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マーラーが愛したユダヤのブリュンヒルデ

作者: 宮本繁之
掲載日:2025/12/03

プロローグ

かつてウィーンフィルハーモニーというオーケストラがあった。

1842年、皇帝の勅許によって。


選ばれた男たちだけが、初めて「自分たちの音」を許された。


楽器は先輩から後輩へ、厳格に手渡され、

椅子は空いた瞬間、次の男が静かに座る。


音には格式があり、

黄金のホールはまだ蝋燭の灯りだけを湛えていた。


リング通りを馬車が走り、

カフェ・ツェントラールではドイツ語が、

グリューネ・アンカーではチェコ語が、

レオポルドシュタットの路地ではイディッシュ語が、

ひそやかに響いた。


帝国は広く、帝国は脆く、

東からはユダヤ人が雪のように降り積もり、

西からはワーグナーの雷鳴が、

北からは鉄と血の匂いが漂っていた。


楽員たちは言った。


「帝国の音楽を奏でるのに相応しいのはアウグスライヒの臣民だけだ」


オーストリアのユダヤ人もオーケストラの門を叩いた。

扉は開かなかった。

ただ沈黙だけが返った。


だが1897年、一人の男が、一枚の改宗証明書を手に、

指揮台に立った。


グスタフ・マーラー。


彼が腕を振るたび、

弦は裂け、金管は咆哮し、

ホルンは天国の扉をこじ開けるように鳴った。


ウィーンは熱狂し、

ウィーンは歯噛みした。


新聞は「ユダヤの神経症」と書き、

カフェは「ワーグナーの墓荒らし」と囁き、

ベイロイトからは氷の手紙が届き、

楽屋の鏡の裏に「Juden raus」と彫られた。

しかしウィーンの大衆は絶賛した。


マーラーは走った。


朝は歌劇場、夜は総譜、

夢の中では巨大なハンマーが三度振り下ろされ、

胸は不規則に鳴り、

額には死の汗が光った。


ある秋の夜、一人の女の声が途絶えた。


その翌朝、

交響曲第6番「悲劇的」の総譜から、

第三のハンマーが、

誰にも気づかれぬまま、

静かに消された。


誰も問わなかった。

誰も答えることはなかった。


ただ、楽屋の奥に残された一挺のウィンナホルンが、

百年後の指を、

百年後の唇を、

百年後の息を、

まだ、待ち続けている。





<登場人物>


桐生律

日本人ホルン奏者、35歳

東京藝術大学院卒、ウィーン留学後ウィーンフィル採用

ウィンナホルンを通して過去の事件と総譜の謎を追う


グスタフ・マーラー(43歳)

生年:1860年7月7日

第6交響曲作曲期:1903~1904年(43~44歳)

ウィーンフィル首席指揮者:1897年就任(37歳)


リゼル・ローゼンベルク(物語設定)

生年:1883年(第6番作曲期に20歳前後)










第一章 2003年ウィーン


 桐生律は3年前に緊張に包まれて演奏をしていた時のことを思い出す。

 モーツァルトのホルン協奏曲第4番 K. 495の第1楽章のカデンツァに差し掛かる。ウィーン・フィルの名ホルン奏者であったゴットフリート・フォン・フライベルクが考案した有名なパッセージだ。非常に高音域が多用された、目覚ましいスピードのパッセージや、トリル、アルペジオなどの技巧が凝縮され、奏者の技量が試される。モーツァルトの意図した曲調よりも奏者の限界を試すかのようなパートだ。

 桐生律はウィンナホルンのマウスピースにぴったりと唇をつけ、肺も破けよ、指もちぎれよと思わんばかりに、技巧の限りを駆使する。悪戦苦闘しているように見えるが、彼も日本では若くして数々のホルンコンクールで賞をさらい、東京芸術大学附属音楽高等学校(通称:音高)に入学し、そのまま東京芸術大学音楽部、その後大学院を首席で卒業した秀才である。現在はオーストリアに留学した後、ウィーン国立歌劇場のピットの一翼を担っている身である。

 律はウィーン国立歌劇場のメンバーで構成される、世界で一二を争う名門オーケストラ、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の入団試験に挑んでいるのだった。


 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団とは1842年にウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーによる自主運営という形で誕生したオーケストラである。

創立以来、一貫して自主運営の原則を貫き、ブルックナーやブラームスといった歴史的な作曲家たちとも深く関わりながらその伝統を築いてきた。もちろんオーストリア帝国の首都、ハプスブルグ家のおひざ元であるため、貴族やブルジョワジー、そして富貴を問わず広くウィーン市民から愛されてきた。

綺羅星のごとき伝説的な指揮者たちと関係を築いてきたのも特徴だ。数え上げれば枚挙がないが、ニキシュ、R.シュトラウス、E.クライバー、トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、ブルーノ・ワルター、ベームなどである。現在もその栄に浴そうといういう指揮者は数知れず、海外ツアーを行っても高額なチケットが飛ぶように売れる。そしてその価値に見合うだけの演奏を行ってきた、オーストリアの至宝たる名門オーケストラである。

昔は男性だけ、しかもオーストリアやハンガリーなど、オーストリア=ハンガリー二重帝国アウグスライヒ支配下のメンバーが主体であった。そのため独特な演奏方法や音楽の癖が守られ、他のオーケストラでは聴けないような響きが守られた反面、排他的だという悪評も経つようになった。そのため徐々に二重帝国の版図以外の奏者も入れるようになり、現在では女性の楽団員も存在する。最高の実力を持つ演奏家を確保する上で性別による制限が障壁となり、また社会の要請もあって、徐々に二重帝国の版図以外の奏者や女性の楽団員も受け入れるようになってきたのである。

しかし小さい頃からホルンを吹いてきた律にとって、ウィーンフィルに入り、オーケストラの一員として演奏するのは長年で夢であった。今、その夢の門が開かれようとしている。オーディションでウィーン国立歌劇場のメンバーを選抜し、それに合格すれば、3年の試用期間を経て、晴れてウィーンフィルのメンバーになることができるのである。

審査員とステージ上の律の間にはカーテンが敷かれている。縁故採用などを排するための工夫である。半世紀前は満場一致の評価だったにもかかわらず、幕が上がってから日本人だということが分かり、審査員から茫然としたため息が出たこともあったというが、それも今は昔の話であった。

 律の演奏はいよいよクライマックスに向かう。律がパッセージを吹き切り、そして達成感を伴い天井を見上げたのち、…しばらくして幕の向こうから拍手が聞こえ、そして幕が上がった。


 「おめでとう、律」


 審査員の一人、第二ヴァイオリン首席奏者が声をかける。

「ようこそ、我々の仲間へ」

 

 「ようこそ、世界一のオーケストラへ!


