ニトの考え方
そうして、ついにその対面は唐突に始まった。
誰かが「来る」と口にしたわけではない。
何か大きな音がしたわけでもない。
けれど、その場にいた全員が、同時に理解した。
空気が変わったのだ。
目には見えない。
だが、確かに空間の“密度”が変わる。
空気が一段、静かになる。
風が遠のき、音が薄れ、世界そのものが息を潜めたような感覚が場を満たしていく。
それは、戦場で敵と向き合うときの緊張とは違った。
もっと根源的な。
もっと否応なく、存在そのものに訴えかけてくるような圧。
その中心に――レアリスがいた。
レアリスは、堂々とニト達へ歩み寄ってくる。
歩いている、という表現で正しいのかすらわからないほど、その姿は自然だった。
唐突に現れたはずなのに、まるで最初からそこにいたかのように、当たり前の顔で、当たり前の足取りで近づいてくる。
それが、余計に異様だった。
レイズは無意識に息を詰める。
クリスの視線は鋭く細まり、いつでも動けるように全身の力を整えていた。
ガイルもまた、軽口を叩く空気ではないことを理解し、唇を閉ざしたままレアリスを見据えている。
クルシアも、エルディナも、他の者達も、誰一人として余計な動きはしなかった。
緊張する瞬間だ。
何かを間違えれば、一瞬で取り返しのつかない事態になる。
そんな予感だけが、全員の胸を同じように締めつけていた。
だが、その中で――。
最初に口を開いたのは、やはりニトだった。
「やぁ、レアリス」
その声は軽い。
あまりにも、軽い。
この場の空気をわざと無視しているかのような、いつも通りの声色だった。
レアリスは、じーっとそれを黙って見つめる。
瞬きも少ない。
目を逸らさない。
その視線の中には、怒りも、敵意も、喜びも、悲しみも、すべてが薄く混ざっているようで、けれどそのどれとも断定できない不思議な色があった。
そして、短く言った。
「ダメ……だよ?」
その一言は、静かだった。
だが、その場にいた全員の心を、ぴたりと止めるには十分だった。
ニトは、首をかしげる。
「ダメ?? なんでだい?」
問う声は柔らかい。
しかし、その問いは軽くない。
レアリスは、ほんのわずかに視線を落とし、それからまたニトを見つめる。
「私とニトは……」
ゆっくりと、言葉を選ぶように。
「誰の味方になることも許されない……」
そして、静かに続けた。
「忘れたの?」
その言葉には責める響きはなかった。
ただ確認している。
けれど、そこには確かに“ルール”があった。
ニトは「あぁ」と小さく声を漏らす。
「そういうこと?」
納得したように笑う。
「ならレアリスも、僕のことは言えないでしょ?」
そして、そのまま本題へ踏み込む。
「アルティナとジークを貸して?」
そこまで言ってから、少し考え直すように。
「あ、やっぱりジークはいいかな」
さらりと言う。
あまりにも軽い。
けれど、その言葉がどれほど大きな意味を持つのかは、その場の誰もが理解していた。
レアリスの雰囲気が、ほんの少し変わる。
「どうするつもり……?」
それは短い問いだった。
だが、その問いの奥には無数の意味があった。
そして、レアリスはもう一つ、確かめるように続ける。
「それにニト……話すことがたくさん……あるよね?」
その言い方は、不器用だった。
だが、明らかにそれは“会話”を望む声音だった。
ずっと話したかった相手。
ずっと聞きたかったこと。
ずっと言えなかったこと。
それらを一気に押し込めたような、一言。
ニトは、少しだけ目を細める。
「そうだね」
ほんの少しだけ真面目な声音になる。
「話したいことは山ほどさ」
けれど、すぐにその先を告げる。
「でも、それよりもやるべきことがたくさんありすぎる」
レアリスは、はっきりと言う。
「理由がなんだとしても……渡さない」
短く、けれど強い意志で。
「あの娘は返すの」
“あの娘”。
それがアルティナを指しているのは明らかだった。
ニトは即座に返す。
「返さない」
空気が一段、冷える。
ニトの表情は穏やかなまま。
けれど、その言葉に揺らぎはなかった。
「魂の回廊には絶対にいかせないよ?」
その言葉に、レアリスの雰囲気がはっきりと変わる。
圧が増す。
空間が、きしむような感覚が走る。
