生きた証を作る。
レアリスは、ニトの言葉を受けてもなお、視線を逸らさなかった。
アルティナのこと。
根元のこと。
この世界の終わりと始まり。
そのどれもが重く、理解しきれないほど大きい。
それでも、レアリスの中で、まだ切り離せないものがあった。
「……ジークは……?」
ぽつりと落ちるような声だった。
その名が、この場に再び浮かび上がる。
レアリスの瞳には迷いがある。
それは肯定でも否定でもなく、ただ確かめずにはいられない想いから来る揺らぎだった。
「ジーク……」
続けて、今度はエルディナが口を開く。
その声は、先ほどまでより明らかに弱い。
強気に怒鳴ることも、感情のままに噛みつくこともできない。
ただ、すがるようにニトを見る。
「ねぇ……ジークだって……ちゃんと救ってあげてくれるんだよね……?」
その問いは、願いそのものだった。
期待というより、祈りに近い。
自分でも無理だとわかっている。
それでも、そうであってほしいと願わずにはいられない。
だが、ニトはその問いに対して、あまりにも冷静に、そしてあまりにも冷たく返した。
「救う??」
一度、言葉を繰り返す。
まるでその発想自体が理解できないとでもいうように。
「なんで?」
その一言は、鋭かった。
感情がないわけではない。
むしろ逆だ。
感情があるからこそ、そこには一切の揺らぎがなかった。
その言葉に、レイズも思わず反応してしまう。
「お、おい……」
ニトを見る。
「ある意味……平等を掲げるんだろ……?」
「ジークだって……救いの対象になるんじゃないのか?」
それは反論というより、確認だった。
ニトが言っていることはあまりにも大きく、あまりにも極端だ。
だからこそ、その中で“救い”がどこまで含まれるのかを、レイズは確かめたかった。
ニトは、レイズの言葉にすら首を傾げる。
「え?」
そして、当たり前のように言う。
「嫌だよ?」
少しも迷わずに。
「救うつもりなんて無いよ?」
その場の空気がさらに重くなる。
ニトは静かに続けた。
「だって彼は、僕の国を壊した」
「ハルバルドを殺した」
その名を口にするときだけ、ほんの少しだけ声の温度が下がる。
「それも意味のない殺しだ」
ニトの瞳は、もう笑っていなかった。
「ジークってのは、あまりにもすべてを憎み、恨み……」
「そして、復讐の在り方そのものを“救い”にしてしまった存在さ」
一語ずつ、はっきりと。
「なら、もう必要がない」
「救いようがない」
「なら、せめて利用はしてあげる」
その言い方は残酷だった。
だが、それを言っているのはニトだ。
世界の在り方を知り、世界の歪みも知り、そのうえでなお、こう言っている。
レアリスは小さく首を振った。
「やっぱり……」
「やっぱり、すべて認められない……」
その声は小さい。
けれど、そこには確かな拒絶があった。
「ジークは……ちゃんと私が……」
少しだけ言葉が詰まる。
「私が見てる……ね?」
自分でも、何を言っているのか整理しきれていないのかもしれない。
助ける、とは言わない。
許す、とも言わない。
ただ、自分の目の届くところに置いておきたい。
少なくとも、自分が知っている状態で在らせたい。
その願いに近い言葉だった。
ニトは、その言葉を否定しなかった。
「ぁあ、見ててくれていいよ」
あっさりと答える。
「どんな風に変わるのか、僕にもわからないけどさ」
そして、すぐに続ける。
「でも、もし外で見かけることがあれば、僕は迷わずその男を捕まえる」
「そして利用するからさ」
レアリスの瞳が揺れる。
「利用……?」
ニトは笑った。
だがその笑みは、明るいものではない。
どこか現実を知りすぎた者の、諦めに近い笑いだった。
「だって、根元がこっちにきたら依代を選ぶでしょ」
「なら、ジークはすごく都合がいい」
一拍置いて、さらりと言う。
「ジークに根元を宿らせる」
