魔界に行き着く
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第一章:いつもと変わらない朝
目覚まし時計が鳴るのは、これで三度目だった。
「はいはい、わかったって……」
俺は目を開けることもなく、手探りでスマホを見つけてアラームを止めた。
あと五分。
いや、本当に。たった五分だけ。
ようやく目を覚ましたときも、窓の外は相変わらずどんよりと曇っていた。
俺は時計を見た。
「……えっ、遅刻!?」
慌てて身支度を済ませる。顔を洗い、服を着て、何かを口に放り込み、スマホを持ったかどうか確認する。
いつもと変わらない朝。何の変哲もない一日。
もし誰かに「今日、お前の人生は大きく変わるぞ」と言われても、きっと笑い飛ばしていただろう。
まあ、正直に言えば、異世界に転生するという話には憧れていた。
魔法、冒険、古代遺跡、魔物との戦い……。
ゲームやライトノベルの中では、どれもすごく魅力的に見えた。
もちろん、自分が何か便利な能力を持っていることが大前提だけど。
それに、住む場所とお金も必要だし、初日から魔物に食べられないという保証も欲しい。
「俺にもそんな幸運が舞い込んでこないかな……」
そうつぶやきながら、俺は家を出た。
この言葉を、こんなにも早く後悔することになるとは思いもしなかった。
道の途中で店に立ち寄り、必要なものを買ってから帰路についた。
雨は少し前に止んだばかりだった。アスファルトは濡れて光り、空気はひんやりとして湿っていた。
交差点の信号が青に変わる。
俺は横断歩道へと足を踏み出した。
その瞬間、クラクションが鳴り響いた。
鋭く、耳をつんざくような音だった。
振り向くと、一台の車がものすごい勢いで迫ってきていた。
*……え?*
慌てて後ずさろうとしたが、足が縁石に引っかかった。
一瞬、体勢を崩す。
あまりにも一瞬の出来事で、恐怖を感じる暇さえなかった。
衝撃。
鈍い音。
そして――暗闇。
第二章:俺、本当に死んだのか?
どれくらいの時間が経ったのか、わからなかった。
一秒? 一分? それとも、何時間も?
体の感覚はなかった。周囲に何があるのかも見えない。自分の呼吸さえ、遠く離れたところで起きている、存在しない出来事のように感じられた。
*何が起きてるんだ?*
俺は体を動かそうとした。
しかし、何も起こらなかった。
*車に轢かれたんだよな……。ということは、病院にいるのか?*
いや、病院なら何か感じるはずだ。医者の声が聞こえたり、痛みを感じたり、少なくとも自分がどこにいるのかくらいはわかるはずだ。
だが、周囲には何もなかった。
ただ、暗闇だけが広がっていた。
そして、俺の思考だけが残っていた。
*まさか……本当に死んだのか?*
俺は今まで、死について深く考えたことなどなかった。
死なんて、ずっと遠い未来に起こるものだと思っていた。自分ではなく、いつか誰かに訪れるものだと。
けれど今、自分がもう存在しないのかもしれないと思うと、震えが止まらないほど怖かった。
もし、本当に死んでしまったのなら。
この先、どうなるんだ?
何もないのか?
永遠に?
*嫌だ……。*
その考えを最後まで終えることはできなかった。
暗闇の中で、不思議な感覚が生まれた。
誰かに見られているような気がしたのだ。
目で見られているわけではない。うまく言葉にはできなかった。ただ、この何もない空間に、自分以外の何かがいる。そんな感覚が、突然湧き上がってきた。
そして、何かが俺の意識に触れた。
その瞬間、世界は完全に消え去った。
最初に感じたのは、背中に触れる冷たい地面だった。
次に、肩の痛み。
そして三つ目は、どうしようもなくくしゃみをしたいという衝動だった。
「ハックション!」
俺は勢いよく目を開けた。
目の前には、そびえ立つ木々があった。
奇妙に曲がりくねった幹と、広々とした葉を持つ巨大な木々。その葉の隙間から、薄暗い光が差し込んでいた。
俺は数秒間、ただそれを見つめていた。
やがて、ゆっくりと上半身を起こす。
「……ここ、どこだ?」
当然、返事はなかった。
周囲を見回す。
森。どこまでも森だった。
道も、家も、人影もない。
服には土がついていたが、目立った怪我は見当たらなかった。リュックもちゃんと残っている。
俺は頭に触れ、慎重に肩を回し、両手の状態も確かめた。
どうやら、体は問題なく動くらしい。
「……ちょっと待てよ」
俺は自分の手のひらを見つめた。
「俺、車に轢かれたんじゃなかったのか?」
衝撃ははっきりと覚えている。バランスを崩したことも、迫ってくるヘッドライトを見たことも。
あんなことがあったのだから、目を覚ましたら病院のベッドにいるものだと思っていた。
まさか、森の中で目覚めることになるなんて。
もしかして、誰かが助けてくれたのだろうか?
だが、怪我人をわざわざ森のど真ん中に置いていくなんて、普通あり得るのか?
