二人きりの会話
――無の世界。
そこには、音も、風も、温度すら存在しない。
ただ、何もない。
何も“在らない”ということだけが、確かに存在している場所。
上下も、奥行きも、境界も曖昧で。
どこまでが空間で、どこからが虚無なのかすら判別できない。
だが、その“何もなさ”の中に――
ぽつりと。
二つの存在だけが、取り残されていた。
レイズと、ウルティア。
他には、何もない。
ただ一枚。
宙に浮かぶように存在している、“絵”。
それだけが、この空間における唯一の“意味”だった。
レイズは、その絵を、ずっと見つめていた。
動かない。
瞬きすら、ほとんどない。
まるで時間そのものから切り離されたように、ただそこに“在る”。
そんなレイズへ――
ウルティアが、少しだけ躊躇いながら声をかけた。
「ねぇ……貴方……」
静寂に、わずかな揺らぎが生まれる。
だが、レイズは視線を動かさない。
「なんだよ……」
低く、気だるげに。
「話しかけてくるな」
その言葉は冷たい。
拒絶に近い。
だが、ウルティアは食い下がる。
「ちょっと!!」
一歩踏み出す。
「どうせ二人しかいないんだから……」
その声には、苛立ちと、わずかな寂しさが混ざっていた。
だが。
「興味がない」
レイズは、あっさりと切り捨てる。
視線は、ずっと絵のまま。
ウルティアは、言葉を詰まらせる。
「ねぇ……」
それでも、諦めない。
「気にならないの……?」
少しだけ、声が弱くなる。
「みんなが……どうなったのか……」
レイズは、ほんのわずかにだけ目を細める。
だが、それだけだった。
「もう、終わったことだ」
短く。
あまりにもあっさりと。
その言葉に、ウルティアの表情が歪む。
「終わったって……」
「なにが……」
「全然終わってなんか……」
言葉が続かない。
だが、感情だけが溢れてくる。
レイズは、変わらず言う。
「俺の願いは」
「目的は、もう全部叶ってる」
その声は、どこか遠い。
すべてを見終えた者の声。
「なら、その後の話なんて……気にしてどうする」
ウルティアは、ぐっと拳を握る。
「だって……!」
「ねぇ!!」
一歩、強く踏み出す。
「私は……何もできないの!?」
その叫びは、虚無に吸い込まれていく。
響かない。
返ってこない。
ただ消えるだけ。
レイズは、面倒くさそうに言う。
「俺に聞くなよ……」
「そんなに気になるなら……送ってやるぞ」
ウルティアの体が、びくりと震える。
「それは……ダメ……」
小さく、しかしはっきりと否定する。
「私があっちに戻ったら……」
言葉が途切れる。
「……魂の回廊だから……」
視線が揺れる。
「そしたら……もう、わからない……」
レイズは、少しだけ考える。
そして、静かに言う。
「普通は死んだら」
「死んだ後のことなんて、わからない」
それは事実だった。
「わからないのが当たり前で」
「わかる方がおかしい」
ウルティアは、かすかに笑う。
だが、それは寂しい笑いだった。
「だって……」
「死んだ後のことなんて……」
「死んだ者にしか、わからないじゃない……」
レイズは、ほんの一瞬だけ沈黙する。
そして。
「……確かに、そうだな」
小さく呟く。
「死んだあとに……」
「わかることも、あったか……」
その言葉には、微かな実感があった。
ウルティアは、少しだけ顔を上げる。
「ねぇ……」
ためらいながら。
「貴方、未来では……どういう生き方をしてたのよ……」
レイズは、即答する。
「悪役だ」
迷いがない。
「悪いことをたくさんした」
「そして、完全に孤独だった」
ウルティアは眉をひそめる。
「悪役って……なによ……」
レイズは、淡々と続ける。
「悪役は悪役だ」
「主役に殺される存在」
「消される存在」
「だから悪役だろ」
その言葉は、あまりにも乾いていた。
「俺は、そうやって未来で殺されてる」
そして、ほんの少しだけ口元が歪む。
「まぁ……わざと負けたんだけどな」
ウルティアは目を見開く。
「わざとって……」
「それ、悪役として失格じゃない」
レイズはあっさりと頷く。
「ぁあ、失格だ」
「悪役としても、人間としてもな」
その言葉には、自嘲も後悔もない。
ただ、事実だけがある。
「だから中途半端なんだ」
少しだけ目を閉じる。
「でも、もう全部変わった」
ウルティアは、静かに問う。
「変わったって……」
「みんなが生きてるから……?」
レイズは首を振る。
「生きてない」
「少なくとも、俺が知ってるものとは違う」
その言葉は、曖昧で。
だが、確信に満ちていた。
ウルティアは、ため息をつく。
「ねぇ……」
「あなたの知ってる未来で……」
