まずは様子見
……待ちました?
会談の次の日。俺は平常通りに学校へ来ていた。
―――昨日のこと。
「私は反対よ」
朱音さんは、私の同意した案をバッサリと否定した。
「何故です?」
問うと、朱音さんは怒ったような鋭い目線を私に向けた。
「貴女には勉学というものがあるでしょう?たった一日とはいえ、ふいにしていいわけがないわ」
「律渦は私の実の姉ですよ?」
つい反射的に切り返すと、彼女は一瞬、息を詰まらせた。
「―――とにかく、まだそれを試す必要は無いわ」
はぁ……。私は心中で溜息を吐いた。何故かは解りかねるが、どうやら私の発言の中に、地雷を踏むようなことがあったらしい。
だが、こちらからすればそんなことは知ったことではない。よって、ちょっときつめの言葉を放つことにした。
「朱音さん。私は、ただ自分の思うことを言っただけです。焦るのはいいですが、頭はちゃんと働かせてください」
「っ……」
ちょっと刺激が強かったのか、押し黙る朱音さん。私は幾度目になる溜息を押し殺して、確認の言葉を述べた。
「とにかく、今はまだ何かをするということはないのですね?」
押し黙ったからには、肯定が返ってくるだろうと思った。しかし朱音さんは、その程度の女ではなかった。
「―――いえ。私たちも、なるべく出来ることはしておきたいわ」
年下の少女(偽)に痛い返しをされても、そこで指摘の内容を聞いて頭を働かせるところは、流石だと思う。
「具体的には?」
「私たちが毎朝迎えに行くわ」
紙に書いてあった中にもあったな。
「まぁ、それが“まず”だよね」
麻里さんも賛同するようだ。
「私も、特に問題があるとは思いません」
「そう。じゃあ、決定ね」
朱音さんはそう言うと、財布片手に伝票を拾い上げた。
……おっと。昨日のことを回想していたら、いつの間にかそろそろ一限が始まる時間だ。
俺は鞄から教科書類を取り出し、机に置く。そのまま静かにたたずんでいようと思ったが、無理だった。我慢が出来ず、ふすっ、と空気だけの笑みが漏れた。
―――不登校児に毎朝お迎えとか、ドラマだけじゃなかったんだな。
―――昼休み。
お腹の調子が悪かったので、今日はゼリー飲料での昼食となった。
「随分と質素な昼食だな」
俺がウィダーをぎゅうぎゅう握りながら机に落書きしていると、不意に肩口から声がかかった。振り向くと、森高がそのひょろ長い身体を屈めて、こちらの手元を覗き込んでいた。
「珍しいな。お前がこっちまで来るなんて」
俺の席と森高の席は、間に三列挟んでいて、前後にも二つずれている。わざわざこちらに近づいてくるには、少し面倒な距離感だ。
たまに一緒に昼食を囲むことはあるが、基本はただの暇潰し相手である俺達だ。だから、こうして話しかけたり話しかけられたりというのは、意外と少なかったりする。
「何か用か?」
「いや、ただの気紛れ」
訊ねたが、そう返されてしまっては、話は続かない。そもそも両者とも続ける気が無いのだが。
「何描いてんだ」
机の上の落書きに気付いたのか、森高が訊ねてくる。俺は飲み干したウィダーを片し(片付け)てから、その問いに答えるべく改めて自分の手元を見下ろした。さっきまで自分が落書きをしていることは理解していたが、何を描いているかは意識していなかったのだ。
「見たところ女の子みたいだけど。というか地味に上手いな」
そう。森高の言う通り、俺の机の上に描かれていたのは、肩にかかる程度に伸びた髪が柔かく揺れている、女性の横顔だった。目の細さも眉毛の太さも、漫画風のものではなく現実に近いものだ。線が多く、所々に綻びがあるが、上手いことまとまっている。
……本当にこれ、俺が描いたのか?
自分に疑いを持ちながら、森高の問いに答える。
「これは…………姉だな」
呟くと、はぁ?という声が返された。
「姉?誰の」
一瞬、二次元の?と思ったのがありありと想像出来た。しかし画風からして違うことから、考え直したらしいことも。
「俺の。名前は律渦」
「……へぇ~」
姉がいるとは話していた筈だが、驚いてらっしゃる。何故?
