優先順位
遅くなりました。書こうと思ったら意外といけました。
男の娘が実は女の子だった―――。
私はその事実に驚愕しつつも、失望を隠しきれなかった。その失望は、別に男の娘への期待などというふざけたものではない。自分と同じような人間がいることへの安心が裏切られたことへのものだった。
私は努めて冷静に振る舞いながらも、問いかけることを止められなかった。
「女性の方、だったのですか……?」
「……はい」
彼女は首を垂れると、そう頷いた。他の客には聞こえないように抑えられた声で。かくいう私の声も、周囲には聞き取れない程度には小さなものだったが。
四人の間に微妙な空気が流れる。
他の客や店員も、ややこちらに視線を向け始めていた。これは……少し困ったことになってきましたねぇ。でもどうしたら……。
「まぁ、そんな些細なことはもう置いておきましょう」
と、頭を悩ませていた私(麻里さんはただオロオロしていただけ)を呆気にとらせるようなことをのたまったのは、先程から全くスタンスを変えていない年長者―――朱音さんだった。
既に空になったカップを弄びながら、あわや犯罪にまでなり得そうなことを「些細なこと」と言う彼女を、私は一瞬、怒りの籠った目で見てしまった。慌てて取り繕ったため、気づかれてはいないだろうが。でも仕方ないと思う。確かにこのウェイトレスのことは、今日集まった理由とは無関係なので、正直どうでもいい。しかし私個人としては、裏切られたともいえる感情をどうしたらいいか判らず、彼女のことをただ放っておくだけでは済まないだろうと思ってしまっている。
そんな私(と麻里さん)に向けて、朱音さんは言い含めるように呟く。
「今私たちに重要なことは、よく知りもしない彼女の処遇じゃなくて、律渦のことでしょう?」
確かにそうだ。だけど、この感情はどうしたらいいのだろうか。判らない。判らない。判らない―――。
―――反転―――
裏切られた、か。確かにそうとも言えるかもしれないが、結局は“私”が勝手に同族心を持っただけだろう。“俺”はそんな勝手なこと認めるわけにはいかない。だからここで俺が言うべき台詞は―――
「―――そうですね。彼女の性別が何であろうと、ここに来た本来の趣旨は変わらないですから」
俺は朱音に、“私”の口調を真似して言葉を返した。
「あぁーっ、まぁ、二人がそういうことなら私も何も言わないよ」
麻里も同意したようだが、正直こいつの場合は流されてという感じだ。状況に付いて来れていない。
「というわけで、貴女はもう下がっていいわよ。お詫びも何もいらないわ」
「あの、えーっと……」
「聞こえなかった?私はもう下がってと言っているの」
本題に入りたくて苛々しているのか、朱音の目つきが鋭く射抜くようなものになっていた。あらぁ、意外な一面。
「あっ、す、すみませんでしたぁ!」
ウェイトレスはぺこぺこと頭を下げると、そそくさとその場を立ち去った。周囲から向けられた興味本位の目線は、ウェイトレスが裏に消えると同時に無くなった。“私”は疲れた溜息をカップの内側に隠して、麻里さんに僅か目を向けた。何か言いたそうな雰囲気を感じたからだ。案の定、彼女は唇をぺろりと薄く舐めて潤すと、その口を開いた。
「ごめんね、神楽ちゃん。何か、バタバタしちゃって……」
「あ、いえ……」
「私からも。こちらからお呼びしたのに、中々本題を切り出さなかったのは私たちの落ち度よ」
朱音さんは居住まいを正すと、スッと頭を下げた。綺麗な所作だ。言葉だけだった麻里さんも隣を見ると、やや遅れて、ちょっと恥ずかしそうに頭を下げた。ここでこちらが恐縮する必要ないので、私はその光景をただ眺めた。
「さて。そろそろ勿体ぶるのも止めにしましょうか」
いち早く頭を上げたのは朱音さん。彼女は前置きの言葉を、珈琲を啜る音に隠してから、本題に触れる言葉を繰り出した。
「単刀直入に言うわ。律渦はこのままだと、大学を辞めることになる」
「……………………」
出だしの言葉としては、比較的衝撃が大きかった。思わず目が細まり、目つきを鋭くさせていた。
「……意外と落ち着いてるわね」
気付いてないのか、そんなことを言ってくる。私は長いまばたきの後、
「そうでもありませんよ」
口元を隠すように手を添えて、首をゆっくりと左右に振った。実際、私自身も律渦が退学する可能性を考えていた。むしろだからこそ、律渦の恐怖症克服に頭を悩ませていた部分が大きい。もちろん、姉を想う妹としての気持ちも充分にあったが。
「それで、このままだと……ということは、まだ退学が決まったわけではないのですね?」
「えぇ。私もよく話す教授に訊いただけだから、詳しくは判らないけど……。というか、まだ詳しくは決まってない感じね。問題が問題だから、対処は保留中、ってことだと思うわ」
「私は『出席数をレポートで補うのも無理が出てくるだろう』って聞いたよ」
朱音さんの推測と麻里さんの情報を鑑みるに、どうやら大学側も「このままではいけない」と思い始めたようだ。
