二部・一先ず出会う(1)
時刻時は23・02。
街灯や建物の灯りのせいで夜の闇は中途半端で、星の輝きは無い。
唯一月だけが輝き、空という物が存在していると訴えている様だ。
そんな闇の中、とあるコンビニエンスストアから一人の男が出てきた。
コンビニからの逆行により輪郭しか見えないが、かなり背は低いようだ。
「全く、最近は物価が高くてなってしまっていかん。昔は色々ともっと安かったのにのう。
御役所はわし等の事を真剣考えてくれているんだろうか?」
ぼそりと言ったそいつは自分の家へと向かって足を向けた。右手には膨らんだビニール袋を携えている。
「いや、そんなはずも無いか。官僚の若僧にわし等の苦しみなど判るはずもないか・・。」
先ほどの言葉の続きを漏らす。
靴音のリズムから歩幅はかなり大きい様だ。足も長いのだろう。
と、突然その単調なリズムが途絶えた。
彼の前には真っ暗の道がある。其処から先は一本道であり、突き当たりは行き止まりである。そこが自分の家だ。しかも不思議な事にこの先の道には家への入り口が無い。全ての家が背を向ける様に家の後ろ側をこの道に向けている。
つまりこの道は、他の家の背と後ろ側の塀によって作られた、隠し通路の様な道なのである。無論、家までの8・90メートルの間、街灯など一つも無い。此処は正式な『道』として政府に認知されていないのである。
ちなみに、彼が向かっているのは家の門はもちろん裏口である。たいていの場所から帰って来る時にかなりの近道になるので使っているだけだ。彼の家は普通だ。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
大丈夫。この不安はただの思い込みだ。この闇の中に得体の知れない何かなどいるはずが無い。いつも何とはなしに此処で立ち止まってしまうが、毎回何もないではないか。今回も通り過ぎた後で、「いい加減に慣れろよな、自分」と思うんだろう。そうに決まっている。自分は臆病者だからな、こんな変な考えが浮かんでしまうんだろう。
・・・大丈夫、大丈夫、大丈夫。
自分に暗示の様な者を掛けて、地面にへばり付く足を無理やり持ち上げる。しかし、
「動くな」
冷淡な声が響き、男の時間が止まった。
意識、思考、理性、本能、脳の活動から生命活動まで、その瞬間だけ完全に停止していた。
「貴様、何者だ」
次の言葉で生命活動は復活した。
その0・5秒後、脳の活動が復活した。
その5秒後、やっと精神活動が復活し、思考が始まった。
暗闇に響いた二語を理解したのは、それから10秒程経った頃だった。
しかし理性が働き始めたがために、恐怖がじわりじわりと脳髄に染み込んで来た。
先ほど言葉を発せられ無かったのは、体の不具合による所が大きかったが、今は精神の不具合によって、言葉という物が意識できなくなっていた。
男は闇から目を離す事も、微動だにする事も出来なかった。
5秒、10秒、30秒、そして無音のまま1分が過ぎたころ、やっと微かな動きが起こった。音を一切立たなかったが。
声の主が光の影響圏に僅かに足を踏み込んだのだ。
(紅い)
そこに現れたのは、女性だった。
紅く濁った瞳の切れ長の目、黒く艶の無い長髪、半袖の服から出た滑らかな腕、ジーパンを穿いた足も長く美しいラインを描き、身長は自分より30センチ以上も高いだろう。その背にもう一人分の人影があったが、暗くて良く見ることは出来ない。
それを見た瞬間、男は安堵の余り腰が抜けそうになった。
(なんだ、人間ではないか。驚いて損をしたわい。いや、損をした訳ではないが、どっと疲れてしまったのう)
緊張で今にも失神しそうだった男の雰囲気がしかんし、柔和な雰囲気が男の周りに満ちる。
「お主等こそ何者だ? 人に名を尋ねる時はま先ず自分から名乗るべきではないのか?」