風もないのに、誰かの衣服の裾が揺れたように見えた。
レイズも、クリスも、ガイルも、その変化を見逃さなかった。
さすがに、それを見ていたレイズが声を上げる。
「おい!!」
思わず一歩踏み出す。
「待て……ちゃんと説明をしてからで!!」
だが、レアリスはレイズを見る。
その視線は静かで、そしてどこか悲しい。
「説明なんて……いらない」
短く断じる。
「貴方達がしてることは……すべてが……間違えてるから……」
ニトは、その言葉にすぐ反応する。
「間違え? かい」
少しだけ肩をすくめる。
「レアリス、勘違いしてるよ。きみ」
レアリスは首をかしげる。
「勘違い……?」
ニトは、まっすぐ答える。
「僕たちは本当の正しい姿に世界を戻すだけだよ?」
レアリスは、ゆっくりとその言葉を反芻するように。
「正しい姿……?」
そして、否定する。
「そんなの……無い……」
その声は小さい。
だが、断言だった。
ニトは、すぐには否定しない。
むしろ少し懐かしむように、小さく笑った。
「僕もそう思ってたさ」
静かに続ける。
「だからこそ、調和」
「バランス」
「それらすべてを考えて、そしてそうさせてきた」
その言葉には、長い時間の重みがあった。
ニトがただ気まぐれで世界をいじってきたわけではないことが、その一言だけで伝わる。
レアリスは、しかしそれでも首を振る。
「なら……そのままでいいの」
いまの形でも。
いまの均衡でも。
壊れずに済むなら、それでいい。
そう言っているようだった。
だが、ニトはそれを否定する。
「このままにしてたら、根元はどっちみち復活するよ?」
レアリスの瞳がわずかに揺れる。
ニトは続ける。
「僕はあっちを見てきたからさ」
レアリスが、小さく問う。
「あっち……?」
ニトは頷く。
「そう。アビスホールのいまの状態も、無の世界の今の在り方も、すべてが大きく進んでる」
その一言は重かった。
誰も知らないはずの“向こう側”を、ニトは見てきた。
それが意味することを、レイズはすぐに理解できず、ただ黙るしかなかった。
レアリスは問いを続ける。
「根元を呼ぶの……?」
ニトは、はっきりと頷いた。
「そうだよ」
「はやく呼ばないといけない理由だってちゃんとあるさ」
レアリスは首をかしげる。
その意味を測りきれない。
その横で、レイズも口を開く。
「待て……」
「はやく呼ぶ必要なんてないだろ」
「なら……こっちもそれにむけて準備を……」
だが、ニトはその言葉を切る。
「準備?」
少しだけ笑う。
「それは、ディアブロが根元に、アビスに呑まれるまで待てってことかい?」
その言葉に、ガイルが一気に噛みつく。
「は?!?」
「なに言ってんだ!? てめぇ!」
ニトは、深くため息をついた。
「はぁ……」
「根元に魔力を還し続けていたディアブロは、もうこっちにいないんだよ」
それは、さらりと告げられた。
だが、その意味は重すぎた。
ガイルの顔色が変わる。
レイズも黙る。
ニトは容赦なく続ける。
「なら、清算はさらに予定より早く起きるし」
「そもそも今回の清算は、すべてをもっていく可能性がすごく高いんだよ」
レアリスが反論する。
「魔力なら私が還し続けてる……」
自分がやっている。
自分が支えている。
だから、まだ保てる。
そう言いたかったのだろう。
ニトは、柔らかく、しかし強く言う。
「いいから、少し僕の話を聞いて? ね?」
レアリスは即座に返す。
「聞きたくない……」
その拒絶は、子供のようにも見えた。
だが、それほどまでにレアリスにとってこの話は受け入れ難いものだった。
レイズが、間に入る。
「頼む」
「わかりやすく……教えてくれ」
ガイルも噛みつくように続ける。
「あぁ!! それになんでジークまで放置するつもりなんだよ!?」
ニトは少し大げさに肩を落とす。
「ぁあもう、わかったわかったから」
そう言いながら、ようやく本格的な説明に入る。
「まず、根元をはやく呼ぶには、根元を目覚めさせる必要がある」
ニトは言葉を切らずに続ける。
「そしてディアブロがいましていることは、根元が産み出した者を潰している」
「全部が、こっちにきたらかなり大変だからね?」
「でもね、ディアブロだけじゃ絶対にそれはできないんだ」
