必要なことを知る。
そして、刻々と時は流れていった。
システィーヌは、ギルバルドの今の在り方を理解していた。
だからこそ、それをルイス達に詳しく説明することはしなかった。
何故なら――。
下手にそれを明かし、ギルバルドの内側へ踏み込ませれば、その結果が良くならないと判断していたからだ。
今のギルバルドは、あまりにも繊細で、あまりにも危うい。
変わったのではない。
変わりすぎたのだ。
だからこそ、誰かが強く手を伸ばせば、それだけで壊れてしまう。
そんな気がしてならなかった。
一方で、カイルは違った。
どうしても、ギルバルドが皆と一緒に帰れるようにしたかった。
だから何度も、何度も、ギルバルドのもとを訪れた。
最初のうちは、ギルバルドも会話に応じてくれていた。
短くではあるが、言葉を返し、カイルの声を聞いていた。
だが、それ以降は違った。
ギルバルドは、あくまで丁重に、あくまで静かに、しかし確かに壁を作るようになっていった。
使用人として。
この世界樹に仕える者として。
客人であるカイルを、礼儀正しく遠ざける。
それは拒絶でありながら、あまりにも穏やかで、あまりにも正しかった。
「おじいさま!!」
ある日、カイルはとうとう堪えきれずに声を張り上げた。
「どうして……!?」
「忘れていないなら!!」
「それに!! 戦いは、みんなが選択したことだって……!」
ギルバルドは手を止める。
だが振り返らない。
そのまま静かに言葉を返した。
「それぞれの選択には自由があります」
「そして、その選択を、誰かが曲げることはできません」
カイルはすぐに食い下がる。
「なら……!!」
「僕だって選択する権利がある!」
「おじいさまを連れて!! 帝国に帰るんです!」
ギルバルドは、そこでようやく振り返った。
その顔には怒りも困惑もなかった。
ただ、静かな悲しみだけがあった。
「それは、ありません」
短く言う。
「私は、ここの使用人ですから」
「嫌だ……!」
カイルは首を振る。
「それなら……僕が……みんなにお願いするよ!」
「だから――」
「よしてください」
ギルバルドが、カイルの言葉を遮った。
その声は強くなかった。
むしろ、かすれていて、ひどく弱々しかった。
「お願いは、時に……思い出させたくない過去を思い起こさせます」
「そしてそれは、誰かを深く傷つけてしまうことがあります」
カイルは唇を震わせる。
「嫌だ……!」
「僕は!! 僕は!!」
ギルバルドは、その叫びを正面から受け止めた。
そして、あまりにも静かに言った。
「大丈夫です」
「カイル様……あなたは……優しいですから」
その言葉に、カイルはさらに強く首を振った。
「ぼくのことをカイル様って呼ばないで!!」
「ぼくのことは……カイルって……」
ギルバルドの表情が、ほんのわずかに揺れる。
だが次の瞬間には、それすらも消していた。
そして深く頭を下げる。
まるで、客人へ礼を尽くす使用人のように。
それ以上、何も言わず、その場を離れていった。
残されたカイルは、その場で泣き崩れた。
幼いながらにも、大人の事情がなんとなく理解できている。
何故ギルバルドが自分から離れようとしているのか。
何故、こんなにも頑なに帰ろうとしないのか。
理由のすべてはわからなくても、簡単な話ではないことだけはわかってしまう。
だが、幼いからこそ。
自分の欲望に、希望に、真っ直ぐでいられる。
大好きになってしまった祖父と一緒に帰りたい。
その気持ちがあまりにも素直だからこそ、カイルを余計に苦しめていた。
そんな様子を、ラエルは少し離れた場所から見ていた。
そして同じ頃。
娘ルルは深く落ち込み、部屋に閉じこもっている。
ギルバルドは、自身の在り方を一向に変えようとしない。
さらに、ルイスとピスティアは遠くからギルバルドの働く姿をただ見つめていた。
