ディアブロとアルティナの共闘
アビスホール。
濁流のように渦巻く魔力の中を、ディアブロは一切の迷いなく駆け抜けていた。
足場という概念は存在せず、上下すら曖昧に歪んだこの世界において、通常であれば一歩進むことすら困難であるはずだが、ディアブロは踏み込んだ瞬間にそこへ“足場を成立させ”、次の瞬間にはすでに別の位置へと移動している。その動きに淀みはなく、むしろこの異常な環境こそが自然であるかのようにすら見えた。
視界の端で“それ”が蠢く。形を持たない塊でありながら、その魔力の密度だけで理解できる――強い。ディアブロは一瞬で判断を下す。(……勝てる)
その結論に迷いはない。踏み込むと同時に間合いの内側へ侵入し、拳を振るう。空間ごと歪ませるような一撃が対象を捻じ潰す。しかし、手応えはあったにも関わらず、それは消えない。
(硬い)
即座に離脱する。
その判断は早い。直後、先ほどまでいた位置の空間が丸ごと消し飛ぶ。振り返る必要はない。来る位置も速度も到達のタイミングも、すべて読み切っている。
軌道をわずかにずらし、紙一重で回避しながら別方向へ跳ぶ。
逃げる。だがそれは敗走ではない。“選択”だ。
勝てる相手であっても時間がかかるのであれば、その時点で価値はない。
時間をかけた瞬間、別の“勝てない相手”と鉢合わせる可能性がある。
それはすなわち死を意味する。だから捨てる。戦う相手を選び続ける。
ディアブロは視線を走らせ、次の標的を見極める。魔力の密度、魂の歪み、存在の重さ――それらを一瞬で判別し、最も効率よく処理できる対象を選び抜く。(これだ)次の瞬間にはすでに背後を取っている。
掌を叩き込むと同時に対象は爆ぜ、今度は確実に“壊れた”。
だが確認はしない。壊れたかどうかは重要ではない。
重要なのは、自分が生きているかどうか。それだけだ。
さらに動く。止まらない。
止まった瞬間に囲まれ、囲まれた瞬間に終わる。この空間では、それが絶対の法則だった。複数の気配が迫る。
どれも強い。だが、その中にわずかな“隙”がある。ディアブロは迷わずそこへ突っ込む。正面からではない。空間そのものを歪ませ、“そこにいることにする”という移動。理解不能な動きでありながら、ディアブロにとっては自然な選択だった。
斬撃が走り、対象が裂ける。直後、左右から圧力が迫る。
挟み潰し。完全な回避は不可能だが、ディアブロは身体をわずかに“ずらす”ことで直撃を避ける。その代償として肩が削られるが、問題はない。その削られた流れすら利用し、滑り込むように懐へ侵入する。至近距離から拳を叩き込み、内部から破壊する。
対象は崩壊するが、ディアブロはそれを確認することなく即座に離脱する。次の瞬間、その位置に巨大な“口”が閉じ、空間ごと喰い尽くす。
(……遅い)
まだ余裕はある。ディアブロは理解している。止まれば終わる。迷えば終わる。選び続ける限り、生き残ることができる。
だが――その認識が崩れる。
拳を叩き込んだ瞬間、違和感が走る。確実に砕いたはずの存在が、崩れない。(……違う)ほんのわずかな遅れ。
しかし、その“わずか”が致命的だった。空間が閉じる。圧縮。逃げ場が消える。次の瞬間、衝撃が全身を貫き、身体が潰されるように押し込まれた。
弾き出される。アビスホールの流れへと叩き込まれ、制御を失う。
(まずい!!)