ニトの顔つきが、わずかに真剣さを増す。
「根元に住む化物達は、ディアブロでもディアでも無理」
そして、レアリスを見つめる。
「それはレアリス君もわかってるよね?」
「君はもうディアでもあり、レアリスでもあるんだからさ」
レアリスは黙って聞いている。
否定はしない。
つまり、理解はしている。
そのうえで、レアリスは一言だけ返した。
「それで……?」
ニトは頷く。
「だから急いで根元を、こっちに呼ぶ必要がある」
「根元がこっちにきたら、まず始めにするのは、魂の支配」
「そして魂の目覚め」
「つまり――魂の回廊が起きる」
その言葉に、レアリスの表情が明確に揺れる。
「そんなことがおきたら……」
声がわずかに震える。
「私でも……ニト、貴方でも……どうしようもできない」
「魂は……いま生きてるものよりもずっと多い……から」
ニトは、むしろその通りだと頷いた。
「そうそう」
「それで目覚めた魂も、レイズやリリィに無の世界へ送り届けてもらうのさ」
「だからレアリス君も協力して?」
レイズはすぐに反応する。
「待て……」
「俺にはそんなことできない」
ニトは笑う。
「ぁあ、レイズ君がすることは違うよ」
その笑顔のまま、とんでもないことを言う。
「返すことも、ここにあることも認められない魂は、完全に消してもらうつもりだからさ」
レイズの表情が止まる。
「は……?」
ニトはなおも続ける。
「魂の中には、とんでもなく面倒なのもたくさん混じっている」
「僕たちが見つけるのは、リリアナっていう魂」
「それは必ず無の世界に届けなくちゃいけない」
レイズが、聞き返す。
「リリアナ……?」
「なんでリリアナなんだ……?」
ニトはあっさりと言う。
「リリアナが三人目のレイズを目覚めさせる鍵だからさ」
「つまり、この世界にいるはずの魂だよ」
「彼は止まり続けてるからね」
レイズの喉が、ごくりと鳴る。
「それが……目覚めるとどうなるんだ?」
ニトは、当然のように答えた。
「どうなるって……そりゃぁ、もとの体に戻るだろうね」
レイズは、目を見開く。
「は……この体に……?」
「そんなこと……」
ニトは説明を続ける。
「だってさ、君は魔女じゃない」
「魔女が誰かの体を乗っ取るのとは根底的に仕組みが違うからね」
レイズの顔が強張る。
「そんなことしたら……俺はどうなるんだ……?」
ニトは、少しだけ楽しそうにすら見える表情で答える。
「どうなるんだろうね」
「ひとつの体に二つの魂がある状態になる」
そして、軽く付け加えるように。
「それに、本当のレイズを救うことには、少なくともなるんじゃないかな?」
レイズは、思わず声を荒げる。
「なに言ってるんだよ……!」
「救うって……どうなるかもわからないのに……」
レアリスが、その会話を静かに聞いていた。
そして、ニトへ向き直る。
「そう……ニト?」
ニトは、やさしく返す。
「なんだい?」
レアリスは問う。
「最後はどうなるの……?」
その問いは、この場の全員が本当は聞きたかった問いだった。
ニトは、ほんの少しだけ目を伏せた。
それから、ゆっくりと答える。
「どうなるって……」
「少なくとも、みんなが平等にはなるだろうさ」
「僕も、レアリスも、例外なくさ」
レアリスは、その言葉を反芻する。
「平等……?」
ニトは、今度は少しだけ真剣に、そして長く語る。
「そう」
「この世界を管理する者なんていない」
「それが本当の自然の形」
「僕たちが最終的に成し遂げないといけない、本当の形さ」
その言葉は、今までのニトの在り方すら否定するものだった。
「管理?」
「調和?」
「それは誰かが手をいれてするものじゃない」
「いま生きてる者達が、平等に考えて、創りあげていくものなんだよ」
そして、はっきりと言い切る。
「つまり絶対の力をもつものなんて、いらないんだ」
その一言の意味は、あまりにも重い。
ニト自身。
レアリス自身。
根元自身。
それら全部を否定しているのだから。
「そういう意味でいうなら、僕もレアリスも根元も必要がない」
「必要がないものは、消えていなくなる」
その場にいた誰もが、その言葉の先を理解した。
ニトは、それでも笑う。
「あ、でも」
