私はクルシアです。
その言葉が落ちたあと、樹界には奇妙な静けさが満ちた。
葉擦れの音すら、どこか遠く感じる。
誰もが言葉を失っていた。失ったというより、何を返せばいいのかわからなかったのだ。
救う段階はもう過ぎている。
ニトが言ったその一言は、ただ冷酷なだけではない。あまりにも現実的で、あまりにも今の状況を言い当てているからこそ、誰もすぐに否定できなかった。
レイズは、じっと足元を見ていた。
白い根が地の奥でゆっくりとうねり、淡い光が脈打つように流れている。その様子は、まるでこの場所そのものが生きていて、会話の続きを待っているようにも見えた。
自分が世界を変えた。
自分が皆を変えた。
その言葉は、まだ胸の奥に刺さったままだった。
レイズは、奥歯を強く噛み締める。
そんなつもりじゃなかった。
そんな大層なことをしようとしていたわけじゃない。
ただ守りたかっただけだ。
アルバードを。
レイズを。
あの場所で失われるはずだったものを、取り返したかっただけだ。
だが、その“だけ”が、ここまでの変化を生んだのだとしたら。
その“だけ”が、この世界の根本を揺らしてしまったのだとしたら。
今さら、守りたい、助けたい、と言うこと自体が、もう甘えなのだろうか。
そんなレイズの沈黙を破ったのは、ガイルだった。
「はぁぁぁ……」
わざとらしく大きく息を吐く。
だが、いつもの軽薄さはない。
「つまりなんだよ。てめぇの言いたいことは、もう迷ってる暇はねぇ、まとめて全部ぶっ壊す覚悟をしろって話か?」
ニトは、少しだけ笑う。
「乱暴に言えばそうだね」
「でも、その乱暴さが今は必要なんだよ」
ガイルは、鼻で笑った。
「てめぇの話はほんっと毎回、腹立つくらい筋が通ってやがるな」
クリスが冷たく言う。
「認めるのか」
「うるせぇよ。認めてるんじゃねぇ。気に食わねぇって言ってんだ」
そう吐き捨てながらも、ガイルはもう反論の角度を探していなかった。
彼もわかっているのだ。
いまここで必要なのは、気に食うかどうかではない。
やるか、やらないかだ。
クルシアは、そんな空気の中でもなお、納得しきれないように眉を寄せていた。
「ですが、ニト様……」
その声には迷いがある。
ついさっきまでは、自分の内にある権能を外したいと願っていたはずなのに、今はそれすらも世界の大きすぎる話の中へ呑まれかけている。
「私は……私は、構いません。ダルクの名残が消えることも、魔女でなくなることも、ティルシーを返すことも……それは、私が望んだことです」
そこまで言ってから、クルシアは一度言葉を止めた。
何を迷っているのか、自分でも整理しきれていないようだった。
「でも……そうなると、ダルクが残したものも、ダルクがこの世界に与えたものも、全部“不要だった”ことになるのですか……?」
その問いは、権能そのものへの執着ではなかった。
もっと根深い問いだ。
自分が信じていたもの。
自分が美しいと感じていたもの。
それらが全部間違いだったのかと、そう聞いている。
ニトは、すぐには答えなかった。
彼にしては珍しく、一拍置いてから言う。
「不要だった、とは言わないよ」
その場の空気がわずかに揺れる。
クルシアも、レイズも、エルビナも、思わずニトを見る。
「必要だった時代があった」
「必要だった局面があった」
「そこに至るまで、そこを越えるために、ダルクの権能も、支配も、争いも、全部が“過程”としては必要だった」
静かに、だがはっきりと。
「でも、もう終わったんだ」
「過程をずっと続けていたら、いつまでも到達しない」
「だから切り離す」
その言葉に、クルシアは目を伏せる。
否定はできない。
自分でも、もうわかっていたのだろう。
ダルクの残した在り方は、もう“今”を導くものではなくなっている。
むしろ、そこに残れば残るほど、古い戦いの形へと引き戻されるだけなのだと。
エルビナは、まだ顔を上げられずにいた。
ジークの名が出るたびに、その表情は痛々しいほど揺れる。
彼女の中では、まだジークが“終わった存在”ではないのだ。
壊れていると理解しても、戻れないと突きつけられても、それでもなお、見捨てられない。
「ねぇ……」
エルビナが、小さく言った。
誰に向けたものでもないようで、けれどはっきりとニトへ向いている。
「もし……もしジークが、本当にもう戻れないとしても……」
そこで、声が揺れる。
「それでも……誰かが、最後まで見ていてあげることは必要じゃないの……?」
その一言は、責めるためのものではなかった。
祈りだ。
せめて完全に無意味な存在として切り捨てないでほしい。
せめて、誰かが見ていてくれる世界であってほしい。
その願いが、そのまま言葉になっていた。
レアリスが、その言葉に反応する。
「見てる……よ」
エルビナが顔を上げる。
レアリスは、相変わらず感情の見えにくい顔のまま、続けた。
「ジークは……消えてない」
「いまも、どこかにいる」
「だから……私は見てる」
それは救うという宣言ではなかった。
許すという言葉でもなかった。