 ウィーンフィルでは他のオーケストラと異なり、独特の慣習がある。例えば楽器だ。他のオーケストラでは機能的なモダンホルンなどを使っているが、ウィーンフィルではウィンナホルン、ウィンナオーボエなどウィーン周辺で主に使われている伝統的な楽器が代々引き継がれている。ブラームスやブルックナーが聴いた音が引き継がれ、今に至っているのである。ただ楽器が同じなら同じ音が出るかというと、これが面白いところで、戦前、フルトヴェングラーという偉大な指揮者が来た時、地元のオーケストラにウィーンフィルで使っている楽器に交換させ代わりに演奏させたところ、出てきた音はウィーンフィルとは似ても似つかない音だったという。


 律も正団員の一員となり、ホルン首席奏者ハンス・ペーターから古びたウィンナ・ホルンを渡され始めて正式にウィーンフィル200年の歴史の一員となった気がして身が震えた。


 「おめでとう。君もこれで音楽の都の仲間だな」


 だがこの時、律はまだ知らなかった。毎晩、ウィーン楽友協会で流れる優雅な夜想曲の裏に、この国の歴史に関わる一つの血にまみれたアリアが流れていたことに…。



 桐生律は首席ホルン奏者の部屋で、受け取ったばかりのウィンナホルンを膝の上に載せていた。楽器はもう百年以上前のものだ。ベルの中ほどに小さな傷があり、そこに指が触れるたび、まるで誰かの体温が残っているような錯覚に陥る。


 「これ、誰の楽器だったんですか?」


 律は訊ねた。

 首席の老奏者、ハンス・ペーターは肩をすくめた。


 「さあね。名前はもう消えてる。戦争で焼けた名簿も多いし、楽器だけが残ることもある。……ただ、このホルンはマーラーの時代から使われているらしいよ。彼の交響曲の初演でも鳴ったかもしれない」


 マーラー。


 その名を聞いた瞬間、律の胸の奥で何かが軋んだ。理由はない。今では偉大な作曲家と知られている。しかしウィーンフィルの首席指揮者でもあったのだ。律は自分が楽器を通して、偉大な作曲家と繋がったことに感銘を受けたのである。


その夜、楽友協会の大ホールでマーラーの第6交響曲「悲劇的」の演奏があった。

 指揮は若手のマエストロ、ヤン・ファン・ズヴェーデン。鋭いタクトでオーケストラを抉るタイプだ。

 律は四番ホルン。マーラーの交響曲には特徴がある。彼は自分の内面を表すため、様々な技巧を駆使し、そして当時としても珍奇な様々な楽器を使った。この交響曲では最後にハンマーが使われることで有名である。律は第四楽章の有名なハンマーの箇所で、首席と一緒にアルペジオを支える役回りだった。総譜を開くと、いつものように赤鉛筆で細かい書き込みがしてある先代のホルン奏者たちの息遣いが、まるで生き物のようにページに這い回っている。

第四楽章、フィナーレ。ハンマーが振り落とされる。1度…2度…。そしてあるところで律は違和感を感じた。古びたホルンが何かを訴えようとしている、そう感じたのである。違和感を感じた律はホルンを見やる。内側によく見ないとわからないが何か線のような傷がついているようだ。フィナーレは最後の打点を残し、マーラーの悲痛な叫びがホールの中に消えていくようだ。そしてその晩のコンサートは聴衆から万雷の拍手を浴びたのである。



律は楽屋に戻ると先ほどのホルンの場所を触ってみたやはり線傷がある。文字のようにも見えなくもない。律は鉛筆とノートを取ってくると、キズの上に紙を載せ、鉛筆でこすってみる。そうすると浮き上がってきたのだ。文字が…。


……für L.R. L.R.

 誰だ? L.R? 楽器ではない。曲名でもない。おそらく人名であろうか。 「エリーゼのために」も原語ではFür Eliseである。しかし誰だろうか。そしてなぜこんなところに書かれているのだろうか、誰にも見つからないように。あるいは誰かに見つけてもらうように。



 律は翌日、楽友協会地下のライブラリーに行くことにした。ライブラリーは第二次世界大戦でソ連の空襲を受けて半壊し、水浸しになったものの、過去の遺産はまだ残っているものもある。ウィーンフィルというのは優雅なイメージがあるが、二度の大戦を乗り越えてきたしたたかさがある。ここに残っている過去のプログラムやパンフレットはウィーンフィルのしたたかさの歴史の別の一面でもあった。

 

律はそこに残っている資料を見ることで何かが分かるかもしれないと思ったのである。しかし今では年間200回以上も演奏を行っているオーケストラである。パンフレットを見ていくにせよどこから手を付けたらいいのか途方に暮れた律は、昨日のピーターの言葉でひらめいた。


 「マーラーの時代から使われているらしい」


 (過去のパンフレットなら数も少ない。現代の情報なら電子化がされているから、過去の資料を見てから現代の資料は検索できるか試してみよう)


 そう考えた律は過去の演奏プログラムの束を探した。楽友協会には古いパンフレットが山のように残っている。19世紀の束を探し終わり、律はさらに途方に暮れた手で20世紀のコンサートを探し始めた。本来であれば次のコンサートの練習が必要なのだが、どうしても傷跡の文字が気になるのである。プログラムをめくっていくと、律はあるところで紙をめくる手を止めた。

 1906年のエッセン初演プログラム。1907年のミュンヘン再演。そして、1904年のマイアーニッヒの夏の演奏会。そこに繰り返し名前があった。 

Liesel von Westen, Sopran ((リゼル・フォン・ヴェステン。ソプラノ)

 美しい横顔の写真。20歳前後。瞳が異様に大きく、気品があって美しい。だがどこか怯えているようにも見える。先ほど書かれていた文字のイニシャルもLは同じだ。

 1903年から1905年にかけて、マーラーの演奏会に頻出する名前。しかし1906年の初演プログラムから突然いなくなる。それまでは頻繁にマーラーの演奏会を中心に名前が載っているのに。あるコンサートを境に名前が一切出てこないのである。最後に見かけたパンフレットには「フォン・ヴェステン嬢代役。体調不良のため」と小さく注釈があるだけだった。律は息を呑んだ。もしかしたらリゼル・フォン・ヴェステンに何か関係あるのかもしれない。律はこのホルンに書かれている謎をよりもリゼルに興味を示し、一人調べることにしたのである。




第二章 グスタフ・マーラー


 「今回の公演も大成功だ!」


 ニーベルングの指輪の第3日目、「神々の黄昏」の指揮が終わり、ウィーン聴衆の大歓声の中、幕が閉じた。その後、団員たちと居酒屋に行き、泥酔したままマーラーは家に帰ってきた。新婚のアルマが出迎える。一昨年、家族の大反対を押し切って結婚した二人の間には娘も生まれていた。19才も年齢差があり借金や、他に愛人がいるとのうわさもあったマーラーとの結婚についてアルマの両親は大反対していたが、二人は秘密婚約をしたのち、結婚したのである。

