第2話「初夜の困惑」
結婚披露宴の喧騒は、まるで悪い夢のようだった。
記憶の中の披露宴では、レオは私を隣に立たせておくだけで、ほとんど会話を交わさなかった。彼はビジネスパートナーたちとの談笑に興じ、私は飾られた花のように、ただ微笑んでその場をやり過ごすしかなかったのだ。
けれど、今回は違った。
レオは片時も私のそばを離れようとしなかった。
祝辞を受ける際も、私の腰に回した手を離さない。シャンパングラスを持つ私の指先が少しでも冷えていると気づけば、すぐに会場の空調を調整させるようスタッフに命じた。
「レオ様、少し飲み過ぎではありませんか?」
私が演技として心配そうに声をかけると、彼はハッとしたようにグラスを置き、
「ああ、すまない。君が心配するなら控えよう」
と素直に頷いたのだ。
周囲の人間たちは「鷹司の若社長が、あんなに奥方に甘いとは」と噂し合っている。
私は笑顔を張り付けながら、内心で舌打ちを繰り返していた。
なんなんだ、この茶番は。
彼は一体何を企んでいる? 一度目とは違う方法で、私を籠絡し、支配下を強めようとしているのか。それとも、私の知らない政治的な思惑が働いているのか。
どちらにせよ、油断はできない。
彼が優しさを装えば装うほど、その裏にある冷酷さが透けて見えるようで、私の警戒心は強まるばかりだった。
そして、夜が来た。
私たちが案内されたのは、都内最高級ホテルのスイートルームだ。
最上階の窓からは、宝石を散りばめたような夜景が一望できる。だが、今の私にとってそれは檻の景色にしか見えない。
重厚なドアが閉まる音が、退路を断たれた合図のように響いた。
私はネクタイを緩め、ソファに深く腰を下ろした。
レオは上着を脱ぎ、バーカウンターで水を注いでいる。
ここからが、本番だ。
オメガとアルファの結婚。初夜における「結合」は、避けて通れない儀式だ。
一度目の夜、彼は私を強引に抱いた。
前戯などほとんどなく、ただ本能のままに私の体を貪り、最後には首筋に噛み付こうとした。私が泣いて拒むと、彼は興ざめしたように私を放り出し、そのまま部屋を出て行ったのだ。
あの屈辱と痛みは、今でも肌が覚えている。
けれど、今の私は違う。
拒めば、また暴力を振るわれるかもしれない。ならば、いっそこちらから誘い、彼を満足させて油断を誘うべきか。
復讐のためだ。体など、いくらでもくれてやる。
私は覚悟を決め、立ち上がろうとした。
その時、水の入ったグラスを持ったレオが近づいてきた。
私は反射的に身を強張らせる。来るか。
だが、レオは私の前に来ると、そのまま膝をついた。
ひざまずいたのだ、私に対して。
「……え?」
思わず素の声が漏れる。
あのプライドの高い、誰に対しても頭を下げない鷹司レオが、床に膝をついている。
彼は私の手を取り、その甲に額を押し付けた。
彼の指先が、小刻みに震えているのが伝わってくる。
「旭、疲れただろう」
顔を上げた彼の表情は、披露宴の時よりもさらに切実で、どこか痛々しかった。
「無理をさせてすまなかった。今日はもう、休もう」
「……休む、とは?」
「そのままの意味だ。シャワーを浴びて、ベッドで眠る。それだけだ」
私は耳を疑った。
初夜だぞ? アルファの本能が一番高まる夜だ。
「ですが、私たちは夫婦になったのですから……その、義務が」
「義務などない!」
レオが強い口調で遮った。
びくりと肩を震わせると、彼は慌てたように表情を崩し、私の手を両手で包み込んだ。
「すまない、大声を出して。……旭、俺は君を傷つけたくないんだ。君が望まない限り、俺は指一本触れないと誓う」
その瞳は真剣そのものだった。
嘘をついているようには見えない。だが、理解が追いつかない。
傷つけたくない?
私を殺した男が、何を言っている?
「……わかりました。お言葉に甘えます」
私は困惑を隠し、従順な妻を演じることにした。
シャワーを浴び、バスローブに着替えてベッドルームに戻ると、レオはソファでブランケットにくるまっていた。
「そこで寝るつもりですか?」
「ああ。君はベッドを広々と使ってくれ」
「風邪をひきますよ。ベッドは十分に広いです」
これは優しさではない。監視下に置くためだ。彼が何をするか分からない以上、視界に入れておきたい。
レオは少し躊躇ったが、私の強い視線に負けてベッドの端に入ってきた。
キングサイズのベッド。その距離は十分にあるはずなのに、彼の存在感が肌を刺す。
私は背を向けて目を閉じた。
眠れるわけがない。いつ襲われてもいいように、神経を尖らせておく必要がある。
しかし、背後からは規則正しい寝息が聞こえてくるだけだった。
しばらくして、布団ががさりと動く気配がした。
私は息を止める。
やはり、来たか。
だが、私の背中に触れたのは、暴力的な手ではなかった。
温かい手が、ふわりと布団を掛け直しただけだ。
そして、私の髪を、恐る恐る梳くような感触があった。
「……ごめん」
静寂の中に落ちたのは、独り言のような謝罪だった。
「必ず、守るから。今度こそ」
その声に含まれた悲痛な響きに、私は目を開けた。
今度こそ?
その言葉の意味を反芻する。
まるで、以前は守れなかったとでも言うような口ぶりだ。
胸の中で、奇妙なざわめきが広がる。
まさか。ありえない。
私の復讐の炎に、冷たい水が差されたような気分だった。
同時に、彼の体温が背中越しに伝わってきて、ひどく心地よいと思ってしまった自分自身に、私は激しい嫌悪感を抱いた。
絆されてはいけない。これは演技だ。罠だ。
私は唇を噛み締め、暗闇の中で瞳を凝らした。
この謎を解かなければならない。彼の変化の理由を。
そして、その化けの皮を剥がした時こそ、私の復讐が完遂する時だ。




