に従い、皺だらけのベッドの上に身体を放り出す。背中に予想よりも大きな、何処か中途半端な衝撃を受けて、コホッと一つ咳き込む。
「ははは」
このベッドは、スプリングのついたホテルにある様なものではない。落下の衝撃を吸収してくれるのは、安くもなければ高くもない敷布団だけ。こうなるのは予想出来たことだった。
「はぁ……」
なんだかだるい……体育でしごかれたからかなぁ。こうして一度倒れこんでしまうと、自覚していなかった疲労感がぼろぼろと零れ落ちてくる。
俺が帰って来たのは、ドアの音で気付いているだろう。
料理をすると言っていたし、最近はあまりレポートに追われていなかったから、居間か台所にいるはずだからだ。たとえ違う場所にいたとしても、律渦はきっと“私”を待っているだろうから、こうしていつまでも下着姿のままでいるわけにはいかない。
……いつまでも食材を玄関なんかに置いてもおけないし。
「…………っしょ!」
俺は足でふっ、と勢いをつけて立ち上がると、身支度を整えるための道具を丁寧に机に並べ始めた。
「ただいま、姉さん」
「あっ、お帰り~っ。―――おっ、ちゃんと買ってきてくれたんだねぇ」
頼まれていた食材を手に居間へ顔を出すと、律渦がエプロン姿で出迎えてくれた。まだ調理には取り掛かっていないらしく、こちらに歩み寄ってきて「よく出来たね~」と頭を撫でてくる。
「ひゃっ、そんな子供みたいに…」
抗議しつつも、抵抗せずにその手を受け止め続ける。何故なら、私の視線は彼女の恰好に向いていたからだ。モスグリーンのシンプルなエプロン。機能性重視で、可愛らしい意匠が施されているわけではない。
しかし―――。
「………………」
何故かエプロンを身に着けた彼女は、いつもよりも魅力的に感じられた。
「さて。そろそろ始めちゃいたいんだけど、いいよね?」
私の頭から手をどけて、台所の方を一瞥する。そこには牛乳やたまねぎ、パン粉などの食材のほか、フライパンやフライ返しといった調理器具が揃えられていた。
「うん。もう準備万端みたいだし」
そう返事すると、律渦はふふっと楽しげに笑ってから、背後の食卓に置いてあった黄色い布をこちらに投げてきた。
「おっと」
反射的に受け取ってから、何の意味?と律渦を見ると、こちらを見てただ頷いた。確認してみろということだろうか。促されるままに広げてみる。するとそこに現れたのは、私の身頃の三分の二を覆う大きさの、シンプルなデザインで作られたエプロンだった。
装飾はあまりなく、あるのは大きめのポケットだけ。しかしそのシンプルさは、私のような飾り気のない容姿にはよく似合うだろう。
というかこのデザインは―――
「これ、姉さんとお揃い?」
「うん、一緒に買ったんだぁ。ネットでだけど」
ちょっと照れくさげにそういう彼女は、非常に愛らしかった。
「ふふっ」
自分のためにものを買ってくれたのが、そしてお揃いといういかにも姉妹というデザインを選んでくれたことが、私は思いの外嬉しくて―――つい笑顔が零れた。
「美味しいハンバーグ、作ろうねっ」
律渦は私の言葉に嬉しそうに頷くと、こう付け加えた。
「お母さんよりも美味しく、ね?」
こうして、私たちの夕食作りは始まった。
―――さぁ、私たちの戦争を始めよう。
料理経験の浅い人間にとって、ハンバーグを作ることは難しいように感じる。実際、失敗したことのある人は多いことだろう。
しかし、もう一度考え直してほしい。
ハンバーグを作る工程は、実は単純だということを。
①卵とパン粉を混ぜた挽き肉を捏ねて柔かくする。
②手のひらにパンパン叩きつけて空気を抜き、形を整える。
③薄く油の布いたフライパンで蒸し焼きにする。
④出来上がり。
ほら単純。②なんて子供の頃のお手伝いの定番じゃないか。
―――なんて考えていた時期が私にもありました。
「あぁ~……」
「………………」
フライパンから皿へと陸揚げされたそれは、かつて挽き肉と玉ねぎの塊だったもの。
しかし今目の前にあるのは、表面が黒く炭化しているものの中身には火が通らず、ピンク色の生焼け肉が見え隠れする、ぼそぼそに崩れた(元)楕円型。
「なんか、見事に失敗してるけど……」
「あはは~……意外と難しいねぇ」
私の呟きに、律渦は乾いた笑みを返した。誰だ簡単とか言ってたやつ……あ、私か。
「どうしましょう……」
私が絶望の表情で呟くと、律渦はその失敗作をじぃっと見つめて、うぅん……と唸った。
そして何か閃いたのだろう。ハッと顔を上げ、高らかに宣言した。
「作り直そう!」
「姉さん。もうお肉無いんだけど」
「ジーザス!」
私が冷静に突っ込むと、律渦が嘆きの叫び声を上げた。それにしてもよくいそれ知ってるな。
「……何なの今の」
「ん?あぁ、何か知らないんだけど―――高校生の時に同級生の子がね。よく悲しいことがあった時に叫んでたんだぁ」
よく解らないのに使ってたの?お願いだから他人の目の前ではやらないでね。
「とりあえず、この失敗作の処理ですが……」
私は崩れた断面を見ながら、どう手を加えれば食べられるかを考える。捨てるというのは勿体無くて、考えからは外していた。
「見たところ表面は焦げてても、中身は死んでないようね」