 周囲からは多忙を極めるウィーン宮廷歌劇場の首席指揮者でかつアマチュア作曲家のマーラーの妻としてウィーン中の注目を浴び、子宝にも恵まれていたアルマは幸福のただなかにあると周囲からは信じられていた。ただアルマには悩みがあった。彼女は結婚前、作曲や歌曲を歌っていたのだが、全面的にマーラーから禁じられ、自分の創作のために総譜など、マーラーの手伝いを行うよう、服従させられていたのである。言い方を変えると、結婚した瞬間、アルマはマーラーから「芸術家の枠」に閉じ込められることを強いられたのである。

 そんな妻の気持ちを知ってか知らいでか、マーラーは上機嫌で言う。


 「演出を大幅に変えたんだ! ウィーンの聴衆は僕たちのとりこだった。これでバイロイトの未亡人も僕のことを認めるに違いない!」


 マーラーの言う「バイロイトの未亡人」とはコジマ・ワーグナーのことである。大作曲家にして楽劇の創設者、リヒャルト・ワーグナー。当代の作曲家、ブラームスやリストとも親交を持ち、ブルックナーは感激のあまり、自分の交響曲第三番をワーグナーに献呈するほどであった。しかしワーグナーには避けがたい負の部分もある。、当初は偽名で発表しながら、後に実名で公言した論文に示されている反ユダヤ主義、すなわちユダヤ人に対するあからさまな中傷である。ワーグナーが死んだ後も、

マーラー自身もこの反ユダヤ主義の煽動によって不利益を被った一人である。ユダヤ系の彼は、ウィーン宮廷歌劇場という最高の地位に就くため、1897年にカトリックに改宗せざるを得なかった。帝国の制度上、ユダヤ教徒のままでは名誉ある宮廷職につけなかったのである。しかし、その改宗後も、彼の出自はウィーンの保守的な新聞や批評家から執拗な攻撃を受け続ける原因となっていたのだ。その裏には、ワーグナー死後も反ユダヤ主義を受け継いだコジマ・ワーグナーが、バイロイトでユダヤ人指揮者を演奏させなかったなどの妨害行為に現れていた。


マーラーが今回した楽劇「ニーベルングの指輪」は4日間連続して行われる大公演である。

序夜『ラインの黄金』でラインの乙女から盗まれた黄金から作られた指環の呪いを巡り、第一夜『ワルキューレ』での人間の英雄ジークムントの悲劇、第二夜『ジークフリート』での英雄の誕生と死を経て、第三夜の最終楽劇『神々の黄昏』で、ジークフリートの死と裏切りに絶望したワルキューレのブリュンヒルデが指環を返還し、自ら炎に身を投じることで、神々の宮殿ヴァルハラが崩壊し、世界が破滅を迎えるまでの壮大な叙事詩である。

休憩を除いても4日間で15時間を超える大公演の達成感がマーラーを包み込んでいた。


「愛するアルマよ! 君にも聞かせたかった、あの聴衆の万雷の拍手を! これであの未亡人も僕を次のバイロイト公演にも呼ばざるを得ないだろう!」


アルマは笑顔で年の離れた夫に微笑む。しかし彼女も生まれたばかりの子供の相手でそれどころではなかった結婚前なら自分も歌劇場に行き、アリアを歌い、演奏中に聴いた和音やフーガを自ら作曲に反映させることができた。だが今や— 名声もあり才能もある夫との結婚は自分の居場所ではないようにアルマには最近思えてならない。

高揚感に包まれて戻ってきたマーラーは、日常に追われて上の空しか返事ができないアルマを見て苛立つ。彼女には自分の芸術の偉大さが分からないのではないのか。やはりこの娘に求婚したのは失敗だったのではないか…。

マーラーはふと一人のアルト歌手を思い出した。リゼルである。



 リゼル・ローゼンベルグはオーストリア帝国の貧しい版図、ガリツィア地方から夢を抱いてウィーンにやってきた娘だった。小劇場の舞台では、若い歌手を狙う権力者たちの醜い視線と要求に晒され、下積みの生活は屈辱に満ちていた。他にも彼女の声質はソプラノに向いていたが、ソプラノ歌手が任されるのは華やかな役である。地方から出てきた彼女は音楽性では評価されず、目立たないアルト歌手の役しか与えられなかった。そんな劣悪な下積みを続けていた彼女は、ある夜、病欠が出た代役としてマーラーが指揮する演奏会に急遽呼ばれたのである。

端役のためマーラーはリゼルの存在を演奏会中に知ったのだが、その夜、彼女が歌ったマグダレーネのアリアは、明るさと恋の象徴として、聴衆とマーラーの心を鷲掴みにしたのである。そして彼女の中にソプラノ歌手の適性を見出した。彼は同じユダヤ人ということだけではなく、その才能からすぐさまリゼルを気に入り、自らの公演に頻繁に起用するようになった。まるで彼女を自分の権威で守るかのように。そして自分のミューズとして輝かせるように。


ある夜、マーラーはリゼルを呼び出し「フォン・ヴェステン(von Westen)」という新しい姓を名乗るよう命じた。


 「君の才能は本物だ。だが、私の才能をもてはやすのに、人格はユダヤの血を理由に攻撃されるこのウィーンで、君までその汚泥に塗れる必要はない。たとえカトリックへ改宗しても血の中傷からは逃げられん! 君は今日から東欧の辺境出身ではない。ウィーン近郊の、没落した貴族の家系の娘として振る舞え」


 その言葉は、リゼルの出自(ユダヤ系ガリツィア)を否定し、彼女の身分を偽装させるという、マーラーによるリゼルの将来を思いやった配慮であった。しかし人から見たら最初の支配だったのかもしれない。だが、「君を守るため」という彼の苦渋の表情と、「君の才能を汚させない」という言葉は、マーラー自身が経験したウィーン社会からの仕打ちであることがリゼルにはよくわかった。


 リゼルは、最高の舞台に立つために、自分の過去とアイデンティティを捨てた。それこそがグスタフ・マーラーの愛に答えられることだと思ったのである。


そしてそれからリゼルは次第に重要なポストを得ていき、やがて客演歌手として宮廷歌劇場でのコンサートにも主役として出ることも増えてきた。

リゼルにとって、同じユダヤ人でありながらウィーンの地で権威となったマーラーの存在は、心強すぎるほどの希望そのものだった。マーラーが庇護してくれるという期待は、20歳の彼女にとって愛情へと錯覚するのはそれほど困難なことではなかった。そしてその庇護と愛を求め、マーラーと肉体的な関係を持ったのである。


リゼルは、マーラーとの愛人関係が始まってから、その喜びと不安を胸に、彼の創作活動を献身的に支えた。彼女は貧しかったため、正式な音楽教育を学ぶ機会がなかった。しかし彼が新しい交響曲に取り組むとき、リゼルは彼が時おりピアノで弾くメロディーを声を出して歌い、マーラーの創作意欲を刺激した。