誰もが、動いている。
それなのに、何一つ前に進んでいないようにも見えた。
カイルは、ルイスとピスティアの前では泣くのをやめた。
何事もなかったかのように、明るい子供を演じる。
それが余計に痛々しい。
そのすべての在り方が、ラエルにとってはあまりにも馬鹿馬鹿しく見えた。
「まったく……」
深いため息が漏れる。
「親が親なら、子も子か」
その声に、隣にいたフェリルがくすくすと笑った。
「そんなことを言ったらラエル、貴方だって人のことは言えませんよ?」
ラエルは眉をひそめる。
「何を言う……」
そして小さく首を振る。
「お互いに想い合っている、あの在り方は……すでに家族そのものではないか」
フェリルは肩をすくめる。
「一筋縄ではいきませんよ」
少し悪戯っぽく笑う。
「それは王であった貴方が、一番わかるでしょ?」
ラエルは大きくため息を吐いた。
「……わかりたくもないがな」
「だが……わかる」
そしてさらに、もう一つの頭痛の種を思い出す。
部屋に閉じこもったままのルル。
ラエルは空を仰いだ。
「まったく……」
「平和というものは、静かなだけに面倒だ」
――そして、幾日かの時が流れた。
停滞していた空気。
止まったままの時間。
誰もが、どこかで理解していた。
この静けさは、長くは続かない。
そしてその日。
その停滞していた時間は――
突然、大きく揺れ動いた。
アルバードの方角から、白い影が空を裂く。
ホーリードラゴン。
聖国の隣国、法国。
パラディン達が騎乗する神聖竜。
それが、世界樹へ向かって降りてきていた。
背には二人の人影。
ジェーン。
そして――アリス。
アリスの目は真っ赤に腫れていた。
何度も泣き続けた目だった。
世界樹の広場へ、白いドラゴンが降り立つ。
その瞬間。
ルイスはすぐに駆け寄った。
「ジェーン……!」
ピスティアも驚く。
「なんで……ジェーン様とアリスが……?」
「それに……アリス……どうしたの……?」
だがルイスは理解していた。
ホーリードラゴン。
それがここにいるということは。
聖国か法国で、何かが起きた。
それだけで、ルイスの顔に緊張が走る。
「ルイス」
ジェーンは短く言った。
「それにピスティア」
「聖国へ急いで帰るよ」
「いいかい」
「心して聞いてほしい」
その横で。
アリスが堪えきれず泣き出す。
カイルが駆け寄る。
「アリス……大丈夫……?」
アリスはカイルの胸に顔を埋める。
「ううう……」
「ハルバルドが……」
ルイスの血の気が引いた。
「……ハルバルド兄上に……何かあったのか?」
ジェーンは言った。
「ハルバルドは……」
そして。
逃げずに続けた。
「殺された」
その瞬間。
世界が止まったようだった。
ギルバルドの手から、道具が落ちる。
カラン、と乾いた音が響く。
視界が揺れる。
(息子が……)
(また……私の子が……)
足から力が抜ける。
呼吸ができない。
そして。
そのまま、倒れた。
「ギル!!」
ラエルが叫ぶ。
カイルも叫ぶ。
「おじいさま!!」
ピスティアは膝から崩れ落ちる。
「うそ……」
「だって……これから……私たち……」
ルイスは震えながら言う。
「ジェーン……詳しく……」
ジェーンは言った。
「聖国でジークって男が無差別に殺しをしていた」
「ハルバルドとグレンが止めようとして」
「戦って……」
「ハルバルドが殺された」
ルイスは叫ぶ。
「ジーク……?!」
「誰だ!!!それは!!」
ジェーンも叫ぶ。
「あたしだって知らないよ!!」
「でもね!!」
「今もハルバルドの体は……」
「あんたら兄弟を待ってる!!」
そしてギルバルドを指さす。
「父親なんだろ!!」
だが。
ギルバルドは動かない。
カイルが叫ぶ。
「おじいさまは記憶なんか忘れてない!!」
「ちゃんと!!」