即座に理解する。これは“勝てない側”だ。先ほどまでの相手とは根本的に違う。存在そのものが重い。押し潰される。削られる。このまま流されれば終わる。
“それ”が追ってくる。逃げ場はない。
(止める)
ディアブロは無理やり空間を蹴り、存在を固定する。通常ならあり得ない動きだが、そんな理屈は関係ない。
流れに逆らい、“その場にいる”ことを成立させる。止まった瞬間、目の前に“それ”が現れる。距離はほぼゼロ。
迎撃のために腕を振るうが、触れた瞬間に削られる。感覚が消える。(無理だ)その結論に迷いはない。
ならば、逃げるしかない。
だが距離がない。…ならば切る。
次の瞬間、ディアブロは自らの腕を叩き折った。削られる前に切り捨てる。反動を利用してわずかに位置をずらす。ほんの数センチ。しかしそれで十分だった。飲み込まれる軌道から外れ、そのまま転がるように離脱する。
距離を取る。片腕は失われた。だが問題ない。動ける。それでいい。
しかし――次はない。速度が違う。確実に追いつかれる。(詰み)一瞬そう判断するが、すぐに否定する。(まだある)ディアブロは逃げずに踏み込む。最も危険な方向へ。喰われる直前の位置、その“内側”へ潜り込み、残った腕で核心へ拳を叩き込む。全身が削られる。それでも止めない。押し込み、壊し、叩き潰す。やがて爆ぜるように空間が開き、ディアブロは外へ弾き出された。
転がる。止まる。だが立つ。(まだいけるな?)
だが、その次の瞬間。
完全に囲まれる。前後左右すべてが塞がれ、逃げ場は存在しない。
(終わりだ…)理解する。
選択肢はない。最後の一撃を叩き込むしかない。
拳を握る。しかし届く前に削られる。身体そのものが消えていく。
(…ククク…ここまでか?)
思考が静まる。
その瞬間だった。
空間が裂ける。外から、強引に。
あり得ない干渉。
濃く、鮮烈な赤が視界を塗り替える。
白い人形の器。その内側に宿る、圧倒的な支配の気配。
“それ”の動きが止まる。
(……あり得ない)
アビスホールが、止められている。
アルティナが一歩踏み出す。
「邪魔…」
その一言で、空間が従う。閉じていた圧力がねじ開けられ、道が強引に作られる。ディアブロの身体は喰われる軌道から弾き出され、生き残る。
ディアブロは視線を向ける。
(干渉しているのか……この場所に…?)
理解する。支配が成立している。
「……干渉してるのか…?」
「説明してる暇はない。動けるなら動きなさい?」
(……理解した)
ディアブロは立ち上がる。全身は限界に近い。だが関係ない。まだ動ける。
視線を前へ。空間がわずかに“整えられている”。これまで通らなかった軌道が、通る。
(これは…使える)
「…行くぞ」
踏み込む。拳が通る。破壊が成立する。次へ。さらに次へ。アルティナが進むたびに空間が支配され、その歪みが戦場を変えていく。ディアブロはそれを読み取り、最短で敵を潰していく。止まらない。
背後から迫る存在。しかし遅い。ほんのわずかな遅れ。それで十分だった。ディアブロは壊し、離脱し、再び踏み込む。
(まだいける…)
「貴方…遅いわね」
「……最適を取っているだけだ」
それだけを返し、再び前へ。
アビスホールの化物達の視線が、一斉にアルティナへと集まる。
それは偶然ではない。
この空間において、“異質な支配”が発生した瞬間、すべての存在が本能的にそれを認識する。
敵意でも、警戒でもない。
もっと原始的な――“排除すべき異物”への反応だった。
ディアブロはその様子を見て、わずかに口元を歪める。
「……やはりそうなるか…」
視線を巡らせながら、淡々と状況を確認する。
「ウルティアのときもそうだったが……貴様らは、引き寄せる…人気者だな?」
アルティナは視線を正面から外さない。
すでに意識は戦闘へと完全に移行している。
「無駄話をしている余裕はないわよ?」
短く言い放つ。
「はやくウルティアの場所まで案内しなさい」
その言葉に、ディアブロは一瞬だけ沈黙する。
そして、周囲を覆う圧倒的な気配を見渡しながら、結論だけを返す。
「その前に、これを抜ける必要があるのでな。」
同時に、空間が震える。
化物達が一斉に動き出す。
包囲。
完全包囲。
逃げ場はない。
だが――
アルティナは動じない。
静かに、手をかざす。
その瞬間。
“支配”が発動する。
空間が歪むのではない。
存在そのものの“所属”が書き換えられる。
化物達の一部が、唐突にアルティナ側へと“反転”する。
そして――