リゼルは、マーラーの音楽の中に、彼が自分へ抱く崇高な愛情と献身が隠されていると信じたかった。その希望こそが、屈辱的な下積みを経てきた彼女にとって、唯一の居場所であった。リゼルは着実に成功の道を歩んでいったのである。


しかしその関係が続いたのも1年程度である。マーラーがアルマと結婚したからだ。マーラーにとってリゼルが歌劇場で浴びる拍手も、彼が自分の権威で与えたものに過ぎなかったということなのだろうか。リゼルは思い悩んだ。リゼルによって創作のインスピレーションが刺激されているとは夢にも思っていなかったのではないのか? そう思う彼女とマーラーとの心の距離は開いていった。


マーラーがアルマと結婚した後も、演奏会では引き続き起用された。時々重要な役で、ウィーン宮廷歌劇場の客演歌手として呼ばれることもあった。たまに求められるように関係することはあったが、リゼルにとってはマーラーが結婚する前とは違い、即物的な関係になっていったのである。しかし、その「即物的」な関係の合間には、マーラーがリゼルに、アルマには理解されない音楽の孤独や、創作の停滞について語りかける一瞬があった。


その時だけは、かつてのミューズとして認められた希望がリゼルの胸によみがえった。「彼は私を、心の底では愛のテーマを共有したパートナーとして求めている」と、彼女は必死に信じようとした。



そして冒頭に戻る。マーラーが『指輪』の公演を終えて戻りアルマとの距離を感じた夜の後。次のオペラのリハーサルがあった日、リハーサル後にマーラーはリゼルを呼び出した。 公衆の目から隔離された宮廷歌劇場の監督執務室で、マーラーは再び彼女と関係を持ったのであった。


「作曲が進まないんだ」


情事の後、マーラーは嘆息しながら言う。


「ああ、リゼル、君がいたときはこんなことにはならなかったのに。君の声は、世俗の泥に塗れていない、純粋な音楽の響きそのものだった。だが、今はメロディーが生まれない。どこにも、真実の響きがないのだ...」


 マーラーは、かつて自分の芸術の同志だったアルマが今や遠い存在となった孤独を、リゼルにぶつける。リゼルは、マーラーの冷たい背中を見つめながら、この孤独こそが自分に与えられた唯一の居場所だと悟る。


 マーラーは窓の外の暗闇を見つめ、自嘲するように、しかし誰に聞かせることなく呟いた。


 「君を守るためには、僕のような改宗ユダヤ人と一緒になるべきではないと思っていた。僕の地位は磐石ではない。君と結婚したら君が身分を偽装したことまでばれてしまい、君のキャリアはおしまいになる。君まで僕の出自による攻撃に晒される必要はないとも思った。しかし…僕の考えは誤っていたのかもしれない。君も…アルマではなく…君が僕を救ってくたのかもしれない」


それは、音楽用語で言えばピアニッシシモ(pianissisimo, ppp)の声の大きさだった。しかし、リゼルの胸には、その真実の懺悔が、地響きのように届いたのだ。


 「――もしよろしければ、こんなメロディーはいかがでしょうか?」


 その言葉は、リゼルの屈辱的な肉体の痛みも、マーラーへの疑念も、一瞬で崇高な使命感へと変えた。彼女は、乾いた唇を震わせながら、ピアノの傍に立ち、そっと目を閉じた。そして彼女は歌いだした。哀愁漂う旋律は悲しく始まりながらも、生の息吹を感じさせながら声は高らかに空に伸び、優しく歌う。そして声を落として哀願するよう悲しく願う。マーラーは呆然としていった。


「決まりだ…。これこそが僕の求めていた音楽だ。今作曲している交響曲第六番の第一楽章、第二主題にふさわしい。君こそ、僕のミューズだった」


マーラーの全身に電撃が走った。彼は椅子から飛び上がり、リゼルを抱きしめた。


 「そうだ、これだ! リゼル、君は、私の芸術を救った! この主題は、君の魂そのものだ!」


 マーラーは興奮のあまり、執務室を何周も歩き回った。


「私は、君を世界最高の舞台へ連れて行く。そう、ドレスデンだ。君のブリュンヒルデこそ、ワーグナーの聖地で歌われるべきだ!」


 「バイロイトへ……ですか?」リゼルは息を飲んだ。


 「そうだ! 来年のバイロイトだ! あのバイロイトの未亡人が何を言おうと関係ない! 君は、私の芸術に不可欠なミューズだ。君をバイロイトに送り、ワーグナーの『指輪』のブリュンヒルデを歌わせる! 私を改宗ユダヤ人だという理由だけで拒んだあの未亡人に君という私の宝を見せてやる。そして心の中で言うんだ。どうだ、ユダヤ人だからってワーグナーの音楽が理解できないことはない、って言うことを!」


 マーラーの権威と情熱に満ちた言葉に、リゼルは涙を流した。つい先ほどまでの執務室での即物的な関係も、身体に残る痛みも、すべてが遠い幻のように消え失せた。 彼女にとって、マーラーは変わらぬ庇護者、彼女の未来を示す導だったのだ!

それはグスタフ・マーラーとリゼルの間で「愛のテーマ」が究極的に成就した瞬間だった。


 ---


 世も更けウィーンの石畳に物を落としたら町中に聞こえてしまうような時間帯。街灯の薄暗い光の下、ウィーンの場末の歌劇場に誰かが忍び込んだ。ライブラリとも言えないような倉庫へと向かう。彼は左手にリゼル・フォン・ヴェステンの顔写真とソプラノ役の名前が載っているパンフレットを持っていた。その男は右手で奥の方からパンフレットを取り出す。取り出したパンフレットには隅の方に少女の顔が小さく描かれていた。リゼル・ローゼンベルグ、アルト歌手、と。

 殺し屋は顔写真とアルト歌手の肖像を見比べ、暗闇の中でにやりと笑った。

 「ほう。この貴族気取りのフロイラインはガリツィアのクラクフ出身か。手間だが行くだけの価値はありそうだな。バイロイトへもいい報告ができるかもしれねぇな」




第三章 2004年ウィーン


桐生律は、ウィンナホルンを肩に担ぎ、ウィーン・フィルの席に着いていた。演目はグスタフ・マーラーの『交響曲第6番 イ短調』。


 律が受け継いだこのホルンは、マーラーの初演時から受け継がれてきたものだ、という。律が息を吹き込み、第一楽章で木管とホルンが奏でる優美だがどこか悲痛な第二主題を奏でる瞬間、ホルンは楽譜の指示以上の、震えるような悲しい響きを放つ。その響きは、この楽器に宿った、何者かの深い嘆きのように律の耳に届く。


 この謎が解けるまで、この違和感は決してなくならないのだろうか……


 律は、公演後も楽友協会のアーカイヴで調査を続けていたが、はかばかしくない。リゼル・フォン・ヴェステンという不自然に消えた歌手の存在は特定できたものの、なぜ彼女が消えたのか、そしてホルンが奏でる悲しみの理由を示す決定的な証拠を見つけらなかった。