その言葉に、周囲の空気が一気に張りつめる。
誰もすぐには反応できなかった。
あまりにも自然に、とんでもないことを言ったからだ。
ニトは、そんな空気すら意に介さず続ける。
「まぁ、他の魔女に禁忌まで犯して乗っ取られるとか……」
「そんなレベルじゃ済まないけどさ」
軽く言っているようで、その内容は凄惨だった。
「でも少なくとも、彼はそうなるだけの罪を犯している」
「少なくとも、彼を許さない存在は……僕も含めて、手に負えない者があまりにも多い」
その言葉は、裁きだった。
誰か一人の感情ではない。
ジークという存在が背負ったものの大きさ、その結果として生まれた憎しみの総量を、そのまま突きつけるような言葉だった。
レイズは、その場で拳を握る。
「ふざけるな……」
低く、抑えた声だった。
「ジークが……何をしたのか……クルシアとガイルから聞いただけでも、とんでもないことだってわかってる」
そこは否定しない。
ジークのしたことは、間違いなく許されない。
だが、レイズは続けた。
「だけど!!」
その声が強くなる。
「それは、ジークをそんな風にさせた存在がちゃんといた」
「創ってしまった者がいた」
ニトは無言で聞いている。
レイズは止まらない。
「なら、それは……みんな同じだろ」
「みんな……そうなるように創られた」
その言葉には、怒りというより苦しみがあった。
レイズは、これまで見てきたものを知っている。
人も、魔族も、エルフも。
魔女も、勇者も、王も、魔王も。
誰もが何かに縛られ、何かに押し流されて、そうなるように形作られていた。
だからこそ、ジークだけを切り離して“救いようがない”と断じることに、どうしても耐えられなかった。
ニトは、そんなレイズを見つめる。
そして、ため息まじりに返す。
「でも、そうならないように書き換えた」
「それが君だ」
レイズはすぐに首を振る。
「違う……」
「みんなが、自分で変わったんだろ……」
ニトは、その言葉に少しだけ笑う。
「はぁ……」
そして、静かに問う。
「言葉や思想で、簡単に人が変わると思ってる?」
レイズの表情がわずかに揺れる。
ニトは続ける。
「君はまだ気付いていないのかい?」
「君に関わったものは、否応なく――」
一語一語、はっきりと。
「本来の在るべき形が、時間が、すべて書き換えられている」
その言葉は重い。
「レアリスも僕も、ガイルだってそうだ」
「そして勇者ルイス」
「ディアブロもだね?」
「みんな、共通点があるんだ」
ニトは、レイズを指差さない。
けれど、その視線だけで十分だった。
「全員が、君と関わった」
沈黙が落ちる。
「だから、本来用意されていた道を、すべてのものが降りることができた」
「それって、どういう意味かわかるかな?」
レイズは、すぐには答えられない。
だが、それでも否定しようとする。
「違う……」
「みんな……誤解を、勘違いをしてただけだった……」
「過ちを理解して……」
ニトは、その言葉に笑う。
嘲笑ではない。
呆れでもない。
ただ、長い時間を見てきた者だけが浮かべられる、静かな笑みだった。
「過ちを理解する?」
「理解しても、変われない」
その断言はあまりにも冷たい。
「それは長い年月が、すべてを証明している」
ニトの声は、どこか遠くを見るようだった。
「全員、戦うことを」
「争うことを」
「潰し合うことを」
「選択なんかじゃない」
その言葉が、ゆっくりとこの場に沈んでいく。
「そうなるように、運命が決められて」
「そして、なるようになっていく」
それは希望を切り捨てるような言葉だった。
だが、同時に真実でもあった。
「その運命も」
「本来あったはずの歴史も」
「普通は変えることはできない」
「歴史は変えられない」
ニトは、そこでわずかに間を置く。
そして、レイズへ向き直る。
「じゃあ、変えられたとしたら??」
誰も答えない。
