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第5話「抑制剤と本能の罠」

 職場復帰した私を待ち受けていたのは、好奇の視線とやっかみだった。

 鷹司家との結婚は大々的に報じられており、社内では「玉の輿に乗ったオメガ」としてのレッテルが貼られていた。

「いいわよねえ、久我山くんは。仕事で失敗しても、旦那様がなんとかしてくれるんでしょ?」

 給湯室で聞こえてくる陰口も、今の私にはさえずりにしか聞こえない。

 私は淡々と業務をこなし、以前よりも遥かに効率的に成果を上げていった。

 一度目の経験があるのだ。これから流行する広告手法も、クライアントの隠れたニーズも、すべて把握している。

 そんなある日、体の奥で小さな熱が灯るのを感じた。

 ヒート(発情期)の前兆だ。

 オメガバースの社会において、オメガのヒートは社会生活上の最大のリスクだ。

 私はすぐにカバンから強力な抑制剤を取り出した。

 これは医師に特別に処方させたもので、副作用は強いが、フェロモンを完全に遮断できる。

 レオとの間に「番」としての繋がりを作るつもりはない。ヒートに当てられて理性を失い、なし崩し的に絆されるのは絶対に避けるべきだ。

 薬を飲もうとしたその時、背後から声をかけられた。

「久我山、ちょっといいか」

 部長だ。

「はい、なんでしょう」

 慌てて薬を隠し、振り返る。

「急な接待が入ったんだが、お前も同席してくれ。先方がどうしても鷹司の奥方を見たいと言っててな」

 断りたかったが、部長の目は笑っていなかった。これもサラリーマンの悲哀だ。

 私は内心舌打ちしながら、承諾した。


 接待場所は銀座の高級クラブだった。

 相手は成金の中年アルファたちで、品のない視線で私をねめ回してくる。

「いやあ、さすが鷹司が選んだオメガだ。フェロモンが違うねえ」

 下卑た笑い声に、吐き気がこみ上げる。

 酒を勧められるが、ヒート前兆の体には毒だ。やんわりと断り続けていたが、一人が強引に肩を抱いてきた。

「まあまあ、一杯くらいいいだろ?」

 その時、体温の上昇が急激に加速した。

 ――まずい。薬を飲むタイミングを逃した。

 アルファのフェロモンに当てられ、誘発されてしまったのだ。

 甘い香りが私の体から立ち昇るのがわかる。

 男たちの目の色が変わった。

「おっ、いい匂いだ」

「おいおい、ここじゃまずいぞ」

 理性が飛びそうになるのを必死でこらえ、私は立ち上がった。

「し、失礼します。お手洗いに……」

 よろめきながら個室を出ようとするが、足に力が入らない。

 男の一人が私の腕を掴んだ。

「どこへ行くんだい? 介抱してやるよ」

 その手は熱く、湿っていた。

 恐怖よりも、嫌悪感が勝る。

 その時、個室のドアが乱暴に開かれた。

「――何をしている」

 氷点下の声。

 そこに立っていたのは、鷹司レオだった。

 彼は仕事終わりのスーツ姿で、鬼のような形相で男たちを睨みつけていた。

「レ、レオ様!?」

 男たちが慌てて離れる。

 レオは大股で歩み寄り、私を抱き上げた。

「触るなと言ったはずだ、俺のものに」

 レオから放たれた威圧的なフェロモンが、その場にいたアルファたちを強制的に跪かせた。

 圧倒的な格の差。王者の覇気。

 私はレオの胸の中で、熱に浮かされながらも、その力強さに安堵してしまった。

「……すまない、遅くなった。迎えに来た」

 レオは私を抱えたまま、店を出てリムジンへと乗り込んだ。

 車内という密室。

 私の甘いフェロモンが充満しているはずだ。

 普通のアルファなら、理性を失って襲いかかってくる状況だ。

 私は身構えた。

 だが、レオは苦しげに眉を寄せながらも、私のネクタイを緩め、水を飲ませてくれただけだった。

「薬は……持っているか?」

 かすれた声で聞いてくる。

 彼自身の額にも汗が滲んでいる。彼もまた、本能と戦っているのだ。

「……カバン、の中に」

 レオは震える手で薬を取り出し、私に手渡した。

 そして、自分は運転席との仕切り窓を開け、外の空気を取り入れようと背を向けた。

「早く飲め。……俺が、理性を保てているうちに」

 その背中は、必死に自分自身を律しているように見えた。

 なぜ?

 なぜそこまでして、私に手を出さない?

 番になれば、私は完全に彼のものになるのに。

 薬を飲み下し、熱が引いていく中で、私はぼんやりと考えた。

 彼は、私の体を求めているのではない。

 私の心を、あるいは私の「意思」を尊重しようとしている?

 そんなアルファがいるはずがない。

 けれど、目の前の男は、本能に抗って爪を立て、自分の掌から血を流してまで、私を守ろうとしていた。

 胸の奥で、復讐心とは違う何かが、きしりと音を立てた。

 それは戸惑いであり、そして認めたくないほどの「切なさ」だった。

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