そんなある日、律は、リゼルが最後に主役級で出演した演目である、ワーグナーの楽劇『神々の黄昏』のブリュンヒルデ役のパート譜が、運良く宮廷歌劇場の古いロッカーの中に未返却のまま残されていたとこと発見した。


 「普通であれば歌手に返却するはずだが、なぜここに…。『体調不良』ということだったが返却できない理由でもあったのだろうか。それとも手元に置いておきたかった? しかしなぜ」



律は、調査が停滞する中で、リゼルのキャリアにある劇的な変化があったという事実に着目した。彼女は、ある時期を境に、マーラーが芸術的野心を注いでいたワーグナー作品の大役に、極端に偏って起用されるようになっていた。さらに給与記録には、高額な「追加手当」が不自然に計上されていた。


「なんだ、この手当は? 愛人として囲っていたということだろうか。しかしワーグナー歌手としての転機でこの出費は不自然だ。何か身の回りに変化でもあったのだろうか…?」


律は、ワーグナーの演奏が多くなってきたことに着目し、ウィーンフィルハーモニーのワーグナーに関するライブラリーにあたりをつけ、当時の資料を探索することにした。結果、これが正しかったのである。


まず保管されていたマーラーの指揮者譜を発見した。リデルがウィーンでの最後の演奏会になっていたワーグナーの「指輪」の第3夜、「神々の黄昏」である。最後にジークフリードの裏切りにあい、炎とともに燃え尽きて死ぬソプラノの難役ブリュンヒルデ役でリデルが演じている公演だ。律が持っている当時のパンフレットのコピーには前面に大きく印刷されているマーラーの下に主役クラスとして微笑みながら印刷されたブリュンヒルデ役のリデルが大きく印刷されている。昔見たパンフレットのおどおどしたところなどみじんも感じられない。


それにしても、と律は思うこの総譜への書き込みは異常なほどソプラノパート、つまりリデルが歌う部分への書き込みが多い。律は、この異常なほどの書き込みに、マーラーのリゼルへの個人的な執着を見て取った。そして、マーラーが総譜にこれほど個人的な指示を書き込んでいるのなら、リゼルが使用した歌手用のパート譜にも、何らかの個人的なメッセージが残されているはずだと確信する。


書庫の記録を辿った結果、リゼルが使用したブリュンヒルデ役のソプラノ譜が、未返却のまま「備品」としてひっそりと保管されているのを発見した。


律は、この二つの楽譜を並べて比較した。


総譜に書き込まれたマーラーの緻密な指示と、ソプラノ譜に記されたリゼルの書き込みは、細部にわたる呼吸の指示まで完全に一致していた。さらに、律は決定的な証拠を見つける。総譜の書き込みと、ソプラノ譜の楽譜以外の余白に、寸分たがわず同じ青色の鉛筆の色で書かれていることを確認したのだ。


「これは、二人が公私にわたり極めて密接な関係にあったことの証明だ……愛人関係は確実だが。しかし愛人だからと言ってここまで支援をやるか…? この特別な指導と、高額な追加手当は、単なる歌手の起用だけではないんじゃないか?」


律は、この異常なまでの保護が、リゼル・フォン・ヴェステンという存在自体をウィーンの敵意から守るための、マーラーによる必死の偽装だったのではないかという仮説に至る。その答えは、公的な楽譜の指示ではなく、個人的なメッセージに残されているはずだ。



律は、ソプラノ譜の最終ページ、ブリュンヒルデの「イモレーション(自己犠牲)」のパートに注目した。リゼルが最後に歌った、愛のためにすべてを焼き尽くす場面だ。


律がパート譜の裏表紙を開くと、そこには一枚の走り書きがされていた。そして一枚の新聞記事の切り抜きが。

新聞の記事はこう書いてある。


「リゼル・ローゼンベルク嬢、ウィーンにて死去。自殺か」


その見出しの後に簡単に警察のコメントが出ている。律は興味深いコメントを見つけた。


「ローゼンベルグ嬢、苦しみのあまり、近くにある石炭を手に取って息絶えていた」


その記事に強い筆圧でこう書かれていた。


「ブリュンヒルデは斃された。最後の呪いを記録に残す。G.M. 愛と贖罪を込めて」


律の全身に、激しい衝撃が走った。リゼル・フォン・ヴェステンは、殺害されたという動かぬ証拠。そして、「ブリュンヒルデ」という言葉が、リゼルに対するマーラーの贖罪の気持ちと、事件の真実を未来の誰かに告発していた。


律は、マーラーの走り書きに刻まれた「最後の呪いを記録に残す」という言葉を、何度も反芻した。


「呪いを書き残す…? しかしどこに。この時期、リゼルの死の直前と直後で、マーラーが個人的な感情を込めて新たな記録として創造していたものと言えば……」


律の脳裏に浮かんだのは、グスタフ・マーラーの『交響曲第6番 イ短調』だった。リゼルが消えた時期こそ、マーラーがこの作品の完成と改訂に没頭していた時期だ。この交響曲こそ、マーラーの魂の「記録」に他ならない。


律はすぐに『交響曲第6番』の自筆譜に戻り、「呪いの痕跡」を探した。


 終楽章のクライマックス。律は、自筆譜に残された運命の打撃ハンマーの音符を追う。そして、マーラーが楽譜の端に、乱れた筆跡で書き残した小さなメモを見つける。


 その言葉はマーラー自身が最も信じた「希望」の言葉だった。


 「Aufersteh'n, ja aufersteh'n, wirst du, / mein Staub, nach kurzer Ruh! (復活する、そうだ、お前は復活するのだ、/わが塵よ、しばしの休息の後に!)」


 律の身体が熱くなる。このフレーズはマーラー交響曲第二番『復活』交響曲の冒頭の、死を乗り越える儚い誓いだ。


 しかし、マーラーはその行の横に、さらに強く、別のメッセージを書き加えている。


 「Erkenne, was dies Schlagen bedeutet. (理解せよ、この打撃が何を意味するかを)」


 律は、マーラーがリゼルの死という運命の打撃を、ただ単に隠蔽したのではなく、「この事実こそが、お前の探求の目的だ」という気づきを、未来の発見者である自分に託したのだと悟る。「第三ハンマー」の削除は、「なぜこの悲劇が起きたか、真実を理解するまでは未完だ」というマーラーの沈黙の訴えだったのだ。


 律は、打楽器パートのページに、強く塗りつぶされ、削除された「第三ハンマー」の痕跡を発見する。そのパートではいつも律はホルンに違和感を覚える場所でもあった。


「これはマーラーからのメッセージだ。マーラーはこれで殺人を告発したのだ」


 律は言った。


「おそらくリデルは殺されたんだと思う。もしそうなら僕はマーラーが誰を告発したいのか分かった。これはマーラーから僕たちに送られた犯人に対する告発だ」


第四章 ブリュンヒルデ


 1904年1月、ウィーン宮廷歌劇場総監督室 冬の陽は低く、窓から差し込む光も凍てついていた。机の上に置かれた一通の封書。封蝋にはバイロイトの緑の丘を象徴する「W」の刻印。だが、その裏側に、バイエルン王冠の紋章が薄く刻まれていた。