同士討ちが始まる。
凄まじい速度で。
凄まじい密度で。
支配された者と、支配されなかった者。
そして――
アルティナですら支配できない“更に上位の存在”。
それらが、無差別にぶつかり合う。
ディアブロはその光景を見て、即座に理解する。
(明確に分かれている)
支配できる層。
支配できない層。
そして――
“触れてはいけない層”。
その境界が、はっきりと見えている。
だが同時に理解する。
(この規模……維持できる時間は短い)
アルティナは、冷静に前を見据えたまま言う。
「舐めないでくれる?」
その声音には余裕がある。
「私が…本来のものなら……あなたも支配できていたわよ?」
ディアブロは、それを否定しない。
否定する必要がない。
目の前で起きている現象が、すべてを証明している。
「……そうだろうな」
短く応じる。
「だが、まだ、その状態ではない。」
現実だけを言う。
アルティナは一瞬だけ眉を動かすが、それ以上は反応しない。
すでに次の処理へ移っている。
だが――
戦況が変わる。
同士討ちをしていた側が、徐々に押し返され始める。
支配された存在が、明確に削られていく。
アルティナの目が細まる。
「……なによ、あれ」
その視線の先。
他とは明らかに異質な存在。
巨大な“塊”。
だがそれはただの塊ではない。
複数の腕を持ち、圧倒的な力で周囲を蹂躙している。
ディアブロは即座に答える。
「……指だ」
短く。
「あれは、根元に属するものだ」
アルティナの視線がわずかに揺れる。
「指……?」
「ティグルの指と見ていい」
その言葉で理解する。
格が違う理由を。
アルティナは、わずかに息を吐く。
「なら……それに押されるのは屈辱ね…」
ディアブロは感情を乗せずに返す。
「削れるなら、十分価値があるぞ?」
事実のみ。
アルティナは、即座に判断する。
「あなた、手伝いなさい」
「命令は受けない」
即答。
「だが、必要なことはやろう」
次の瞬間。
ディアブロが周囲の魔力を一気に吸引する。
アビスホールの濁流を、強引に引き寄せる。
通常であれば存在ごと削られる行為。
だがディアブロは、それを成立させる。
圧縮。
凝縮。
そして――
アルティナへ流し込む。
魔力供給。
それも異常な密度で。
アルティナの周囲にあった“消費され続ける空間”が、一転して“供給され続ける空間”へと変わる。
アルティナは、わずかに目を細める。
「……便利ね、その力」
ディアブロは淡々と返す。
「評価は不要だ…おまえの力も私のことは言えぬ」
その瞬間。
先ほどまで支配できなかった層にまで、影響が及び始める。
支配の範囲が拡張される。
アルティナは短く言う。
「……二十秒かしら」
ディアブロは即答する。
「十分だ…」
標的は決まっている。
ティグルの“指”。
その巨大な存在へ、支配された化物達が一斉に襲いかかる。
無数の腕がそれらを掴み、引き千切り、叩き潰す。
だが数が違う。
圧が違う。
徐々に、その動きが鈍る。
ディアブロは、その瞬間を逃さない。
「離れるぞ…? 三秒でいい」
短く告げる。
「拘束を維持しろ」
アルティナは無言で応じる。
その代わりに、支配をさらに強める。
ディアブロは、魔力をさらに吸い込む。
限界を超えている。
だが止めない。
圧縮。
極限圧縮。
そして――
踏み込む。
至近距離。
回避は考えない。
すべてを一撃に乗せる。
解放。
爆発的な破壊が、“指”の中心を貫く。
衝撃が空間ごと揺らす。
巨大な穴が穿たれる。
アルティナの声がわずかに揺れる。
「……もう、限界よ」
ディアブロは即座に判断する。
「十分だ」
次の瞬間、アルティナの身体を掴み、強引に離脱する。
速度を一気に上げる。
その場を離れる。
追撃が来る。
だが届かない。
間合いの外へ抜ける。
安全圏――とは言えないが、“即死圏”からは脱した。
アルティナが、わずかに顔をしかめる。
「……強く握りすぎよ貴方」
その腕はすでに崩れかけている。
ディアブロはそれを見て、短く言う。
「保持を優先した」
感情はない。
ただの事実。
そして、わずかにだけ口元を歪める。
「……安定しているな」
アルティナは睨む。
「笑えないわ…こんなとこにウルティアがいたなんて…」
ディアブロは、視線を前へ戻す。
まだ終わっていない。
ただ、一つ切り抜けただけだ。
「……次を考えるぞ」
それだけを告げるのだった。
この矛盾の世界で。
生きるという矛盾を、押し通すために。