俺はスマホを取り出した。
画面は点灯しなかった。
「……最高だな。まったく」
もう一度ボタンを押してみたが、結果は変わらない。
スマホは、ただの役立たずなプラスチックの塊と化していた。
俺はそれをしまい、深いため息をついた。
まあ、いい。今ここでパニックになっても仕方がない。
まずは人を探そう。それから自分がどこにいるのかを確かめる。あとのことは、それから考えればいい。
少なくとも、今の俺にはそれが一番まともな計画に思えた。
俺は立ち上がり、木々の間からより多くの光が差し込んでいる方向へと歩き始めた。
第三章:ここは普通の森じゃない
最初の十分間、俺は自分が街の郊外にいるのだと思い込もうとしていた。
次の十分間で、その考えに疑問を抱き始めた。
そして、さらに数分後。俺は自分の考えを完全に打ち砕くものを目撃した。
頭上の枝を、六本の足とふさふさした尻尾を持つ小さな生き物が駆け抜けていった。
俺は足を止めた。
向こうも立ち止まった。
俺たちは互いに見つめ合った。
「えーっと……」
生き物は短く鳴いた。まるで小さな鳥のような声だった。そして、そのまま葉の茂みの中へと姿を消した。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「……リスに足が六本もあるわけないよな」
俺は動物に詳しいわけではないが、それくらいのことはわかる。
再び歩き始めると、さらに興味深いものを見つけた。
草むらには、ほのかに青白い光を放つ花が咲いていた。別の茂みには、青から紫へとゆっくり色を変える実がなっていた。
俺はそれらに触れないことにした。
ファンタジーの冒険には憧れていたが、正体不明の植物の効能を自分の体で確かめるつもりはなかった。
しばらく進むと、前方から水の流れる音が聞こえてきた。
小川だ。
俺は岸辺にしゃがみ込み、指先を水に浸してから、水面に映る自分の姿を覗き込んだ。
自分の顔。
自分の髪。
自分の目。
少なくとも、水面に映る俺は相変わらず普通の人間に見えた。
「よかった。少なくともスライムにはなってないらしい」
自分でも、こんな冗談が口から出るとは思わなかった。
きっと、頭がおかしくなりそうな状況に対して、脳が何とか対処しようとしているのだろう。
立ち上がったとき、木の根元にいくつかの石板が埋もれているのが目に入った。
近づいてみると、そこには崩れかけた壁の残骸があった。石は苔に覆われ、その隙間から細い根が伸びている。
かつて、ここには何らかの建造物があったらしい。
俺は一番近くにあった石板に手を伸ばし、表面の泥を払った。
すると、石の上に刻まれた奇妙な紋様が現れた。
円の中を、三本の線が横切っている。
石積みが何年も前から放置されていたのは明らかだったが、その紋様だけは驚くほど鮮明だった。
俺はもっとよく見ようと、身をかがめた。
その瞬間、紋様が光を放った。
俺は思わず飛び退いた。
青い光が線に沿って走る。まるで石の内部を液体が流れているかのようだった。
「な、何だよ、これ……」
光はほとんど一瞬で消えた。
俺は数秒間、その場から動けなかった。
やがて、自分の手を確認する。
何もない。
石板を見直す。
こちらにも、何の変化もなかった。
「……もういい。絶対に家に帰りたい」
今では、冒険なんかよりも家に帰ることのほうが、ずっと魅力的に思えた。
しかし、どこに帰ればいいのかさえわからない。
まずは、自分がどこにいるのかを確かめなければ。
俺は再び小川に沿って歩き始めた。
そして間もなく、一本の道を見つけた。
第4章 アーデン王国
狭く、凸凹で、あきらかに古びた道だったが、紛れもない「道」だった。
あまりの安堵感に、思わず走り出しそうになる。
道があるということは、人がいるということだ。人がいれば、ここで一体何が起きているのか説明してくれる者がいるかもしれない。
しばらく歩いていると、背後から規則的な蹄の音と、木の車輪がギシギシと鳴る音が聞こえてきた。
カーブの向こうから現れたのは、二頭の奇妙な生き物に引かれた荷馬車だった。一見すると普通の馬に見えるが、目の上には小さな曲がった角が生えており、鱗のような馬具が陽の光に反射している。
俺は道の真ん中に立った。御手は手綱を引っ張り、不機嫌そうに声をかけてくる。
「おい、にいちゃん! なに真ん中に突っ立ってんだ? 死にたいのか?」
俺は何度か口をパクパクさせてから、ようやく声を絞り出した。
「すみません……ここ、どこですか?」
男は、まるで『草は何色か』とでも聞かれたかのような顔で俺を見た。
「アーデン王国の領内、北の街道沿いだ」
「アーデン……?」聞き覚えのない名前だ。「それって、なんて国ですか?」
「だから、アーデン王国だって言ってるだろ! 頭でもおかしくなったのか?」
「いえ、そうじゃなくて……」俺は言葉を詰まらせた。
自分はもしかしたら別の世界から来たのかもしれないなんて、見知らぬ他人にどう説明すればいいんだ?