柔和な雰囲気のまま、世間話をする様に言う。
彼は、『何時如何なる時どんな状況だろうとも人間相手ならば大丈夫』、という何だか良く判らない、偏った考えの持ち主なのだ。一体何が大丈夫なのだろうか。
一方、鋭い雰囲気と視線を持った女性は、再度同じ言葉を発しようとしたが、止めた。というより、驚きで何も言えなくなってしまったという方が正しい。
その理由の一つは、闇の中からは輪郭すら見えず、こうして近づいた今何とか見えた人間が、子供だったという事だ。
150も無い身長、完全に閉じきっている訳ではないがかなり細い目、其処から覗く瞳は悟っているように澄んでいる。長袖の服から出ている手はプニプニと柔らかそうで、髪も短いが触り心地は良さそうだ。小学校高学年か、高く見積もっても中学一年生ぐらいに見える。
二つ目の理由は、今の今まで緊張と不安に彩られていた少年の雰囲気が突然しかんし、堂々と話し始めた事だ。何か自分は少年が落ち着く様な事をしたのだろうか。
(こんな奴があいつ等の仲間なはず無い。全く、自分は何をしてるんだ)
一通り驚いた後、顔に出さずにそんな事を考える。もちろん驚きも顔には一切出ていない。その間2分程。
そして再度少年の声が響いた。
「ん? 怪我でもしておるのか? 大丈夫か?」
何時まで経っても動かない事に疑問に思ったのか、緩い雰囲気のまま一歩を踏み出す。が、「動くな」の一言でその歩みは半歩で止まった。長髪の女の雰囲気が殺気とすら思えるほどの鋭さを帯びる。
(何を油断しているのだ自分は。こいつが安全な奴だと決まった訳でもないのに。)
自分をしった叱咤し、意識を再度研ぎ澄ます。しかし相手は、止まりはしたが緊張している様子は無い。ただ細い目の奥にある瞳は、彼女等をしっかりと観ていた。
「本当に平気か? 何かわしにできる事があったなら、やってやらないでもないぞ?」
再度足が前に出る。が、また「動くなと言っただろうが」の一言で歩みが止まる。今回は半歩も進まなかった。
長髪の女性が放つ物が、明確な殺気となった。
こんな状況にひょうひょう飄々と付いて来られる一般市民など普通はいない。殺気に足を竦ませる事も無く、完全な無拍子、無意識、無殺気で出されたあの足が、もし技だとしたら、かなりの危険性がある。これは改めて気を引き締めなければならないと思うのも無理は無い。
二人の男と女の間で、第三者から見えるほど明確に雰囲気が分かれている。まるで雰囲気がお互いに相手の雰囲気を飲み込もうとしているようだ。
「やはりわしの事など信用できんか。まぁ当たり前ではあるが、悲しいのう。」
がっくりと頭を落とし、腰を曲げ、手をだらりと下げながら大げさに言う。
しかしすぐにばっと体を起こし、やや胸を張り、
「仕方が無い。ならばせめてこれを置いて行こう。食い物やら包帯やらが入っておるから、気が向いたら使ってくれ」
言いながら携えていたビニール袋をその場に置き、すぐさま回れ右をしてさっさと来た方の道の闇に消えて行ってしまった。
(もう一度あのコンビニへ行ってから、遠回りをして正面玄関から入るとするか)
彼が闇に消えてから百瞬程も女性二人は動けなかった。彼が身を勢い良く体を起こした時、彼女等は戦闘態勢に入っており、次の瞬間には避ける事も飛び掛ることも出来るようにしていたのだが、予想を大きく外れた事が起こってしまった為、動くに動けなくなってしまったのだ。
「・・・・・・」
「何だったの、今の?」
「いや、私にも判らない」
影に隠れていた小女が、長髪の女性に尋ねた疑問は、だから全く持って当たり前のことだ。
二人は置き去りにされたビニール袋へ歩み寄り、躊躇の後に結局それを手に取った。
そして二人の女性も闇の中に消えていった。