はじめの一歩
銃の帰還、昨日書き始めました。
カラオケの帰りだった。女友達三人で大いに盛り上がった後、溜まり場だった高架下でちょっとした話に花を咲かせていた。そんなところに、四、五人の男たちが声をかけてきた。二十代前半ぐらいの、あまり頭の良さそうではない者達だ。ナンパだとすぐに判った彼女達は、鬱陶しかったので言葉少なめに追い払おうとした。だがしかし、男達はしつこくつきまとい、遂には逆に囲まれてしまった。三人は危険を感じて逃げようとするも、囲まれては動けず、男達はそのまま包囲網を縮めてきた。数人の手が伸びる。袖を引っ張られ、腕を捕まれ、強引に服を脱がされそうになる。力一杯に抵抗しても離れない男たちは、次々と胸やお尻を触ってくる。悲鳴を上げようにも抵抗に必死で余裕が無い。それでも腕を振り回し、身を捩り、何とか包囲網を脱出した三人は、皆裸足のまま全速力で逃げ出した。そこから程近いコンビニに駆け込むまで、後ろからの怒鳴り声は止まなかった。
☆★
「いやっ!」
ドンッ、という衝撃が胸から背中に抜けた。
「ぐっ……」
突然の衝撃に息が詰まる。が、威力は大した事はない。俺は数歩後ろにつんのめっただけだった。
「いきなり何だよ姉ちゃん」
そう言うも、彼女───姉の律渦は、耳を塞いで首を振るだけで何も答えない。明らかに様子がおかしい。だって瞳孔開いてるし、顔青白いし、よく見たら裸足だし。
「はぁ……。これは俺の手には負えないね」
俺はぶるぶる震える姉をその場に放置し、夕飯の支度中であろう母を呼びに向かった。
「母ちゃん。ちょっと来てくれ」母は火にかけた鍋にカレー粉を投入している最中だった。手が放せないらしく無視された。
「母ちゃん!」
「うっさいねぇ!わかったから金寄越しなっ!」
脈絡がない。脈拍はあるのに。
「鍋は私が見ておきますので御姉様の元へ早く向かって下さいませ」
慇懃無礼な台詞まわしと勢いで押し切り、母を強引に鍋から退かした。
「ったく。わかったわよ」
少々辟易した様子で玄関の姉の元へ向かった。俺は鍋に向き直り、中身をゆっくりかき混ぜる。童話に出てくる悪い魔女の如く。
「ぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱるぱる……」
日頃溜まった鬱憤を、両手を介して鍋に染み込ませるようなイメージを浮かべながらかき混ぜ続ける。するとあら不思議。両手が疲れて動かなくなりました~っ!おいおいおっかさん。いつまで俺を放置しとくつもりだい?
「母ちゃ~ん!」
…………。
反応なしっ。仕方ない。カレーは俺が完成させよう。といっても、火が弱火なのを確認したら蓋をして煮込むだけなのだが。しかも食べようと思ったら今すぐにでも食べられる。まぁ野菜がまだかたいと思うから、あんまりおすすめはしないが。まぁカレーはそれでいいとして。
問題は律渦だ。弟の俺に「それでリツカって読むの?変なの」と言わしめたような漢字を名前に使われた姉のことだ。その時殴られた痛みは今でも忘れない。今の俺はどう見えるだろうか。鍋の前で突っ立って思案にふける男。ふっ、主夫っぽい。
「ふぅっ」
とそこで、母が吐息をこぼしながらキッチンに戻ってきた。その気配に気づいて思考の海から浮上した俺は、先程まで考えていた『馬鹿の見分け方ベストテン』を口にしようとして───やめた。
「どうしたの?」
母の顔が、いつになく深刻である。俺は母の正面に回り、諭すように訊いた。
「実はね……」
そんな俺のいつになく優しい声にほだされたのか、母はつっかえつっかえ、話してくれた。
「ふぅぅん。強姦未遂、か……」
予想外に深刻というかヤバかった。つーかそれ警察沙汰じゃねーか。
「警察にはもう通報したらしいわ」
それはよかった。今更通報しても捕まる確率は低かっただろう。
「だけど……」
「ええ。心の傷が大きいみたいよ」
母は握り締めた拳を隠すように、そっと後ろ手に組んだ。多分、かなり怒ってる。もしも律渦が完全に犯されていたら、母は一目散に家を飛び出し、その男たちに怒りの鉄槌を振り回そうとしていただろう。その男たちの服装さえ知らないのに。無駄だということに気づかず一心不乱に。
母とこうして情報を共有する機会を与えてくれたのは、『未遂』のたった二文字なのだ。かくいう俺だって、多少の怒りは感じてる。でもそれは残念ながら、『家族を辱しめた男たち』に向けられたものではない。『女性を辱しめた性犯罪者』に対する、他人行儀な怒りなのだ。
「で、何で俺を突飛ばしたのかは、わかった?」
母は俺にちらっと目線をやってから、組んだ手を前に組み替えてから答えた。
「男性恐怖症ね。それも極度の。それにしても。あんたも相変わらずね」
薄情だと、そう目が語っていた。返す目線もなく、焦点を窒素、酸素、二酸化炭素などで構成された空間に投げ捨てる。
「ネットで県内にカウンセラーがいないか調べてみるけど。なんにしても、ショック状態にならないぐらいに回復するのは、だいぶ先かな……」
それは困った。じゃあ俺と親父は暫く律渦と顔を合わせられないということではないか。別居しろとでも言うのだろうか。
「俺と親父、どうすんねん」
「さっき父ちゃんに電話で話したら、丁度来週から単身赴任になったって」
ちょっと待て。俺は?親父が単身赴任じゃ俺置き去りじゃん。
「女装でもすれば?」
「別居したい!!」
常識的に思い浮かべるとしたら別居だろうが!何であんたの中では女装>別居なの!?
