忘れてはいけない事。
ルイスのもとへと戻ってきたカイルの表情には、暗さと明るさが同時に浮かんでいた。
孫として受け入れてくれたギルバルドへの喜び。
そして――
血族を名乗ることを、自ら許さない男の姿を知ってしまった重さ。
その二つが、幼い顔の中で静かに混ざり合っている。
カイルは幼いながらも秀才だった。帝国で受けてきた教育は本物であり、ただ与えられた知識を覚えるだけの子供ではない。状況を理解し、自分で考え、そして自分で選ぶ力をすでに持っている。
だが、それでもまだ子供だ。
胸の奥では、初めて会った祖父の言葉が何度も繰り返されていた。
――このことは、どうか隠してほしい。
自分の罪を背負い続けるために、家族を名乗らない男。
その姿は、カイルの心に深く残っていた。
システィーヌはそんな息子の様子を見て、そっと抱き寄せた。
「どう?……おじいさまに会えて……良かったわね」
優しく髪を撫でる。幼い頃から変わらない仕草だった。
カイルはその温もりの中で、ほんの一瞬だけ迷う。
父に話すべきか。
それとも――
約束を守るべきか。
だが、その迷いはほんの一瞬で消えた。
カイルは理解している。
自分の表情や仕草から、母であるシスティーにも、父であるルイスにも何かを感じ取られてしまうことを。
だからこそ、短く答えた。
「はい」
一度だけ息を整える。
そして、迷いなく言い切った。
「おじいさまは、とても立派な方です」
その言葉には、嘘はなかった。
本当に、立派な人だと思ったからだ。
ただ――
その立派さが、どれほど重いものなのかを知ってしまっただけだ。
ルイスはカイルの顔を静かに見つめていたが、何も言わなかった。
ラエルはその様子を見て、小さく頷く。
「そうだろうな」
穏やかな声だった。
「罪は許されるものではない。しかし、償おうとする姿勢を無視することもまた出来ない」
ラエルは少しだけ笑う。
「ゆえにギルは、私にとって許せない相手であると同時に……今では良き遊び相手でもある」
その言葉に、ルイスは深く頭を下げた。
「ラエル様……エルフの王である貴方に、何も謝礼が出来ず申し訳ありません。本当に……」
隣でピスティアも頭を下げる。
「本当に申し訳ございません……。私も、出来ることはすべてします。だから……何でもおっしゃってください」
ラエルはその様子を静かに見つめていたが、やがてゆっくり首を振った。
「簡単に返事が出来ることではない」
そして少しだけ間を置く。
「ただ、一つだけ訂正しておこう」
視線をルイスに向ける。
「私は今ではエルフの国王でも何でもない。ただのラエルだ」
その声は穏やかだった。
「滅びた結果は帝国だけではない。世界樹はアストリアの歪みによって枯れた。それは私の責任でもある」
そう言うと、ふっと笑う。
「だからこそ――今日はゆっくりしていきなさい」
「私たちは、もはや敵でも何でもないのだから」
その言葉は、まるでエルフからの赦しのようにも聞こえた。
だが。
ルイスもピスティアも、それをそのまま受け取るつもりはない。
帝国が背負った罪は、言葉だけで償えるものではないと理解しているからだ。
二人は改めて深く頭を下げた。
その時だった。
ラエルは、こちらへ近づいてくる気配に気付く。
よく知っている気配。
自分の娘だ。
ルル。
「まったく……」
小さく呟く。
「ガイル様のそばにいなさいと言っておいたのだがな」
やがて姿を現したルルの表情は暗かった。
ラエルは父として、その意味をすぐに理解する。
ガイルと離れてしまったのだろう。
事情までは分からない。だが、娘の顔を見ればそれだけで十分だった。
ラエルは穏やかに声をかける。
「ルル。お帰り」
ルルは一瞬、言葉を失う。
「お父様……お父様、私……」
言葉が続かない。
ラエルは優しく笑った。
「ここはいつでも、お前が帰ってくる場所だ」
「ゆっくり考え、ゆっくり決断すればいい」
そして肩をすくめる。
「私たちは時間だけは本当に無駄に長いからな」
その言葉に、ルルは少しだけ顔を歪める。
「な、なによ……前はそんなこと言わなかったじゃない」
ラエルは笑う。
「平和ボケしているとでも思ったか?」
ルルはすぐに言い返す。
「思ったわよ!? っていうか今も平和ボケしてるでしょ!」
ラエルは肩をすくめた。
「平和はいいものだ」
そして静かに続ける。
「そう感じるのは、それだけ辛い時代を知っているからだ」
ルルは小さく頷く。
「そう……だよね」
ラエルはその様子を見て、ゆっくり立ち上がった。
「さて」
「私も行くところがある」
ルルは呆れたように言う。
「どうせ……また遊ぶんでしょ」
ラエルは振り返り、笑った。
「そうとも言うかな」
「ハハハ」
世界樹を枯らすもの。
それは、斧でもなければ、火でもない。
人の心だ。
憎しみ。
怒り。
そして、争うことを当然とする思想。
人を憎み、
魔族を憎み、
異なる者を敵と定める。
その瞬間から、世界は少しずつ歪み始める。
敵を作る思想。
受け入れない思想。
それこそが、この世界樹を蝕んできたものだと――
エルフの元王ラエルは、静かに思いふけていた。
長い時を生きてきたからこそ分かる。
戦いが正しかった時代もあった。
守るために剣を取らなければならない時もあった。
だが。
それでもなお、憎しみを未来へ残してはならない。
ラエルはゆっくりと目を閉じる。
「……ギルバルドよ」
小さく呟く。
かつての帝国皇帝。
そして、今は罪を背負い続ける男。
「我らは、決して相容れぬ者同士だ」
エルフの王として生きた者と、
エルフを滅ぼした帝国の王。
その溝は、どれほどの年月が流れようと埋まることはない。
だが――
ラエルは静かに目を開いた。
「それでも」
「それは我らの世代で終わらせねばならぬ」
子供たちの世代に。
カイルやルルたちの時代に。
同じ憎しみを背負わせてはならない。
「次代は、必ずそうなってはいけない」
もし同じ争いを繰り返すならば。
それこそが、本当の罪になる。
ラエルは小さく息を吐いた。
そして歩き出す。
向かう先はただ一つ。
世界樹の庭で、今日も静かに働いている男のもと。
「……少し話をしようではないか」
そう呟きながら。
ラエルはギルバルドのもとへと歩いていった。
そうしてラエルは、その場をゆっくりと離れていくのだった。