ニトは、自分で続ける。
「それは神様?」
自分で、首を振る。
「違う」
「この世界にいる神と呼ばれる存在は、そんなことをしない」
「神は――僕が思うに」
「僕たちの在り方や、世界には干渉などしない」
その言葉には、諦めに似た確信があった。
「いたとしても、見ているだけ」
「僕たちが、世界が、どんなふうになろうが……」
「それはひとつの実験の答えにすぎない」
そして、吐き捨てるように言う。
「それが神と呼ばれる存在で、神と呼ばれるだけの何者でもない偶像さ」
その場の誰もが黙る。
ニトは、さらに踏み込む。
「じゃあ、それを」
「神ですらしないことをしてる君は?」
「一体、何者だと思う?」
その問いは、レイズだけではなく、その場の全員に刺さった。
レイズは、答えられない。
ニトは、そのまま畳みかける。
「別の世界??」
「別の世界の人間だって?」
「なら、なんで僕たちの未来がわかる?」
「なんで、僕たちの世界を知っている?」
一つ一つが、逃げ道を潰していく問いだった。
「答えは簡単だよ」
ニトは静かに言う。
「この世界は――」
一拍置く。
「君たちの世界で産み出された、ひとつの物語」
その言葉が落ちる。
誰も、すぐには息を吸えなかった。
「……そうなんだろう?」
レイズの瞳が揺れる。
ニトは続ける。
「君の世界では」
「君の現実では」
「こうして数多の世界が創造されているはずだ」
「それも、数えきれないほどに」
レイズは、何も言えない。
否定も、肯定もできない。
ニトは、レイズを見つめたまま言う。
「だからこそ」
「だからこそ、だよね」
「君は、そっちの世界の人だ」
「なら、こっちの創られた世界を自由に変えることができる」
「覆すこともできる」
「想像を、思いどおりにさせない」
その言葉は、この世界の根本を暴くものだった。
誰もが、すぐには飲み込めない。
けれど、ニトはもう止まらない。
これはただの会話ではない。
世界の在り方そのものを剥き出しにするための、決定的な対話だった。
そして、レアリスもまた、その言葉をじっと聞いていた。
否定したい。
けれど、できない。
なぜなら、自分自身もまた、その“書き換え”の中にいるのだと、どこかで理解しているからだった。
空気は張りつめたまま、さらに深く、さらに先へと進んでいく。
いまこの場で語られていることは、誰か一人の感情や都合ではもう止められない。
世界そのものを終わらせ、世界そのものを戻し、世界そのものを本来の形へ引きずり戻す。
そのための話が、いま、ようやく本当の意味で始まっていた。
レイズは、何も言えなかった。
否定したい。
そんなはずがないと、強く言い切りたい。
だが――。
頭のどこかで、引っかかっている。
自分が知っているはずの未来。
自分だけが知っていたはずの結末。
そして、それを覆してきた“いま”という現実。
それは確かに、ただの偶然ではなかった。
「……だからって……」
ようやく絞り出した声は、弱かった。
「だからって……全部が、俺のせいだっていうのかよ……」
ニトは首を横に振る。
「せい、じゃないよ」
あくまで淡々と。
「役割だ」
その言葉は、優しさのようでいて、あまりにも残酷だった。
「君は壊したわけじゃない」
「ただ、“元々あったもの”を崩しただけだ」
レイズの瞳が揺れる。
「……崩した……?」
ニトは頷く。
「そう。元々この世界は、決められた流れに沿って進むように作られていた」
「誰がどう動いて、どこで死んで、どこで絶望して、どこで終わるか」
「全部が“用意されていた”」
その言葉に、ガイルが眉をひそめる。
「はぁ……?ふざけんなよ……」
吐き捨てるように言う。
「そんなもん……誰が決めたってんだ」
ニトは軽く肩をすくめる。
「さぁね」
「でも確実に言えるのは、“自然”じゃないってことだ」
その一言に、クリスが静かに反応する。