「アパート借りるお金もったいないでしょ?」
「金か。結局金か……」
いや、多分それだけじゃない。きっと先程の薄情な態度に対する仕返しか何かも含んでるんだろう。謝っときゃよかった。
「別に外でまで女装してろとは言ってないんだから。いいでしょ?」
いいでしょって……。まぁ家の中だけなら別にいいんだけどね。某大学の文化祭的なノリでいけば問題ないと思うよ。
「ま、試してみないと。……机上の空論じゃなきゃいいけど」
まじでかー。冗談じゃなかったのかー。つーか確証無いのに女装させようとしてたの?それだけで俺の男の尊厳を踏み潰そうとしてたの?まぁどうせ俺の尊厳なんてちっぽけなもんだけど。
「さっ、こっちこっち♪」
諦念と達観の入り雑じった俺の耳に届いた母の声は、何故だろう。明らかに弾んでいた。
自分の娘がHeart★Breakしているってのに暢気なもんですね。
女装。それは男が女の衣装に身を包み、ウィッグや化粧等で容姿を女に近づける行為である。
「女装にしては洒落になってないわね」
「そっすか」
『母が自分を女装させた』
そんな経歴、黒歴史にカウントしようかネタ歴史にカウントしようか迷ってしまうではないか。母は俺に、まず長袖の白ブラウスに黒のロングスカートを履かせた。次にウィッグ(黒髪ロング)を被せ、その髪を丁寧にセットした。そして無駄毛を処理させられ(手足の毛は定期的に剃るのが面倒だったので永久脱毛!なんて思いきりの良い決断なんだ。俺は了承した覚え無いぞ?)、薄く化粧を施された俺は───なんと、かなり可愛くなってしまったのだ。
「昔の私に似てるわね。やっぱり私の血が濃かったのね」
「そうかキャラが濃いのもそういう理由なのか」
母は笑顔でスルーした。いつもは叩かれるのだが、どうしたことだろう。
「これなら律渦も大丈夫でしょ」
「そっすかね」
母がいくら太鼓判を押そうと、実際どうなのかは判らない。俺は母に促されるままに律渦の部屋に入った。
「律渦。この娘、判る?」
母はそう言って、クッションに顎を埋めた姉に話しかける。
「………………誰?」
首を振る律渦。そりゃ、自分の弟が女装してるだなんて普通思わないだろう。
「やっぱ判らないか」
と、溜め息と共に呟いた。もしかしたら判るかも、という期待が、僅かながらあった。
「えっ、その声……」
だから、こうして反応してくれたのが、少し嬉しかったりするのだ。
「えぇ。この娘はあんたの弟の神楽よ」
「は?えっ……神楽?」
本当に?と訊ねてくる。俺は渋い顔で頷いた。すると、律渦は呆然とした後でぷっ、と吹き出した。さっきまでの恐怖に死んだ顔とは打って変わった姿だ。
───女装作戦、成功。
母の目論み通り、律渦は俺が近づいても微笑んだまま。触ってもくすぐったがるだけで、ショックを起こすことはなかった。俺はあんたの弟なんだ、と念を押して触っても、やはり同じ反応だった。
「やったわ。大成功ねっ」
嬉しそうに笑う母の姿は、俺の神経を逆撫でした。軽く脛を蹴ったら、脳天にチョップを返された。とにもかくにも、成功してしまったものは仕方が無い。俺はこの日を境に、自宅での女装を義務付けられることとなった。