「みんなのことを覚えてる!!」
ルイスとピスティアは凍りついた。
「父上……」
「やはり……」
その日。
ギルバルドという父親の中で、
何かが完全に壊れた。
――これが、罪だというのなら。
私は、それを受け入れよう。
帝国の方針を誤り、教育を誤り。
導くべき道を見失い、間違え続けたのは――他でもない、この私だ。
子ではない。
あの子たちは、ただ私の後を歩いただけだ。
……だが。
それでもなお。
子を失うことが罪だというのなら。
これが罰だというのなら。
それすらもまた、受け入れるべきものなのだろう。
それが――償いなのだろう。
ああ……ハルバルドよ。
真に、申し訳ないことをした。
私の罪のせいで。
私の愚かさのせいで。
お前にまで、災いを背負わせてしまった。
……恨みはしない。
いや――恨む資格など、最初から私にはない。
私がやってきたことを思えばこそ。
その報いが、今ここにあるのだと理解できる。
だが。
だが――これだけは、どうか許してくれ。
王ではなく。
罪人でもなく。
ただの父として。
子を哀れむ、この気持ちだけは――
どうか、許してほしい。
だからどうか。
他の子たちには、もう罪を課さないでくれ。
ハルバルド。
私は……すぐにそちらへ向かう。
――その時は。
いくらでも、怒ってくれていい。
そう、心の中で言い終えた瞬間だった。
――……違う。
どこかで、声がした。
静かで、かすれた。
だが確かに、自分の中から聞こえた声だった。
――それで終わりでいいのか。
ギルバルドの意識が、わずかに揺れる。
暗闇の中。
沈みきったはずの思考が、わずかに浮かび上がる。
――お前は、それで終わるのか。
息が詰まる。
心臓が、重く一度だけ打つ。
――子を失った父として、逃げるのか。
ギルバルドの指先が、かすかに動いた。
――王としてではなく。
――ただの罪人として。
その言葉に、何かが引っかかる。
……逃げる?
私は、逃げているのか?
償いだと思っていた。
受け入れることが、正しいのだと信じていた。
だが――。
それは、本当に償いなのか?
ただ、終わろうとしているだけではないのか。
ギルバルドの瞼が、わずかに震える。
――まだ終わっていない。
――お前の罪は、終わっていない。
――だから、お前はここにいるのだろう。
呼吸が、戻る。
浅く、乱れた呼吸。
だが確かに、生きている。
ギルバルドの手が、地面を掴む。
土の感触。
冷たさ。
現実。
ゆっくりと。
ゆっくりと、体を起こす。
「……ギル……?」
ラエルの声が、遠くから聞こえた。
誰もが、息を呑んでいる。
ギルバルドは立ち上がる。
足は震えている。
だが、倒れない。
そして――顔を上げた。
その目には、先ほどまでの“何もない静けさ”はなかった。
代わりにあったのは。
消えない、深い闇と。
それでもなお消えきらない、わずかな光。
「……まだ、終われない」
かすれた声だった。
だが、その場の誰もが、その言葉をはっきりと聞いた。
ルイスの目が見開かれる。
「父上……?」
ギルバルドは、視線をゆっくりと前へ向ける。
どこを見ているのか。
誰を見ているのか。
それはもう、誰にもわからなかった。
「……ハルバルドよ」
小さく呟く。
「余は……まだ、お前のもとへは行けぬ」
一歩、踏み出す。
その足取りは重い。
だが、確かだった。
「……許せ」
その言葉が、誰に向けられたものなのか。
誰も、答えを持っていなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
それは――
この瞬間。
“父として終わろうとした男”は死に。
“罪を背負い続ける者”が、再び立ち上がったということだった。
父上。
やはりあなたは、記憶など失っていない。
聞きましたか?