「……つまり、誰かの意思が介在している、と」
ニトは指を鳴らす。
「そういうこと」
そして、視線をレイズへ戻す。
「でも君が来たことで、それは壊れた」
「本来あるはずの結末に、誰も辿り着かなくなった」
レアリスが小さく呟く。
「……だから……揺れてる……」
ニトは頷く。
「そう」
「いまこの世界は、“未確定”なんだ」
その言葉に、空気が一段と重くなる。
「本来ならあり得ない状態」
「決められていた未来が崩れて、でも新しい未来がまだ定まっていない」
「だから、歪みがどんどん膨らんでる」
ガイルが舌打ちする。
「それが……アビスホールってやつかよ」
「それもあるね」
ニトは軽く答える。
「でも本質はもっと単純だよ」
一歩、前に出る。
「“決まってない世界”っていうのは、不安定なんだ」
「だから、どこかで“確定させる力”が必要になる」
レイズが顔を上げる。
「……それが……根元か」
ニトは微笑む。
「正解」
「根元は、“すべてを元に戻す装置”みたいなものだ」
「歪みを許さない」
「未確定を許さない」
「全部を、“あるべき形”に戻す」
レアリスの顔色が変わる。
「……それって……」
ニトは続ける。
「君も、僕も、全部含めてだよ」
「例外なんてない」
その言葉に、レアリスの瞳が揺れる。
「じゃあ……私も……」
「消えるね」
あっさりと。
ニトは言い切った。
沈黙が落ちる。
誰もすぐに言葉を返せない。
その中で、レイズだけが、歯を食いしばる。
「……ふざけんなよ……」
低く、震える声。
「そんなの……全部終わりじゃねぇか……」
ニトは、静かにレイズを見る。
「終わりだよ」
否定しない。
逃げない。
「だから、急がないといけない」
「“終わり方”を選ぶためにね」
その言葉に、クリスが一歩前に出る。
「……選ぶ、とは?」
ニトは答える。
「強制的に戻されるか」
「それとも、自分たちで終わらせるか」
その差は、あまりにも大きかった。
ガイルが舌打ちする。
「はっ……どっちにしろ終わりじゃねぇか」
ニトは首を振る。
「違うよ」
「強制的に戻される場合は、“何も残らない”」
「でも、自分たちで終わらせるなら――」
一瞬だけ、言葉を切る。
「“意味”が残る」
その言葉に、レアリスの瞳がわずかに揺れる。
「……意味……」
ニトは頷く。
「そう」
「誰かが考えて、誰かが選んで、誰かが決めた結果」
「それは“ただの消滅”じゃない」
「ちゃんと“生きた結果”になる」
レアリスは、ゆっくりと目を閉じる。
「……生きる……」
その言葉を、確かめるように呟く。
ニトは静かに続ける。
「僕たちは“生きてない”って言ったよね?」
「でも、最後だけは違う」
「最後の選択だけは、“生きている者の選択”になる」
その言葉は、奇妙な救いだった。
完全な絶望の中に、ほんのわずかに残された可能性。
レイズは、拳を握る。
「……なら……」
顔を上げる。
「全部、俺たちで決めるってことだな」
ニトは微笑む。
「やっと理解したね」
そのとき。
レアリスが、ゆっくりと目を開いた。
「……ニト」
その声は、わずかに震えていた。
「それでも……」
一歩、前に出る。
「それでも私は……全部は渡さない」
はっきりと。
拒絶する。
「アルティナは……返す」
「魂は……回廊へ返す」
ニトはため息をつく。
「まだ言うかぁ……」
だが、その表情に苛立ちはない。
むしろ、どこか嬉しそうですらあった。
「いいよ」
あっさりと答える。
「でも、その結果どうなるかは――」
指を軽く振る。
「ちゃんと見ておいてね?」
その言葉の意味を、誰も完全には理解できなかった。
だが。
確実に。
すべてが動き出している。
止まることはない。
選択は、もう始まっている。
そしてその選択は。
この世界の“終わり方”を決めるものになるのだと。
誰もが、なんとなく理解していた。