御手は俺の奇妙な服装を眺めながら、深々とため息をついた。
「はあ……道に迷ったんなら乗りな。近くの村まで送ってやるから、そこでなんとかしな」
「ありがとうございます!」
安堵しながら荷馬車に乗り込んだ。
移動中、あからさまに周りをジロジロ見ないよう努めたが、好奇心を抑えるのは難しかった。
沿道に立つ未知のルーングリフが刻まれた古い石柱。陰で怪しく光る植物。そして遥か彼方の雪山の上空には、大きな羽を生やした巨大な影が優雅に舞っていた。……最後のやつは見なかったことにした。
「あの……もう一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「今って、何年ですか?」
御手は鞭を握り直し、眉をひそめた。
「エドリック三世の治世二十七年目だ。あんた、本当にどっかで頭でも打ったんじゃないか?」
「……かもしれません」
「なら、村に着いたら真っ先に医者に見てもらうんだな」
俺は前方に視線の位置を戻し、流れ去る景色を物思いに耽りながら眺めた。
見たこともない国王の治世二十七年。角の生えた馬。光る草。空を飛ぶ超自然的な怪物。
これらを単なる幻覚で片付けるには、あまりにも現実味が過ぎていた。
「あの……本当に魔法って存在するんですか?」
男は大声で笑い飛ばした。
「ハハハ! 当たり前だろ! にいちゃん、一体どこの奥深い山奥から出てきたんだ?」
俺は黙り込んだ。これで確定だ。
どうやら俺は本当に異世界に来てしまったらしい。しかも、戦闘能力もチート能力も一切持たずに。
◇
やがて荷馬車は小さな村へと入り、親切な御手に礼を言って別れた。
医者に行けという助言はありがたかったが、今の俺にとって最優先なのは今夜の宿だ。村の入り口で聞いた話によれば、この世界には危険な魔物がゴロゴロいるらしい。野宿をして夜の捕食者の餌になるなんて御免だった。
村の小道を歩いていると、井戸の近くで村人二人が声をひそめて話しているのが耳に入った。
彼らが怯えた様子で口にしていたのは、最近の襲撃事件と『悪魔』の存在――角を生やし、呪われた魔法を操る恐怖の象徴だった。彼らの青ざめた顔を見れば一目瞭然だ。この世界において悪魔への対処は単純明快。即座に処刑台へ送られるか、聖教会によって焼き払われるかの二つに一つ。出くわしてしまえば惨殺確定だ。
(よし……野宿だけは絶対に無理だな)
俺は心の中で確信した。
しばらく歩くと、通りすがりの者から珍品を買い取っていそうな露店を見つけた。
現地通貨は一銭も持っていなかったが、リュックの中にはこの世界の人間の興味を引きそうなものが入っている。リュック自体は便利なので手放したくないが、スマートフォンの鮮やかな画面は商人にとって相当な衝撃だったようだ。
ボタン一つで眩しく光る『滑らかな黒い石』を手に取り、商人は声を上げて驚いた。散々値切られたものの、最終的には小さな革袋に入った現地の銅貨を手に入れることができた。
これでなんとか、ボロい旅籠の狭い一室を借りることができた。
電気もなく、トイレは外、ベッドのマットレスは藁が詰まっているだけという完全な中世仕様だったが、屋根があるだけマシだ。
◇
翌朝、俺は猛烈な空腹感で目を覚ました。
昨晩から胃が悲鳴を上げていたが、当時は宿を探すことで頭がいっぱいだったのだ。
「はあ……温かいラーメンが食べたい……」
そんな独り言を呟きながら宿を出た。
食堂かパン屋でもないかと路地を曲がり歩いているうちに、どうやら迷い込んでしまったらしい。建物はどんどん荒れ果てていき、気づけば人っ子一人いない薄暗い裏路地にたどり着いていた。
……いや、一人だけいた。
路地の奥、放置された木箱の前でしゃがみ込んでいる人影があった。
破れた長いローブを纏い、フードを深々とかぶっているため顔すら見えない。何かを必死に探しているようだ。
その時、路地を強い風が吹き抜けた。
フードが頭からめくれあがり、真っ先に俺の目に飛び込んできたのは――黒髪に混じる鮮やかなオレンジのメッシュ、そして頭から生えた先端が赤い二本の黒い角だった。
少女はハッと振り向いた。
右目を赤い眼帯で隠した彼女の、唯一開いている左目が険しい殺意の炎で揺らめく。
「人間め……見ちゃいけないものを見やがったな」
彼女が歯を剥き出しにして呟くと、その手のひらに一瞬で鮮やかなオレンジ色の炎が立ち上った。
俺は固まり、今朝聞いた恐ろしい悪魔の噂を思い出し、彼女の燃える手を見つめ、誰もいない路地を振り返った。
……俺は一体、またどんな面倒事に巻き込まれてしまったんだ?
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