名付けられた違和感
そろそろ話を進めましょう。
───昼休み。
弁当を平らげ、物理の課題プリントをやっつけてる時だった。
ブブブブブブ……ブブブブブブ……
と、現代の高校生には馴染みのあるバイブレーションが聴こえてきた。いや、聴こえるだけじゃない。その振動を、俺は皮膚で感じている。
ポケットを探ると、案の定、着信ランプを点灯させる携帯電話が出てきた。そういや電源消し忘れてたな。
「また律渦か?」
自分に電話がかかってくるとしたら、姉しか浮かばない。しかもこの時間だ。確定的と言って差し支え無いだろう。と、頭では決めつけつつも、やはり違ったらアレだということで確認する。
果たして、液晶に表示されていた名前は───
「ん?」
『三島朱音』
………………。
「いや待て待てぇ」
なんか今、表示される筈の無い名前が出てたような……。いや、違う。きっと見間違いだ。だって───三島朱音の連絡先など、登録してないのだから。だがしかし、未だ震える携帯の画面には、変わらず彼女の名前が記載されている。意味がわからない。
ブブブブブブ……ッ……。
「あっ」
振動が止んだ。どうやら切れちゃったらしい。携帯を手にしたまんま、のろのろと考えていたせいだ。いくら驚くことがあったとしても、マナー違反と謗られたら何も言えない。それに相手が相手だ。律渦を思い遣り、直接は関係の無い“私”にも親しげに接してくれた女性。彼女に礼を失することは、あまりしたくない。
俺は立ち上がると、足元の鞄達を避けながらトイレに向かった。錆付いた手洗い場を通り過ぎ、小便器に尿をふっかける後輩共を尻目に、一番奥の個室に入った。換気扇の回る音と、下品な水の流れる音を聞きながら、手の中の携帯を操作する。着信履歴を表示。一番上───最新の履歴を選択し、そのままコールを押した。
プルル───ブッ。
『もしもし』
ワンコールも待たずに相手は出た。少しだけ懐かしく聴こえるその声は、紛れも無い朱音さんのもの。“神楽”の顔つきと喉の形が、自然と変化した。
「もしもし。お久し振りですね、朱音さん」
『うん。ごめんね?いきなり電話して』
「そうですね。流石に学校に居る時にかかってくると、ちょっと迷惑でした」
『…………あの、怒ってる?』
「そんな、心外です」
『…………そう。じゃあ早速だけど、本題に入るわね』
「えぇ、どうぞ」
『今日電話したのは、他でもない。律渦についてよ』
「………………」
『この前も話したけれど、私は律渦に復学してほしい。友達としてだけじゃなく、同じ目に遭った被害者としても』
私は返す言葉が、一瞬浮かばなかった。
「律渦だけじゃなく、麻里さんもいますよ」
ようやく捻り出した言葉は、茶化すようなものになってしまった。
『いいえ。律渦だけよ』
「えっ?」
しかし返された言葉は、無礼を指摘するものではなく───唐突に突きつけられた、新たな事実だった。
『知らなかったのも無理ないわね。実はね。麻里はもう復学してるのよ』
「い、いつからですか?」
『先週からよ』
あのカラオケから一週間程で……。きっと彼氏さんの尽力もあったのだろうが、何より朱音さんの言葉が届いたのだろう。
だが律渦には───。
朱音さんも悔しいだろうな。私はそう思った。だがしかし、私は解っていなかった。彼女を侮っていたことを。
『あれからもう二ヶ月よ。だけど未だにあの娘は引き籠ってる』
「そうですね」
私の相槌を受けて、朱音さんは一度言葉を溜めた。そして───
『いくらあんなことがあったからって、ちょっとおかしいと思わない?』
解き放った。
「?おかしい、とは……」
私は最初、理解出来なかった。だってそうだ。律渦は襲われかけたのだ。ましてや男性経験の無い彼女にとって、そのショックはかなり大きい筈だ。
『私の見解を話させてもらうわね』
「はい」
彼女は軽く息を吐き、そして大きく吸い込むと───語り出した。
俺は教室に戻りながら、先程の彼女の言葉を反芻した。
───まず律渦は間違い無く、貴女に依存している。
───現状に甘えてるのよ。妹に気遣われる、この現状に。
───あの娘を叩き直せるのは……誰だか判ってるわよね?