「仕方無いですね。もう二か月が経とうとしていますから……。私としては、むしろ対応としては遅すぎるぐらいに思いますけど」
「言ったでしょう?未遂とはいえ、性犯罪の被害者よ。警察が既に関与してる事項に関して、大学側が慎重になるのはもちろんのこと。受けた心の傷は、律渦自身の将来性にも関わるのよ。対応を遅らせたのは人として当然だとは思わない?」
人として……ね。そういうことですか。それに法学部ともなれば、人心を重んじる傾向は、より顕著なのかもしれない。
律渦の大学選びは成功だったといえる。
「……はい。理解できました」
「そう。頭が良くて助かるわ」
あの、そこで麻里さんを見るのはちょっと可哀想なのではないかと……。一応同じ大学に通っているということは、それなりに勉強は出来るのだと思いますし……。
「じゃあ次に。どうしたら律渦の退学を阻止出来るのか。これは単純ね」
そう言って私を見る。答えを言えということらしい。断る理由もないので、私はサラリと正解を口にしようとしたのだが、その前に麻里さんが口を挟んだ。おぅふっ。
「はいはいはい!つまりつまりぃ、男性恐怖症を治す?」
「ごめん麻里。ノリノリのところ悪いのだけど、違うわ」
麻里さんが白黒になる幻覚を見た、気がした。あぁ……この人多分、理解力が無いんだ。勉強も全部暗記で乗り切って来た人なのだろう。ある意味凄いけど、世間ではどれ程勉強が出来ようと、人の話や物事を理解出来ない人間は“馬鹿”と評される。
これから苦労しそうな人だなぁ。
「さて。では改めて、答えをどうぞ」
麻里さんから憐みの視線を外すと、私はさり気ない調子で答えた。
「無理矢理にでもとにかく律渦に出席させること」
「正解」
「引っかけられた!」
麻里さんがやられたとばかりに両手を広げた。いえ、別に引っかけてはいません。これで引っかけられたと思った人は小学生からやり直してください。あなた達は普通に馬鹿です。
「麻里。ちょっと黙ってて」
朱音さんが馬鹿を見る目で冷たく切り捨てた。あぁ怖い。馬鹿じゃなくて良かった。
「はぁ……。ごめんなさい。話を戻すわ」
「いえいえ」
見ていて楽しいので結構ですよ。
「今日神楽ちゃんを呼んだのは、最終的にこの話がしたかったからなの」
「……姉さんをどう登校させるか、ですか」
朱音さんは頷く。麻里さんもようやくついて来たのか、隣で同じように首を縦に動かしていた。
私は胸中で、彼女たちに感謝した。この問題、実はもう二週間近く考え続けていることだからだ。
そんな私の内心を知る由もなく、朱音さんはポケットから折り畳まれた紙片を取り出すと、それをテーブルの上に広げた。それは書き込みの為された、A4のルーズリーフだった。そこには箇条書きで、十個近い項目が出来ている。
「幾つか案はあるけど、あまり頭の良いものとは言えなくてね」
「ふぅ~ん」
紙片の下辺を押さえ、ざっと内容に目を通していく。
・遊びに誘ってそのついでという体で寄る
・お母さんに買い物の体で連れ出してもらい、大学前で律渦だけを放り出す
・力ずくで引き摺っていく
等々。それぞれ似たものも含めて、合計八つの案が書き記されていた。
「ん?」
と、その中に気になる単語を見つけて、私はその項目を改めて目で追った。
そこにはこう書かれていた。
・神楽ちゃんに付き添ってもらう
「……私、ですか?」
呟くと、二人とも身を乗り出してきて、私の指さした個所に焦点を合わせた。朱音さんは「あぁ、それね」と呟くと、隣の麻里さんを見た。
「あはは、やっぱり気になるよねぇ」
「これは……麻里さんの案なのですか?」
うん、と頷く。あのぉ……私も一般的な高校生なので、講義の時間帯には大抵学校にいるんですけど。決して暇じゃないんですけど。こちらの表情を察してか。朱音さんが苦笑いを浮かべて首を傾げた。
「私もちょっと無理があるかと思たんだけど。……まぁ、消しゴムでわざわざ消すのも面倒だから、そのまま残しておいたのよ」
「そんな賞味期限切れかけの菓子パンみたいな扱いやめて」
「麻里さん。その例えは微妙にずれてます」
「ぎゃぁつ!」
麻里さんは度重なる無能ぶりに打ちひしがれた。テーブルに突っ伏した彼女を無視して、朱音さんはこちらを見る。
「話を戻すわね。―――神楽ちゃん。この中にある以外に、何かいい案はある?」
問われて、もう一度目を通しつつ考える。この中以外に、か……。正直、自分が浮かんだのは“説得”と“力ずく”の二つだけだったから、紙に書いてある以上のことは思いついていない。
「すいません。私の考えていた案は、この中に既にあります」
「そう。私も一週間かけてこの程度しか浮かばなかったもの。仕方無いわ」
私はそれ以上かけて考えてたんですけど。
「じゃあ、この中から試すとしたら、どうする?」
「ん~~~……」
私は悩みながらも、一つの案を指さした。
「これですかね」
「これって……本当?」
「えぇ」
私が選んだのは―――
「えっ、神楽ちゃん。学校とか大丈夫なの?」
「一日ぐらいなら、なんとか」
私が律渦に付き添う、というものだった。
次話もなるべく早く投稿出来るよう気をつけます。