「そう?こんなボロボロなのに?」
あなた鳥目ですか。というか―――
「姉さん、私より料理の経験あるんじゃなかったの……?」
だから頼りにしていたというのに、何だか頼りなさすぎじゃあありませんか?そんな私の訝しげな視線を受けて、彼女は気まずそうに目を逸らした。
「いやぁ、それは回数だけであって……実際には野菜炒めぐらいしか作れないから……」
私と大して変わらないですね。まぁ私の場合は、そもそも料理をする機会が無いのだけど。
「ではここで、ちょっと失敗した原因を検分してみますね」
私は律渦から目を離し、皿に盛られた失敗作を見る。先程の会話でもある通り、型崩れしているからって、肉の状態には関係無い。ボロボロになってしまったのは、肉ではなくつなぎ―――卵とパン粉の問題だ。
私は傍らに置かれているレシピに目を通しつつ、説明する。
「これは分量を間違えたようね。レシピでの肉の量と、今回使った量には、それなりの差があったから」
レシピは一人前用の材料が書かれているが、今回は約三人前作るつもりだった。当然、肉もそれに相当する量だったのだが……どうやら比率を計算するのを忘れていたらしい。私も姉さんを主導と考えていたため、分量の段階から全て律渦に任せてしまっていた。
「ごめんなさい。私が気付けばよかったわ」
「いやいいって。というか私の方がごめんなさいだよ」
頭を前に傾ける私に、律渦は慌ててそう返した。
その様子に私も安心して、気をハンバーグ(失敗)に戻す。
「―――っと、話を戻しますね」
私はA4用紙に印刷されたレシピを手に取り、律渦に指で指し示す。
「ここに卵が一個ってかいてあるでしょう?これじゃあ足りないの。パン粉も同様」
「ってことは、つまり勘違いが招いた失敗―――ってこと?」
「そうなるわね」
他にも、油の量や蒸し焼き時の火の強さに問題がありそうだが、それは今は言わないことにした。何事も少しずつ、だ。
「さて、失敗の原因が解ったところで―――」
私はハンバーグ(?)をまな板の上に乗せると、表面の焦げ付きを切り離すように、薄く包丁の刃を入れた。僅かに誤差はあるものの、概ね焦げは取れる。あとはぼろぼろの残骸を選別し、使えそうなもの以外は三角コーナーへと捨てていく。
「何してるの?」
律渦が手元を覗き込んでくる。
「見ての通り、使えるとこと使えないところを選り分けてるのよ」
作業が終わると、再びフライパンを取り出す。焦げ付きはキッチンペーパーで拭き取って、火にかける。そして改めて油を敷くと、そこに先程の選別後の残骸を投入した。
「わぉっ」
瞬間、油が数滴飛び散り、晒された腕を鈍く炙る。しかしそれには反応せず、木べらで塊を崩しつつ炒めていく。そうしてあらかたバラバラになったところで、醤油と砂糖を投入。そのまま絡ませて、火が十分に通ったことを確認してから、味見。
「うん。大丈夫」
狙い通りの味になっていたことで、私は安堵の言葉を吐いた。
「………………」
律渦はその様を楽しそうに見つめている。残念だけど、もう完成なんだよねぇ。
「姉さん。どんぶりにご飯盛ってくれる?」
「ん、了~解!」
火を止めて、余熱で焦げないようにかき混ぜながら指示を出す。相変わらずどちらが姉なのか判らない構図だが……まぁ、今更だろう。
「はい、盛ってきたよ」
「うん。ありがとう」
どんぶりを二つ(言わなかったのにちゃんと二つ用意してくるところが、流石私の姉である)受け取り、そこにフライパンの中身を半分ずつ投入。それぞれの白いご飯が、甘辛い匂いのそぼろ肉に浸食された。
「さぁ、出来たわよ」
完成を宣言すると、律渦が子供のように歓声を上げた。
「おぉ~っ!……なんとも食欲をそそる」
鼻をひくつかせて匂いを吸い込む姉を微笑ましげに眺めながら、私は汚れたフライパンを水に晒した。
「ワイルドな味だった……」
お腹をさすり、満足気な表情でぬいぐるみを抱き締めている律渦を眺めながら、私は食後のハーブティーを飲んでいた。
「ふふっ。満足いただけて何よりだわ」
元々は失敗作だったあのハンバーグを、そぼろ風にしてどんぶりにしたのだから、女の子らしさから程遠くなるのは必然。というか女の子らしい料理なんて作れません。そもそも女の子らしい料理って何ですか?肉じゃがとか?
こんなことも解らないなんて、つまり私には、女子力が足りない……?
肉じゃが、練習しようかしら……。
ブブブッ、ブブブッ。
「ん?」
そうして二人で微睡んでいると、不意にバイブレーションの音が響いた。感触から、自分のポケットに入れていた携帯が震源だと気付く。
取り出してみると、メールの着信だった。メールフォルダを開き、未読メールを確認する。果たして誰から送られてきたかというと―――
「朱音さん……?」
呟くと、律渦が僅かにこちらを振り向いた。
内容を確認する。
「…………とうとう、この時が来たのね」
私は携帯を持った手を膝の上に置きつつ、ぬいぐるみを抱いてテレビを見始めた律渦を、そぅっと見つめた。
彼女は女子力と言いましたが、しかし私は男子力が足りないと思います。女子力を求めてる時点でおかしいですよね。だって彼女は男性なのですから。