最初の言葉 最後の言葉
そうして一行は、聖国へとたどり着いた。
帝国とは明らかに異なる空気が、そこにはあった。
澄み渡るような、静かで、張り詰めた神聖さ。
それは人を安らがせるものではなく、むしろ、背筋を正させるような厳かなものだった。
美しく整えられた街並み。
石畳は隙なく敷き詰められ、建物も均整が取れ、どこか現実離れした秩序を保っている。
だが――。
その奥に、決して消えない“傷”があった。
数日前に、この地を襲った惨劇。
それは、物理的にはすでに修復されつつあった。
だが、人の心までは、修復できていない。
人々の顔には笑顔がない。
沈んだ表情。
遠くを見つめる視線。
そして、ところどころで見える、泣き崩れる人々の姿。
そのすべてが、この場所に訪れた“別れ”の大きさを物語っていた。
空を裂くように、ホーリードラゴンが降下する。
その影が地面を覆い、兵たちが一斉に気配を察知する。
そして、誰よりも早くその場に駆けつけたのは、聖国を守護する者たちだった。
パラディン、エルウィン。
そして、聖騎士、グレン。
ジェーンは、その姿を見た瞬間に理解した。
グレンの疲弊。
それは肉体だけではない。
精神が限界まで擦り減っている。
そしてエルウィンの怒り。
抑えきれないほどの焦燥と責任。
その両方が、この場に立っている。
「……こんなにも、傷を負わせられたのは……いつぶりかね……」
ジェーンが呟く。
それは、長く生きてきた者だからこそ出る言葉だった。
この聖国が、ここまで崩されたことなど、ほとんどない。
だからこそ、異常だった。
エルウィンが一歩前に出る。
「クルシアとティルシーはどうした!!」
声は鋭い。
焦りを隠す気もない。
ジェーンは、わずかに肩をすくめた。
「……色々と順序があるだろう?」
わざと間を置く。
「話を聞きたいのは、あたしも同じさ」
「まずは……ここで何があったか教えてくれるかい?」
そのとき。
アリスが耐えきれず声を上げる。
「ハルバルドは!!」
「それに……他の人たちも……たくさん……」
言葉が続かない。
喉が詰まる。
涙があふれる。
グレンが静かに歩み寄る。
「……ジェーン……アリス……」
「それに、ピスティア……」
その声は、かすれていた。
「……よく……帰ってきてくれました」
ピスティアは一歩前に出る。
「グレン様……兄様は……どこに……」
その声は、震えていた。
グレンはルイスへ視線を移す。
そして、小さく頷いた。
「……そうか……勇者も来てくれたのか……」
「……丁度いい」
「私が……案内します」
ジェーンが口を開きかける。
「ちょっと待ちな――」
だが、エルウィンがそれを遮る。
「クルシアとティルシーが先だ!!」
「なぜ貴様がホーリードラゴンに乗っている!!」
クレセントも前に出る。
「我らパラディンにとって最優先はそこだ!!」
ジェーンは、はっきりとため息をついた。
「だから順序だって言ってるだろ……」
「クルシアもティルシーも無事さ」
そして、少しだけ言葉を落とす。
「……ニトと一緒にいる」
その瞬間。
場の空気が完全に止まる。
「な……ニト様……!?」
グレンも、エルウィンも、クレセントも言葉を失う。
信じられない。
だが、嘘をつく状況でもない。
ジェーンは手をひらひらと振る。
「だから、話はあとだって言ってる」
「今やるべきこと、わかってるだろ?」
エルウィンはゆっくりと息を吐く。
「……ああ……理解した」
そして、深く頷いた。
「……まずは、案内する」
グレンが一歩前に出る。
「……こちらへ」
そのとき。
レイが、静かに言う。
「……ギルバルド……行って」
グレンが振り返る。
「……この方は……?」
ピスティアが短く答えた。
「……お父様です」
グレンの目が揺れる。
「……帝国の……皇帝……」
だが。
目の前の男からは、その気配が一切感じられない。
傲慢も、威圧も、覇気もない。
ただの、ひとりの男。
そして――父親だった。
ギルバルドは、静かに言った。
「……突然の訪問、失礼します」