「ふぅ……」
朱音さんの言葉は辛辣なものばかりだった。元々が辛口な性格なのだろう。理論的にズバズバ斬り込んでいく様は、さながらやり手の弁護士だ。というか言葉の端々に律渦への非難を滲ませていたのが怖かった。いや確かに、朱音さんが自説を信じるのだったら、苛立ってもしょうがないだろうとは思うが……。
いや、今はそんな些細なことを考えても仕方無い。
重要なのは朱音さんの言った言葉───彼女の“律渦に関する分析結果”についてだ。一応念のため、会話の内容は、通話音声メモの機能で録音してある。今はおおっぴらに携帯を使えないから、今夜自分の部屋ででもじっくり聴こう。席について午後の授業の用意をしてから、また思考を再開する。まだ時間はあったし、次は現国なので大して重要でもない。頬杖をついて机の角を眺めながら、朱音さんの分析を大まかにだが思い出していく。心理学や統計から身近な例えまで、様々な言葉があった。成る程。昼休みの内の半分以上を消化しただけある。それらの台詞にされただけの価値が。その中で一際耳に残ったフレーズがある。
「依存、か……」
完全に思慮外の言葉だった。律渦が自分に依存してるだなんて、冗談だとしか思えない。
……いや、嘘だ。そんなのはただの詭弁だ。
俺は確かに、言葉にならないまでも違和感を感じていた。一ヶ月も前から。だがそれは日常に摩り切れてしまって、いつの間にか気にすることも無くなってしまっていた。仕方の無いことではあるかもしれないが。
まぁ、今更そんなことを嘆いても始まらない。問題はどうするかだ。説得して支えながらでも復学させるか、はたまた律渦を“神楽”から強引に引き剥がして、賭けに出るか。
「ん…………ふっ」
俺はそこでふと我に帰り、意図的に思考を止めた。何だか馬鹿らしくなってきたのだ。……ハッ、めんどくせぇ。何でこんなことで俺が悩まにゃならんのだ。そもそも俺は律渦の御守りじゃねぇぞ。頼るなら母親を頼れよ。俺は知らん。律渦はただ血が繋がってるだけの他人だ。面倒事をわざわざこっちにまで引っ張って来ないでほしい。
「はぁー……」
さて、そろそろ授業だ。俺は頭を切り替えると、黒板に目を向け、居住まいを正した。
「だからといって、無視出来るような私じゃありませんし……」
私は携帯の液晶を眺めつつ、ぼやくように呟いた。心なしか疲れてるように見えるのは、気苦労のせいだろう。学校から帰って着替えた私は、律渦に顔を見せる前に、朱音さんとの通話を録音した音声記録を聴いていた。
「このままではどちらにしろ、お父さんは帰って来られませんしね」
単身赴任を理由に律渦から逃げた父は、一ヶ月経った今も姿を見せていない。律渦がどうにかならない限りは帰らないつもりだろう。いや、仕事というからには個人の都合で行ったり来たり出来るものではないだろうから、たとえ律渦が改善しても、すぐに戻ってくるのは無理か。
……ん?だったらどうして都合良く単身赴任なんて取りつけられたのだ?
この疑問は一ヶ月前からあったものだった。
私はいつだったか、母に訊いてみた。そしたら、案外あっさりとした答えが返ってきた。それによると、どうやら父は、律渦が男性恐怖症を発症するよりも以前から、長期出張の話をもらっていたらしい。それを家族がいるから、という理由で拒んできたらしいが、律渦のことがあり、家に居られなくなったことから、その話を(部分的に)受け入れ、短期出張───単身赴任に赴いたとのことだった。
その話を聞いて、あぁ、お父さんもそれなりに重宝されてるのね……。と、ちょっと嬉しくなった。
「久し振りに会いたいなぁ……」
身体は大丈夫かな。父は特別頑丈というわけではないから、それなりに心配がある。まぁ、逆にこちらのことを心配してるだろうけど。……心配してるよね?