ただ、そこに在ることを見捨てないというだけの宣言。
だが、それはレアリスにしか言えない、奇妙な優しさだった。
ニトは、その言葉を聞いて、少しだけ肩をすくめる。
「見てるのはいいよ」
「それ自体は止めない」
「でも、“見てる”だけじゃ済まない段階に来たら、僕は迷わないってだけさ」
そして、エルビナを見た。
「君もそこは理解しておきなよ」
「今後のジークがどうなるかは、君の願いじゃなく、あの男が何を選び続けるかで決まる」
エルビナは、何も言い返せなかった。
その通りだからだ。
ジークをここまで追い込んだ一因が自分たちにあるとしても、それでも今なお選び続けているのはジーク本人だ。
自分の痛みを。
自分の恨みを。
自分の復讐の形を。
それを捨てない限り、誰かが外から救い上げることなどできない。
リリィは、そんなやり取りを見ながら、そっと手を胸に当てていた。
彼女の顔色は悪い。
アルティナを送り出したあとだからというだけではない。
この場にいる誰よりも、“終わらせる”ということの意味を、重く受け止めているのかもしれなかった。
「ニト様……」
細い声で呼ぶ。
「私たち……本当に全部、終わらせられるんでしょうか……」
ニトは、すぐに答えなかった。
珍しく、その問いには軽口も笑みもなかった。
しばらくしてから、ゆっくりと口を開く。
「終わらせる、じゃない」
リリィが目を瞬かせる。
ニトは続ける。
「終わるんだよ」
「もう始まってる」
「僕たちはその“終わり方”に関われるかどうかってだけ」
誰も、言葉を挟まない。
「だから勘違いしないで」
「僕たちが世界を救うんじゃない」
「僕たちは、世界が崩れるなら、その崩れ方を少しでも意味のあるものにしようとしてるだけ」
その言葉は、希望を奪うようでいて、同時に現実を与える。
救済ではない。
正義でもない。
ただ、最後の責任だ。
クリスがそこで静かに問う。
「ならば、その責任を果たすために必要な順番を整理するべきだ」
その声音は冷静だった。
感情で立ち止まっていられないのは、彼も同じなのだろう。
「アルティナはアビスホールへ送った。次はクルシアの因子除去か」
「その後は?」
ニトは、ようやくいつもの調子を少しだけ取り戻したように笑う。
「そうそう。そういう話をしようよ」
指を一本立てる。
「まず、クルシアからダルクの因子を切り離す」
「これは根元に返すためでもあるし、“いまの世界”から不要な争いの固定を剥がすためでもある」
次にもう一本立てる。
「そのあと、ティルシーを返す準備」
「ただし、これはクルシアとエルディナ、両方の問題でもあるから、レアリスだけじゃなく本人たちの意思確認も必要かな」
さらに一本。
「そしてその間に、アルティナがアビスホールでどれだけ根元の力を裂けるか」
「そこでディアブロが耐えきれるかどうか」
レイズが顔を上げる。
「……耐えきれなかったら?」
ニトは、少しだけ笑みを消す。
「その時点で、かなり終わりだね」
重い沈黙が落ちる。
だが、ニトは誤魔化さない。
「だからこそ、急ぐ必要がある」
ガイルが舌打ちする。
「ほんっと、ろくでもねぇ話ばっかだな……」
「でも、嫌いじゃないでしょ?」
「嫌いだっつってんだろ」
そう言いながらも、ガイルはもう前を向いていた。
逃げるつもりはない。
戦いを好む男ではあるが、今の彼は単に戦いたいわけではない。
守るべきものも、返したいものも、失いたくないものも、きちんと知っている。
それは、かつての魔王とはもう違う在り方だった。
レイズは、ゆっくりと深呼吸した。
「……壊す、か」
小さく呟く。
「この世界の在り方そのものを……」
ニトは頷く。
「そう」
「でも壊すのは、壊すためじゃない」
「もうその器が限界だからだよ」
レイズは目を閉じる。
アルバードを守りたかった。
レイズを守りたかった。
それだけだった。
だがその“それだけ”の積み重ねが、いまや世界の器そのものを軋ませている。
なら、自分が考えなくてはいけないのは、やはり誰か一人をどうこうすることではないのだろう。
もっと大きなものを。
もっと根本を。
そこへ手を伸ばさなければ、結局はまた同じことの繰り返しになる。
レイズはゆっくりと目を開いた。
その瞳には迷いが残っている。
だが、先ほどまでのような“わからなさ”だけではない。
痛みを抱えたまま、それでも前を見る覚悟が、ようやく輪郭を持ちはじめていた。
「……わかった、とは言えねぇ」
正直に言う。
「納得も全部はできない」
「ジークのことだって、まだ俺は割り切れない」
ニトは、それでいいとでもいうように静かに聞いている。
「でも……」
レイズは、レアリスを見る。
クルシアを見る。
エルビナを見る。
リリィを見る。
そして、ガイルとクリスを見る。
「それでも、やるしかねぇんだろ」
ニトは、ようやく柔らかく笑った。
「うん」
「そういうこと」
レアリスは、その会話を黙って聞いていた。
長い沈黙のあと、小さく言う。
「……なら」
皆の視線が集まる。
「クルシア、こっち」