「……ハルバルドに……会わせていただきたい」
グレンは、その目を見て理解する。
この男もまた、“変わった者”なのだと。
「……はい」
「……こちらです」
――
聖堂の内部。
本来なら整然と椅子が並び、人々が祈りを捧げる場所。
だが今は、その面影はない。
椅子はすべて撤去され。
床は傷だらけで。
天井には大きな穴が開いている。
壁も崩れている。
そのすべてが、ここで起きた戦いの激しさを物語っていた。
そして。
その中央に。
丁寧に並べられていた。
亡くなった者たちの体が。
ひとつ、またひとつ。
眠るように。
静かに。
そこにあった。
アリスの心臓が、大きく跳ねる。
カイルも、息を呑む。
子供が見るには、あまりにも残酷な光景。
それでも。
目を逸らすことができない。
ピスティアが叫ぶ。
「お兄様ぁぁぁぁ……!!」
ひとつの亡骸へ駆け寄る。
崩れるように抱きつく。
アリスも続く。
「ハルバルド……!!」
ジェーンは目を背けた。
ルイスは、動かない。
ただ、見ている。
そして。
ギルバルド。
彼は、立ち尽くしていた。
ゆっくりと歩み寄る。
一歩ずつ。
確かめるように。
目の前にあるのは。
確かに――ハルバルドだった。
だが。
違う。
知っている息子ではない。
覇気に満ちた王子ではない。
そこにいるのは。
ただ、穏やかに眠る一人の男だった。
「……これが……お前か……」
かすれた声。
震える手で、その手を取る。
冷たい。
細い。
軽い。
かつて剣を振るっていたはずの腕は、あまりにも頼りなかった。
だが。
その顔は。
あまりにも穏やかだった。
そして。
この場にいる全員が。
この男の死を、心から悲しんでいる。
それだけで。
すべてが理解できた。
「……そうか……」
ギルバルドは呟く。
「……お前は……」
言葉が詰まる。
それでも。
逃げない。
「……立派に……生きたのだな……」
その一言。
たった、それだけ。
だが――。
その言葉が落ちた瞬間。
すべてが崩れた。
ピスティアが泣き崩れる。
アリスが叫ぶ。
カイルの視界が歪む。
「……すごい人だ……」
会ったこともない。
だが、わかる。
この人は、優しい人だった。
カイルは、涙を流した。
止まらなかった。
ギルバルドは、膝から崩れ落ちる。
「……私は……」
「……家族を……愛している……」
「……今になって……わかるのか……」
震える声。
ピスティアが抱きしめる。
「お父様は愚かなんかじゃない!!」
ギルバルドは、初めて。
娘の頭を撫でた。
「……大きくなったな……」
そして。
ハルバルドの頭を撫でる。
「……よくやった……」
それが。
父としての、最初の言葉だった。
――よくやった。
その言葉は、あまりにも静かで。
あまりにも短くて。
だが、この場にいるすべての者の心を、深く揺らした。
ギルバルドの手は、ハルバルドの頭に置かれたまま、わずかに震えている。
撫でるという行為。
それすらも、彼にとっては初めてに等しいものだった。
ゆっくりと、ゆっくりと。
確かめるように。
「……大きくなって……」
かすれた声。
そして、ほんのわずかに息を詰める。
「……細くなりすぎだ……」
それは、父としての言葉だった。
王でもなく。
罪人でもなく。
ただの――父として。
その瞬間。
ギルバルドという男の中で、何かが完全に変わった。
ピスティアは、その姿を見て、さらに強く抱きつく。
「お父様……お父様ぁ……!!」
涙が止まらない。
声も、抑えられない。
アリスも、泣きじゃくる。
「ハルバルド……ねぇ……起きてよ……」
その小さな手で、何度もハルバルドの手を握る。
だが、返ってくるものはない。
どれだけ願っても。
どれだけ呼んでも。
その目が開くことは、もうない。
カイルは、ただ立ち尽くしていた。
理解している。
わかっている。
それでも。
どうしても、受け入れきれない。
「……あれ……」
ぽつりと、声が漏れる。
「……なんで……」
涙が、溢れる。
「……ぼく……」
止めようとする。
だが、止まらない。