少しだけ言いにくそうに。
「私たち……どうなったの……?」
レイズは、興味なさそうに答える。
「魔女のことか?」
「知らん」
ウルティアは驚く。
「な、なによそれ!?」
レイズは肩をすくめる。
「魔女なんて気にしてる余裕なかった」
「当たり前だろ」
ウルティアは、少しだけ苦笑する。
「そう……」
「あなたも、大変だったのね」
レイズはすぐに否定する。
「大変じゃない生き方なんてない」
「生きてる時点で大変だ」
少しだけ、言葉が柔らぐ。
「でも……生きてるなら」
「幸せなこともある」
ウルティアは、ぽつりと返す。
「私たち、死んでるじゃない……」
レイズは少しだけ首を傾げる。
「死んでるかどうかも、正直わからん」
ウルティアは、じっとレイズを見る。
「ねぇ……」
「もし私がここからいなくなったら……」
「貴方、一人でここにいるつもり?」
レイズは、迷いなく答える。
「ぁあ」
「一人がいい」
その声は静かだった。
「一人に慣れすぎた」
「誰かと過ごすのは、もう必要ない」
ウルティアは、少しだけ震える。
「何十年……」
「下手したら何千年も……こんなところにいたら……」
「おかしくなるわよ……」
レイズは、あっさりと言う。
「おかしくなったから、今の俺がいる」
その言葉には、どこか皮肉な真実があった。
「だからもういいだろ」
「全部、今生きてるやつらに任せろ」
静かに続ける。
「俺たちの生は、もう終わってる」
「終わったものに役割なんてない」
ウルティアは、声を震わせる。
「だって……だって……」
レイズは、少しだけため息をつく。
「ほんとにお前、未練がありすぎるな」
ウルティアは、ぽつりと聞く。
「……おかしいかな……?」
レイズは、まっすぐに答える。
「おかしくない」
短く。
だが、確かに肯定する。
「それが望みなら」
「否定する資格は俺にはない」
ウルティアは、少しだけ笑う。
「……あなた」
「優しいのか、冷たいのかわからないわね」
レイズは、あっさりと言う。
「冷たいに決まってるだろ」
ウルティアは首を振る。
「……そうかな」
「私には、そうは見えないけど」
レイズは、視線を戻す。
「もういいだろ」
「話は終わりだ」
ウルティアは、少しだけ黙る。
そして――
「……うん」
「私……ちょっと行ってくる」
レイズは、興味なさそうに答える。
「ぁあ」
「また会う機会があればな」
「……まぁ、ないか」
ウルティアは、少しだけムキになる。
「あるわよ!?」
「ちゃんと戻ってくるんだから!」
レイズはため息をつく。
「……俺は静かに過ごしたいだけなんだよ」
ウルティアは、小さく言う。
「……ごめんね」
そして。
ゆっくりと、その場を離れていく。
無の中へ。
溶けるように。
消えていく。
レイズは、それを見送らない。
ただ、絵を見続ける。
そして、ぽつりと呟く。
「……まったく」
わずかに目を細める。
「……受け入れろよ……な」
その声は。
誰に向けたものでもない。
だが。
ほんのわずかにだけ――
寂しさが、混ざっていた。
ウルティアは、真っ白な空間の中をあてもなく歩いていた。
足元も、空も、果てすらも見えない。
どこまで行っても景色は変わらず、ただ“無”だけが続いている。
それでも歩いてしまうのは、立ち止まってしまえば、考えが余計に自分を追い詰める気がしたからだった。
「……ディアブロ……」
ぽつりと、その名を呼ぶ。
返事などあるはずがない。
わかっている。
いまディアブロは、再びアビスホールへと突入していったのだから。
戦うために。
削るために。
少しでも多く、“あちら”を削るために。
それがどれだけ意味を持つのか、ウルティアにはわからない。
そもそも、アビスを削るという行為自体が、どれほど現実に影響を及ぼすのかもわからない。
だが、それでも。
ディアブロが無意味なことをするはずがないと、ウルティアは思っていた。
戦いを好んでいるのは本当だろう。
あの男は、どこまでも戦いそのものを楽しめてしまう在り方をしている。
けれど、それだけではない。
あの戦いにも、必ず意味がある。
そうでなければ、あそこへは行かない。
少なくとも、いまのディアブロはそういう存在だ。
「……貴方なら……どうしたらいいって、言うのよ……」
誰もいない空間へ問いかける。
けれど、返ってくるのは自分の声が吸い込まれる感覚だけだった。
ウルティアは足を止める。
胸の奥が、じわじわと痛んでいた。
気になる。
どうしようもなく、気になる。
あちらがどうなっているのか。
ガイルがどうしているのか。
エルディナはどうしているのか。