 マーラーはそれを指先でなぞり、ゆっくりと開いた。 ――リゼル・ローゼンベルク。ガリツィア、クラクフ近郊のユダヤ人街生まれ。父は行商人、母は洗濯女。1899年よりウィーンに滞在。1902年より「フォン・ヴェステン」の偽名を使用。貴殿との不倫関係は既に証拠を押さえてある。―― さらに同封されていたのは、彼女の出生証明書の公証謄本写し、そして戸籍調査報告。だが、最も致命的なのは一枚の「秘密報告書」の写しだった。

 報告書のヘッダーには、バイエルン王国内務省の印章が押され、赤いインクで朱が記されていた。


 「リゼル・ローゼンベルク嬢(偽名フォン・ヴェステン)は、ユダヤ人グスタフ・マーラー総監督と肉体関係にあり、同人の庇護により不当に主要な役を得ている。証人三名(楽屋係・衣装係・舞台監督補)より宣誓供述取得済み。バイエルン王国外務局監修下、ムニヘン駐在密偵によりウィーン現地調査」

 

 マーラーの手が震えた。震えは怒りではなく、恐怖だった。

 これは単なるスキャンダルではない。オーストリア=ハンガリー帝国の宮廷歌劇場総監督が、ユダヤ系の愛人を偽貴族として囲っていた――これが公になれば、彼は明日にも解任される。しかも、出所がバイエルン王国内務省となれば、事は外交問題に発展する。カトリック同士の盟友国バイエルンから、ウィーンの「不浄な血統の汚点」を皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴される形だ。帝国の名誉を賭けた査問委員会が動き、バイロイトの未亡人――コジマ・ワーグナー――がその背後に控えている以上、沈黙は許されまい。

 封筒の最後に添えられた一文は、氷のように冷たかった。


 「貴殿が賢明なら、バイロイトに二度と口を出さぬこと。加えて彼女は二度とウィーンの舞台に立たせぬこと。さもなくば、この書類は明日、ウィーン全紙に配信され、バイエルン経由で皇帝陛下に献上される。リヒャルトの遺産が、ユダヤの影を払うために。――バイロイトよりの忠告、ルートヴィヒの恩義を忘れぬ者より」


 マーラーは椅子に崩れ落ちた。ルートヴィヒ2世――ワーグナーの黄金時代を支えた狂王の名が、こんな形で蘇るとは。コジマは夫のバイエルン宮廷との古いコネクションを、未だに操っていたのだ。内務省のスパイ網は、ワーグナーの反ユダヤ主義を「王室の遺産」として守り続け、ムニヘンの密偵たちがウィーンの路地まで手を伸ばす。カトリックの絆が、こんな毒牙に変わるとは。

 これが最初のハンマーだった。バイエルンの影が、オーストリアの心臓を狙う、外交の刃。


 深夜3時。リゼルは小さなガラス瓶をテーブルに置いた。青酸カリ。 机の上には二通の手紙。一つは本日、いや日付が変わったので昨日届いたマーラーからの手紙。もう一つは一昨日届いたバイロイトからの手紙である。


 マーラーの手紙にはこう書かれていた。


 「発覚した! 君の身の安全のため、パリ経由でアメリカへ逃げるように。すべてはこちらで手配する」


 バイロイト…つまり、コジマ・ワーグナーからの手紙にはこう書かれていた。


 「出生の秘密を知っている。これを露見されたくなければ、マーラーを告発しろ。そしてバイロイトの舞台をあきらめれば二度とお前の邪魔はしない。ユダヤにはワーグナーはふさわしくない」



 彼女はそれらを火にくべた。これらを残して死んではマーラーに迷惑をかけてしまう。


 リゼルは鏡の前に座り、ゆっくりと髪を梳いた。 そして自分を奮い立たせるように言った。まるで今夜も舞台に立つように。


 「私はブリュンヒルデよ」


 鏡の中の自分に語りかける。 


 「ブリュンヒルデは炎に飛び込んで神々を滅ぼした。私も神々を滅ぼすために、自分を灰にする」


 彼女は毒をグラスに落とし、透明な液体が、わずかにアーモンドのような甘い匂いを放つ。


 彼女は、静かに笑った。


 「これで、完成ね、コジマ。あなたの愛する楽劇の結末が。私は脅しに屈したくない」


 リゼルは決意していた。マーラーを守るためだけではない。自分自身の尊厳を守るために何ができるかを。


 「欠陥を抱えた男は、純粋な乙女の死によって救済される。ユダヤ人を中傷したワーグナーの愛した美学。その通りの結末にユダヤの私が劇を完成させてあげる。コジマにもアルマにもできなかったことを」


 そして宮廷歌劇場の方を見て冷たく微笑む。


 「グスタフ。あなたは私の死によって救われる。――だが、私は、あなたを救うためだけに死ぬのではない。私の死はあなたを死ぬまで縛り付けるでしょう」


 彼女は立ち上がり、ストーブの前に跪いた。 まだ赤く燃えている石炭を、復讐の道具として素手で掴んだ。


 「コジマ・ワーグナー……あなたは私に言ったわね。『ユダヤの女は石炭のように燃え尽きる運命だ』って」


 彼女は燃える石炭を右手に握りしめたまま、毒を飲み干した。


 ――激しい痙攣。喉が焼ける。 死の間際、リゼルは必死に右手を握り締めた。 石炭が掌の中で砕け、粉になる。血と煤が混じり、黒い涙のように指の間から滴る。


 彼女は最後に、かすれた声で歌った。

 

「……石炭は……私が……握った。……火を……点けたのは……誰……?」


 火をつけたこと。それはこの死の原因が誰にあるのか、ということを問いかけたのか。リゼルが死の悲劇の原因は、コジマだったのか、あるいは…。


 翌朝、発見された遺体は、右手に砕けた石炭を握りしめ、検死官は「自殺。青酸カリによる」と断定した。


 マーラーは気づいていた。 彼女が石炭を握りしめたのは、「苦しんだから」ではなく、「救済という名の呪いを、コジマとその芸術に返すため」だったことを。


――リゼルは自らの死を、コジマの言葉その通りに演じきることで、逆に彼女たちを永遠に呪う呪文とした。



 皇帝の居城ホーフブルクの真向かい、ホテル・インペリアルの最奥のサロン。

 暖炉の火だけが赤く揺れている。

 テーブルを挟んで、二人だけ。

 グスタフ・マーラー。

 コジマ・ワーグナー。

 扉は固く閉ざされ、従者は遠ざけられている。

 バイエルンからの使者すら、ここには入れなかった。

 これは「取引」ではなく、決闘だった。

 コジマは黒いヴェールを外し、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 64歳とは思えぬ鋭い眼光。まるでヴァルハラの女王が地上に降りてきたようだった。