「神楽ぁーっ!ちょっと来てぇーっ!」
そんな思慮を打ち切ったのは、扉の外から聞こえた律渦の大声だった。
「はいは~い。今行きますよ~っ」
私はそう返事しつつ、携帯をベッドに放って部屋を出た。
「あっ、神楽やっと来た」
「何かあったの?」
駆けつけた私を見て、途端に顔を綻ばせる律渦。僅かだが瞳に涙が浮かんでたような……。怪訝な表情を浮かべるも、律渦は気にした様子が無い。彼女はとてとてと近づいてくるや、立ったままの私の胸にぽすっ、ともたれかかった。まるで飼い主に懐いた猫のようだ。先程の朱音さんの話が過り、複雑な苦笑いが浮かぶ。
「…………っ……」
私はそれを見られまいと、誤魔化すように顔を上げた。駄目だ、こんな顔は見せちゃ……。
軽く目を閉じ、その場で黙想。何も無い、神殿のようなただ真っ白な空間を想像する。それは心を凪のように静かにさせ、精神を統一する儀式。目を開けた時には、もう余計な思慮や心配は脇に追いやられていた。
「ねぇ姉さん。一体何の……」
言いつつ軽く視線を巡らす。しかし別に困った用など見当たらない。至って普通の我が家だ。律渦は私の背に手を回しつつ応える。
「ううん、もう大丈夫。……神楽を見たら平気になった」
「…………。えーっと、何が?」
意味が解らないので問い返す。というか、お願いだから訊いてることに答えて。私が見てない間に一体何があったの?しかもいつの間にか律渦が抱きついてるし。
「ねぇ姉さん。何で呼んだの?」
然り気無く律渦を剥がしつつ、私は何度目かになる問いを繰り返した。今度はちゃんと聞こえてくれたようで、彼女はハッと顔を上げた。
「えっ……駄目だった?」
潤いを湛えた瞳が不安げに揺れている。あっ、ちょっと訊き方が不味かったかな。
私は子供の間違いを優しく正すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「いいえ、別に責めてる訳ではないの。ただ純粋に、自分が呼ばれた理由が気になっただけ。姉さんだって、誰かに呼ばれたとしたら、何があったのか気になるでしょう?」
こくり。律渦が頷く。
「そういうこと。───で、何があったの?」
背中を軽く押して椅子に座らせると、自分も対面に座ってそう問いかけた。微笑む私を、ちょっと恥ずかしそうに見て、律渦は話し始めた。
「神楽が帰ってくるのよりちょっと前にね、ようやくレポート終わったんだ。だからそこのソファーでちょっと寝転がってたの。で、そしたらいつの間にか寝ちゃってて……」
ようやく終わったのね……。
二週間近くかかってたけど、それでも頑張った方だろう。まぁ約一ヶ月分だものね。これであと一週間ぐらいは猶予が出来たみたいだけど……このまま休み続けたら最悪退学よ?そう釘を刺してやりたい気持ちにもなったが、本人はやり遂げた達成感とレポート地獄からの解放感に気持ち良く浸っているようなので、今は口を出さないでおく。律渦はやはり恥ずかしそうに言葉を続ける。
「寝てるときにね、夢を見たんだ。もう内容はあまり憶えてないけど……とにかく怖い夢だった」
「怖い夢?」
「うん。何でか判らないけど、起きてからも不安で怖かった」
……成る程。怖い夢を見たのが理由で呼んだなんて、内容が子供染みていたから言いたがらなかったのか。さてや抱きついてきたりしてたのは誤魔化すためか?そう思ったものの、問い質すことはしなかった。代わりに私は、ここ二週間を労った。
「きっと疲れてたのね……。よく頑張ったわ。あんなにあったのに」
「もう文字書きたくないぃ~」
「ふふっ、そんなこと言って……。あっ、ちょっと待ってて。お茶淹れてきてあげるわ」
そんな弱音も宜なるかな。私は静かに立ち上がり、最近仕入れたハーブを思い浮かべつつ、台所へ向かった。
どうでしょうかね?