ニトは、レアリスは、レイズは。
あの世界が、いまどこへ向かっているのか。
知りたい。
知っておかなければいけない気すらする。
けれど――。
戻ることは、できる。
その気になれば。
魂の回廊へ向かい、あちら側へ還ることはできるのだろう。
だが、それは“今の自分”のままではない。
そこへ還ったとき。
それはもう、いまこうして考えている自分ではなくなる。
魔女ではなくなる。
ウルティアという自我も、形を変える。
あるいは消える。
少なくとも、“その後を理解できる自分”ではなくなる。
「……選べるわけ、ないじゃない……」
かすれた声で呟く。
今を知る自分か。
それとも、あちらの世界へ生まれ変わる自分か。
どちらかひとつしか選べないなど、あまりにも残酷だった。
知っていたい。
見届けたい。
それが未練だと言われれば、きっとそうなのだろう。
けれど、未練で片付けられるほど軽いものでもない。
大切なものが、あまりにも多すぎた。
あの世界には、もう、自分にとってどうでもいいものなど残っていない。
ガイルがいる。
姉たちがいる。
気に入らない者も、認めたくない者も、腹の立つ者も、あの世界には確かに存在していて。
それら全部ひっくるめて。
ウルティアは、あの世界を見捨てられない。
「魔女じゃなくていい……」
ぽつりと漏らす。
「もう、魔女じゃなくていいの……」
それは、はじめて自分で自分に認めた言葉だった。
かつてなら、そんなふうには思えなかっただろう。
魔女であること。
権能を持つこと。
その在り方こそが、自分の価値であり、自分の証明だった。
けれど今は違う。
魔女でなくてもいい。
権能などなくていい。
そんなものがなくても、自分は自分でいたいと、そう思ってしまった。
だが問題は、その先だった。
魔女ではなくていい。
けれど、自分のままでいたい。
そのまま、あちらへ戻りたい。
それは、あまりにも都合のいい願いなのだろうか。
何も失わず。
何も変えず。
両方を手に入れようとするなど、虫が良すぎるのだろうか。
「……でも……」
唇を噛む。
「……どうして、無理なのよ……」
誰に向けるでもない問い。
けれど、その声には切実さがあった。
どちらも欲しい。
今を知る自分も。
あちらへ還る未来も。
どちらも捨てたくない。
どちらかしか選べないなど、認めたくなかった。
バランスよく。
うまく。
少しずつでも。
その両方を手に入れる方法が、本当にどこにもないのか。
この“無の世界”にいても、自分として在り続けられるのなら。
なら、あちらでもそうできる道が、どこかにあってもおかしくないのではないか。
そう思ってしまう。
思ってしまうから、余計に諦めきれない。
ウルティアは再び歩き出す。
白い空間には、何の目印もない。
どこへ向かっているのかもわからない。
けれど、歩かなければ考えが止まらなかった。
歩いて、考えて、また立ち止まって。
そしてまた歩く。
その繰り返し。
「……ニトなら、なんて言うのかしら……」
少しだけ苦く笑う。
きっと、あの男なら簡単に言うのだろう。
“可能性ならあるよ”と。
“でも、君次第じゃない?”と。
希望とも絶望とも取れない、あの曖昧な言い方で。
レイズに聞いても駄目だ。
あの男は、もう終わったことだと切り捨ててしまう。
ディアブロに聞けば、戦えばいいとしか言わないかもしれない。
ガイルなら――。
そこで思考が止まる。
ガイルなら、なんと言うだろう。
想像してしまう。
想像できてしまう。
きっと、頭をがしがしと掻きながら、面倒くさそうに。
けれど、あの男なりに真っ直ぐに言うのだ。
“戻りたいなら戻ればいいだろ”と。
あるいは。
“諦めたくねぇなら、諦めるな”と。
根拠なんてない。
理屈もない。
けれど、その言葉だけで、少しだけ前を向けてしまう気がする。
「……ほんと、馬鹿よね……」
自分で呟き、自分で少しだけ泣きそうになる。
どうしてこんなにも、あの男のことばかり浮かぶのか。
未練がましい。
情けない。
けれど、それもまた自分だった。
ウルティアは立ち止まり、胸元を押さえる。
鼓動はないはずなのに、そこが苦しかった。
「……答えが出ない……」
静かに漏らす。
本当に、その通りだった。
考えても考えても、答えが出ない。
選べない。
切り捨てられない。
諦めきれない。
だから、考え続けるしかない。
今の自分でいること。
あちらへ戻ること。
その二つを、どうにかして両立させる道がないのか。
それを見つけるまで、きっと自分は歩き続けるのだろう。
真っ白な空間の中を。
当てもなく。
答えを探し続ける




