第3話「甘い朝食と疑念」
翌朝、目が覚めると、隣には誰もいなかった。
シーツの冷たさに、私は一瞬安堵し、すぐに警戒心を呼び起こす。
逃げられたわけではない。気配はリビングの方からする。
体を起こすと、サイドテーブルに置かれたメモと、一杯の水が目に入った。
『おはよう。先に起きている。無理に起きなくていい』
流れるような達筆。見慣れた、レオの筆跡だ。
私は水を一息に飲み干し、洗面所へ向かった。
鏡に映る自分の顔を見る。隈もなく、肌の調子も悪くない。昨夜、警戒していたにもかかわらず、いつの間にか深く眠ってしまっていたらしい。
不覚だ。無防備な姿を晒してしまった。
身支度を整え、リビングへ向かう。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
ルームサービスが運ばれてきているのは予想通りだが、レオが自ら皿を並べ、コーヒーを淹れていたのだ。
鷹司グループの総帥が、だ。
「おはよう、旭。よく眠れたか?」
私に気づいたレオが、朝日よりも眩しい笑顔を向けてくる。
白シャツの袖をまくり、ラフな姿で立つ彼は、CMのワンシーンのように様になっていた。
「……おはようございます。あの、それは私がやります」
「いや、いいんだ。君の手を煩わせたくない。座ってくれ」
彼は私の腰に手を添え、椅子を引いて座らせた。
目の前には、彩り豊かなフルーツ、焼きたてのパン、そして私の好物であるスクランブルエッグが並んでいる。
一度目の人生では、彼が私の好物を知っている素振りなど一度もなかった。
なぜだ? 偶然か?
「君はこれが好きだろう? 以前、何かの雑誌で読んだ気がしてね」
私の視線に気づいたのか、レオが言い訳のように付け加えた。
その不自然な補足が、逆に怪しい。
私はフォークを手に取りながら、彼を観察する。
レオは自分の食事よりも、私が食べる様子をじっと見つめている。まるで、餌付けを楽しむ飼い主のようだ。
「……おいしいですか?」
「ええ、とても」
味など分からない。毒が入っているわけではないだろうが、彼の視線が気になって喉を通らないのだ。
「そうか、よかった」
彼は心底嬉しそうに目を細めた。
その表情があまりにも無邪気で、かつての冷酷な彼とのギャップに眩暈がしそうになる。
これが演技だとしたら、彼はオスカー俳優並みの才能がある。
私は核心に触れるために、話題を変えた。
「今日からの予定ですが、私は一度実家に戻り、荷物を整理してから……」
「荷物は全て業者に手配させてある。君が指一本動かす必要はない」
食い気味に返された。
「それに、実家には戻らなくていい。君の部屋は屋敷に用意してあるし、必要なものはすべて私が揃える」
「ですが、仕事もありますし」
私は中堅の広告代理店に勤めている。実家が没落寸前とはいえ、私自身のキャリアは守りたかった。一度目の人生では、結婚を機にレオに強要されて退職したが、今回は辞めるつもりはない。社会的な繋がりは、復讐のための武器になる。
「仕事か……」
レオの表情が少し曇った。
「辞めろとは言わない。君の才能を潰したくないからな」
意外な言葉だった。
「ただ、無理はしないでほしい。何かあったらすぐに俺に言うこと。送り迎えは必ず俺か、信頼できる運転手がする。いいな?」
過保護すぎる条件だが、働くことを許可されたのは大きな誤算であり、収穫だ。
「わかりました。ありがとうございます」
私は従順に頷いてみせる。
食事を終え、チェックアウトのために部屋を出ようとした時だった。
私の足が、カーペットのわずかな段差に引っかかった。
「あっ」
バランスを崩す。転ぶ、と思った瞬間。
ものすごい速さでレオが私の体を支えた。
いや、支えたというより、抱きすくめられた。
「旭ッ!」
悲鳴のような声。
彼の腕は、私の肋骨が軋むほど強く回されていた。心臓の鼓動が、私の背中にまで伝わってくるほど激しい。
「大丈夫か!? 怪我はないか!?」
彼は私を抱きしめたまま、蒼白な顔で確認してくる。
たかが躓いた程度で、この狼狽ぶり。
彼の瞳には、明らかに「死」に対する恐怖が浮かんでいた。
その時、私の脳裏に閃くものがあった。
昨夜の「今度こそ守る」という言葉。
好物を知っていたこと。
そして、この異常なまでの過保護さ。
仮説が、確信へと変わりつつあった。
――こいつ、知っているのか?
私が一度死んだことを。
もしかしたら、彼も私と同じように、時間を巻き戻ってきたのではないか?
だとすれば、この態度の変化は何だ?
罪滅ぼしか? それとも、死なれると困る理由が他にあるのか?
私は彼の胸の中で、冷徹に計算を巡らせる。
もし彼もタイムリーパーなら、私のアドバンテージは「私が記憶を持っていることを、彼が知らない」という点にある。
彼は私が何も知らない無垢なオメガだと思って、守ろうとしている。
ならば、それを利用してやる。
「……レオさん、苦しいです」
わざとか弱く声を上げると、彼はハッとして腕を緩めた。
「す、すまない。大事なくてよかった」
額に脂汗を浮かべ、安堵の息を吐くレオ。
その姿を見ながら、私は心の中でほくそ笑んだ。
いいだろう、鷹司レオ。
お前がそのつもりなら、私は徹底的に「守られるべき妻」を演じきってやる。
そしてお前が油断しきったその喉元に、致命的な一撃を食らわせてやるのだ。