「……泣かないって……思ってたのに……」
その瞬間。
堰が切れた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ……!!!」
子供らしく。
ただ、子供らしく。
カイルは泣き崩れた。
システィーヌが、すぐに駆け寄る。
そして、その小さな体を抱きしめる。
「いいの……いいのよ……」
優しく、包み込むように。
「たくさん泣いて……いいの……」
カイルは、その腕の中で、ただ泣き続ける。
ルイスは、その姿を見ていた。
そして、ゆっくりと歩み寄る。
ハルバルドの前へ。
膝をつく。
頭を下げる。
「……兄上……」
静かな声。
「……迎えに来るのが……遅くなり……申し訳ございません……」
その声は、震えていた。
帝国の皇帝。
誰よりも強く、誰よりも冷静であるはずの男。
その目から、涙が零れ落ちる。
「……一緒に帝国へ……帰りましょう……」
システィーヌが、静かに横に立つ。
「……この方が……ルイスの兄上……なのね……」
そして、少しだけ微笑む。
「……素敵な方ね……」
ルイスは、ゆっくりと頷く。
「ええ……」
その声は、かすれていた。
「……本当に……」
「……なぜ……」
それ以上は、言えなかった。
ジェーンは、深く息を吐く。
「……グレン」
グレンは、顔を上げない。
「……話を聞かせてくれ」
低く、静かに。
だが、逃げることは許さない声音だった。
グレンは、震える。
「私は……」
言葉が出ない。
「……守れなかった……」
それが、すべてだった。
ジェーンは、すぐに否定する。
「守ったじゃないか」
強く。
はっきりと。
「ここまで繋いだのは、あんただよ」
エルウィンも頷く。
「ああ、その通りだ」
クレセントも続く。
「いい加減にしろ、グレン」
グレンは、歯を食いしばる。
そして。
ついに。
膝から崩れ落ちた。
「……う……ううう……」
張り詰めていたものが、すべて崩れる。
ジェーンは、その姿を見て、小さく呟く。
「……ほんと、無理しすぎさ……」
その声は、優しかった。
聖堂の中。
誰もが泣いていた。
誰もが、何かを失っていた。
そして、誰もが、それでも前を向こうとしていた。
その光景を、少し離れた場所から見ていた者たちがいる。
フェリルと、レイ。
フェリルは、小さく笑った。
「……最初から、父親でしょ」
レイは、静かに頷く。
「……うん」
短く。
それだけ。
だが、それで十分だった。
レイは、もう一度だけ、ギルバルドの背中を見る。
そして、ぽつりと。
「……これでいい」
フェリルが、わずかに目を細める。
「……レイ」
レイは振り返らない。
「……帰ろ」
その一言。
フェリルは、小さくため息をつく。
「……そうね」
そして、二人は歩き出す。
この場所から、静かに離れる。
最後に。
フェリルは、カイルとアリスへ視線を向ける。
そして、優しく言った。
「貴方たちは、きっと優しい大人になるわ」
ゆっくりと。
一つ一つ、言葉を置くように。
「だから、急がなくていい」
「今の気持ちを……抑えないで」
「全部……全部、出していいの」
その言葉は、静かに届く。
カイルは、泣きながら頷く。
アリスも、涙の中で頷く。
そして。
フェリルとレイは、その場を後にした。
残された者たち。
泣き崩れる者。
立ち尽くす者。
支え合う者。
それぞれが、それぞれの形で、悲しみと向き合っていた。
聖堂の中に流れる空気は、重く。
だが。
どこかで、確かに温かかった。
失われたものは、戻らない。
だが――。
残された者たちが。
それでも、繋がっていく。
そのための時間が、いま、流れていた。
グレンが、かすれた声で言う。
「……少しだけ……」
顔を上げないまま。
「……この時間を……」
「……もう少しだけ……」
誰も、それを否定しなかった。
できるはずもなかった。
その場にいる全員が。
同じことを願っていたからだ。
――もう少しだけ。
この時間を。
この別れを。
この想いを。
受け止めるために。
静かな時間が、流れ続けていた。