「僕たちも、ひとつの平等な魂として変わって、何かに生まれ変わることはできるかもよ?」
レアリスの瞳が、大きく揺れる。
「生まれ変わる……?」
「ニト……貴方は……どうして……」
ニトは、どこか寂しそうに笑った。
「だって僕たちは、もうとっくに終わった者達だよ」
「生きてると思ってる?」
「違う違う」
「僕たちは、生きていないから死ぬこともない」
「つまり“存在するだけ”は、生物の定義にはまるで当てはまらない」
そして、小さく息を吐く。
「そんなの……もう疲れたでしょ?」
レアリスは、首を振る。
「私……やっと……こうして世界に在れたのに……?」
その声には、確かに切実さがあった。
形を得て。
意思を持って。
この地に立ち。
この世界に“在る”。
それがどれほど長く叶わなかった願いだったのかが、その一言だけでわかってしまう。
ニトは、それを否定しない。
「そうだね」
「形をもって、意思をもって、この地に足をつけて、存在はしてる」
そして、はっきりと言う。
「でも、レアリス」
「僕たちは生きてはいない」
レアリスは、その言葉を受け止めきれず、ただ繰り返す。
「生きて……いない」
ニトは頷く。
「そうさ」
「それなら、ちゃんと生きてみたくないかい?」
その言葉に、空気が揺れる。
ニトは続ける。
「死と隣り合わせで、生きてみたい」
「それが、僕たちが本当にここに存在する理由に、目的になる」
レアリスは、言葉を失う。
「そんなの……」
拒絶したい。
だが、否定しきれない。
その間で揺れているのが、誰の目にもわかった。
ニトは、今度ははっきりと強く言う。
「レアリス!!」
「もう終わりにしないといけない!」
「だからもう任せるんだよ」
「魔法も、精霊も、不可思議な力は全部すべて、無くすんだ」
「本当の現実に」
「本当の姿へ戻るんだ」
そして。
ようやく、本題へと戻すように。
「だからアルティナは渡して?」
レアリスは、ゆっくりと問う。
「アルティナ……どうするの?」
ニトは答える。
「もちろん支配の権能をもたせたまま、アビスホールに送るのさ」
レアリスは、理解できない。
「どうして……?」
ニトは、はっきりと。
「根元を目覚めさせるためにだよ」
レアリスはさらに問う。
「アルティナは……どうなるの?」
ニトは、少しだけ声を和らげる。
「だから、ディアブロがいる今なら、きっとディアブロが助けてくれるさ」
「むしろ、ディアブロも助けることができるのも、今ならアルティナしかいない」
レアリスは、その意味を測れずに聞き返す。
「アルティナしか……?」
ニトは、説明を重ねる。
「アビスホールは魂の在り方があまりにも影響する」
「アルティナがあそこにいけば、少なくとも根元の大半は支配できる」
「それに、根元の力を大幅に裂くことになる」
レアリスは、なおも不安そうに呟く。
「アルティナ……協力するかな……?」
ニトは少し笑った。
「協力するしかないと思うよ」
「だってアルティナが、いま一番会いたいのはウルティアだろうからさ」
その言葉に、レイズが反応する。
「ウルティアに……会わせるのか……?」
ニトは、当然のように答える。
「すべてが都合よくあるんだよ?」
「ウルティアしか今のアルティナの心を救えない」
「そしてディアブロはウルティアを救ったんだ」
「そしてアルティナがディアブロを救う。」
その循環。
その因果。
それは偶然ではないとでも言いたげだった。
「そして力が大きく裂けたら、根元にティグルに権能を渡せばいい」
「そしてそのタイミングで、他の魔女達の権能もすべて送り込めばいいのさ」
そう言い切ったニトを、誰もすぐには言葉で返せなかった。
あまりにも壮大で。
あまりにも狂っていて。
あまりにも、筋が通っていたからだ。
レアリスは、黙ってニトを見る。
レイズも、ガイルも、クリスも動けない。
それぞれがそれぞれの理解で、この会話の意味を追いかけていた。
そして誰もが理解し始めていた。
これはもう。
誰か一人の感情や都合で止められる話ではないのだと。
世界の根そのものを掴んで、引きずり出し、壊し、戻し、作り変える。
そういう話なのだと。
この瞬間。
対面は終わっていない。
むしろ、ここからが本当の始まりだった。