 「ようやくお会いできましたね、マーラーさん」


 声は低く、氷のように澄んでいる。

 マーラーは立ったまま、拳を握りしめた。唇が震えている。怒りか、恐怖か、それとも――


「あなたは……リゼルを殺した」


 コジマは微笑んだ。それは慈悲でも勝利でもない、ただの確信だった。


「殺したのは、あなたですよ、マーラーさん」


「彼女はあなたを守るために死にました。私がしたのは、彼女に『選択肢』を提示しただけ」


 マーラーは一歩踏み出した。

 声が裏返る。


「選択肢だと? 脅迫だ! 外交問題にすると脅して、彼女を追い詰めて……!」


「脅迫?」


 コジマは静かに首を振った。


「私はただ、リヒャルトの遺産を守ったまでです。ユダヤ人がワーグナーの聖地を汚すなど、許せません。あなたがバイロイトに来ようとしたときから、決まっていたことです」


 彼女はテーブルの上に、一枚の紙を滑らせた。

 バイエルン王国内務省の箋紙。ルートヴィヒ2世時代の古い紋章が押されている。


「署名してください。

 ・リゼル・ローゼンベルクに関するすべての文書を、私たちが破棄する。

 ・あなたは彼女の死について、生涯口を閉ざす。

 ・バイロイト音楽祭の敷居を、今後永久にまたがぬこと」


 マーラーは紙を見つめたまま、動かない。


 「……もし拒めば?」 


 コジマは暖炉の火を見据えた。


 「明日の朝、皇帝フランツ・ヨーゼフ陛下は、『ウィーン宮廷歌劇場総監督が、ユダヤ人愛人を偽貴族として囲い、アウグスライヒの名誉を汚した』という報告を受け取ります。バイエルン王室の名において、正式に」


 沈黙が落ちた。

 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋を切り裂く。

 マーラーはゆっくりと椅子に座った。

 顔から血の気が引いている。


 「……リゼルは、私のせいで死んだ」


 声は掠れていた。


 「彼女の死が何を意味しているかあなたにはわかりますまい。彼女は我々にこういったんですよ。『死ぬまで縛り付ける』って」


 コジマは目を細めた。「縛り付ける? 可愛らしい子ですね。でも、死んだ女の呪いなど、芸術の前では無力です」

 マーラーは初めて、笑った。それは狂気に近い笑いだった。


 「無力……ですか?」


 マーラーはゆっくりと微笑んだ。

 それは、死の淵で初めて見せる、本物の笑みだった。


 「フラウ・ワーグナー。もしもですよ?」


 彼は静かに、まるで舞台の台詞を語るように続けた。


 「もし、旧宮廷歌劇場の歌姫が、バイロイトの未亡人に脅迫されて、ブリュンヒルデのような壮絶な自死を選んだ――と、新聞が大騒ぎしたら、どうなりますかね?」


 コジマの顔色が変わった。


 「ユダヤ娘が『神々の黄昏』の最後を、文字通り演じきって死んだ――ワーグナー先生もヴァルハラで拍手喝采されるでしょう。『見ろ、俺の美学はユダヤ人にも通用する!』って」


 マーラーは皮肉を込めて笑うと一歩近づいた。


 「ウィーン市民は面白がりますよ。カフェでは『ユダヤのブリュンヒルデ』と呼ばれて、パリもベルリンもロンドンも、みんな笑いものにします。各地の歌劇場では演出が『ユダヤ風』に書き換えられるかもしれませんな。石炭を抱いたブリュンヒルデ――なかなか劇的じゃありませんか? あのワーグナーがユダヤに屈した!と笑い声が聞こえる歌劇場に、リゼルも、あの世で喜ぶでしょう。『ワーグナーの一番の理解者はユダヤ人だった』、とね」


 コジマが立ち上がった。声が震えている。


 「なんということを! そんなことをしたら、皇帝はあなたを罷免するだけでは済まさないわ!」


 マーラーは静かに首を振った。


 「所詮、私はユダヤ人です」


 声は低く、しかし確実に部屋を満たした。


 「私は三重の意味で故郷のない人間。オーストリア人の間ではボヘミア人として。ドイツ人の間ではオーストリア人として。そして全世界の国民の間ではユダヤ人として。どこに行っても招かれざる客。《歓迎される》ことなど、一度もありませんでした」


 彼はペンを取り、コジマの目の前で契約書に近づけた。


 「今さら皇帝の顔色をうかがいますか?私は、もう失うものなんて何もない」


 一瞬の沈黙。マーラーはペンを置き、代わりに総譜をテーブルに滑らせた。


 「署名しますよ、フラウ・ワーグナー。でも覚えておいてください。私が沈黙するのは、百年後の誰かが叫ぶためです」彼はゆっくりとサインした。


 「リゼルは死にました。でも、彼女の最後のアリアは、まだ鳴っている」


 コジマは無言で契約書を掴み、背を向けた。

 扉が閉まる瞬間、マーラーは静かに呟いた。


 「……火を点けたのは、誰だ?」


 暖炉の火が、赤く爆ぜた。



 マーラーはホテル・インペリアルを後にした。

 雪はもう止んでいた。石畳に自分の足跡だけが、黒く残る。

 彼は誰にも告げず、宮廷歌劇場の裏口から楽屋棟に入った。

 深夜の劇場は、まるで巨大な棺だった。

 ホルン首席の楽屋。

 そこに、代々受け継がれてきた古いウィンナホルンが、壁に掛けられている。 マーラーはそれを外し、膝の上に載せた。

 百年以上前の、傷だらけのベル。

 彼は机から青鉛筆を取り出し、

 ベルの内側、ほとんど見えない位置に、

 極めて浅く、しかし確実に、

 二つの文字を刻み込んだ。

 L.R.

 指で触れなければ決して読めない。

 指で触れたときだけ、かすかに凹みが残り、

 百年後の誰かが「これは文字だ」と気づくように。

 刻み終えると、彼はホルンを静かに壁に戻した。

 次に、彼は自室の金庫から、まだ誰も見たことのない総譜を取り出した。

 交響曲第6番「悲劇的」――完成したばかりの自筆譜。

 終楽章、クライマックスのページ。

 三度目のハンマーの打撃が、赤いインクで大きく記されている。

 マーラーは深く息を吸い、

 青鉛筆を握りしめた。

 そして、

 ゆっくりと、

 執拗に、

 何度も何度も、

 第三のハンマーの音符を塗りつぶした。

 塗り重ねるたびに、鉛筆の芯が折れる。

 新しい鉛筆を取り、また塗る。

 最後に、彼はその塗りつぶされた跡の横に、

 ほとんど判読不能なほど小さく、しかし確かに、書き添えた。


 Erkenne, was dies Schlagen bedeutet.