クルシアの肩が、ぴくりと揺れる。
ついにその時が来たのだ。
自分の中に残る、ダルクの名残を切り離す時が。
クルシアは、一歩を踏み出した。
迷いはある。
痛みも、恐れもある。
だが、それでも。
彼女はもう、“返したい”と願ってしまった。
だから進むしかない。
樹界の淡い光が、さらに濃く、静かに脈打ち始める。
次の選択が、またひとつ始まろうとしていた。
レアリスの一言で、場の空気がわずかに張り詰める。
名を呼ばれた瞬間、クルシアの肩がぴくりと震えた。
ほんのわずか。
だが確実な反応だった。
彼女は一歩を踏み出そうとする。
だが、その足が止まる。
レイズがそれに気づく。
「……どうした」
クルシアは、少しだけ俯いたまま、小さく息を吐く。
そして、ゆっくり顔を上げた。
その表情には、これまで見せていた“戦いを肯定する者”としての強さとは違う、別の感情が混じっていた。
「ひとつ……訂正しておきます」
その声は静かだが、はっきりしている。
ニトが、興味深そうに視線を向ける。
「訂正?」
クルシアは、わずかに眉を寄せる。
「私を……“ダルク”と呼ぶのはやめてください」
一瞬、場が止まる。
誰も予想していなかったわけではない。
だが、ここまで明確に拒絶するとは思っていなかった。
クルシアは続ける。
「私は……ダルクではありません」
その言葉には、はっきりとした拒絶があった。
自分の中にその因子があることは理解している。
それが影響していることもわかっている。
だが、それと“自分がダルクである”ことは、まったく別だ。
「確かに、私の中にはその力がある」
「戦いを肯定する思想も、そこから来ているのかもしれない」
自分で認める。
逃げない。
だが――
「それでも、それは“私”です」
強く言い切る。
「ダルクではない」
ニトが、少しだけ目を細める。
「なるほど」
軽く頷く。
否定はしない。
むしろ納得しているようだった。
「いいね。そういうの」
クルシアは眉をひそめる。
「……なにがですか」
ニトは肩をすくめる。
「自分をちゃんと“分けてる”ところ」
「権能に飲まれてない証拠だよ」
その評価に、クルシアは複雑そうな顔をする。
褒められているのか、試されているのか分からない。
だがニトは続ける。
「でもさ」
少しだけ声色が変わる。
「その“分け方”を最後まで通すなら、なおさら外す意味はあると思わない?」
クルシアは黙る。
ニトの言っている意味は理解できる。
自分がダルクではないと証明したいのなら、その因子を手放すことはむしろ自然だ。
だが、それでも。
簡単に割り切れるものではない。
レイズが口を挟む。
「……嫌なんだろ」
クルシアが視線を向ける。
レイズは、あえて淡々と言う。
「自分じゃないものとして扱われるのが」
クルシアは、一瞬だけ言葉を失う。
だがすぐに、目を細めた。
「……当然です」
その答えは即答だった。
「私は、私として生きてきた」
「戦いを肯定してきたのも、私の意思です」
「それを、すべて“ダルクだから”と片付けられるのは……不愉快です」
その言葉には、明確な怒りがあった。
これまで抑えていたものだ。
クルシアは続ける。
「私は、戦いを美しいと思っている」
「それは変わりません」
視線をまっすぐニトへ向ける。
「たとえ権能を外したとしても、それは変わらない」
そこに迷いはない。
だからこそ――
「だから私は、それを“私の意思”として残したまま、外したい」
矛盾しているようで、していない願い。
力に支配されるのではなく。
力を理由にされるのでもなく。
自分の意思として在り続けたまま、切り離す。
それがクルシアの選択だった。
ニトは、静かに笑う。
「いいじゃない」
「それなら、なおさらやる価値がある」
レアリスが、じっとクルシアを見る。
「……大丈夫?」
その問いは、珍しく感情が乗っていた。
クルシアは、ほんのわずかだけ目を伏せる。
怖くないわけがない。
自分の中の一部を切り離すのだ。
何が残るのかも、何が消えるのかも、完全にはわからない。
だが――
「大丈夫です」
顔を上げる。
「私は……私ですから」
その言葉は、先ほどよりもずっと強かった。
レアリスは、小さく頷く。
「……わかった」
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
樹界の空気が、再び脈打つ。
白い根がわずかに光を強め、足元から静かに魔力が立ち上がる。
クルシアは、その場に立ったまま、動かない。
逃げない。
揺れない。
ただ、受け入れる。
自分の中にある“ダルクではない何か”と、決別するために。
レイズは、その背中を見ながら、小さく呟いた。
「……強いな」
ガイルが鼻で笑う。
「お前がそれ言うかよ」
だが、その声にはどこか感心が混じっていた。
クリスも、無言のまま頷く。
これは戦いではない。
だが確実に、“自分と戦う”という意味では、誰よりも過酷な瞬間だった。
レアリスの手が、クルシアへ触れる。
その瞬間。
空間が、わずかに歪んだ。