ハルバルドが……殺されてしまいました。
なら父上。
すべきことはひとつです。
ハルバルドに会いに行きます。
今もきっと……待っている。
ピスティアは震えながら叫ぶ。
「父様!!」
「ハルバルドは……!!」
「わたしだって……父様を恨んだことなんてないです!!」
「だから!!!! お兄様に……」
「お願いします……」
「お兄様……うう……」
アリスも泣き崩れる。
「はやく……聖国へ帰ろ……」
ギルバルドは、ゆっくりとラエルを見た。
「……本当に、すまなかった」
「失うことのつらさと」
「失わせたことの罪の重さ」
「私はここで……痛いほどに学ばせてもらった」
そして、わずかに息を整える。
「ラエル様……私は……息子に会いにいく」
ラエルは静かに言う。
「……それは、もちろん生きてだな?」
その問いに。
ギルバルドは、一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げる。
「……えぇ」
「ハルバルドは生きてはいない……」
「ですが――」
一拍、置く。
「私は、生きて……ハルバルドを迎えにいきます」
その言葉には、迷いがなかった。
カイルは震えた声で言う。
「おじいさま……」
「僕は……」
ギルバルドは、優しく視線を向ける。
「カイル……ありがとう」
「カイルとの出会いが」
「そして、息子の死が」
「喜びと痛みを……私に理解させてくれた」
「私はそれほどまでに、罪深い男だ」
「だからこそ」
「幸せと絶望、その両方を……今、ようやく理解した」
自嘲のように、小さく笑う。
「皮肉なものだ……」
「ハルバルド……」
「おまえが死ぬことが……最後の気付きになるとは……」
「私は……あまりにも遅すぎる」
ルイスが一歩前に出る。
「ハルバルド兄上だけではありません」
「ルドルフ兄上も……私たちは失っている」
「もう、わかるでしょう」
「家族を失うつらさが」
「そして、誰もが家族を持ち……別れの重さを知っている」
真っ直ぐに、父を見る。
「父上」
「今、父上がすべきことは――」
「私たちと共に」
「家族の形を示すことです」
ギルバルドは、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
「理解している」
そして、静かに言う。
「本当に……立派になったな……ルイス」
ルイスは迷いなく答える。
「当たり前です」
「私は父上の息子ですから」
ギルバルドの目が揺れる。
「……私の息子と……言ってくれるのか」
ルイスは強く言った。
「当たり前です」
「カイルが貴方を祖父として認めている」
「なら私は、貴方を父上として認めるしかありません」
「血が繋がっているという事実は――否定できない」
「過去は消えません」
「ですが未来も同じです」
「だからこそ、示さなければならない」
「もう繰り返さないと」
ピスティアが涙を拭う。
「はやく……行きましょう……」
「お兄様を……一人にできない……」
ジェーンが口を開く。
「私はニトから頼まれてる」
「ルイスとシスティーヌ。そしてピスティアを聖国へ連れていく」
「ホーリードラゴンは四人までしか乗れない」
ドラゴンが小さく唸る。
ギルバルドは言う。
「……それでは私は歩いて向かいます」
カイルが叫ぶ。
「僕も!! おじいさまと!!」
そのとき。
フェリルが大きくため息をついた。
「……どれだけ距離があると思っているのですか」
「まったく」
そして静かに言う。
「私たちが送ります」
ラエルが目を細める。
「……ドレイクに乗せるのか?」
「ええ」
「問題ありません」
「レイズ様も乗っていますから」
ルイスは驚く。
「そこまで……」
フェリルは首を振る。
「勘違いしないでください」
「人も魔族もエルフも」
「争わずに済んだのは、レイズ様のおかげです」
「なら、人を助けるのは当たり前です」
ギルバルドは目を閉じる。
「……そう、ですね」
ラエルが言う。
「過去は戻らない」
「なら未来を明るくする」
「それが我らの償いだ」
ギルバルドは深く頭を下げる。
「ラエル様……」
ラエルは笑った。
「また戻ってこい」
「その時は使用人ではなく――」
「友としてだ」
ギルバルドの肩が震えた。
言葉は出ない。
ただ、深く頭を下げる。
ルルとのやり取りを経て。
準備が整う。
そして――出発の時。
エルフ達が集まる。
ギルバルドは、震える声で言う。
「皆様……本当に……」
「申し訳ございませんでした」
一人のエルフが笑う。
「また戻ってきてください」
「ラエルの遊び相手がいないと困るので」
笑いが起きる。
ラエルが呆れる。
「……私は長だぞ」
別のエルフが言う。
「関係ない」
「もう仲間だ」
その言葉に。
ギルバルドの目から、涙が溢れた。
初めてだった。
ラエル以外のエルフが、自分に言葉をかけたのは。
だが、理解する。
見ていたのは、ラエルだけではなかった。
この場所にいるすべてが、自分を見ていた。
そして、受け入れていた。
ギルバルドは深く頭を下げる。
「ラエル様……それでは」
ラエルは静かに言った。
「行ってこい、友よ」
その言葉に。
ギルバルドの涙は止まらなかった。
友――か。
家族も知らず。
友も知らず。
愛も知らなかった男が。
いま、すべてを知る。
あまりにも遅く。
それでも、確かに。
理解した。
だからこそ。
――進む。
罪を抱えたまま。
すべてを知った者として。
ギルバルドは、空へと飛び立った。