 ――理解せよ、この打撃が何を意味するかを。

 そしてその下に、第二交響曲「復活」の言葉を重ねた。

 Aufersteh’n, ja aufersteh’n……

 書き終えると、彼は総譜を閉じ、

 鍵のかかった引き出しの奥に押し込んだ。


 立ち上がったとき、

 マーラーの頬に、初めて涙が伝った。


 「リゼル……私はコジマを告発することはできなかった。でも、お前は勝った」 


 彼は楽屋の明かりを消し、

 闇の中に立ち尽くした。

 そのとき、どこからともなく、

 かすかな、震えるようなホルンの音が聞こえた気がした。

 まだ、誰にも吹かれていない、

 百年後の息を待つ、

 赤いホルンの、最初の呻きだった。

 ――第三のハンマーは、

 こうして楽譜から消された。

 だが、同時に、

 永遠に刻まれた。


 「私はお前の存在を生涯忘れることはないだろう。永遠に…」



第5章 よみがえるヴァルキューレ


 桐生律は楽友協会の書庫で、深夜まで独りでいた。机の上には三つの資料が並んでいる。一つはマーラー自筆譜のファクシミリ(終楽章・打楽器パート)。第三のハンマーが、青鉛筆で執拗に塗りつぶされている。

 もう一つは『神々の黄昏』ブリュンヒルデ役のソプラノ譜。リゼルが使っていたもの。

 そして三つめはその裏表紙に挟まれた新聞記事。


 「ユダヤ娘リゼル・ローゼンベルク嬢、石炭を握り自殺」


 律は自筆譜の塗りつぶされた部分を、指で何度もなぞった。


 「……なぜ、三度目だけを消した?」


 マーラーは決して臆病ではなかった。初演直前まで三回のハンマーを鳴らすと言い張っていた男だ。それが突然、二回に減らした。律の脳裏に、ふと、ある記憶が蘇った。


 ブルックナー第3番。


 マーラーが若かりし頃、ブルックナーに師事していた頃の交響曲。そしてその曲は、ワーグナーに献呈されたものだった。


 「……献呈」


 律は息を呑んだ。マーラーは、ワーグナーに「献呈」された交響曲の「3番目」を、自らの交響曲第6番の「第三のハンマー」に重ねていたのだ。


 第三のハンマー=ワーグナーへの献呈=コジマ・ワーグナーへの「贈り物」だが、マーラーはそれを塗りつぶした。


つまり――


 「献呈を、取り消したんだ」


 律は震える手で、ブリュンヒルデのソプラノ譜を開いた。石炭を握りしめたリゼルの死。

 ブリュンヒルデの自己犠牲。すべてが繋がった。リゼルは「ブリュンヒルデ」として死に、

 マーラーはその死を「ワーグナーへの献呈」と位置づけ、しかし最後にその献呈を拒絶した。


 第三のハンマーを消すことで、


 マーラーはコジマにこう告げたのだ。


 「あなたの勝利は、認めない」


 律は立ち上がっていった」


 「……犯人は、コジマ・ワーグナー」


 律は呟いた。


 「マーラーは、第三のハンマーを消すことで、ワーグナー家への献呈を取り消し、同時リゼルの死が自殺ではなく、コジマによる脅迫の結果であることを、永遠に記録した」


 塗りつぶされた跡は沈黙ではなく、もっと大きな叫びだった。

 律はホルンを手に取り、楽屋に戻る廊下を歩きながら、誰にも聞こえない声で言った。







エピローグ


 2004年12月、楽友協会楽屋棟。マーラー交響曲第6番「悲劇的」の演奏会が幕を落とした。終演後拍手がまだ鳴り止まない中、桐生律は興奮冷めやらぬ顔で楽屋に戻ってきた。汗で髪が額に張りつき、頬は紅潮している。


 「今日も凄かった! あのフィナーレ、二度目のハンマーが落ちた瞬間、ホール全体が震えた!」


 そこにいたホルン首席のハンス・ペーターが、にやりと笑った。


 「いやいや、今日の演奏なんかまだまだヒヨッコの演奏じゃよ。わしが20才と若かった頃、ブルーノ・ワルター先生が戦後ウィーンに戻ってきたときの『悲劇的』は、そらもう別次元だったわい。ナチスやソ連のせいでウィーンフィルもがたがただった時代だったから、運よく演奏に参加できて幸運だったんじゃが」


 ペーターは昔を思い出しながら言う。もう70過ぎだがまだまだ現役だ。


 「ナチスに追われてアメリカに逃げてたワルター先生が、久しぶりにマーラーの第六番を振ったんじゃよ。その指揮ぶりたるや、まるでワルター先生の師匠じゃったマーラー本人が降りてきたみたいでな……」


 ペーターは古いホルンを膝に載せながら、遠くを見るような目をした。


 「ワルター先生はマーラーの一番弟子だったから、よく昔話を聞かされたもんじゃ。ある日、先生がぽつりと言ったことがあってな」


 彼はワルターの口調を真似て、低く語り始めた。


 『わしらはナチスの奴らにひどい目にあった。ヒトラーのやろう、コジマ・ワーグナーに取り入って箔をつけやがって、挙句に国を乗っ取りやがって……。それでもな、マーラー先生から昔、面白い話を聞いたことがある。その話はワシにとって痛快だったんでよく覚えてるんじゃよ。その昔、わしらユダヤ人をいじめていた宮廷歌劇場になんとソプラノを務めたユダヤ人の娘がいたというんだ。えーと、名前はなんじゃったかな……。

 確か、リゼル・ローゼンベルク……だったか。

 マーラー先生がとても可愛がっておられたそうじゃが、

 ある日突然消えてしまって……。

 マーラー先生もフロイトの世話になっていた時期の話だったし、そんな話は他の誰も聞いたこともなかったから誰も信じなかったがね。

わしも長いこと、先生の作り話だと思っていたが、マーラー先生がユダヤ嫌いのやつらにいっぱい食わせたとしたら痛快じゃないかい』


 律は、ぴたりと動きを止めた。


 「リゼル……ローゼンベルク?」


 頭の中で、すべてのピースが音を立てて嵌まった。


 リゼル・フォン・ヴェステン=リゼル・ローゼンベルク


 マーラーは、リゼルの偽名ではなく本名を、このホルンに、そっと刻んでいたのだ。律は膝の上の古いウィンナホルンを見下ろした。ベル内側の、ほとんど見えない傷。


 L.R.


 それは、愛した人の、本当の名前だった。

 胸が熱くなった。百年越しの想いが、今、確かに届いた。


 「……マーラーは、本名の彼女を覚えていた」


 律は呟いた。


 「偽りの貴族の名じゃなく、ユダヤ人の娘として、最後まで愛したんだ」


 ペーターは静かに微笑み、律の肩を叩いた。


 「このホルンも、もう泣かなくなったな」


 律は唇をホルンに当て、小さく、優しく息を吹き込んだ。――もう、違和感はなかった。ただ、澄んで、温かく、リゼル・ローゼンベルクの声が、楽友協会の夜空に、静かに溶けていった。







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