そう思った俺の疑問はすぐに解消された。
「なんか、お前って家族のことどうでもいいって感じだったからな。そんな風に絵に描く程考えてるのが、意外だった」
「あぁ……」
確かに、言われてみればそうかもな。無意識下で描いていたとはいえ、律渦のことを考えてないと出来ない行為だ。
「……そうだな。ちょっと面倒なことが起きててな」
「ふぅ~ん」
気にはなっていそうだが、詮索しようとはしてこない。弁えているのだ。
森高は踵を返すと、自分の席の方へ歩き出した。が、すぐに止まって、こちらを振り向いた。そして一言。
「それ、消しとけよ」
俺の机を、正確にはその上の落書きを指さしながらの言葉に、俺は苦笑を浮かべて、
「解ってる」
そう素っ気無く返した。
事故に遭うことも、事件に巻き込まれることも、気になっていたアノ娘の御宅に御招待されることもなく(というか気になるアノ娘なんていないのだが……)、本当につまらないことこの上ないが……今日も無事、普っ通に帰宅を果たした。
玄関から直接自室に向かい、ルーティンワークと化した女装を済ませると、これまたいつものように居間へと向かった。
「ただいま」
帰宅の挨拶と共に居間に入る。今日は風が強かったから、ちょっと疲れたなぁ。幸い急ぎの課題があるわけでもないし、最近はあまり見てなかったから、ゆっくりニュース番組でも見ようかなぁ、と、ソファーの元へと足を踏み出したとき。
私はようやく、違和感に気付いた。
何だろう…………あっ。
そしてその正体に、すぐたどり着いた。
「姉、さん……?」
私は視線をソファーから食卓に移す。するとそこには、探していたその人―――律渦が、黙って座っていた。そう、黙ったままなのだ。毎日私に「ただいま~っ」と愛情たっぷりの挨拶を返してくれたあの姉が、私の登場にも視線さえくれずにただ座っているのだ。
「って……」
いや、ただ座っていただけじゃなかった。律渦は、手に持ったアルミ缶にちびちびと口をつけていた。よく見ると、脇にも同じ様な缶が五~六本並んでいる。
「……姉さん。それ、チューハイだよね……」
声をかけても反応が無さそうなので、軽く肩に手を置いてみる。すると期待通りに、律渦はこちらを振り向いてくれた。
「あぁ、神楽……帰ってたの」
「うん。ついさっきだけどね」
少なくとも、気づいてて無視していたわけではないことが判って、やや安心。さて。ところで―――
「どうしたの?姉さん」
何故、彼女は一人チューハイを飲んでいるのだろう。……ヤケ酒?私は隣の椅子に座り、律渦の手のひらを包み込むように掴んだ。こうすると酒飲みは安心すると、最終兵器紳士平戸が言っていたのを思い出したのだ。
どうやら効果はあったらしく、律渦はぽつぽつと話し始めた。
「今日、朱音と麻里が来たの」
「…………へぇ~」
実行早いな、朱音さん。
「一緒に大学行こう、って言ってきて……」
「それで?」
「『不登校児にお迎えって、ドラマだけじゃなかったんだね』って言ったら、朱音が何にも言わないでそのまま帰っちゃって……」
………………………………。
姉弟って、似るんだね。
「なんか苛ッときたから、冷蔵庫にあったジュースを自棄みたいに飲んだら……」
「飲んだら?」
「酒だった。ってわけ」
意外と美味しいよ~、と言って缶を揺らす律渦。これは……酔ってるのか?それにしては静かだが……。
「ねぇ姉さん。酔ってる?」
「んぅ?あぁ、そうかもね。何だか気分が妙に落ち窪んでてねぇ」
そうか。酔ってるのか。……それにしても、珍しい酔い方だなぁ。
「んっ……んっ…………はぁっ」
「って、まだ飲むの?姉さんっ」
そんなに軽くお酒なんて飲んじゃだめだよっ。一応まだ未成年だよっ?
「ほら姉さん。そろそろ止めましょう。ねっ?」
「いやぁ、まだ酔い足りないなぁ」
それだけキャラ変わっててまだ酔い足りないと?
「もうっ、いい加減にしなさい!」
私は律渦の持っていた缶を引っ手繰ると、そのまま一気に自分の喉に流し込んで空にした。
「あぁ……」
アルコールと果実の匂いが混ざった息の、嘆きの溜息を聞き流して、私は律渦を居間から引き摺りだした。
俺達の戦いはこれからだ!
とはならないのでご安心を。